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労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

世の中がおもしろくなってきた

2006-11-22 02:19:18 | 政治
 われわれのブログに対して「デタラメだ!」と叫ぶ諸君が増えてきた。
 
 大いに結構、これこそわれわれが望んでいた道だ!
 
 最初は、「日本が世界から孤立化して破滅の道を歩んでいる」というわれわれの主張に対してである。「デタラメだ!」このようにいう者に対してわれわれはなんと言えばいいのだろうか?
 
 われわれが「日本は世界から孤立化して破滅する道を歩んでいる」とつねづね言っているので本当にそのようになってしまったと考えているのであれば、そういう人の思考過程はどこかおかしいのである。
 
 ちょうど「火事だ」と叫ぶ者がいるから火事が起こり、「人殺し」と叫ぶ者がいるから殺人事件が起こると言っているようなもので、こういう人は哲学的に何か大きな誤解をしているとしか言いようがない。
 
 われわれがいうことが本当にデタラメだと思うのであれば、「バカな奴がバカなことを言っている」とほっておけばいいのである。
 
 むしろ逆であろう。われわれの言うことが「デタラメだ」とばかりは言い切れないようなことが、次から次へと起こっているから、とりあえず、われわれに対して「デタラメだ」と言って、自分自身を納得させようとしているにすぎないのではありませんか。
 
 この場合に、この人は現実に背を向けているのであって、現実に背を向けている人にできることはせいぜい妄想の世界に閉じこもることができるだけである。カイコのように自分で生み出した妄想の繭(まゆ)の中で惰眠をむさぼりたいというのであれば、われわれは止めません、どうぞご自由に。ただし、つぎにあなたが目を覚ますときに、季節が冬であれば、あなたが凍死する確率は限りなく100%に近いと言うことだけは忠告しておきます。
 
 この次の「デタラメだ!」という人は悲劇的な人で、「本当の悲劇は喜劇そのものである」という言葉をそのまま実践している人です。
 
 彼は、われわれがもと所属していたマルクス主義同志会の関係者で、彼は現在のマルクス主義同志会とは何かということを、身をもって労働者に示してくれる人です。
 
 情けないことに、現在のマルクス主義同志会は、われわれ赤星マルクス研究会を誹謗中傷するためにのみ存在しているだけです。
 
 いいですか、われわれ赤星マルクス研究会は、マルクス主義同志会の諸君たちに、諸君たちは完全にマルクス主義から脱落してしまったのだから、諸君たちに関わることは時間のムダだと言っているのですよ。そして諸君たちがなぜマルクス主義から脱落しているのかという点についても、詳細に語っている。
 
 そんなわれわれに、マルクス主義同志会の諸君たちが、「デタラメだ!」とか「○○は××だ」としか言えないとしたら、諸君たちはわれわれとの理論闘争に完全に敗北していると言うことですよ。
 
 考えても見なさいよ。「サービス産業で働く労働者は売春婦と同じだ」というのは、林紘義の価値妄想教から直接的に出てくる結論じゃないですか。
 
 いいですか、林紘義の価値妄想教は、価値、もしくは貨幣、もしくは貴金属としての金を、神としてあがめる宗教なのですよ。そしてこのような宗教教義からは「価値をつくる労働のみが神聖である」という当然の結論が出てくるのであって、この観点からすれば、価値をつくらない労働、すなわち、サービス産業などの労働は卑しくて堕落した労働なんですよ。林紘義はこの「卑しくて堕落した労働」を「売春婦の労働」と呼んでいるのです。
 
 そして林紘義はこういう言い方で、「価値をつくる労働」、すなわち、「商品を作る労働」を神秘化して、商品生産(資本主義的生産)を永遠化しようとしているんですよ。
 
 われわれが理解できないのは、マルクス主義同志会の諸君たちが、自分たちの主張を自分たちで認めることができない、むしろ、懸命になってそれを否定しているという世にも不思議な現象です。われわれがこういうことは理解できないというのだから、マルクス主義同志会の諸君のこういう態度はおそらく世の中の人みんな理解できませんよ。
 
 自分たちの所属しているカルト教団の教義すら理解できない教団員しかいないカルト教団は、実際には、宗教団体でもなくて、単なる愚か者の群れ、社会の笑い者集団にすぎないのです。ちがいますか?
 
 そして、われわれがこういうくだらない連中は、もう相手にしないというのは当然すぎるほど当然なことではないでしょうか?
 
