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労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

“柳沢失言”の何が問題なのか?

2007-02-08 02:07:13 | 政治
 ようやく野党も出席して国会審議が始まったが、少子化問題をめぐる理論は奇妙な空転をしている。
 
 失言の張本人である柳沢は、一方的に謝罪し、何をどう謝罪しているのかさえ理解できない。
 
 他方の野党も単に言葉だけ問題にして何がどういけないのかという追求すらできない状態だ。
 
 このお粗末さこそ、現在の日本の“男女共同参画”のお寒い現実を何よりも物語っている。
 
 そこできちんと柳沢発言をふり返ってみよう。
 
 6日の記者会見での柳沢の発言要旨は以下のようなものであった。
 
記者 少子化対策は女性だけに求めるものか。
 
柳沢 若い人たちの雇用が安定すれば婚姻率が高まるという状況だから、安定した雇用の場を与えていかなければならない。女性、あるいは一緒の世帯に住む世帯の家計が、子供を持つことで厳しい条件になるから、それを軽減する経済的支援も必要だ。家庭を営み子どもを育てることに人生の喜びがあるという自己実現という範囲でとらえることが必要だ。ご当人の若い人たちというのは、結婚をしたい、子どもを二人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる。だから本当にそういう日本の若者の健全な、何というか、希望というものにわれわれがフィットした政策を出していくということが非常に大事だと思っている。
 
 最初に、記者の質問だがこの記者は当然、“少子化対策”というのは単に女性に子どもを産めというだけでいいのか、社会政策として取り組む必要がある事がらではないかと質問している。健全と言うことでいえばこの記者が一番健全であろう。
 
 これに対する柳沢の答弁の最初の部分は、ある意味でそれに答えるものであろう。柳沢は現在の若い労働者男女が結婚して子どもを産み育てるには、経済的な障害があることを認め、そういう障害を軽減する措置が必要であることを率直に語っている。
 
 しかし、次に柳沢がいうのはそれとはまったく異なった見解である。
 
 ここでは一転して柳沢は「家庭を営み子どもを育てること」は自己実現であり、人生の喜びであると軍国日本の臣民たちに対して説教をタレ始める。
 
 これは単に柳沢だけの問題ではなく、首相である安倍晋三もまたそうなのである。
 
 安倍晋三は7日の国会答弁で公明党の斉藤に答えて次のように言っている。
 
「子どもを育てやすく、結婚できる環境をつくるとともに、家族を持ったり、子どもを産み育てていく価値を再認識する必要がある。」
 
 ここでもバカ・ファシストの安倍晋三は軍国日本の臣民たちに、「家庭を営み子どもを育てること」は自己実現であり、人生の喜びであるという価値観を持つように強要し、命令している。そういう点では、安倍晋三も柳沢も同じ観点、同じ思想の上に乗っている。
 
 しかも軍国日本のために「産めよ、増やせよ」と命令しているのは、もっぱら女性に対してであり、この点で女性を「子供を産む機械」としかみていないという最初の“失言”に戻っているわけだ。
 
 ここには男は仕事をし、女性は家庭にいるべきであるというあの古い見解が牢固として存在しているのである。

“柳沢失言”の根は深い

2007-02-07 02:26:15 | 政治
 少子化担当大臣の柳沢が、「女性は子どもを産む機械」発言に続いて、「子どもを二人持ちたいというのは健全な意識」などと発言して問題になっている。
 
 要するに、彼は少子化担当大臣として、何としても軍事大国日本の人口を増加させる使命があり、そのためにいろいろな発言をするのだが、発言を重ねれば、重ねるほど、問題が深刻化していく。
 
 この根底には、当然のことながら安倍晋三政権の性格がある。この“道徳主義的”内閣(とはいっても、この政権内部には、言葉の本当の意味で道徳的な人物は一人もいないのだが)は問題をつねに道徳的にとらえるのである。
 
 柳沢は、結婚して、子どもを二人産む女性が女性の健全な姿であると勝手に決めつけて、それを女性に押しつけようとしている。
 
 安倍晋三は柳沢を擁護して彼の言葉には「価値観は含まれていない」というが、結婚して、子どもを二人産む女性が女性の健全な姿であるならば、結婚したくないと考える女性や、子どもを生みたくない、または一人だけでいいと考える女性はとうぜん健全ではないということになる。
 
 そしてここには子どもを生めるのに生もうとしない女性は自分勝手で許しがたいという「価値観」が当然含まれており、しょせん女性は子どもを産む機械にすぎないという女性蔑視の「価値観」がある。
 
 天皇家のある女性を例に出さなくとも、日本の社会一般に「子どもを生めるのに生もうとしない女性は自分勝手で許しがたい」という偏見が根強く残っており、これが女性に対する大きな圧力になっている。そういう点では日本はまだまだ男性社会であり、女性に対する差別は根強く残っている国なのである。
 
 これまでの歴代の自民党内閣は世界的な女性の地位向上運動の中で、公式的には、女性の社会参加を否定はしなかったし、柳沢のような考えを持っていた大臣も数多くいただろうが、彼らは「世間体」を考えて決してそれを言葉にはしなかった。ところが、戦前の社会への回帰をめざす安倍晋三反動内閣の成立によって、日本は一気に「お国のために、産めよ、増やせよ」の時代へと逆戻りしようとしている。
 
 しかし、安倍晋三の頭の中では、日本はすでに軍国主義の国なのだが、一般の女性はそうではない、むしろ日本は「民主主義の社会」で男女は平等なのだと考えている。不思議なことに、内閣総理大臣である安倍晋三は、自分と日本の女性の間に存在しているこのおそるべき「価値観」の断絶にまったく無頓着である。
 
 そういう点では、女性たちは最初の“柳沢失言”にむしろとまどいを感じていたが、このとまどいは安倍晋三政権の本性が明らかになるにつれて、やがて大きな怒りへと変わっていくであろう。
 
 もうこれは参議院選挙がどうのというレベルを超えているし、内閣改造がどうのということでおさまる話でもなくなりつつある。日本社会は不安定化の扉の前に立っており、安倍晋三はその扉を開けようとしている

政治の混迷の原因は野党にある

2007-02-05 02:22:33 | 政治
 国会が“柳沢発言”で空転している。
 
 その中で北九州市の市長選と愛知県知事選が行われ、結果は1勝1敗と与野党で星を分け合った。
 
 一見すると、与野党の力が均衡しているように見えるが、現実には民主党を中心とする野党勢力の力負けは歴然としている。
 
 なぜならば、現在、明らかに、安倍晋三政権は崩壊に向かっており、人心はこの政権から離れているからである。
 
 多くの人々が、この腐敗と反動しか、人々にもたらすことができないバカ・ファシスト政権に対して、大きな怒りを感じ始めているのに、そういった人々の怒りを組織し、大きな政治的な潮流とすることができないのは野党の責任であろう。
 
 野党が、小さな流れを集合して、大河となす事ができないのは、この川の支流がいたるところでつまっており、流れがせき止められているからである。
 
 そもそもがこの“柳沢発言”自体、とってつけたようなもので、なぜ野党は正々堂々と自民党の反動政治と向き合い、これと対決しないのか?
 
