「沢尻エリカはお釈迦様!」のジョン・レノン特別編として、本日生誕80年を迎えたジェームズ・ディーンについて。
1955年に交通事故で他界、芸能活動は4年という短い期間だったが、彼のスタイルは後々誕生する若者、ハリウッド界に大きな影響を受けたことは大きい。
彼は1931年2月8日、ロサンゼルスの退役軍人病院に勤める歯科技工士の父ウィントン・ディーンと母ミルドレッド・ウィルソンのもとにインディアナ州マリオンで生まれる。ジェームズが9歳の時ミルドレッドが卵巣がんで亡くなると、ウィントンはフェアマウントで農場を営む姉夫婦に彼を預け、そこで育てられた。
高校時代から演劇に興味をもち、UCLAの演劇科で学んだ。舞台やコマーシャルなどに出ていたが、更に俳優としてのキャリアを追い求めるために中退、ニューヨークに移った。そこで1950年代の『Kraft Television Theater』、 『Danger』や『General Electric Theater』のようなテレビ番組の何編かに出演した。この頃よりジェームズはアンドレ・ジッドの『背徳者』に心酔して、ハリウッドへ行き、映画スターとなることを夢見るようになる。
『底抜け艦隊』等の映画の端役をいくつかこなした後、1955年に『エデンの東』のキャル・トラスク役で初めて主役を演じて、認められた。彼はこの役でアカデミー賞の最優秀主演男優賞にノミネートされた。この後、続けざまにその年の『理由なき反抗』で主役を、『ジャイアンツ』で準主役を演じ、またもやアカデミー賞にノミネートされることになる。但し同作のジェット役を演じることをジェームズは乗り気ではなかったようである。
事故現場近くのモニュメント『ジャイアンツ』の撮影終了1週間後の9月30日、ジェームズはサリナスで行われるレースに向かうために同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックと共に、愛車であるシルバーのポルシェ・550 スパイダーでカリフォルニア州の州道を走行中、午後5時59分にコレーム近郊にある州道46号線と41号線の東側の分岐点で、横からはみ出してきた学生の運転する車と衝突した。ラルフは車外に投げ出されて骨折、学生も軽傷で済んだが、ジェームズは複雑骨折、内臓損傷などでほぼ即死状態であった。事故現場に建てられたモニュメントには「James Dean 1931 Feb 8 - 1955 September 30 PM5:59 ∞」の字が刻まれている。次回作に予定されていた『傷だらけの栄光』の主役はポール・ニューマンが演じることとなった。
事故を起こしたポルシェ550は、通常はレース場のみで使用されていたが、この日はこの車を運転する特別な事情があったとされている。また生前のジェームズは、「レースは危なくないですか?」と記者に問われた際に「車に乗っていて危険を感じるのは、レース場ではなく、一般の車道です」と語っていた。
遺体は故郷のフェアマウントにある公園墓地に埋葬され、現在も献花が絶えない。最初の長編出演(feature role)でアカデミー賞にノミネートされたのはジェームズを含めて5人しかおらず、また死後に2度ノミネートされたのは彼だけである。
イタリアの女優、ピア・アンジェリとの恋は有名であるが、ピアの母親から交際を反対されたこともあって結局2人は短期間で別れている。
ジェームズは特に『理由なき反抗』の演技で1950年代の若者の反抗を端的に表現した。このため同時代の多くの若者は彼をモデルにし、そしてその死は多くの同世代の人々に暗い影を落とした。スターダムにのし上がって半年足らずというあまりにも短いキャリアと突然の死、それに公開葬儀がジェームズを時代を超えた青春の象徴とした。
彼の潜在能力は「理性」、「信念」、「知性・責任」の持ち主で、ジョン・レノンと同じ潜在能力である。そのことについては2010.12.8にアップしたジョン・レノン(「如雲玲音その1」)についてある程度の潜在能力の説明をしてます。
ジェームズ・ディーンと同じ潜在能力の有名人(点火法数字516)
中町公祐(アビスパ福岡所属のMF;高校時代は無名であったが、中町のプレーを見た湘南ベルマーレのスカウトに「中田英寿を思わせる逸材」と言わしめ、2004年に湘南に入団。2006年シーズン当初は中町を中心としたチーム作りをしている節があったが、結果が出せず出場機会を失う。続く2007年シーズンもポジション争いに敗れ、負傷もありシーズン後半にはベンチ入りすらできなく、翌年湘南を退団。2008年からは、元より学生として籍をおいていた慶應義塾大学のサッカー部に入部。 7年ぶりの1部リーグ昇格に貢献し、自身は関東大学サッカーリーグ戦2部リーグのベスト11に選ばれた。2009年、アビスパ福岡への加入内定が発表され、2010年シーズンより再びJ2のクラブでプレー、チームJ1昇格で2011年は初J1でプレー。学生時代は茶髪だったが、プロになる為にと黒髪に戻した。)、青柳雅信(福島ユナイテッドFC所属のDF;高校時代は筑陽学園高校のディフェンスリーダーとして高校選手権初出場決勝進出に貢献し優秀選手に選ばれる。大会後に高校選抜に選出され、ベリンツォーナ国際ユースサッカー大会準優勝メンバーとなる。また、2003年国体福岡県選抜に選ばれた。2004年湘南ベルマーレに加入。2005年に戦力外となり、トライアウトを経て2006年SC鳥取(現ガイナーレ鳥取)に移籍。2008年から、福島ユナイテッドFCへ移籍。)