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1917年11月6日(露暦10月24日)から始まったボルシェビキの蜂起はその日のうちにロシアの首都ペトログラードの主要機関を制圧して、7日の冬宮の占領で終わる。
ロシアの皇帝の玉座を占領した兵士はまさに革命を成功させた人である。
そしてこの絵は不思議なことにロシア革命の世界史的な謎を解くカギを与えてくれてもいる。
もちろんその謎というのはロシア革命で本当に勝利したのは誰だったのか?という謎である。
もちろん20世紀の諸政党にとってこれは謎でも何でもないものであった。勝利したのはレーニンであり、ボルシェビキであり、労働者であり、社会主義である。これは20世紀を通して左翼の不動の観念であり続けていた。
しかし、銃を持っている兵士をよく見てほしい。彼は確かに腕に赤い腕章をつけているが、どう見ても労働者ではなく、コサックであり、農民である。
戦前の日本軍がそうであったように、当時のロシア軍も下級兵士の多くは農村の出身者で占められていた。
したがってこれは革命ではなく、兵士が反乱を起こして首都を占拠したのだと言おうと、クーデターが起こって政権が倒れたと言おうと、その主力は農民だったのだ。
そのことを一番よく知っていたのはレーニンで翌日(8日)の第二回全国ソビエト大会では、「平和の布告」とならんで「土地の布告」の採択を求めている。
この「土地の布告」は社会革命党(旧ナロードニキ)の政策をまるごと取り入れている。つまり、この政策は地主から土地を没収して農民に分配するものであり、その内容からして社会主義的なものは何一つ含まれていない。むしろこれはブルジョア民主革命の課題であり、農民の土地所有を容認するという点で私的所有の存続を認めるものであった。
レーニンのボルシェビキは、なぜ社会革命党(旧ナロードニキ)の政策をまるごと“盗んだ”のか?
それはいうまでもなく、ロシアは農民人口が圧倒的に多い農業国で、直接的に社会主義に移行することは問題にもならなかったからである。
遅れた農業国で農民が中心になって革命が起こった場合、農民に受け入れられる政策だけが革命政権が取りうる政策であろう。したがってロシア革命は最初から社会主義革命としてではなくブルジョア民主主義革命の要素を多分に含んだ、労働者の革命として出発したのである。
ロシアの皇帝の玉座を占領した兵士はまさに革命を成功させた人である。
そしてこの絵は不思議なことにロシア革命の世界史的な謎を解くカギを与えてくれてもいる。
もちろんその謎というのはロシア革命で本当に勝利したのは誰だったのか?という謎である。
もちろん20世紀の諸政党にとってこれは謎でも何でもないものであった。勝利したのはレーニンであり、ボルシェビキであり、労働者であり、社会主義である。これは20世紀を通して左翼の不動の観念であり続けていた。
しかし、銃を持っている兵士をよく見てほしい。彼は確かに腕に赤い腕章をつけているが、どう見ても労働者ではなく、コサックであり、農民である。
戦前の日本軍がそうであったように、当時のロシア軍も下級兵士の多くは農村の出身者で占められていた。
したがってこれは革命ではなく、兵士が反乱を起こして首都を占拠したのだと言おうと、クーデターが起こって政権が倒れたと言おうと、その主力は農民だったのだ。
そのことを一番よく知っていたのはレーニンで翌日(8日)の第二回全国ソビエト大会では、「平和の布告」とならんで「土地の布告」の採択を求めている。
この「土地の布告」は社会革命党(旧ナロードニキ)の政策をまるごと取り入れている。つまり、この政策は地主から土地を没収して農民に分配するものであり、その内容からして社会主義的なものは何一つ含まれていない。むしろこれはブルジョア民主革命の課題であり、農民の土地所有を容認するという点で私的所有の存続を認めるものであった。
レーニンのボルシェビキは、なぜ社会革命党(旧ナロードニキ)の政策をまるごと“盗んだ”のか?
それはいうまでもなく、ロシアは農民人口が圧倒的に多い農業国で、直接的に社会主義に移行することは問題にもならなかったからである。
遅れた農業国で農民が中心になって革命が起こった場合、農民に受け入れられる政策だけが革命政権が取りうる政策であろう。したがってロシア革命は最初から社会主義革命としてではなくブルジョア民主主義革命の要素を多分に含んだ、労働者の革命として出発したのである。