われわれは基本的に“人民裁判”(直接的民主主義のあり方の一つとしての、主権者たちによる裁判)を否定しない。
アテネの500人の平民集会で死刑判決を受けた“悪党”ソクラテスも、平民集会形式でおこなわれた自分の裁判がおおむね公平であったことは認めている。
また、人民裁判形式で行われたフランス革命時の国王裁判は、国王を弾劾するサン・ジュストの名演説とともに、人類史の一つの到達点である。
アメリカで陪審員制度がまだ機能しているのは、そういった直接民主主義の色彩を色濃く残しているからであり、司法に対する主権者の優越性が制度として確保されているからである。
ところが、こういった“人民裁判”は、政治闘争の道具となり、統治の手段となるにしたがって、その本来の機能である司法の暴走を牽制するという当初の目的を喪失し、“残酷な見せ物”へと急速に転落していくし、いかざるをえない。
日本で始まった裁判員制度は、その当初から、「司法に対する主権者の優越性と統制」という視点を欠いて始められているのであるから、それは最初から“残酷な見せ物”として出発している。
“見せ物”というのは、要するに、人形浄瑠璃のようなお芝居だ。裁判官が黒子であり、裁判員は黒子の意のままに操作される“お人形”にすぎない。
“見せ物”であるならば、いっそ黒子である裁判官が裸になって自分で踊った方がよほど“見せ物”としては面白いと思うのだが、黒子の背後にはマスコミというスポンサー兼オーナーが控えている。
つまり、日本の刑事裁判の人形浄瑠璃化を欲しているのは、自分の出す判決に自信と責任をもてない裁判官だけではなく、刑事裁判を“見せ物”にして金儲けをたくらむマスコミ諸氏が控えているのである。
したがって裁判員制度は、単に司法の堕落でばかりではなく、マスコミの堕落をも表しているのである。
そういったことを象徴する事件が、初日にもう起こっている。
裁判の終了間際に、裁判員制度に反対するグループが法定内におり、裁判員制度に反対する訴えをおこなったとき、裁判官は傍聴人全員の退廷を命じ、ほとんどのマスコミはそのような“事件”があったことすら報道しない。
異なった見解には耳を貸さない裁判官と事実を伝えないマスコミによって、日本の刑事裁判は、裁判としての機能を喪失し、すべてが裏で決められ、当事者たちは自分に割り当てられた役割を果たすだけの、陰湿な報復劇へと転化していく。
司法とマスコミは、いい意味でも、悪い意味でも、ブルジョア秩序の最後の防波堤なのだが、その防波堤は荒れ果て、腐りきってボロボロになろうとしている。
アテネの500人の平民集会で死刑判決を受けた“悪党”ソクラテスも、平民集会形式でおこなわれた自分の裁判がおおむね公平であったことは認めている。
また、人民裁判形式で行われたフランス革命時の国王裁判は、国王を弾劾するサン・ジュストの名演説とともに、人類史の一つの到達点である。
アメリカで陪審員制度がまだ機能しているのは、そういった直接民主主義の色彩を色濃く残しているからであり、司法に対する主権者の優越性が制度として確保されているからである。
ところが、こういった“人民裁判”は、政治闘争の道具となり、統治の手段となるにしたがって、その本来の機能である司法の暴走を牽制するという当初の目的を喪失し、“残酷な見せ物”へと急速に転落していくし、いかざるをえない。
日本で始まった裁判員制度は、その当初から、「司法に対する主権者の優越性と統制」という視点を欠いて始められているのであるから、それは最初から“残酷な見せ物”として出発している。
“見せ物”というのは、要するに、人形浄瑠璃のようなお芝居だ。裁判官が黒子であり、裁判員は黒子の意のままに操作される“お人形”にすぎない。
“見せ物”であるならば、いっそ黒子である裁判官が裸になって自分で踊った方がよほど“見せ物”としては面白いと思うのだが、黒子の背後にはマスコミというスポンサー兼オーナーが控えている。
つまり、日本の刑事裁判の人形浄瑠璃化を欲しているのは、自分の出す判決に自信と責任をもてない裁判官だけではなく、刑事裁判を“見せ物”にして金儲けをたくらむマスコミ諸氏が控えているのである。
したがって裁判員制度は、単に司法の堕落でばかりではなく、マスコミの堕落をも表しているのである。
そういったことを象徴する事件が、初日にもう起こっている。
裁判の終了間際に、裁判員制度に反対するグループが法定内におり、裁判員制度に反対する訴えをおこなったとき、裁判官は傍聴人全員の退廷を命じ、ほとんどのマスコミはそのような“事件”があったことすら報道しない。
異なった見解には耳を貸さない裁判官と事実を伝えないマスコミによって、日本の刑事裁判は、裁判としての機能を喪失し、すべてが裏で決められ、当事者たちは自分に割り当てられた役割を果たすだけの、陰湿な報復劇へと転化していく。
司法とマスコミは、いい意味でも、悪い意味でも、ブルジョア秩序の最後の防波堤なのだが、その防波堤は荒れ果て、腐りきってボロボロになろうとしている。