、濱口華菜里(プレミアリーグ東レ・アローズ所属のバレーボール選手;小学校3年生からバレーボールを始める。九州文化学園高校では、主将として2003年インターハイ優勝、国体ベスト4を経験した。2004年、東レアローズに入団。安定したレシーブ力と当時のチーム事情から、内定選手だった2003年第10回Vリーグに開幕戦からスタメン出場し、レギュラーを獲得すると同時にチームのリーグ準優勝に貢献。2004年第53回黒鷲旗全日本選手権大会では若鷲賞;新人賞を受賞した。2008年、2007-08プレミアリーグにおいて東レのリーグ初優勝に貢献し、レシーブ賞を獲得。2009年4月、全日本女子代表メンバーに登録された。2010年11月、世界選手権のエントリーメンバー14名に選ばれ、大会に参加。銅メダルを獲得した。)、山本 幸平(自転車競技、マウンテンバイク(MTB)・クロスカントリー(XC)選手。北海道帯広農業高等学校出身。チームブリヂストン・アンカー所属;2008年、イタリアのヴァル・ディ・ソーレで開催されたMTB世界選手権・エリートクロスカントリーでは54位。同年北京オリンピック代表選考会レース、「J八幡浜インターナショナルクロスカントリー」で1位だったことを受け、北京オリンピック、MTBクロスカントリー代表に選出された。また田沢湖スキー場で行われた全日本マウンテンバイク選手権大会にて初優勝。北京オリンピック 3周遅れ打ち切り。2009年、富士見パノラマリゾートで行われた全日本マウンテンバイク選手権大会にて連覇達成。アジア選手権にて初優勝。2010年全日本マウンテンバイク選手権大会3連覇、 大韓民国・堤川(チェチョン)で行われたアジア選手権にて連覇達成。アジア競技大会 2位。)、後藤裕司(FC岐阜所属のMF;岐阜工業高校時代、高校選手権で活躍し、そのプレーは、セルジオ越後から「中村俊輔を彷彿とさせる」と絶賛される。 だが、横浜F・マリノス加入直後から、怪我に悩まされつづけた。2007シーズンより地元のFC岐阜へ入団。現在は同チームのBチームに所属。)、趙 博(中華人民共和国出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。右投左打;現在は四川ドラゴンズでプレーしている。2006年にワールドベースボールクラシック中国代表に選出され、韓国戦で登板を果たした。かつては投手として活躍していたが、2008年から外野手に転向している。)、ジミー・ブリアン(フランス・ヴァル=ド=マルヌ県ヴィトリー・シュル・セーヌ出身のサッカー選手。リーグ・アン・オリンピック・リヨン所属。ポジションはFW;2002年には17歳にしてプロとしてピッチに立ち、パリ・サンジェルマンFC戦で25分間プレーした。デビューの年にはカリム・ベンゼマ、ディミトリ・パイエらと共に新人賞候補に名を連ねた。飛躍のきっかけとなったのは2005-2006シーズンで、29試合に出場して3ゴールを挙げ、チームをヨーロッパカップ出場権を獲得できる7位にまで導いた。その後もコンスタントにゴールを決め続け、レンヌの主力として活躍した。2010-2011シーズンからオリンピック・リヨンへと移籍をしている。フランス代表としては、U-16代表から各世代で選出され、2002年のUEFA U-17欧州選手権で準優勝、2005年から2006年までU-21代表としてUEFA U-21欧州選手権でベスト4進出など、22試合9ゴールの実績を残している。2007年にはフランスB代表チームにも選出され、2試合に出場した。2008年10月11日、南アフリカW杯予選の対ルーマニア戦で初キャップを記録している。南アフリカW杯に向けた予備登録メンバー30名に選出されるも、24名に絞った合宿メンバーからは漏れた。)、畠山 健介(サントリーサンゴリアス所属のラグビー選手;ニックネームは「空飛ぶヨコヅナ(もしくは空飛ぶプロップ)」。小学2年時にラグビースクールでラグビーを始める。仙台育英学園高等学校時代には3年連続で花園に出場。高校日本代表、U17日本代表にも選ばれる。早稲田大学スポーツ科学部に進学し、1年時よりプロップとしてベンチメンバーに入り、2年時は右プロップのレギュラーを獲得。清宮克幸が監督のころの「FWの早稲田」を象徴する選手となる。全国大学選手権優勝などに貢献。卒業後は清宮が指揮を執るサントリーに加入。U-19、U-23日本代表、日本代表。プレースタイルはいわゆるプロップとしての大きな体を生かしたスクラム。 そしてゴール前では「ぶちかまし」で相手ディフェンスを次々となぎ倒しトライを挙げるスタイルも特徴がある。大学1年生時は先輩(当時4年生)で同じ右プロップの伊藤雄大より、常に的確なアドバイスをもらうなど、伊藤とは師弟関係にあった。関東学院大学ラグビー部監督の春口廣は「もし(他から)選手をもらえるなら畠山…」と彼を絶賛している。アンケートに「もし一度だけ魔法が使えたら…」と問われ、「五郎丸になりたい…。」と答えていた。中学時代はバスケ部に所属し、キャプテンをつとめていた。人なつっこい性格のため後輩からとても慕われていた。愛称は『ハタケ』)、張 芳赫(中華人民共和国の女子バレーボール選手。ニックネームはリン。VプレミアリーグのNECレッドロケッツ所属;友人の影響で、中学校2年生よりバレーボールを始める。高校は山口県の誠英高校にバレー留学で来日。同級生の井野亜季子らと共に春高バレー・インターハイ等に出場した。嘉悦女子短大時代、2006年全日本インカレで準優勝し、ブロック賞を獲得した。