労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

世にも不思議な“レーニン”(その3)  ロシア革命番外篇

2009-08-05 01:01:37 | Weblog
 このシリーズは少し前に書き始めてそのままになっていた部分の続きである。

 いろいろな雑用やら、個人的なことがらに時間を取られてそのままになっていたが、最後の部分、すなわち、「われわれは労農監督部をいかに改組すべきか」と「量は少なくても、質のよいものを」の二つの“口述文”は非常に重要な問題を含んでいるので、書き続けることにした。

 この二つの“口述文”は、国家機構と党機関とソビエト(評議会)の“改組”について述べられており、このテーマはレーニンが参加した最後の党大会であるボリシェヴィキ第11回大会(1922年3月27日~4月2日)のテーマでもあった。

 この大会でレーニンは、ロシアを「資本主義の軌道からははずれたが、まだ新しい軌道にのっていない社会」という。

 さらに国家資本主義について、「国家資本主義とは、われわれが一定の枠にはめこまなければならない資本主義である。しかし、今までのところ、われわれはこれをその枠にはめ込むことができないでいる。これが肝心な点である。そしてこの国家資本主義がどのようなものになるかは、われわれにかかっている」ともいっている。

 さらに、レーニンは「われわれはこの1年間生き抜いてきた。国家はわれわれの手中にある。だが、新経済政策のもとで、この1年間国家は、われわれの思うように動いてきたであろうか?いや、そうではなかった。ところが、われわれはそのことをみとめようとはしない。国家は、われわれが思うようには動かなかった。では、国家はどう動いたか?
 自動車がいうことを聞かなくなることがある。見たところは操縦者が乗っているが、自動車はその人が向けようとする方向には走らずに、非合法のものとも、違法のものとも、どこから来たとも分からない誰かが、投機者なり、私経営資本家なり、あるいはその両方なりが向ける方向に走っていく。とにかく自動車は、その、その自動車のハンドルを握っている人の思うような方向にはかならずしも走らず、それとは全然ちがった方向に走っていく場合も非常に多い。これが、国家資本主義の問題について記憶しておかなければならない基本的なことである。」ともいう。

 どうしてこういうことになっているのかという点について、レーニンの問題意識は明確であった。

 「何が不足しているかは明らかである。統治にあたる共産主義者の層に文化性が不足しているのである。ところで、4700人の責任ある共産主義者のいるモスクワをとってみると、この官僚機構、この大集団をとってみると、だれがだれを指導しているのか?私にいわせれば、共産主義者がこの大集団を指導していると言えるかどうか、たいへん疑わしく思われる。ほんとうをいえば、彼らは指導しているのではなく、指導されているのである。

 ここでは、われわれが子どもの時に歴史の授業で聞いた話と似たことが起こった。われわれはこう教わった。ある民族が他の民族を支配することはしばしばあったが、その場合には、征服した民族が征服者で、征服された民族が被征服者であると、と。これは、ごく単純で、誰にも分かることである。しかし、これらの民族の文化についてはどうだろうか?この分野では、それほど単純ではない。征服した民族が征服された民族よりも文化的な場合は、征服した民族は自分の文化を征服された民族におしつける。だが、その反対の場合には、被征服者が自分の文化を征服者におしつけることがしばしばおこる。 

ロシア社会主義連邦ソビエト共和国での首都でも、これに似たことが起こらなかったろうか?ここでは4700人の共産主義者(ほとんどまる一個師団であり、しかも、みなもっともすぐれた人々である)が他人の文化に従属するという結果にならなかったろうか?

 たしかにこういうと、敗北者が高度の文化を持っているような印象が生まれるかもしれない。そうではない。彼らの文化はみすぼらしく、とるにたりないものである。しかし、それでもそれは、われわれの文化よりは、ましである。なぜなら、これらの活動家には、統治する能力が不足しているからである。機関の主長になっている共産主義者は――怠業者は、ときには、看板としてつかうために、わざと共産主義者を人為的におし立てる――、しばしばよいなぶりものにされている。こういうことを認めるのは非常に不愉快である。少なくともあまり愉快ではない。だが、今はこれが問題の眼目であるから、このことを認めなければならない、と思う。私の考えでは、この1年間の政治的教訓は、要するにこのことにある。そして、1922年度の闘争は、これを旗じるしにおこなわれるであろう。」

