労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

平和の代償  (ロシア革命③)

2007-02-24 03:02:56 | Weblog
 レーニンのボルシェビキは労働者にパンを、農民に土地を、兵士に平和を約束して政権の座についた。
 
 したがって、革命政権の最初の難関である憲法制定会議を乗り越えるとレーニンは直ちに、ドイツとの休戦交渉に入っている。
 
 しかし、ドイツ側は休戦の条件としてポーランド、ウクライナ、ラトビア、リトアニアの分離を求めていたのでボルシェビキの中でもドイツの提案は飲めないという意見が多かった。
 
 この問題では、レーニンは完全に少数派であった。
 
 ブハーリンを中心とする休戦反対派(彼らは「左翼反対派」とも呼ばれている)は、ドイツは帝国主義国家であり、これと戦うのは共産主義者の神聖な義務であるというあまりよくわからない理由で、「革命戦争」を主張していた。世界帝国主義戦争を世界革命戦争に転化せよ、というのは昔の赤軍派のスローガンであったが、この主張の原型はこの時のブハーリンのような「左翼反対派」にある。
 
 もちろん、このような極左的な空文句は、「大ロシア主義」という日和見主義を隠し持っていた。彼らはロシアの支配下にあったポーランド、バルト3国、フィンランド、ウクライナという辺境地帯(ロシアにとっての辺境)を「敵」(ドイツ)に渡すことをいさぎよしとしたかったのである。
 
 これに対してトロツキーは「戦争でもない。講和でもない。」という立場を取っていた。(ドイツの提示した講和条約に調印することは拒否したが、戦争の終結を一方的に宣言した-1918年2月10日)
 
 しかしこのどっちつかずの政策はかえってドイツ軍に足元を見られ、ドイツ軍は再び進撃を開始して、ロシアの都市を次々と奪っていった。
 
 これに対してレーニンは訴える。
 
 「問題は根本的なものである。ウリツキー(※)の提案は驚くべきものである。中央委員会は、革命戦争に反対した。だがわれわれは、戦争もしなければ、講和も結ばずに、革命戦争に引きずりこまれつつある。戦争をもてあそんではならない。われわれは車両を失っており、われわれの運輸は悪化している。いまではまつことはできない。なぜなら、情勢はまったくはっきりしているからである。・・・・・・
    
 (※)ウリツキー ボルシェビキの中央委員で10月革命時の軍事革命委員、この時は革命戦争を支持していた。この数ヶ月後、エス・エル左派のテロによって暗殺される。
 
 いまや、どっちつかずの決定は不可能である。革命戦争に決定するならば、それを宣言し、復員を中止なければならないが、そういうことはできない。(兵士である農民はすでに自分たちの故郷に大量に帰還しつつあるので、今さら戦争継続はできない)・・・・
 
 歴史は言うであろう。君たちは革命を売りわたした。われわれは革命をすこしも危うくしなかった講和に調印することができたのだ、と。われわれは、なにももっていない。われわれは退却にあたって、爆破作業をおこなうことさえできないだろう。われわれはできるだけのことをやり、フィンランドの革命を助けてきたが、今はできない。今は覚え書を交換するひまはないし、形勢を観望することをやめなければならない。・・・・
 
 ブハーリンは、自分が革命戦争の立場にうつったことに、気がつかなかった。農民は、戦争を望んでいないし、戦争には応じないだろう。革命戦争に応じるよう、いま農民に向かって言うことができるだろうか。だが、それを望むならば、軍隊の復員はできないわけである。永続的な農民戦争は、空想である。革命戦争は空文句であってはならない。われわれに準備ができていないなら、講和に調印しなければならない。いったん、軍隊の動員が解除されるならば、永続的な戦争をうんぬんするのは、おかしな話である。内乱と比較することはできない。百姓は、革命戦争に応じないだろうし、公然とそれを口にするものをだれでも、おっぽりだすだろう。ドイツの革命はまだはじまっていないし、われわれは、わが国でも、われわれの革命が一挙に勝利したのではないことを知っている。
 
 ドイツ軍は、リヴォニアとエストニアを占領するであろうと、この席上で述べたものがあったが、われわれは革命のために、この両地域を引きわたしてよいのである。フィンランドからの軍隊の撤退を、ドイツ軍が要求するならば、さあどうぞ。革命的フィンランドを占領するなら、するがよい。われわれがフィンランド、リヴォニア、エストニアを引きわたしても革命はほろびない。昨日、同志ヨッフェ(講和会議の初代講和代表団長、トロツキー派、この時は講和代表団長はトロツキーに代わっていた)がわれわれをおどすために持ちだした見通しは、少しも革命を破滅させるものではない。・・・
 
 昨日、ドイツ軍がわれわれに提案した講和にわれわれは調印するように、私は提案する。」
(『ボルシェビキ中央委員会での演説』1918年、2月18日)
 
 この2月18日の中央委員会ではこのレーニンの提案は1票差で否決されてしまったが、その後レーニンはトロツキーを説き伏せることによってようやく講和の調印を中央委員会に認めさせている。
 
 こうして3月3日にかろうじてブレスト・リトフスク条約が結ばれて講和が成立した。
 
 しかし、ドイツとの講和は実は長く続く内戦の始まりとその後のロシアの苦難の道の始まりでもあった。
 
 第1にこの講和条約締結の過程で露呈したのはボルシェビキ指導部の脆弱性であった。ボルシェビキの中央委員の中で現実的にものごとを考えられるのはレーニンだけであり、後は付和雷同(スターリン)か、観念的な左翼主義者(ブハーリン)か、小手先の政治主義者(トロツキー)のような連中ばかりであるということはロシア革命の行く手を限りなく暗くしている。
 
 第2に、ドイツとの講和に反対していたのはブハーリン派(「左翼反対派」)だけではなくボルシェビキと連立政府を組んでいたエス・エル左派もそうであり、彼らは講和に反対して政権を離脱すると、急速に先祖返り(エス・エルの先祖はナロードニキ)してしまった。つまり、テロルを常套手段とする小ブルジョア急進派へと純化して、各地でボルシェビキに個人的テロを加えたり、農民蜂起を扇動したりして反ボルシェビキ運動を展開した。
 
 第3に、ロシアが単独でドイツと講和を結んだことはドイツと戦っていた連合国(イギリス・フランス・アメリカ・日本)にロシアに干渉する口実を与え、これらの国が軍隊を送り込み、ロシアの旧勢力と結びついて「白軍」と呼ばれる反革命勢力を生み出した。
 
 
   

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