2007年、秋田国体の強化チームである、こまちレオニーノに入団。国体終了後、日立佐和リヴァーレに移籍。2008年9月、シダルカ・ヌネス入団に伴い、Vリーグ登録選手を外れる。同年11月、チャレンジリーグのKUROBEアクアフェアリーズに期間移籍し、2009年5月、日立佐和リヴァーレに復帰。さらに2010年6月、NECレッドロケッツに移籍した。)、千田 健太(ネクサス所属のフェンシング選手。父親である千田健一も元フェンシング選手で、1980年モスクワオリンピックフェンシング日本代表に選ばれたが、日本のオリンピックボイコットで大会に出場出来なかった選手であった。千田は小学校まではサッカーをやっていたが、中学に入ってから父にフェンシング選手になることを願い出た。その父による特訓によって右利きから左利きに変え、五輪を目指す日々が続く。宮城県気仙沼高等学校では、父が監督、自らが主将という立場になった。千田の種目はフルーレである。中央大学に進学してから、国際試合での実績を積み重ねた。大学3年時の2006年、フェンシングワールドカップシリーズ東京大会で3位入賞を果たし、その年のアジア競技大会にも出場。中央大学卒業後は地元宮城に帰郷し、クラブチーム(宮城クラブ)に所属しながらワールドカップシリーズを転戦。 2008年北京オリンピック日本代表に選出された。2009年4月㈱ネクサス(群馬県高崎市)に就職し、フェンシングに専念することが発表された。)、森川七月(GIZA studio所属のジャズ歌手;2006年2月、実姉である森田葉月と「森田葉月 & 森川七月」としてデビュー。その後、2008年3月にソロデビューし、2010年現在、関西を中心に精力的なライブ活動を行っている。)、エレナ・ゲオルゲ(ルーマニアの歌手;ユーロビジョン・ソング・コンテストの2009年大会にルーマニア代表として参加し、「The Balkan Girls」を歌った。ゲオルゲは2003年にデビューし、代表作は「Te Ador」等である。)、ベンヤミン・クライブリンク(ドイツのフェンシング選手。左利き;2007年のフェンシング世界選手権では団体決勝で15-13でイタリアのアンドレア・バルディーニに敗れ2位に終わった。また、同大会のフルーレ個人では同じドイツのピーター・ヨピッヒに準決勝で敗れ3位に終わっている。2008年の北京オリンピックではフェンシング男子フルーレ個人に出場、1回戦で日本の千田健太、2回戦、3回戦でも中国の選手を破り、決勝戦では日本の太田雄貴を15-9で破って金メダルを獲得した。)、片岡 信和(プロマージュ所属の俳優;趣味は野球、水泳、スノーボード。特技は遠投。大学3年生だった2006年に、将来の進路を芸能界に置きたいと志し、履歴書を現在の事務所「プロマージュ」に送付したのをきっかけに芸能界入りを果たし、2008年の『炎神戦隊ゴーオンジャー』で本格的に俳優デビューを果たす。また、チョイ役ではあるもののゴーオンジャーで共演した杉本有美主演の深夜ドラマ「BOYSエステ」にも出演している。一時期、ブログでほぼ毎回ゴーオンブルーの人形の写真を載せて記事を書いていた。名前の読みは「のぶかず」ではなく「しんわ」である。子供の頃に好きだった戦隊は『超力戦隊オーレンジャー』及び『激走戦隊カーレンジャー』。また46話ではレッドレーサー/陣内恭介役だった岸祐二との共演が実現した。)、ルカ・ラノッテ(イタリア出身の男性アイスダンス選手。パートナーはアンナ・カッペリーニ、カミラ・ピストレッロなど。2010年バンクーバーオリンピックイタリア代表。)、長田融季(りあるキッズのツッコミ;だんじり祭に対する思い入れが深く、自らも祭りに参加している。 レゲエが大好きで小学校の友達とREGGAE、SOUND、SUCCESS GROWを結成。毎週日曜日23時~から開催、東心斎橋CLUB、PUREでのREGGAE、EVENTDYNAMITE XX に出演中。趣味はゴルフとサーフィン、スノーボード。阪神タイガースの熱烈なファンでもある。 昔から芸人をやっていて、ほとんど学校に行っていないため一般常識が全くなく、よく周りにいじられている。子供の頃は長田の方が背が高かったが、段々と安田に追い抜かれて現在は縦ではなく横に伸びている。デビューのきっかけは1996年11月、『輝く日本の星! ダウンタウンを創る』という番組に、後に相方となる安田はダブル関西、長田はアップダウンという別々のコンビで出演し、相方の安田が未来の松本人志、長田が未来の浜田雅功として選ばれ、コンビ結成。その当時はまだ11歳だった。同番組内で、1988年12月放送の『4時ですよーだ』で当時3歳の長田が浜田雅功の顔そっくりさんとして出演していたことも明かしている。子供のときから芸人をやっているため年上の後輩芸人が多い。当時中学生でありながら、まだ結成間もない頃のキングコングにお年玉をあげた事もある。そのため後輩芸人は先輩なので敬語で話すが、彼らより売れている後輩(麒麟、南海キャンディーズ等)からは本来年上ということもありタメ口や呼び捨てされることも多い。大阪NSC15~16期生・東京NSC1期生とほぼ同期にあたり、それ以外では同期にロザン、すっちー(元ビッキーズ)などがいる。しかし、東京NSC1期生の品川庄司には後輩扱いされている。baseよしもとのメンバーから漏れ、先輩芸人を参考に漫才スタイルを模索していた低迷期にシンクタンクのタンクから「君ら子供やのに何で子供らしい漫才せえへんの?(要旨)」と助言を受け、現在まで続く漫才スタイルを確立した。 