 このようにレーニンは、“責任ある共産主義者”たちに統治の能力をもつようにうながし、22年度のボリシェヴィキ党の方針を、行政機構(官僚組織)に対する政治(ボリシェヴィキ党)の優越性を確保する年としたいと語った。

 しかしレーニンはそのために機構の“改編”は考えておらず、しかるべき部署にしかるべき人物を送り込み、しかるべき仕事をさせることが問題の解決になると考えていた。

 “改編”を考えていたのは、むしろ党とソビエト(評議会)の関係であった。

 「わが国では、党とソビエト機関のあいだに正しくない関係がつくりだされており、この点についてはわれわれの意見は完全に一致している」そうレーニンはいいきっている。

 「われわれ」というのは、レーニンは党大会で中央委員会を代表して報告をしているので、中央委員会の総意ということなのだが、もちろん、これはレーニンの反論は許さないという固い決意をあらわしているもので、必ずしもボリシェヴィキの党中央委員会がそうであるということではない。

 むしろレーニンは大会前にモロトフに手紙を送って、

 「中央委員会の名において、つぎのことを大会に提案すること。すなわち、前述の大綱(この大綱についてはレーニンが中央委員会報告で述べており、その概略はこの文の前半で紹介している)を承認するとともに、立法上の基本問題を研究するために、また各人民委員部(日本でいえば各省庁)と人民委員会議(政府)の活動を系統的に監督するために、いっそう長期の会期を予定する全ロシア(ソビエト)中央執行委員会(日本の国会に相当するもの)の招集をも可決すること、がそれである。

 最後に、党(と党中央委員会)とソビエト権力との職権を、もっともっと厳密に区別することが必要であり、ソビエト活動家とソビエト諸機関との責任と自主性を高めること、ただし、現在のようなあまり頻繁(ひんぱん)で、不規則的で、しばしば些細な干渉はしないが、国家機関全体の活動に対する全般的な指導権を党の手にのこしておくことが必要である。

 党大会の確認を受けるために、適当な決議草案を作成すること。」と、大会でレーニンの案が採用されるように中央委員会で“根回し”をするように指示している。

 (これは余談だが、レーニンが後に外務大臣になったモロトフにこの時期、この種の手紙を数多く送っているのは、モロトフが筆頭書記局員だったからで、すでに病気がちだったレーニンは、モロトフを通じて、党の重要な会議の指示を行ったり、自分の見解を会議に反映させたりしていたからである。)

 ここには、各級のソビエト機関に対する党の指導権は手放さない、すなわち、「ボリシェヴィキ抜きのソビエト」など絶対に容認する気はないが、ソビエト機関の自主性を高めて、政府の各機関の監督や立法権を付与し、実体の伴ったソビエト国家を建設していこうというレーニンの思惑があった。

 このように1922年度の目標をたてていたレーニンだったが、その年の12月16日にレーニンは二度目の発作に襲われる。

 ブハーリンがレーニン主義の神髄と呼んだ「レーニン」の名で語られるあやしげな5つの論文が現れるのは、年が改まった24年の1月から2月にかけてである。

 4番目の「われわれは労農監督部をどう改組すべきか」は、「第12回大会への提案」という副題がつけられているが、そもそもレーニンは来るべき次の大会(第12回大会)をスターリン派(スターリン、ジェルジェンスキー、オルジョニキッゼ)と対決して、党の要職から駆逐する大会にしようと考えていたのである。

 非常に重大で、激しい党派闘争の準備をしていたレーニンが、どうして「労農監督部」という政府機関の改組を提案しなければならないのか?

 しかも、ここで「世にも不思議なレーニン」もしくは「悔い改めたレーニン」が言っていることはひどく混乱している。

 人民委員会(政府)の機関である「労農監督部」がボリシェヴィキ党の「中央統制委員会」と合体(!)して融合し、法制上、「労農監督部」の下に「中央統制委員会」を置くというのはそもそもが第11回大会の精神を踏みにじるものである。

 第11回大会では、ボリシェヴィキ党は、ソビエトの中央執行委員会(国会に相当)に立法権と、政府の監督権を付与して、権限を拡大することによって、政治が官僚を統制すべきであると決議したのだが、ここでは逆に国家官僚(労農監督部)が党を統制すべきであると提案している!