 安倍晋三による教育破壊や憲法改正に対して、正面から反対しているのは共産党ぐらいのもので、民主党は自民党の教育政策や安全保障問題(日本の軍国主義化問題)では自民党と大差のないところにいるのだから、“柳沢発言”をことさら取り上げることによってお茶を濁していると有権者に見られてもそれは仕方のないことだろう。
 
 また、愛知県知事選では野党は沖縄県知事選の敗北から何も学んではいないことが明らかになった。われわれは沖縄県知事選の時、地方自治体の首長選挙では、全国的な政治問題のテーマも重要だが、具体的な地方自治の問題もそれに劣らず重要であり、有権者が地方自治体に期待していることに答えることができない候補者は当選することができないといったが、それは今回の愛知県知事選挙でも再びそのように言うことができる。
 
 野党候補は選挙終盤はそれこそ“柳沢発言”反対の一色であった。これでは有権者はどちらも選べない。このところ、野党は地方自治体の首長選挙を国政選挙のように闘い、当然のごとく有権者の多数を獲得することができずに敗北し、敗北することによって国会運営が不利になり、自民党を追いつめる絶好の機会を逃して、自分たちの立場をさらに悪くするという自縛自縄のような悪循環が続いており、これでは参議院選挙前に野党の体力も気力も消耗するのは目に見えている。
 
 要するに、日本の野党は政治的な信念がないばかりか、政治闘争のやり方も、選挙のやり方もヘタなのだが、こういう事情はわれわれはすでに織り込み済みであり、むしろこのような野党の情けない状態こそ新しい労働者党が必要だという認識を労働者に抱かせ、何年か先にそれが現実の党として結実するであろうということをわれわれは信じて疑わない。

バカ・ファシスト政権とは何か?

2007-02-05 02:21:03 | 政治
 われわれは安倍晋三政権をバカ・ファシスト政権と呼ぶことにした。
 
 何度もいうように、安倍晋三自身はファシストでありながら、ファシズムの根本的な意味を分かっていない。
 
 現在の日本のような政治状況がヒトラーの第三帝国で起こったなら、小沢一郎を始め、国会審議に参加しない国会議員は全員強制収容所に送られて、餓死させられるか、凍死させられることになったであろう。また、1930年代後半の日本軍国主義の時代であるのであれば、特高警察に逮捕され、凄惨きわまりない拷問にかけられ、半数あまりが栄養失調で死んだり、拷問死させられた後で、網走刑務所に送られたであろう。
 
 つまり、ファシズムをファシズムたらしめているのは、無制限の、法律に基づかない暴力であり、反対者を暴力によって圧殺することによってのみ、ドイツも日本も国民を凶暴な侵略戦争に駆りたてることができたのである。
 
 ところが政治としては民主主義しか知らない戦後生まれの安倍晋三は、ファシズムの本質が恐怖と暴力による支配であり、国民を無権利状態に突き落とすことによってのみ、そのような統治形態が可能であったことを知らない。
 
 それどころか、愚かにも、民主的に、つまり、小泉純一郎のように国民をペテンにかけることによってそれがなしうると信じている。
 
 しかし小泉純一郎がそのペテン師的な政治姿勢によって5年間も政権の座に居座ることができたのは、戦後最悪の過剰生産と過剰信用の解消と好況に向けた新たな循環の開始という日本資本主義の時代的な趨勢が彼の政治がマッチしていたからで、それを今誰がマネをしようとしても同じことはできないであろう。
 
 それに安倍晋三は小泉純一郎ほどのペテン能力(人をだます能力)は持ち合わせてはいない。
 
 したがって彼の反動政治はむしろ国内外で多くの敵を作ることに貢献しているのみである。
 
 そして、この過程で明らかになったことは、安倍晋三の驚くべき政治的無能力である。
 
 安倍晋三政権は小沢一郎(民主党)や福島瑞穂(社民党)や志位和夫(共産党)を絶滅強制収容所に送って絶滅させることができなければ、話し合うしかないのだが、この男(安倍晋三)には、こんな簡単なことすらできないのである!
 
 これは北朝鮮の金正日も同じことである。安倍晋三政権は政権発足当初、金正日政権の転覆を狙ってあれやこれやと画策してきたが、最近ではそれが不可能なことであることが次第に明らかになりつつある。日朝間に深刻な利害の対立があり、北朝鮮政府を転覆できなければ、交渉によって問題を解決する道を選択しなければならないのだが、安倍晋三政権これもできないでいる。
 
 それは民主、社民、国民新党の3党首が彼を訪れた時に居留守を使ってあわなかったことにも典型的に表されている。つまり、安倍晋三は公然たる敵対勢力と話し合う能力自体がないのである。
 
 安倍晋三政権は、公然たる敵対勢力を絶滅することも、交渉することもしなくて何をするのかといえば、結局、何もしないし、何もできないのである。ただひたすら自分の執務室にこもって危機が去るのを待つのみである。
 
 しかしこういう態度では人に笑われるだけだが、彼はそれでもいいと思っている。
 
 なぜなら現在の国会の勢力は小泉の遺産として、自民党が多数を占めているのだから、多数決で強行採決に次ぐ、強行採決を行っていけば、自分の政策が実行できると信じている。
 
 あわれな自民党よ、この極端な内弁慶内閣のもとで、自民党は確実に破滅の道を歩んでいる。もう5年もすれば、自民党という政党は日本から消滅しているだろう。
    

拉致救出運動か拉致報復運動か

2007-01-19 21:33:25 | 政治
 われわれを含め、多くの日本の労働者は拉致問題を銀行強盗が人質を取って銀行に立てこもっているようなものであると考えていた。
 
 当然、この場合最優先されるべきは人質の人命であろう。もちろん犯人を逃すわけにはいかないが、人質を救出するためには、犯人の要求をある程度飲んで、水や食料を差し入れることは許容の範囲である。
 