20歳になるまではお酒を飲むことが出来ず、年上の後輩たちを飲み屋に連れて行っても、本人たちはコーラしか飲めなかったと先輩・後輩たちに暴露されている。 2004年にエンタの神様でネタの収録を行ったが、放送されないまま番組は終了してしまった。関西ローカルの歳末特番「オールザッツ漫才」(毎日放送)には彼らが深夜の生放送出演に対応できる2004年からの出演で、トーナメント組からネタ組に昇格ではなく、いきなりネタ組から始めさせられた数少ないコンビである。また2007年の回で披露したネタでは安田がパンツ一丁に包丁を持った姿で「未来のダウンタウン言われてた頃に戻りたい!」と、過去の功績を活かしきれない自虐ネタを行った。現在でもアルバイトをしている。)、クリスタル・チョン(香港出身の女性歌手、HotChaのメンバー:2007年、ウィンキー・ライ、リージェン・チョンとともにHotChaを結成)、チェン・ウェイン(中日ドラゴンズ所属の投手;メジャーなどの8球団からオファーを受けていたが、中日のアジア地区担当スカウトであった大豊泰昭が交渉にあたり、入団にこぎつけた。来日後は公私に渡って親交を深め、初勝利時のヒーローインタビューで「(一番に)大豊さんに伝えたい」と答えた。同い年で同期入団でもある堂上剛裕、中川裕貴両選手と仲がよい。堂上照寮長曰く「あんなにすごいピッチングするけど、中川たちとゲームやっているときは普通の高卒の選手と一緒の顔するよな」とのこと。また吉見一起とは兄弟のように仲がよい(吉見が兄でチェンが弟)。元読売ジャイアンツの姜建銘とは同い年で台湾時代からのライバル。現在ではインタビューも日本語で受け答えできるほど日本語が上達している。良き相談相手の台湾出身で元中日の投手、郭源治のすすめもあり、来日当初から専属通訳が付かなかったので必死で日本語を覚えたとのこと。また、外国人扱いの選手にしては珍しく選手会に所属している。国立体育学院やアテネ五輪代表時に付けていた背番号「54」は、現地語の発音が「5」=「我」、「4」=「死」となるため「不吉な番号」として他選手はつけることを嫌っていたが、チェンはあえてこの番号を選んで付けていたという。プレースタイルとして、中日往年の左腕エース・今中慎二を彷彿とさせる腕の振りから、最速154km/hのストレートと速く小さい変化と大きな変化の2種類のスライダー、カーブ、フォークボール(本人はチェンジアップだと主張)を投げ分ける。特にストレートは球界トップクラスのキレを誇り、2009年には両リーグトップの被打率.183を記録し、コース別の被打率においても3割を越えたコースが無く、ど真ん中でさえ被打率2割中頃を誇る。)、ナターシャ・ポーリー(ロシアのファッションモデル;旅行で訪れたミラノでスカウトされたことが切っ掛けでモスクワのモデル・コンテストに出場し見事優勝を果たす。ドール系モデルが大流行していた2004年、モデルデビューすることとなる。2005年春夏、グッチの広告に登場し業界の注目を集める。グッチの主任デザイナーのお気に入りモデルであり、グッチの2007年秋冬、2008年リゾート、2008年春夏、2009年春夏キャンペーンに起用された。その他、ルイ・ヴィトン、ランバン、ソニア・リキエルなどトップメンゾンの広告に数多く登場し続けている。)ジャンルカ・クルチ(イタリアのサッカー選手で、セリエA、UCサンプドリア所属のGK;精神的にはまだまだ弱く、ミスの責任を抱え込む傾向にあるが技術的には既にトップレベルの域に達しており、ジャンルイジ・ブッフォンの後継者候補の一人である。本人の技術は素晴らしいが、ディフェンダーとの連携するコミュニケーション能力が課題である。)、橋爪ヨウコ(サンズエンターテイメントに所属していたお笑い芸人;大泉洋が大好きで、TV番組『水曜どうでしょう』のファンでもある。DVD全巻やグッズを持っていると自身のブログに公開している。兄の影響で6歳からサッカーを始める。サッカー歴は15年以上、全国レベルの実績がある。その他スケート、スノーボード、ウェイクボード、剣道などを幼少期からやっている。また同じく兄の影響で格闘技やプロレスを好み、頻繁に観戦している事をブログで公表していたが、22歳の誕生日でもあった2007年7月12日にプロレスリングSUNへの入団を発表していた。群馬県前橋市の「ローズクィーン」という前橋市のミス(観光特使)を務める。幼少期から母親の影響でさだまさしが好き。コンサートにも数えきれないほど、よく行くという。多趣味であり、その趣味の中に献血がある。献血が出来る年齢からずっと続けているらしく、1ヶ月に1度は行くという。毎日筋トレをし、よく器械体操やジョギング、マラソンなどをしている。特技は手をつかずに跳び箱を飛ぶこと、スイカの早食い、カキ氷の早食い。格闘家として2009年3月1日、『西口プロレス新人レスラーオーディション』に最終選考の5人の中に残り、この日行われた最終審査大会に出場、プリマ・リエと共に合格者に選ばれた。同年3月24日、北沢タウンホールで行われた『西口プロレス創立八周年記念興行 第2弾』にてデビュー戦を行い、アントニオ小猪木とタッグを組み、プリマ・リエ&神風健三郎と対戦し、勝利を収めた。以後、定期的に西口プロレスの試合に参戦している。キャッチコピーは「2代目デンジャラスクイーン」。北斗晶を崇拝している。試合時はヒール役の立ち回りが多く、竹刀を
持って登場することが多い。プロレスの得意技は、ヘッドシザース、デジャブ、シャイニングウィザードである。高い運動神経で観客を魅了する。GREE、アメバブログ更新中。)、・・・、