 これでは足りないと思ったのか、「悔い改めたレーニン」は最後の「量は少なくても質のよいものを」を書いて、さらに大規模に第11回大会の結果を葬り去ろうと画策する。

 「悔い改めたレーニン」が第一にいうことは、「文化性の欠如」についてである。第11回大会でレーニンは、「文化性の欠如」という言葉を、ボリシェヴィキの幹部連中の「管理能力の不足」という意味に使っており、国家の重要な役職についているボリシェヴィキの幹部連中に対して、汝のなさねばならないことをなせ、さもなくば場合によっては、「機関銃」もありうる(整然と退却すべき時に狼狽して、あらぬ方向に走り出せば、“味方”といえども機関銃を発砲することがある)と警告していた。

 これが「悔い改めたレーニン」では、「文化性の欠如」ということは、文字通りの意味で、つまりバカという意味で使われており、その対象も「ボリシェヴィキの幹部連中」ではなく、労働者・農民であり、要するに、労働者と農民はバカだから共産党の指導が必要であるという意味に変わっている。

 そして「悔い改めたレーニン」は続ける。

 「いったいどうやって党機関(ボリシェヴィキ党の中央統制委員)とソビエト機関(政府部内に設置されている労農監督部)とを結合させるのか?そうすることには許しがたいものがありはしないか?

 実際、われわれの仕事の利益がそれを要求しているとしたら、ソビエト機関と党機関をなぜ結合させてはならないのか?・・・・・・

 ソビエト的なものと党的なものとをこのように柔軟に結合することは、われわれの政策における異常な力の源ではないだろうか?」と。

 もっと悪いことには、「悔い改めたレーニン」とレーニンの間には、「ソビエト機関」という言葉自体が違う。レーニンは「ソビエト機関」という言葉を、その言葉の真の意味で、つまり労働者・農民・兵士の自発的な評議会として発達し、革命後は多くの職場や機関に拡大していった勤労者によって選出された代表機関という意味で使っているが、「悔い改めたレーニン」は、「ソビエト機関」という言葉を、あらゆる国家機関、国営工場や地方機関、教育機関やもろもろの官庁、演劇機関にまで拡大している。つまり、「悔い改めたレーニン」は党と国家機関とソビエトを全部ひとまとめにして、労農監督部という政府機関がこれを監督し、労農監督部を政治局が監督するという統治方式を提唱しているのである。

 この「悔い改めたレーニン」の提案は12回大会で承認され、以後、ソ連では共産党幹部であるとともに国家官僚でもあり、どこかのソビエトの代表でもあるという国家資本主義に特有な支配階級が形成されていく。

 レーニンはなぜ「悔い改めたレーニン」になってしまったのだろうか?

 その理由について「悔い改めたレーニン」は『量は少なくとも、質のよいものを』のなかでこう説明している。

 「真に偉大な革命は古いものの間の矛盾から生まれ、古いものの仕上げに向けられた志向と、新しいものへの抽象的な志向との矛盾から生まれるものだからである。」と。

 この「新しいものへの抽象的な志向」を「悔い改めたレーニン」は、「ロシア人は、自分たちの虫の好かない官僚的な現実から逃れて、以上に大胆な理論的構成をもとめて憂さ晴らしをしたのである。だから、この異常に大胆な理論的構成は、われわれのあいだでは、異常に一方的な性格をおびるようになったのである。」と説明している。

 また「古いものの仕上げに向けられた志向」というのは、「悔い改めたレーニン」によれば、発達した資本主義、すなわち、国家資本主義のことである。

 つまり、「悔い改めたレーニン」は、自分がレーニンであった頃を思い浮かべて、自分は現実逃避して、社会主義などいうできもしない偏執的な妄想にとらわれていた。しかし、真の社会主義というのが「発達した資本主義」(国家資本主義)のことであるのであれば、「古いものの仕上げに向けられた志向」こそが現実的であろう、と考え直したのである。

 「悔い改めたレーニン」とレーニンの関係は歴史の闇の中であるが、一つだけ言えることは、レーニンが二度目の発作に襲われ、政治活動を行うことが困難になることによって、ソ連邦と国家資本主義が生まれ、革命ロシアもしくはソビエト・ロシアは滅びたのである。

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