 警官隊は銀行を包囲するであろうが、それは犯人を逃がさないためで、強行突入は最後の最後の手段であるはずだ。
 
 まずもってしなければならないことは犯人に対するねばり強い説得だろう。道理を説いて自分のおかれている状況を説明することこそ何よりも必要なことであろう。
 
 ところが最近分かってきたことだが、どうも「拉致問題」というのはこのような運動ではないらしい。
 
 「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」と安倍晋三政権は、むしろ銀行に立てこもっている犯人に対して、何の罪もない人を誘拐する許しがたい連中だ、断固制裁すべきであると絶叫している。
 
 もちろん、制裁や報復によって人質が解放されることはありえない。強行突破と言うことになれば、人質の命は非常に危険に陥ることが予想されるが、そういうことを心配する「家族」はいない。
 
 現に、北朝鮮政府は「安倍晋三政権を相手にせず」という態度を明確に打ち出しており、安倍晋三政権のもとでは「拉致問題」の解決どころか、話し合いの場すら設けられることがないことがはっきりとしてきた。
 
 「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」はそれでもいいというのだから、はっきりいってこれは驚きだ。ここには子どもを人質に取られている親の心情とはまったく違う感情が流れている。
 
 むしろこの人たちを支配し、つき動かしているのは拉致した者への復讐、もしくは報復の感情であり、人質を救いたいという感情ではない。
 
 だとするならば労働者はこのような運動を支持することはもうできないだろう。なぜならは北朝鮮は犯罪者国家であるとはいえ、国家である以上、「国際紛争は平和的手段によって解決すべき」であるという日本の“国是”が適用されるべきであり、「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」がすでに拉致被害者の救出をあきらめている現状では、事態の緊急性も重大性もすでに喪失しているからである。
 
 むしろ逆に、北朝鮮への復讐、もしくは報復が主目的であるという運動は世界の平和を脅かすという点で、労働者にとって許しがたい運動になりつつある。
 
 つまり「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」は、拉致問題を口実にして、民族主義、排外主義を煽って、日本を軍国主義化しようとする安倍晋三政権の道具へとますます純化しつつあり、運動の大衆的な基盤を失いつつある。
 
 こういうことは本当の拉致家族にとってもあまりいいことではない。なぜならば、拉致被害者が全員死んでしまっているという前提に立てば、拉致をした北朝鮮を政治的、経済的、軍事的に制裁しようという報復運動もありうる(それが全国民的な支持をうるかは別にして)だろうが、かならずしもそうとばかりは言い切れない場合、すなわち、拉致被害者の何人かはまだ生きているかも知れないという観点に立てば、むしろこういった運動は拉致問題の解決を妨げるからである。
 
 もちろんわれわれが「拉致問題」という場合、拉致被害者を救出するという観点からとらえており、拉致したものに報復する運動とはとらえていない。
 
 そして今「拉致問題」で問われているのはこのことである。 

ブッシュの「新イラク政策」

2007-01-11 20:14:17 | 政治
 中間選挙で敗北したブッシュ政権が「新しい」イラク政策を発表した。
 
 もちろん「新しい」といってもそれほど目新しさはない。ベトナム戦争終末期のニクソンの「ベトナミゼーション」(ベトナム戦争のベトナム化)、すなわち、アメリカ軍の代わりに「南ベトナム軍」を戦争の表舞台に引きだしたようなもので、現地のカイライ政権の軍隊に治安維持の大きな役割を果たさせようというものだ。
 
 現在のイラクに限っていえば、この「新イラク政策」は二つの点ですでに失敗が約束されている。
 
 一つは、シーア派民兵組織「マハディ軍」の解体をマリキ政権に求めていること。シーア派の強行派サドル師の民兵組織はすでにイラクの治安部隊や「イラク軍」内に大きな影響力をもっており、バクダッドの警察は「マハディ軍」そのものだ。そういう点では「マハディ軍」に「マハディ軍」を討伐させるというのは単なる妄想以上のものにはなりえない。
 
 しかも、ブッシュ政権はイラクのマリキ政権に「マハディ軍」の解体を強要したといわれており、このことがイラク国内の最大の武装勢力をもつサドル派をひどく怒らせている。
 
 何のことはない、ブッシュはイラク国内で新たな敵を作っただけなのだ。
 
 二つ目は、イラク不安定化の最大の要因になっているスンニ派とシーア派の対立の一方であるスンニ派にはどのような懐柔策も用意されていない。むしろ今回増強されることになったアメリカ軍の一部はスンニ派の影響力が強い西部アンバル州に派遣されることになっており、スンニ派武装勢力を力で押さえ込もうとしていることがうかがえる。
 
 ブッシュによればアメリカ軍は今後占領した地域にとどまるそうだが、そうであるならば増強する兵力も4千人程度ではなく、5万人、10万人単位での増派が必要であろう。少ない兵力を分散して駐屯させれば、それこそゲリラ勢力の格好の標的になるのは目に見えている。
 
 また武装勢力が浸透してくるといわれているシリア国境地帯においても、ブッシュはシリアとの話し合いを拒否したのであるから、彼らの活動を制限するものにはなっておらず、ゲリラ戦のための格好の土壌は手つかずのまま残されている。
 
 そしてそれ以前の問題として、このような貧弱な「新イラク政策」で民主党やアメリカ国民を納得させることが可能であろうか?という問題がある。
 
 先の中間選挙で示されたアメリカ国民の意思は、アメリカはイラクから手を引け、というものであり、イラクのアメリカ軍を更なる泥沼に追いやることではなかったはずである。
 
 したがってブッシュのこの「新イラク政策」がこのまますんなりとアメリカ議会を通過するかどうかさえ未知数である。
 

 

安倍晋三政権の曲がり角

2007-01-08 01:28:28 | 政治
 安倍晋三政権の政治スタンスが年を挟んで変化している。
 
 もっともこれは現在政界も正月休みで“お目付役たち”が地元に帰っているから“放し飼い”状態になっており、単に地がでているだけとも思えるが、かなり右翼的、民族主義的、反動的な言辞が飛び交っている。
 
 しかも表情が暗い、正月早々、あの暗い顔で、憲法改正、天皇制擁護、国家主義教育なんぞとまくし立てられたら、いやになる。
 
 これは一体何なのだろうか?
 