1955年に交通事故で他界、芸能活動は4年という短い期間だったが、彼のスタイルは後々誕生する若者、ハリウッド界に大きな影響を受けたことは大きい。
彼は1931年2月8日、ロサンゼルスの退役軍人病院に勤める歯科技工士の父ウィントン・ディーンと母ミルドレッド・ウィルソンのもとにインディアナ州マリオンで生まれる。ジェームズが9歳の時ミルドレッドが卵巣がんで亡くなると、ウィントンはフェアマウントで農場を営む姉夫婦に彼を預け、そこで育てられた。
高校時代から演劇に興味をもち、UCLAの演劇科で学んだ。舞台やコマーシャルなどに出ていたが、更に俳優としてのキャリアを追い求めるために中退、ニューヨークに移った。そこで1950年代の『Kraft Television Theater』、 『Danger』や『General Electric Theater』のようなテレビ番組の何編かに出演した。この頃よりジェームズはアンドレ・ジッドの『背徳者』に心酔して、ハリウッドへ行き、映画スターとなることを夢見るようになる。
『底抜け艦隊』等の映画の端役をいくつかこなした後、1955年に『エデンの東』のキャル・トラスク役で初めて主役を演じて、認められた。彼はこの役でアカデミー賞の最優秀主演男優賞にノミネートされた。この後、続けざまにその年の『理由なき反抗』で主役を、『ジャイアンツ』で準主役を演じ、またもやアカデミー賞にノミネートされることになる。但し同作のジェット役を演じることをジェームズは乗り気ではなかったようである。
事故現場近くのモニュメント『ジャイアンツ』の撮影終了1週間後の9月30日、ジェームズはサリナスで行われるレースに向かうために同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックと共に、愛車であるシルバーのポルシェ・550 スパイダーでカリフォルニア州の州道を走行中、午後5時59分にコレーム近郊にある州道46号線と41号線の東側の分岐点で、横からはみ出してきた学生の運転する車と衝突した。ラルフは車外に投げ出されて骨折、学生も軽傷で済んだが、ジェームズは複雑骨折、内臓損傷などでほぼ即死状態であった。事故現場に建てられたモニュメントには「James Dean 1931 Feb 8 - 1955 September 30 PM5:59 ∞」の字が刻まれている。次回作に予定されていた『傷だらけの栄光』の主役はポール・ニューマンが演じることとなった。
事故を起こしたポルシェ550は、通常はレース場のみで使用されていたが、この日はこの車を運転する特別な事情があったとされている。また生前のジェームズは、「レースは危なくないですか?」と記者に問われた際に「車に乗っていて危険を感じるのは、レース場ではなく、一般の車道です」と語っていた。
遺体は故郷のフェアマウントにある公園墓地に埋葬され、現在も献花が絶えない。最初の長編出演(feature role)でアカデミー賞にノミネートされたのはジェームズを含めて5人しかおらず、また死後に2度ノミネートされたのは彼だけである。
イタリアの女優、ピア・アンジェリとの恋は有名であるが、ピアの母親から交際を反対されたこともあって結局2人は短期間で別れている。
ジェームズは特に『理由なき反抗』の演技で1950年代の若者の反抗を端的に表現した。このため同時代の多くの若者は彼をモデルにし、そしてその死は多くの同世代の人々に暗い影を落とした。スターダムにのし上がって半年足らずというあまりにも短いキャリアと突然の死、それに公開葬儀がジェームズを時代を超えた青春の象徴とした。
彼の潜在能力は「理性」、「信念」、「知性・責任」の持ち主で、ジョン・レノンと同じ潜在能力である。そのことについては2010.12.8にアップしたジョン・レノン(「如雲玲音その1」)についてある程度の潜在能力の説明をしてます。
ジェームズ・ディーンと同じ潜在能力の有名人(点火法数字516)
中町公祐(アビスパ福岡所属のMF;高校時代は無名であったが、中町のプレーを見た湘南ベルマーレのスカウトに「中田英寿を思わせる逸材」と言わしめ、2004年に湘南に入団。2006年シーズン当初は中町を中心としたチーム作りをしている節があったが、結果が出せず出場機会を失う。続く2007年シーズンもポジション争いに敗れ、負傷もありシーズン後半にはベンチ入りすらできなく、翌年湘南を退団。2008年からは、元より学生として籍をおいていた慶應義塾大学のサッカー部に入部。 7年ぶりの1部リーグ昇格に貢献し、自身は関東大学サッカーリーグ戦2部リーグのベスト11に選ばれた。2009年、アビスパ福岡への加入内定が発表され、2010年シーズンより再びJ2のクラブでプレー、チームJ1昇格で2011年は初J1でプレー。学生時代は茶髪だったが、プロになる為にと黒髪に戻した。)、青柳雅信(福島ユナイテッドFC所属のDF;高校時代は筑陽学園高校のディフェンスリーダーとして高校選手権初出場決勝進出に貢献し優秀選手に選ばれる。大会後に高校選抜に選出され、ベリンツォーナ国際ユースサッカー大会準優勝メンバーとなる。また、2003年国体福岡県選抜に選ばれた。2004年湘南ベルマーレに加入。2005年に戦力外となり、トライアウトを経て2006年SC鳥取(現ガイナーレ鳥取)に移籍。2008年から、福島ユナイテッドFCへ移籍。)、濱口華菜里(プレミアリーグ東レ・アローズ所属のバレーボール選手;小学校3年生からバレーボールを始める。