労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

誰が愛する者のために死んだか?

2006-09-01 02:22:49 | Weblog
 戦争映画がさかんに作られている。
 
 もちろん、戦争映画といっても、ニューギニヤ戦線やインパール戦線、あるいは南京事件や満州事変といった、日本軍が悪逆非道の限りを尽くして他民族を虐殺したものやあまりにも悲惨で声も出ない敗北の戦場ではなく、「神風特攻隊」や「回天」や「戦艦大和」といった“特攻もの”であり、見なくとも内容が理解できるしろものだ。
 
 そしていわれていることは、こういった人々が愛する者のために死んでいったということであり、最後には“お国”のために死ね、ということに尽きる。
 
 しかし、はっきり言って、昭和の戦争の時代に、愛する者のために自ら死を選んだといえる人々は、戦争と日本軍国主義に反対して、特高警察や憲兵に拷問の上、虐殺された一部の勇気ある人々だけである。
 
 後の人々は、そうではなかった。
 
 そうでない理由は簡単だ。それは自ら選択した行為ではなかったからだ。たとえば、「戦艦大和」の乗組員のうち、「オレは無駄死にはごめんだよ」といって下船できた兵士が何人いたか、いるわけがない、なぜならそんなことをすれば銃殺になるのは、誰もが知っていたからだ。だとするなら、それは国家によって強要された死であり、誰のための死でもなく、単に国家によって虐殺されたにすぎないであろう。
 
 特攻隊についても同じこと、一応志願制度になってはいたので、「パス、いち」ぐらいは認められたかも知れないが、「パス、二」または「パス、三」などということになれば、無理矢理、飛行機に乗せられて飛び立たされることぐらい彼らは知っていた。
 
 しかも、「神風特攻隊」や「回天」や「戦艦大和の特攻」にしても、成功する可能性はほとんどゼロである。(現在のアルカイダの自爆テロの方が成功する確率ははるかに高い)したがって軍事的には何の意味もない戦術にすぎない。
 
 当時の日本の軍部がこのような支離滅裂な戦術を採用しなければならなかったのは、すでに戦力において圧倒的に彼我の差が開いていたからであり、戦争の帰趨は「神風特攻隊」や「回天」や「戦艦大和の特攻」の前に決着がついていたのである。
 
 こういう時に、愛する者のために命をかけるという人が何をしなければならないのかはまったく明白であろう。無益な戦争を一刻も早くやめさせることこそ、人々の利益にかなった道だったのである。彼らはそういう困難な道を選ぶことができなかったという点において、「普通の人」にすぎなかったのであり、彼らの悲劇性はそこにこそある。
 
 現在、一部の反動どもがこの戦争末期の悲劇を取り出して、「国のために死ね」とわめいて反動政治を促進しようとしている。
 
 まさに悲劇の死者を冒涜し、利用しようとする行為であり、許しがたい。
 
 安倍晋三!石原慎太郎!国のために死ぬんだろ、だったら早く死ねよ。お前たちが生きていることは日本国のためにならない。日本国のために、霞ヶ関の上からでも、国会議事堂の屋上からでも、好きなところを選んで飛び降りよ。
 
 安倍晋三!政治家の価値は国のために死ねるかどうかで決まるのであろう。政治家としての価値を国民の前で見せてみよ。政治家としての決意のほどを見せてみよ!