9月6日、予定通り天皇家に男子が誕生した。
半年ほど前、われわれは「臣小泉純一郎の手痛い敗北」のなかで、もうすぐ出産する子どもは男子であり、これは秀吉の側室淀君が秀頼を生んだようなものとなるであろう、と論評した。
われわれの予測通りの結果となったので、話を続けよう。
皇室典範の改正が国会で議論になっていたとき、それを妨げるかたちで懐妊が発表され、皇室典範改正の議論は一時休止した。
この議論の中で、われわれは天皇制が現在の社会の中で生き残るためには、ブルジョア民主主義に同化し、その原則を受け入れる以外にない。すなわち、現行のブルジョア的相続制度において、男女の区別をつけていない以上、その原則を天皇家も守らなければならない、それを守るかぎりで存続が可能であると主張した。
このような主張は、当然、「万世一系論」、すなわち、天皇の神性を幻想的な古代神話のアマテラス某にもとめ、現在の天皇がその直系の子孫であることを根拠にしている。
早い話、戦前においては、神の子孫であることが、天皇が神であることの根拠になっており、天皇が神であることが日本の統治者であることの根拠になっていたのである。だから「万世一系論」は君主制度と分かちがたく結びついており、天皇を神格化する明治憲法の土台そのものなのである。
したがって、「万世一系論」は、その否定(戦後日本は天皇の人間宣言から出発した)から出発した戦後のブルジョア民主主義とは、まったく相いれない原則であり、われわれ労働者が許容することができない原則なのである。
そして、さらに許しがたいことには、皇室典範の改正が国会で議論になっていたとき、天皇家は既成事実(男子を出産するという既成事実)をもってこれを覆そうとし、じっさい、くつがえしてしまったのである。
これはどうでもいいことでは、断じてない。天皇家は、国権の最高機関である国会の議論に挑戦し、その決定に従う意志のないことを明らかにしたのである。卑俗な言い方をするなら、天皇家は日本国民にケンカを売ったのであり、その結果については、天皇家が責任を負うべき事がらなのである。
現行憲法において、天皇は日本国の象徴であり、その地位は主権の存する国民の総意に基づく、というのは、国民の意志に従うかぎりで天皇は日本国の象徴たりうるということであり、国民の意志に従う意志のない存在はそもそも「天皇」たりえない。
もともと、君主制と民主制は水と油のようなもので、水の中に油が存在するには、それなりの適応能力が必要なのだが、今回の事件は天皇家にその適応能力がまったく欠如していることを露呈した。
労働者は現行の「象徴天皇制」の廃止そのものを主張する時期に来ているのかも知れない。
半年ほど前、われわれは「臣小泉純一郎の手痛い敗北」のなかで、もうすぐ出産する子どもは男子であり、これは秀吉の側室淀君が秀頼を生んだようなものとなるであろう、と論評した。
われわれの予測通りの結果となったので、話を続けよう。
皇室典範の改正が国会で議論になっていたとき、それを妨げるかたちで懐妊が発表され、皇室典範改正の議論は一時休止した。
この議論の中で、われわれは天皇制が現在の社会の中で生き残るためには、ブルジョア民主主義に同化し、その原則を受け入れる以外にない。すなわち、現行のブルジョア的相続制度において、男女の区別をつけていない以上、その原則を天皇家も守らなければならない、それを守るかぎりで存続が可能であると主張した。
このような主張は、当然、「万世一系論」、すなわち、天皇の神性を幻想的な古代神話のアマテラス某にもとめ、現在の天皇がその直系の子孫であることを根拠にしている。
早い話、戦前においては、神の子孫であることが、天皇が神であることの根拠になっており、天皇が神であることが日本の統治者であることの根拠になっていたのである。だから「万世一系論」は君主制度と分かちがたく結びついており、天皇を神格化する明治憲法の土台そのものなのである。
したがって、「万世一系論」は、その否定(戦後日本は天皇の人間宣言から出発した)から出発した戦後のブルジョア民主主義とは、まったく相いれない原則であり、われわれ労働者が許容することができない原則なのである。
そして、さらに許しがたいことには、皇室典範の改正が国会で議論になっていたとき、天皇家は既成事実(男子を出産するという既成事実)をもってこれを覆そうとし、じっさい、くつがえしてしまったのである。
これはどうでもいいことでは、断じてない。天皇家は、国権の最高機関である国会の議論に挑戦し、その決定に従う意志のないことを明らかにしたのである。卑俗な言い方をするなら、天皇家は日本国民にケンカを売ったのであり、その結果については、天皇家が責任を負うべき事がらなのである。
現行憲法において、天皇は日本国の象徴であり、その地位は主権の存する国民の総意に基づく、というのは、国民の意志に従うかぎりで天皇は日本国の象徴たりうるということであり、国民の意志に従う意志のない存在はそもそも「天皇」たりえない。
もともと、君主制と民主制は水と油のようなもので、水の中に油が存在するには、それなりの適応能力が必要なのだが、今回の事件は天皇家にその適応能力がまったく欠如していることを露呈した。
労働者は現行の「象徴天皇制」の廃止そのものを主張する時期に来ているのかも知れない。