九州文化学園高校では、主将として2003年インターハイ優勝、国体ベスト4を経験した。2004年、東レアローズに入団。安定したレシーブ力と当時のチーム事情から、内定選手だった2003年第10回Vリーグに開幕戦からスタメン出場し、レギュラーを獲得すると同時にチームのリーグ準優勝に貢献。2004年第53回黒鷲旗全日本選手権大会では若鷲賞;新人賞を受賞した。2008年、2007-08プレミアリーグにおいて東レのリーグ初優勝に貢献し、レシーブ賞を獲得。2009年4月、全日本女子代表メンバーに登録された。2010年11月、世界選手権のエントリーメンバー14名に選ばれ、大会に参加。銅メダルを獲得した。)、山本 幸平(自転車競技、マウンテンバイク(MTB)・クロスカントリー(XC)選手。北海道帯広農業高等学校出身。チームブリヂストン・アンカー所属;2008年、イタリアのヴァル・ディ・ソーレで開催されたMTB世界選手権・エリートクロスカントリーでは54位。同年北京オリンピック代表選考会レース、「J八幡浜インターナショナルクロスカントリー」で1位だったことを受け、北京オリンピック、MTBクロスカントリー代表に選出された。また田沢湖スキー場で行われた全日本マウンテンバイク選手権大会にて初優勝。北京オリンピック 3周遅れ打ち切り。2009年、富士見パノラマリゾートで行われた全日本マウンテンバイク選手権大会にて連覇達成。アジア選手権にて初優勝。2010年全日本マウンテンバイク選手権大会3連覇、 大韓民国・堤川(チェチョン)で行われたアジア選手権にて連覇達成。アジア競技大会 2位。)、後藤裕司(FC岐阜所属のMF;岐阜工業高校時代、高校選手権で活躍し、そのプレーは、セルジオ越後から「中村俊輔を彷彿とさせる」と絶賛される。 だが、横浜F・マリノス加入直後から、怪我に悩まされつづけた。2007シーズンより地元のFC岐阜へ入団。現在は同チームのBチームに所属。)、趙 博(中華人民共和国出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。右投左打;現在は四川ドラゴンズでプレーしている。2006年にワールドベースボールクラシック中国代表に選出され、韓国戦で登板を果たした。かつては投手として活躍していたが、2008年から外野手に転向している。)、ジミー・ブリアン(フランス・ヴァル=ド=マルヌ県ヴィトリー・シュル・セーヌ出身のサッカー選手。リーグ・アン・オリンピック・リヨン所属。ポジションはFW;2002年には17歳にしてプロとしてピッチに立ち、パリ・サンジェルマンFC戦で25分間プレーした。デビューの年にはカリム・ベンゼマ、ディミトリ・パイエらと共に新人賞候補に名を連ねた。飛躍のきっかけとなったのは2005-2006シーズンで、29試合に出場して3ゴールを挙げ、チームをヨーロッパカップ出場権を獲得できる7位にまで導いた。その後もコンスタントにゴールを決め続け、レンヌの主力として活躍した。2010-2011シーズンからオリンピック・リヨンへと移籍をしている。フランス代表としては、U-16代表から各世代で選出され、2002年のUEFA U-17欧州選手権で準優勝、2005年から2006年までU-21代表としてUEFA U-21欧州選手権でベスト4進出など、22試合9ゴールの実績を残している。2007年にはフランスB代表チームにも選出され、2試合に出場した。2008年10月11日、南アフリカW杯予選の対ルーマニア戦で初キャップを記録している。南アフリカW杯に向けた予備登録メンバー30名に選出されるも、24名に絞った合宿メンバーからは漏れた。)、畠山 健介(サントリーサンゴリアス所属のラグビー選手;ニックネームは「空飛ぶヨコヅナ(もしくは空飛ぶプロップ)」。小学2年時にラグビースクールでラグビーを始める。仙台育英学園高等学校時代には3年連続で花園に出場。高校日本代表、U17日本代表にも選ばれる。早稲田大学スポーツ科学部に進学し、1年時よりプロップとしてベンチメンバーに入り、2年時は右プロップのレギュラーを獲得。清宮克幸が監督のころの「FWの早稲田」を象徴する選手となる。全国大学選手権優勝などに貢献。卒業後は清宮が指揮を執るサントリーに加入。U-19、U-23日本代表、日本代表。プレースタイルはいわゆるプロップとしての大きな体を生かしたスクラム。 そしてゴール前では「ぶちかまし」で相手ディフェンスを次々となぎ倒しトライを挙げるスタイルも特徴がある。大学1年生時は先輩(当時4年生)で同じ右プロップの伊藤雄大より、常に的確なアドバイスをもらうなど、伊藤とは師弟関係にあった。関東学院大学ラグビー部監督の春口廣は「もし(他から)選手をもらえるなら畠山…」と彼を絶賛している。アンケートに「もし一度だけ魔法が使えたら…」と問われ、「五郎丸になりたい…。」と答えていた。中学時代はバスケ部に所属し、キャプテンをつとめていた。人なつっこい性格のため後輩からとても慕われていた。愛称は『ハタケ』)、張 芳赫(中華人民共和国の女子バレーボール選手。ニックネームはリン。VプレミアリーグのNECレッドロケッツ所属;友人の影響で、中学校2年生よりバレーボールを始める。高校は山口県の誠英高校にバレー留学で来日。同級生の井野亜季子らと共に春高バレー・インターハイ等に出場した。嘉悦女子短大時代、2006年全日本インカレで準優勝し、ブロック賞を獲得した。2007年、秋田国体の強化チームである、こまちレオニーノに入団。