① 安倍晋三政権はもって5月までだとあきらめてヤケクソになっている。
 
② 安倍晋三政権の危機を右傾化、強硬姿勢を強めることで乗り切ろうとしている。
 
 おおかたの見方は①だろうが、笑止なことに当人たちは本気で②を考えているみたいなので、今年の日本の政治は乱気流へと突入していく可能性が高い。
 
 このような政治の不安定化は日本の総資本のあり方とも無縁ではない。
 
 御手洗某は個別資本の代弁者たりえても、総資本の代弁者たりえない、視野が狭く、大局的な見地にたちえない。明らかに日本の総資本は自分たちの代表の人選を間違えたのだが、日本の総資本の統治能力低下は政治へのコントロール力の低下として現れ始めている。
 
 したがって当面はだれはばかることのない猪侍の突進で年が明けることになる。
 

ピノチェットの死

2006-12-12 02:28:09 | 政治
 チリのピノチェット元大統領が10日に死亡した。
 
 彼には左翼や労働組合員を拷問にかけたり、虐殺した罪で200件以上も訴追されているが、健康上の理由で裁判は開かれず、すべて未解明のまま歴史のなかに消えていった。
 
 これらの事件は1973年9月10日のチリ国軍によるクーデターの結果によってもたらされたものであり、結果として、この事件の結果として何千人もの労働者・学生が人知れず裁判も受けずに虐殺されてしまったという事実をわれわれは忘れることができない。
 
 そしてピノチェットという悪いヤツがいて、クーデターを起こして左翼を虐殺してしまったというように単純化することも正しくない。
 
 何しろピノチェットが倒したのは選挙によって選ばれたアジェンデ大統領であり、この政権は社会党と共産党の民主連合政権であったからだ。
 
 したがって日本でもめずらしく、日本共産党とわれわれ(われわれは当時、ようやく全国社研の名前をすててマルクス主義労働者同盟を名乗りはじめたばかりだった)の間ではげしく論戦が行われた問題であったからだ。
 
 日本共産党はわれわれに、われわれのような極左暴力集団がいて挑発を行ったからクーデターが起こったといい、われわれは日本共産党に労働者の武装が少なすぎたからそれがクーデターにつながったのだと主張した。
 
 これはMRIと呼ばれるストライキを防衛するための自発的な労働者の武装組織の評価をめぐる問題で、第4インターのような新左翼各派はこのMRIを絶賛していた。
 
 しかしわれわれだけは、クーデターの前から、個々のストライキを防衛する武装組織では足りない、やがて来る反革命から守るためには、労働者階級全体の武装が必要なのだということを訴え続けていた。
 
 もちろんわれわれの声は、チリの労働者には届くはずもなかったし、アジェンデにそのようなことができるはずもなかったので、結果として最悪の事態になっている。
 
 同じことは、1981年12月にポーランドでも起こっている。80年に大きな高揚をみせたポーランドの労働運動は81年にはポーランドの労働者階級のほとんどをとらえ、逆に統一労働者党(共産党)は離党者が続出して解体情況になっていた。
 
 この時、多くのマスコミは連帯の勝利を誉めたたえていたが、われわれはポーランドの危機は深まっている。労働者は団結して闘争を強化して密集した反革命に立ち向かえと訴えていた。
 
 そして81年の12月13日にヤルゼルスキーはクーデターを起こして軍事独裁政権を樹立して労働者活動家たちをつぎつぎに逮捕していった。
 
 もちろんクーデター後も「連帯」は残ったが、ポーランドの労働者階級の本当に闘う部分だけはこの時切り捨てられており、政府に融和的な部分だけが釈放され残った。
 
 ここで圧倒的に正しいのはレーニンなのである。レーニンの「二重権力論」は階級闘争の真実を語っている。
 
 選挙によって労働者の政権が樹立されたにせよ、労働運動が高揚して政府を打ち負かせたにせよ、そこにあるのは資本の権力と並んで労働者の権力が出現したという事実にすぎない。
 
 この二重権力は不安定であり、この二重権力は、やがて危機を成熟させ、どちらかに収斂(しゅうれん)していく、つまり、どちらかが他方を打ち倒して権力を単一的に握るような決定的瞬間に向かって時を刻んでいるような政権なのである。
 
 20世紀の後半以降、この二重権力はつねに、反革命の勝利に終わり、勝利した軍事独裁政権によって弾圧され、獄につながれ、あるものは拷問にかけられ、あるものは処刑されている。それは、経済的な危機があり左翼勢力や労働運動の力がある程度成熟している国では、例外的に二重権力状態が生まれるが、この二重権力のなかで、労働者は団結して闘争を強化して密集した反革命に立ち向かえと訴える政党が世界的な規模で存在しなくなっているという点にある。つまり権力の奪取という思想そのものが左翼陣営から消えてしまっているのである。
 
 しかし、新しい世紀の新しい闘争は、この「20世紀の壁」を乗り越えていくことができるとわれわれは信じている。
 
    

われわれはいかなる意味でレーニン派か?

2006-12-10 01:27:34 | 政治
 われわれ赤星マルクス研究会は発足した当初からレーニン主義の継承者であることを隠さなかった。
 
 今ではもうなつかしい思い出だが、ホームページの休憩室の最初の写真はレーニン廟で「われわれはイリイッチ(レーニン)とともにある」というプラカードを掲げた老婆の写真であり、この時これはわれわれのスローガンでもあると明言していた。
 
 以来、われわれは何度も「われわれは社会主義の頑固派」(社会主義のレーニン派)であるということを宣言してきた。
 
 しかし現在、レーニンの名で語られていること、すなわち、中央集権的な党とか分派の禁止とかプロレタリア独裁とか、内戦期の赤軍の残虐行為とか、挙げ句の果てはウクライナの大飢饉まで、レーニンが責任を負っているかのような見解には首をかしげるものがある。こういったことにはおいおい反論していきたいと思っているが、今回はとりあえず中央集権的な党とか分派の禁止とかいう「政治的な概念」に限定してわれわれの見解を述べていきたい。
 
 この点ではマルクスとレーニンの見解はきわめて自明だ。政治は上部構造であり、下部構造である経済状態によって規定されるというものだ。マルクス主義者であるならこれ以外の答えは出てこないと思うのだが、どういうわけかこういうことをいう組織はあまりない。
 
 たとえば中央集権的で秘密な党にしても、それは当時のロシアの専制的で民主主義が欠如している社会抜きにしては語ることができないものであろう。
 
 レーニンのように労働者に「資本論」を教えただけで何年もシベリアに流刑される社会では民主的で開かれた党の建設は不可能である。実際、開かれた政党をめざしたロシア社会民主党は党結成と同時に500人もの逮捕者を出して即時に解体している。
 
 そしてわれわれはこれと正反対のことを社労党時代に経験している。資本主義が高度に発達している資本主義日本の中で、われわれは社労党は「レーニンの党組織論」(?)を堅持して、中央集権的で、若干秘密主義的で、組織の横断的な連絡は禁止され、分派も禁止されてきた。
 
 このなかでわれわれが学んだ教訓の第一はいくら分派を規約によって禁止しても、大きな政治的な課題をめぐっては意見の対立がなかば必然的に生じるということであり、こういった意見の対立は公開の討論によってこそ双方が納得できる解決にいたることができるというものである。
 
