労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

マルクス主義同志会が貨幣資本を憎悪する本当の理由

2011-02-19 02:24:55 | Weblog
 われわれがマルクス主義同志会を辞めようとしている頃、われわれが資本主義のもとではすべてが商品として現象するのだから、資本家は新しく生産を開始するに当たって、労働力と生産手段を貨幣で購入する必要がある、といったらマルクス主義同志会は血相を変えて、ブルジョア的だ!と大絶叫した。

 ブルジョア(資本主義)社会で生産がブルジョア(資本主義)的に行われるのは当たり前な話であるのだが、マルクス主義同志会にはこれ(資本主義的生産様式が資本主義的生産様式であること)が許せないのである。

 だから、今回も「そもそも『貨幣流通による媒介』によって(こそ初めて?)、資本主義の『特殊歴史的な諸特徴』が規定されるかに主張するのは──、余りに“ブルジョア経済学流”(もしくは“宇野学派流”)であって、根底から正しくない。」といっている。

 もちろん、資本主義の『特殊歴史的な諸特徴』とは、生産の諸要素が商品として存在する、とりわけ労働力が商品として登場することであるが、生産要素が商品として存在するということは、貨幣が商品生産の拡大の結果として必然的に生まれることを考えると、生産が貨幣を媒介にして行われるということであるが、マルクス主義同志会はこれを認めることができない。

 それは資本主義的生産様式はそのようなものではないと思っているからであるが、ではマルクス主義同志会にとって資本主義的生産様式とはどのようなものであるのであろうか?

 不思議なことにこの解答はない。つまり、マルクス主義同志会は資本主義的生産様式のあれこれの規定を否定はするが、自分たちは資本主義的生産様式とはどのような生産様式であるのか積極的に展開することはしないのである。

 もちろんこれにはもう一つの理由がある。それはマルクス主義同志会の労働力商品否定論がある。それは今回もあますところなく述べられている。

 「実際、ヴェーム・バヴェルク以来(もちろん、それ以前からであるが、意識的に、マルクス主義に反対して、『商品』論を展開した彼以来)、ブルジョアたちは『商品』として、『労働力商品』にとどますらず、ありとあらゆるものをあげてきた。例えば、土地もまた、その土地の収入を利子率によって資本還元された『地価』を持つが、kamekanはなぜこの土地の『価値』を社会の『総価値』の中に数え入れないのか。内在価値を持たない労働力でも『価格』を持つからといって、『総価値』の中に数え入れたのだから、地価にせよ、そのほかの『価格』をもつ、このブルジョア社会のありとあらゆる『商品』を──有価証券などや、『性』等々までも含めて──kamekanは『社会の総価値』の中に数えなくては、決して首尾一貫していないのである。そしてそうするなら、kamekanのマルクス主義の『労働価値説』に対する重大な背反はあまりに明白になるだろう。」

 ここに述べられたほかにも資本主義が商品が価格を持つことによって、どんなものでも商品として貨幣と交換されることになり、“名誉”とか“良心”といったものまで商品として取引されることになる。

 マルクス主義同志会はこういうものの商品性、つまり売買の対象となることに反対することによって生まれた。そういう点では、この問題こそマルクス主義同志会にとって根源的であるが、物質商品以外の商品は商品として認めることはできない、貨幣物質以外の紙切れ(紙幣)が貨幣として流通することは許さないという立場からは、商品の、したがって商品生産の美化というマルクス主義同志会のもう一つの立場が生まれ、この立場からは商品社会の不純物(非物質的な商品)を排除するために闘うというもう一つのマルクス主義同志会の任務が生まれるとともに、商品を生産する労働、すなわち生産的労働の美化が生まれる。

 しかし資本主義のもとで、生産的労働というのは、資本家のために剰余価値を生産する労働のことであり、資本主義のもとでの生産的労働を美化することは剰余価値の生産を美化することでもある。

 かくして誰よりも熱心な資本主義的生産様式の擁護者となったマルクス主義同志会は、誰よりも資本主義的な生産様式を資本主義的生産様式と呼ぶものを憎悪するようになったのである。