国体終了後、日立佐和リヴァーレに移籍。2008年9月、シダルカ・ヌネス入団に伴い、Vリーグ登録選手を外れる。同年11月、チャレンジリーグのKUROBEアクアフェアリーズに期間移籍し、2009年5月、日立佐和リヴァーレに復帰。さらに2010年6月、NECレッドロケッツに移籍した。)、千田 健太(ネクサス所属のフェンシング選手。父親である千田健一も元フェンシング選手で、1980年モスクワオリンピックフェンシング日本代表に選ばれたが、日本のオリンピックボイコットで大会に出場出来なかった選手であった。千田は小学校まではサッカーをやっていたが、中学に入ってから父にフェンシング選手になることを願い出た。その父による特訓によって右利きから左利きに変え、五輪を目指す日々が続く。宮城県気仙沼高等学校では、父が監督、自らが主将という立場になった。千田の種目はフルーレである。中央大学に進学してから、国際試合での実績を積み重ねた。大学3年時の2006年、フェンシングワールドカップシリーズ東京大会で3位入賞を果たし、その年のアジア競技大会にも出場。中央大学卒業後は地元宮城に帰郷し、クラブチーム(宮城クラブ)に所属しながらワールドカップシリーズを転戦。 2008年北京オリンピック日本代表に選出された。2009年4月㈱ネクサス(群馬県高崎市)に就職し、フェンシングに専念することが発表された。)、森川七月(GIZA studio所属のジャズ歌手;2006年2月、実姉である森田葉月と「森田葉月 & 森川七月」としてデビュー。その後、2008年3月にソロデビューし、2010年現在、関西を中心に精力的なライブ活動を行っている。)、エレナ・ゲオルゲ(ルーマニアの歌手;ユーロビジョン・ソング・コンテストの2009年大会にルーマニア代表として参加し、「The Balkan Girls」を歌った。ゲオルゲは2003年にデビューし、代表作は「Te Ador」等である。)、ベンヤミン・クライブリンク(ドイツのフェンシング選手。左利き;2007年のフェンシング世界選手権では団体決勝で15-13でイタリアのアンドレア・バルディーニに敗れ2位に終わった。また、同大会のフルーレ個人では同じドイツのピーター・ヨピッヒに準決勝で敗れ3位に終わっている。2008年の北京オリンピックではフェンシング男子フルーレ個人に出場、1回戦で日本の千田健太、2回戦、3回戦でも中国の選手を破り、決勝戦では日本の太田雄貴を15-9で破って金メダルを獲得した。)、片岡 信和(プロマージュ所属の俳優;趣味は野球、水泳、スノーボード。特技は遠投。大学3年生だった2006年に、将来の進路を芸能界に置きたいと志し、履歴書を現在の事務所「プロマージュ」に送付したのをきっかけに芸能界入りを果たし、2008年の『炎神戦隊ゴーオンジャー』で本格的に俳優デビューを果たす。また、チョイ役ではあるもののゴーオンジャーで共演した杉本有美主演の深夜ドラマ「BOYSエステ」にも出演している。一時期、ブログでほぼ毎回ゴーオンブルーの人形の写真を載せて記事を書いていた。名前の読みは「のぶかず」ではなく「しんわ」である。子供の頃に好きだった戦隊は『超力戦隊オーレンジャー』及び『激走戦隊カーレンジャー』。また46話ではレッドレーサー/陣内恭介役だった岸祐二との共演が実現した。)、ルカ・ラノッテ(イタリア出身の男性アイスダンス選手。パートナーはアンナ・カッペリーニ、カミラ・ピストレッロなど。2010年バンクーバーオリンピックイタリア代表。)、長田融季(りあるキッズのツッコミ;だんじり祭に対する思い入れが深く、自らも祭りに参加している。 レゲエが大好きで小学校の友達とREGGAE、SOUND、SUCCESS GROWを結成。毎週日曜日23時~から開催、東心斎橋CLUB、PUREでのREGGAE、EVENTDYNAMITE XX に出演中。趣味はゴルフとサーフィン、スノーボード。阪神タイガースの熱烈なファンでもある。 昔から芸人をやっていて、ほとんど学校に行っていないため一般常識が全くなく、よく周りにいじられている。子供の頃は長田の方が背が高かったが、段々と安田に追い抜かれて現在は縦ではなく横に伸びている。デビューのきっかけは1996年11月、『輝く日本の星! ダウンタウンを創る』という番組に、後に相方となる安田はダブル関西、長田はアップダウンという別々のコンビで出演し、相方の安田が未来の松本人志、長田が未来の浜田雅功として選ばれ、コンビ結成。その当時はまだ11歳だった。同番組内で、1988年12月放送の『4時ですよーだ』で当時3歳の長田が浜田雅功の顔そっくりさんとして出演していたことも明かしている。子供のときから芸人をやっているため年上の後輩芸人が多い。当時中学生でありながら、まだ結成間もない頃のキングコングにお年玉をあげた事もある。そのため後輩芸人は先輩なので敬語で話すが、彼らより売れている後輩(麒麟、南海キャンディーズ等)からは本来年上ということもありタメ口や呼び捨てされることも多い。大阪NSC15~16期生・東京NSC1期生とほぼ同期にあたり、それ以外では同期にロザン、すっちー(元ビッキーズ)などがいる。しかし、東京NSC1期生の品川庄司には後輩扱いされている。baseよしもとのメンバーから漏れ、先輩芸人を参考に漫才スタイルを模索していた低迷期にシンクタンクのタンクから「君ら子供やのに何で子供らしい漫才せえへんの?(要旨)」と助言を受け、現在まで続く漫才スタイルを確立した。 