 しかし公開の討論が禁止され、党員に必要な情報が伝達されなければ、どこどこの誰かが党中央と対立したという事実だけが残り、その人は党に居づらくなる。
 
 たとえば兵庫のS氏は、「価値形態論」をめぐって林紘義氏と対立し、自分の意見をメールを使って他組織の友人に伝えたために、「組織の横断的な連絡禁止」規定に引っかかるとして処分され党を去っている。
 
 また神奈川の「落合グループ」と呼ばれる“分派”がかつて存在したが、われわれを含めて社労党の大多数の党員が「落合グループ」というのはどのような見解をもっており、どのような経緯で党から処分されたかさえ知らない(!)のである。
 
 われわれについてもある日突然、代表委員から「脱会しろ」と迫られて、赤星マルクス研究会を名乗ることになった。
 
 こうしてかつての「レーニンの党組織論」に立脚した前衛政党は、一人去り、二人去り、いつの間にか、哀れにも価値妄想教のご教祖様と“迷える子羊”の群れになってしまったのだが、このマルクス主義同志会の転落には「レーニンの党組織論」が大いに役に立ったのである。
 
 また社労党の“大分裂時代”、すなわち協議会派(現「ワーカーズ」)との分派闘争にしても、われわれは党はすでに分裂状態だから公然たる分派闘争に移行せよと中央に要求していたが、中央はかたくなにそれを拒否していた。
 
 この時、われわれはお行儀がいいので「組織の横断的な連絡禁止」規定を守っていたが、協議会派(現「ワーカーズ」)は最初から組織を割るつもりだったから、「組織の横断的な連絡禁止」規定を無視して、相互に連絡を取りあい全国の反乱軍を糾合してまたたくまに本当の分派になってしまって、党中央が公然たる分派闘争に乗り出した時にはすでに党の分裂は避けられないものになっていた。
 
 結局、社労党の「レーニンの党組織論」なるものは、多くの悲劇だけを残して、くだらない連中を喜ばせるだけに終わったのだが、それもそのはずで、この「レーニンの党組織論」なるものこそ実はスターリン主義の政治理論なのである。
 
 レーニンはロシアで革命を起こすにはどのような組織が必要であるかを考えて『なにをなかべきか』を書いた。彼の正しさはロシア革命が成功したことによって証明されたが、ボルシェヴィキが権力を握った段階で、状況が変わったのだから、ロシアで社会主義を建設するためにはどのような党組織が必要であるのかという観点で『なにをなすべきか』は書き換えられなければならなかったのだが、レーニンはそれを果たせずに死んでしまった。
 
 レーニンに代わったスターリンはレーニンの政治理論とそれを成り立たせていた社会的、経済的な諸連関を切り離して、これを一般化して「レーニンの党組織論」を作り出した。それは権力を握った一握りの共産党の党官僚が、専一的に共産党を支配し、共産党を支配することによって、社会を支配するというわれわれが国家資本主義と呼んでいるスターリン体制の基幹理論となっていったのである。
 
 これに対してわれわれは本当のレーニンの政治思想と党組織論は、高度に発達した資本主義国である日本で、社会主義に向かってわれわれが前進するためにはどのような政治思想と党組織論が必要であるのかということを、日本の現状に合致するかたちで提起することであると考える。     

ロシア・マフィアとプーチン政権

2006-12-08 01:33:53 | 政治
 世にも不思議な事件か事故か自殺である。
 
 最初、死亡したリトビネンコ氏はタリウムによる毒殺とされたが、その後、毒物はポロニウムに変更された。
 
 ポロニウムの半減期は135日と短いし、その微細な成分を調べればどこの原子炉で生成したものであるのかということはほぼ特定できる。だからロシアの原子力庁はこのポロニウムが最近ロシアのある原子炉で作られたものであることをしぶしぶ認めている。
 
 そこで問題が起こる。誰が何のためにやったのかと。
 
 しかしこういう問題に答えることは今の段階では非常に難しいが、凶器が放射性物質であることからあちこちでポロニウムの痕跡が動かぬ証拠として点々と残っている。(これはこの事件の不思議な点であるが、あちこちで、たとえば飛行機のなかとか、サッカー場とかでポロニウムが検出されるということは、そこにたとえ微量であろうともポロニウムという物質が存在しているということであり、こうした事実は「服毒」ということを否定しているように思われる。たとえばリトビネンコ氏がポロニウムを含んだ寿司を食べてしまった場合、ポロニウムは彼の体内にとどまるのであり、彼が何かに接触したからといってその接触したものにポロニウムが付着することはない。尿から出るぐらいだから汗や唾液の飛沫としても体内のポロニウムは出るのではないかという見解もあるが専門家はそれを明確に否定している。したがってリトビネンコ氏と接触した人物にポロニウムが付着したということは、ポロニウムがリトビネンコ氏の体内ではなく体外にあったという単純な事実を示しているが、どういうわけかイギリスの警察はこのような単純な事実を否定している。)
 
 また点と点を結べば「点と線」になるのではないかというが、点(ポロニウムの検出された場所)のいくつかはイギリスの捜査当局によって隠されている。そこで事件はますます迷宮と推理小説の世界に入っていこうとしているかのようである。
 
 ところがどこへいっても顔を出しているのが、シロビキ(KGB人脈)とオルガリヒ(新興財閥)という新しいロシア支配者の顔である。
 
 この辺のところがいろいろ混乱のもとになっているようなのでロシアの歴史を少しふり返ってみると、両者はともにソ連邦崩壊の結果として生まれたものである。
 
 ソ連邦の崩壊とともにKGBはロシア連邦保安局(FSB)と名前を変えたがその勢力は大きく縮小され、KGBをリストラされたメンバーたちは、有力な政治家に囲われる“私兵”となっていったり、純然たる犯罪者集団となって雇われ殺し屋となったりしている。
 
 この有力な政治家は“政商”とも呼ばれるが、日本で言う政商とは、日本資本主義の勃興期にあらわれた、三菱財閥とか住友財閥のような時の権力にすり寄って暴利をむさぼっていた大ブルジョアのことであるが、ロシアの場合には、政治家であるとともにブルジョアであるような勢力のことである。
 
 これはロシアにおける特殊性にもとづくもので、ソ連邦の崩壊は多くの人が考えるようにフランス革命のような民主主義革命としてではなく、国家資本主義官僚(スターリン主義官僚)がブルジョア化するという道、すなわち、経済的混乱のなかで政治力のあるものが国営企業を私物化して財閥に成り上がる、または経済力のあるものが政治を私物化して政府の要職につくという道をたどったからであり、もともと政治力=資本力という傾向が強かった。
 
 だからオルガリヒと呼ばれる新興財閥は、同時にロシアの新しい政治勢力であり、何らかのかたちで政治運動に関わっていた。
 
 エリツィンの時代はまさにこのようなオルガリヒの台頭期であり、彼らの手によってロシアの自由資本主義化が進められた。この時私兵化したKGBはそれぞれのオルガリヒの便利な道具として、あるものはマフィア化してパトロンのためにさまざまな非合法活動を担っていた。
 
 この時、ロシアの労働者にとって社会の変化は、ただ自分たちの支配者が国家から私的資本家に変わっただけでなく、猛烈なインフレとともに進行した。エリツィン時代にロシアの物価は2000%増加したのに対して、労働者の給料は1000%しか増えなかったために、労働者の実質所得は半分に減少した。
 
 つまりソ連邦が崩壊しても、ロシアにおける階級変動はそれほど著しくなく、単に労働者のボスの肩書きがソ連共産党何とか市書記から何とか会社の社長に代わった程度でしかなかった。
 
 したがってエリツィン時代のロシアは自由であるが、不公正と社会的悪徳がはびこり、新興ブルジョアが反映を謳歌する一方で労働者の生活が極端に悪化した時代であった。
 
 人々の怨嗟のなかでやがてエリツィンが退場し、代わってプーチンが大統領になったが、プーチン自身はオルガリヒであるとともにシロビキ(KGB人脈)である。
 
 そのプーチンは自らの対抗勢力のオルガリヒを治安機関(税務署と検察)を使ってつぎつぎと駆逐していき、エネルギーと資源の独占をめざした。
 
 昨年の石油財閥ユーコスに見られるように、石油財閥ユーコスに難癖をつけて莫大な課徴金をかけて、支払い能力がないことを理由に石油財閥そのものを解体して一部を国家資本に組み入れ、一部を自分の財閥に組み入れている。
 
 このプーチンが競争相手を打ち負かす過程は同時に、政治においてプーチンが反対勢力を一掃する過程としてあらわれている。
 
 特にリトビネンコ氏のパトロンであるペレゾフスキー氏はマスコミを牛耳ることによりエリツィン政権下では大きな権力を持っていたが、プーチン政権になるとテレビ局の免許を取り上げられ、国有財産の窃盗と詐欺、脱税の容疑をかけられて逮捕され、保釈後にイギリスに政治亡命した。(エリツイン政権自体が国有財産の横領と詐欺、窃盗、脱税の結果として存在しているのだから現在のロシアの権力者でこの件について無罪を主張できるものは誰もいない。)
 
 欧米のマスコミはこの過程をプーチンの独裁政権と民主主義の闘いとしてとらえているが、実際にはロシアの政治は共産党の独裁からエリツィンの独裁(ブルジョアの寡頭支配)へと移行し、プーチン政権の誕生とともにブルジョアの寡頭支配がさらに進行して、敗北するブルジョアと勝利するブルジョアに分解していき、プーチンの独裁へと移行したのである。
 
 この敗北したブルジョアと勝利したブルジョアの差異はほとんどないが、一方はロシアで何一つ不自由のない快適な生活を送り、他方は亡命生活を余儀なくされるという天と地の違いが生じており、これは「元KGB」も同じである。勝ち馬に乗った「元KGB」はロシア連邦保安局(FSB)の幹部にまでも登りつめることも可能であろうが、負け馬に乗った「元KGB」はロシアマフィアにまで身を落としたり、雇われ殺し屋として日銭を稼いでいるものまでいる。
 
 このようにもともと同じものが、資本主義的な競争戦の結果として、まったく正反対のものになっているという現実は誰が犯人であってもおかしくないというという推理小説の世界を生み出している。
 
 イギリスはシャーロック・ホームズとポアロの土地だから、ここで21世紀の名探偵は出るだろうか?
 

日本共産党は大丈夫か?

2006-12-06 01:31:34 | 政治
 日本共産党のベネズエラのチャベツ大統領への思い入れの深さは相当なものだ。
 
 『赤旗」は、この急進民族主義的で独裁的な政権に対する無条件な賛美の記事であふれている。
 
 しかし、70年代の世界インフレのなかで一次産品の高騰により潤ってきた開発途上国は、80年代には世界的な不況による一次産品の需要低下がもたらした価格の下落とインフレを防止するための高金利により累積債務問題が深刻化して、90年代には開発途上国は財政破綻による政情不安の時代を迎えた。
 
 現在、開発途上国の状態が明るく見えるのは、ここ5年あまり続いた世界的な景気の上昇による一次産品の価格の上昇であり、これが開発途上国に大幅な貿易黒字をもたらしているからである。
 
 この開発途上国にもたらされた世界経済繁栄の恩恵が、開発途上国に政策の自由度を広げさせており、前途を希望に満ちたものにさせている。
 
 少し前まで貧困と経済の荒廃にあえいでいたアフリカでさえも、現在では一次産品の価格上昇と数量の増加により多額の貿易黒字を稼いでおり、かつての危機がどこかへ行ってしまったような感がある。
 
 しかし、いいことはあまり長く続かないのが資本主義の常であり、世界経済はすでにピークアウトして、経済は停滞局面に向かっている。
 
 したがって、70年代、80年代、90年代に世界経済が経験したことは、再び起こりうるのであり、それは資本主義が資本主義であるかぎり避けられないものである。(ちなみに現在では、開発途上国の債務総額はすでに3兆ドルを越えている)
 
 そして世界的な景気の後退局面で一次産品の価格が暴落する時、ベネズエラのチャベツ政権は、その真の姿を世界にさらけ出すであろうが、それは日本共産党にとっても大きな危機の時になるであろう。
 
 その時、日本共産党はその危機に耐えられるだろうか?
 