20歳になるまではお酒を飲むことが出来ず、年上の後輩たちを飲み屋に連れて行っても、本人たちはコーラしか飲めなかったと先輩・後輩たちに暴露されている。 2004年にエンタの神様でネタの収録を行ったが、放送されないまま番組は終了してしまった。関西ローカルの歳末特番「オールザッツ漫才」(毎日放送)には彼らが深夜の生放送出演に対応できる2004年からの出演で、トーナメント組からネタ組に昇格ではなく、いきなりネタ組から始めさせられた数少ないコンビである。また2007年の回で披露したネタでは安田がパンツ一丁に包丁を持った姿で「未来のダウンタウン言われてた頃に戻りたい!」と、過去の功績を活かしきれない自虐ネタを行った。現在でもアルバイトをしている。)、クリスタル・チョン(香港出身の女性歌手、HotChaのメンバー:2007年、ウィンキー・ライ、リージェン・チョンとともにHotChaを結成)、チェン・ウェイン(中日ドラゴンズ所属の投手;メジャーなどの8球団からオファーを受けていたが、中日のアジア地区担当スカウトであった大豊泰昭が交渉にあたり、入団にこぎつけた。来日後は公私に渡って親交を深め、初勝利時のヒーローインタビューで「(一番に)大豊さんに伝えたい」と答えた。同い年で同期入団でもある堂上剛裕、中川裕貴両選手と仲がよい。堂上照寮長曰く「あんなにすごいピッチングするけど、中川たちとゲームやっているときは普通の高卒の選手と一緒の顔するよな」とのこと。また吉見一起とは兄弟のように仲がよい(吉見が兄でチェンが弟)。元読売ジャイアンツの姜建銘とは同い年で台湾時代からのライバル。現在ではインタビューも日本語で受け答えできるほど日本語が上達している。良き相談相手の台湾出身で元中日の投手、郭源治のすすめもあり、来日当初から専属通訳が付かなかったので必死で日本語を覚えたとのこと。また、外国人扱いの選手にしては珍しく選手会に所属している。国立体育学院やアテネ五輪代表時に付けていた背番号「54」は、現地語の発音が「5」=「我」、「4」=「死」となるため「不吉な番号」として他選手はつけることを嫌っていたが、チェンはあえてこの番号を選んで付けていたという。プレースタイルとして、中日往年の左腕エース・今中慎二を彷彿とさせる腕の振りから、最速154km/hのストレートと速く小さい変化と大きな変化の2種類のスライダー、カーブ、フォークボール(本人はチェンジアップだと主張)を投げ分ける。特にストレートは球界トップクラスのキレを誇り、2009年には両リーグトップの被打率.183を記録し、コース別の被打率においても3割を越えたコースが無く、ど真ん中でさえ被打率2割中頃を誇る。)、ナターシャ・ポーリー(ロシアのファッションモデル;旅行で訪れたミラノでスカウトされたことが切っ掛けでモスクワのモデル・コンテストに出場し見事優勝を果たす。ドール系モデルが大流行していた2004年、モデルデビューすることとなる。2005年春夏、グッチの広告に登場し業界の注目を集める。グッチの主任デザイナーのお気に入りモデルであり、グッチの2007年秋冬、2008年リゾート、2008年春夏、2009年春夏キャンペーンに起用された。その他、ルイ・ヴィトン、ランバン、ソニア・リキエルなどトップメンゾンの広告に数多く登場し続けている。)ジャンルカ・クルチ(イタリアのサッカー選手で、セリエA、UCサンプドリア所属のGK;精神的にはまだまだ弱く、ミスの責任を抱え込む傾向にあるが技術的には既にトップレベルの域に達しており、ジャンルイジ・ブッフォンの後継者候補の一人である。本人の技術は素晴らしいが、ディフェンダーとの連携するコミュニケーション能力が課題である。)、橋爪ヨウコ(サンズエンターテイメントに所属していたお笑い芸人;大泉洋が大好きで、TV番組『水曜どうでしょう』のファンでもある。DVD全巻やグッズを持っていると自身のブログに公開している。兄の影響で6歳からサッカーを始める。サッカー歴は15年以上、全国レベルの実績がある。その他スケート、スノーボード、ウェイクボード、剣道などを幼少期からやっている。また同じく兄の影響で格闘技やプロレスを好み、頻繁に観戦している事をブログで公表していたが、22歳の誕生日でもあった2007年7月12日にプロレスリングSUNへの入団を発表していた。群馬県前橋市の「ローズクィーン」という前橋市のミス(観光特使)を務める。幼少期から母親の影響でさだまさしが好き。コンサートにも数えきれないほど、よく行くという。多趣味であり、その趣味の中に献血がある。献血が出来る年齢からずっと続けているらしく、1ヶ月に1度は行くという。毎日筋トレをし、よく器械体操やジョギング、マラソンなどをしている。特技は手をつかずに跳び箱を飛ぶこと、スイカの早食い、カキ氷の早食い。格闘家として2009年3月1日、『西口プロレス新人レスラーオーディション』に最終選考の5人の中に残り、この日行われた最終審査大会に出場、プリマ・リエと共に合格者に選ばれた。同年3月24日、北沢タウンホールで行われた『西口プロレス創立八周年記念興行 第2弾』にてデビュー戦を行い、アントニオ小猪木とタッグを組み、プリマ・リエ&神風健三郎と対戦し、勝利を収めた。以後、定期的に西口プロレスの試合に参戦している。キャッチコピーは「2代目デンジャラスクイーン」。北斗晶を崇拝している。試合時はヒール役の立ち回りが多く、竹刀を
持って登場することが多い。プロレスの得意技は、ヘッドシザース、デジャブ、シャイニングウィザードである。高い運動神経で観客を魅了する。GREE、アメバブログ更新中。)、・・・、