 共産党の真価がためされる時である。

はじまった「戦略的対峙の時代」

2006-11-29 01:42:09 | 政治
 自分のホームページを草ぼうぼうにさせて、何をやっているのかというお怒りの方も見えると思いますが、現在の政治情勢から言えば仕方のない面もあります。
 
 われわれが2004年の10月にマルクス主義同志会を追放された時、われわれは純然たるマルクス主義の研究会になろうと思い、思いっきりローカルな“赤星村のマルクス研究会”を名乗ることにしました。(家の近くの赤星小学校もホームページを運営しており、まぎらわしい、誤解を受けるという苦情がありますが、あちらは赤星=あかほし小学校でこちらは赤星=セキセイマルクス研究会という区別をつけることにしましたので、くれぐれも誤解がないように、われわれは名古屋市立赤星小学校とは絶対に何の関係もありません。)
 
 しかし、『時告鳥』という林紘義氏の混乱した経済学を批判する論文を載せた雑誌を何号か出すうちに、ホームページを開いて多くの人に読んでもらおうと思い立ち、その準備を始めました。
 
 そして2005年の6月の終わりにホームページを立ち上げたとき、われわれは単なるマルクス主義研究会にとどまることができない何かを感じました。期待というにはあまりにもか細い声でしたが、われわれをはげまし勇気づけてくれる声は風にかき消されながらもかすかにわれわれの耳に届いていたのです。
 
 そしてわれわれはその声に導かれて政治的な発言を少しずつ増やしていきました。
 
 しかし労働者の政治状況はすでに大きく変化しています。
 
 時代は、毛沢東風に言えば、「戦略的後退期」から「戦略的対峙期」へと大きく移行しつつあります。
 
 われわれが「戦略的後退期」というのは、ベルリンの壁の崩壊や1990年のソ連邦の崩壊とともに始まった世界的なマルクス主義の退潮期のことで、この退潮期を象徴するのが、絶望したマルクス主義者=林紘義氏の登場でした。
 
 これはマルクス主義同志会に限ったことではないのですが、この退潮期に小ブル急進派の一部や日和見主義者は退廃を深め、純然たる社会民主主義者へと退化していきました。
 
 この長く続く続いた労働運動の後退戦と左翼勢力の減衰傾向に歯止めがかかりはじめたのが、去年(2006年)の夏あたりからで、それはちょうどわれわれ赤星マルクス研究会が「もうたくさんだ!われわれはもう後退しないぞ!」という雄叫びとともに政治的な活動を開始した頃でした。
 
 しかし日本にとっての不幸は、この「戦略的後退期」から「戦略的対峙期」への移行期はちょうど、解散総選挙の時期と重なり、小泉純一郎のペテン政治が大成功を納めた時期と一致しています。
 
 これは当時はいかにも不思議でありましたが、よく考えると不思議でも何でもないことがわかります。人々は小泉純一郎の「改革」という言葉にだけ引き寄せられたにすぎなかったのです。
 
 特に今の若い人たちは、その人生のすべてを「戦略的後退期」ですごし、これまで既存の労働運動と社会主義運動の否定的側面しか見ることができなかったのですから、当然ながら、左翼ではない小泉純一郎の「改革」という言葉に大いに期待をしたのです。
 
 つまり何かが変わってほしいという人々の願いが、小泉純一郎の「改革」という言葉に引き寄せられ、日本の政治の奇跡を生み出したのです。
 
 しかしこの小泉純一郎の“改革”幻想も急速に衰えており、小泉政権が結果として安倍晋三ファシスト政権の誕生に寄与したということ自体、小泉純一郎の運動が何の展望もなかった運動であったことがわかります。
 
 もちろん、労働者は安倍晋三政権がファシスト政権であるからといって、何も恐れる必要はありません。なぜならこの政権にはファシズム特有の強権政治、独裁政治に移行するだけの政治的な力量がないからです。せいぜいファシストごっこをやって自画自賛するしか能がない連中が寄り集まって政権を作っているのですから彼らにできることにはかぎりがあると言わざるをえません。
 
 そして「戦略的対峙期」についてですが、これが次の時代の「戦略的攻勢期」と区別されるのは、労働者階級が攻勢に出るだけの力量をまだ獲得していない、攻勢に出て勝利しうるまで情勢が成熟していないという点です。
 
 特に現在はわれわれは単に下げ止まっただけであり、小さな戦闘には勝利するかも知れないが、大きな戦闘に勝利するだけの力量はまだないということです。
 
 ですから、中国の抗日戦争でも、「戦略的対峙」の時期というのは、八路軍が奥地や僻地に引きこもって日本軍国主義から逃げ回り、自分たちの戦闘力を保持、蓄積するとともに、日本軍国主義に小さなゲリラ戦を仕掛けてその勢力を消耗させるという時期に相当します。
 
 もちろん高度に発達した日本資本主義のもとでは、ゲリラ闘争を展開するというのは現実的ではありませんし、われわれが立てこもるべき山岳地帯もありません。そもそも生まれついての都会人であるわれわれには、山のなかで生存する能力すらないのですから、おまり非現実的なことは考えない方がいいと思います。
 
 ではゲリラ戦が不可能であれば、われわれはいかにして「戦略的対峙」を闘うべきでしょうか。これは難しい問題です。ただ敵から逃げ回っているだけでは「対峙」になりませんから、どこかで敵に切り返すという場面もなければなりません。
 
 それでわれわれが選んでいるのは、言論を武器にして、ヒット・エンド・ランを繰り返す。すなわち、日常的な政治暴露、経済暴露を通じて、ブルジョアの陣営に論戦を挑むということです。
 
 もちろんこういう闘い方は弊害もあります。というのは、われわれは人数が少ないからできることにはかぎりがあり、日常の政治暴露に時間を費やせば、ほかのことに時間を割くことが難しくなるということがそれです。
 
 しかし現時点では、①ホームページを草ぼうぼうにするのを選ぶのか、②日常の政治暴露を選ぶのか、③『時告鳥』の発行を急ぐのか、どれを選ぶのかといわれれば、やはり②を選択するとしか言えません。
 
 そんなわれわれに「荒唐無稽」、「身の程知らず」、等々の非難の声を聞きますが、もしわれわれが「身の丈にあった闘い」に徹するとしたら、われわれは再び「赤星村のマルクス研究会」に戻らなければなりません。
 
 少なくともわれわれは、そうであってはならないというところから出発している以上、そこにはもう戻れませんし、戻りません。
 
 「戦略的対峙」の時代は始まったばかりです。まだ多くの人々が「戦略的後退期」の気分を引きずっており、われわれの基盤は固まっていません。ですからしばらくはわれわれは「ヒット・エンド・ラン」を続ける必要があると思います。
 
 

極左盲動化するブルジョアマスコミ

2006-11-28 18:58:04 | 政治
 普段は貧乏人など見たこともないという態度をとっている尊大なブルジョアマスコミがどういうわけか最近は極左化して、国民を飢えさせる政府は打倒してもいいし、国民を飢えさせる国家元首などギロチン台にかけて首をはねろと絶叫している。
 
 こういうアジ演説はいかにも扇情的で、危ういものがある。
 
 ブルジョア・マスコミはこれは北朝鮮政府と金正日に限定された話であるというが、もちろんこれは一般的な事がらであり、そのように限定しなければならない根拠は何もない。
 
 たとえば『赤旗』紙が最近伝えるところによると、アメリカのニューヨーク市では、貧困が広がっており、6人に1人が十分な食料に事欠く状態であるという。
 
 「飢餓に対抗するニューヨーク市民連合」のジョエル・バーグ事務局長は、「株価が急騰し、億万長者の数が倍増した年に、多くの子どもを含む、130万人のニューヨーカーには食料がなかったことは不合理である」と訴えている。
 
 極左盲動化したブルジョア・マスコミの論理によれば、国民を飢えさせているアメリカ合衆国政府は貧乏人によって打倒されるべきであるし、ブッシュ大統領はギロチン台にかけられなければならないであろう。
 
 同じことは日本についても言える。貧しい人が残飯をあさっているときに、内閣総理大臣である安倍晋三は何を食べているのか!家のない人が寒風の中で路上の段ボールに横たわってふるえているときに、内閣総理大臣である安倍晋三はどこで寝ているのか!
 
 もし、国民を飢えさせる政府は国民によって打倒されるのは当然であり、国民を飢えさせる国家元首をギロチン台にかけて首をはねてもよいのであれば、ブルジョア・マスコミは日本国政府もまた貧乏人によって打倒されるべきであり、安倍晋三や平成天皇をギロチン台で首をはねろということを主張すべきであろう。
 
 もちろんわれわれは前後左右のみさかいのないブルジョア・マスコミとはちがう方法でこの問題に接近するであろうが、彼らが世界経済の繁栄の裏で、どこの国にも貧困と飢餓が広がりつつあるという憂うべき今日の世界の現状に目を向けさせたという点は評価できることである。
 

教育再生会議は存在自体が教育破壊的

2006-11-28 13:06:50 | 政治
 教育において20世紀は「子どもたちの世紀」といわれたが、どうやら21世紀は「子どもたち受難の世紀」となりそうだ。
 
 教育再生会議は現在のいじめ問題が深刻化しているなかで、その対応策として「弾圧」と「報復」というもっとも非教育的で不毛な施策を政府に提言しようとしている。
 
 社会に何かよろしくない出来事が起こるのは悪い人間がいるからで、よろしくない出来事を除去するには悪い人間を弾圧すればよい。これが保守反動派の持ち合わせている唯一の知恵である。
 
 これが教育に適用されれば、いじめを根絶するには「いじめっ子」を根絶すればいいということになり、いじめっ子を根絶するためには彼らを教室から隔離したり罰を与えればいい、という当然な結論が出てくる。
 
 そして、さらにいじめを見て見ぬふりをしている子どもも同罪であるということで、彼らも教室から隔離したり罰を与えればいい、という当然な結論が出てくる
 
 また、いじめを放置している教師も同罪であるということで、彼らもまた教室から隔離したり罰を与えればいい、という当然な結論が出てくる。
 
 その上、いじめの責任は「いじめっ子」の親にもあるということで、親もまた応分の責任をとらせる必要があるということになる。
 
 そうであるならば、いっそのこと「いじめ強制収容所」でもつくって、いじめ関係者を全員そこに閉じこめればいいではないか。
 
 しかし、そこで社会的大問題が起こる。もしそんなことをしたら、学校には「いじめられっ子」しか残らないことになるが、一体誰が「いじめられっ子」を教育するというのか?という問題がそれである。
 
 いじめ問題について、大きな誤解があるのは、どこかのチンピラが“よい子”をおどしたり、カツアゲしているのではないということである。
 
 そうではなくて、“普通の子”が“普通の子”をいじめているのである。そしてその大きな原因は子どもたちのなかで健全な社会性が育っていないということにある。
 
 だから、「いじめっ子」も「いじめられっ子」もともに教育が必要なのであって、この場合の教育というのは、学校を強制収容所に変えることによって、子どもたちを大人たちの奴隷とし、弾圧と力の支配によって子どもたちに忍耐と服従を強いることではなく、人と人はなぜ助け合わなければならないのかということを子どもたちに理解させることなのである。
 
 現在の日本の教育に大きな問題があるのは、教育の本来の機能である、次の時代の社会の主人公である子どもたちを健全に育成することに失敗していることである。したがって教育の再生ということをいうのであれば、民主社会における主権者をどのように育成していくのかが、まず問われなければならないであろう。
 
 子どもたちの首に鎖をつけて、奴隷におとしめてやれば、反抗はしないであろうなどというのは、何の解決にもならないであろう。
 
 エライ先生サマが集まってこんなくだらないことしか言えないとしたら、教育再生会議の存在そのものが無用であろう。税金のムダ使いだ即刻解散しろ!
 
  

被害者が生存しているという根拠

2006-11-25 19:42:52 | 政治
 ある人が北朝鮮にいた拉致被害者は全員死んでいる。
 
 生きているというのであればその根拠を示してほしいといわれました。
 
 本来ならこういう質問は無視したいと思っていましたが、何度も言われるのでやはり答えなければならない質問であると思いました。
 
 この質問に対するわれわれの解答は簡単なもので、「拉致被害者の生死は分からない」というのが答えです。
 
 拉致被害者の死亡が全員確認されれば、それは生存確率ゼロということで全員死んでいるという根拠になります。
 
 しかしそうでなければ、生存確率はゼロではありませんので、そういうこと自体が被害者が生存しているという根拠になりませんか?
 
 つまり、数学的には、生存確率がゼロであるという証明が誰によってもなされていない以上、生存確率がゼロではない確率は無限大にあるというほかありません。
 
 拉致被害者は全員死んでしまったという人はその根拠として「北朝鮮政府がそのように言っているから」ということを根拠にしています。
 
 しかし北朝鮮政府はそのように言いながら、信頼に足りうる証拠を提出していないために、拉致被害者は全員死んでしまったという証明にはなってはいないのです。
 
 このようにいうと「ある人」は言います。「そんなに朝鮮人が信用できないのか」と。
 
 これはどういうことでしょうか?日本は、安倍晋三というバカなファシストが首相をしていて、毎日、ウソばっかりこいています。このことから他の国の労働者が、日本人はウソつき信用できないという結論を出すのであれば、日本の労働者は言わなければなりません。
 
 階級的な政府とその政府に支配されている労働者階級を区別しないのは、排外主義的な民族主義であり、労働者階級はそのような狭い民族主義を受け入れることはできない、と。
 
 日本の労働者階級は支配され抑圧されている階級として他の国の労働者階級と共通の利害関係を持っており、われわれはアメリカの労働者も、ロシアの労働者階級も、中国の労働者階級も、北朝鮮の労働者階級も、全世界の労働者階級も、ともに闘う仲間であり、同志であると考えています。
 
 ですから、われわれが北朝鮮政府の言うことは信用できないというのは、彼らが朝鮮人であるからではなく、彼らが北朝鮮の労働者階級を搾取し、抑圧し、闘う労働者を弾圧しているからにほかなりません。そのへんのところを誤解なきように。