 こういう連中がことあるごとに、「デタラメだ!」とか「○○は××だ」とわれわれに誹謗中傷を浴びせかけるのは、われわれにライスシャワーやフラワーシャワーが投げかけられるようなものです。
 
 われわれとしては、われわれの前途を祝福していただいてどうもありがとうとしか言えません。
 

闘い方が悪かったのかも?

2006-11-20 01:33:36 | 政治
 注目の沖縄県知事選挙が終わった。
 
 結果はわれわれの予測に反して、野党候補が敗退した。
 
 久しぶりに民主、社民、共産の野党統一候補での選挙をやり、それで負けたのだから、なぜ負けたのかという総括はきちんとする必要があるし、われわれ赤星マルクス研究会にしてもこの選挙は野党候補が勝つと予測していたのであったのだから、なぜ予測通りにはいかなかったのかをきちんと説明する義務がある。
 
 われわれの失敗としてはこの選挙を単に党派闘争としてのみ見ていたことである。
 
 しかし、自民党は最初から、この選挙を党派闘争として闘うつもりはなかった。(もちろん、無党派主義自体が一つの党派主義であることはいうまでもないことだが、)
 
 そしてこれがこの選挙の一つの勝敗の分かれ目になっていた。
 
 つまり、党派闘争として知事選を闘おうとした野党と党派闘争として闘うつもりのない与党の知事選に対する態度の差が、選挙結果となって現れたのである。
 
 大票田である那覇市の有権者たちは、横暴な安倍晋三ファシスト政権反対、教育基本法の強行採決反対、米軍基地の再編反対、といった政治的なテーマではなく、沖縄における失業率の高さの改善、沈滞する地域経済の立て直し、産業誘致といった現実的なテーマで投票する候補者を選定したのである。
 
 もちろん与党候補者の産業誘致やら、地域経済立て直しによる雇用状況の改善といったものが、どの程度現実的なものであるのかははなはだ疑問なのだが、少なくとも沖縄の都市部の有権者たちがそのような主張をする候補に投票しようという誘惑にかられたことは、総じて、彼らの雇用状況、生活状況が劣悪であり、政治によって何とかしてほしいという願いのあらわれであった。
 
 つまり「背に腹は代えられない」という情況を野党候補が打ち破れなかったのだが、今回の選挙を見るかぎり、「打ち破れなかった」というよりも、むしろ、打ち破る方策自体を野党候補は採用しえなかったというべきであろう。
 
 実際、相手候補に抵抗して、野党候補者が私も工業団地を造って雇用促進をやります、などといえば、沖縄の自然を守れ、乱開発反対という意見が仲間うちからでてくるであろうし、逆に、資本主義の矛盾を改良政策によって解決しようとすること自体が幻想だなどといえば、選挙協力の解消を求める政党が続出するであろう。(もっとも「資本主義の矛盾を改良政策によって解決しようとすること自体が幻想だ」などという党派はわれわれ赤星マルクス研究会だけで、われわれが選挙に参加するなら、迷うことなく野党統一候補の側ではなく、「諸派その2」の道を選択したであろう。)
 
 そういう点からするなら、今回の沖縄選挙は、地方自治体の首長を選ぶ選挙を国政選挙のように党派闘争そのものとして闘うことはどうなのか?また野党の「統一戦線」のあり方はどうあるべきか?という、今後の選挙闘争のあり方を考える上で有意義な闘いであったと思う。もちろん有意義といえるためには「負けた軍隊はよく学ぶ」という鉄則を生かさなければならないのはいうまでもないことであろう。
 
 そして、安倍晋三ファシスト政権との「政治決戦」が回避され、先延ばしにされたことは、参議院選挙を安倍晋三政権の墓場にしてやろうというわれわれの基本的な戦略にいささかの変更もない。
 
 むしろここで自民党内で安倍晋三政権の指導力に「?」マークがつくことによって、自民党内がゴタゴタするよりも、安倍晋三政権が無傷のまま参議院選挙に突入する方が自民党の痛手は大きいのだからわれわれとしては歓迎すべきことである。   

マルクス主義者はいかにして教育されるか

2006-11-18 01:16:00 | 政治
 自民党の保守反動派は大きな勘違いをしている。
 
 人間は教育の産物なのだから、マルクス主義者はマルクス主義教育によって生産されたのではないかというのがそれである。
 
 この誤った考えから、マルクス主義を滅ぼすためには、マルクス主義教育(と彼らが考えているもの)を滅ぼさなければならないという彼らのもう一つの誤った主張が出てくる。
 
 そして、彼らがマルクス主義教育と考えているものは、日教組であり、全教といった教育労働運動なのである。
 
 もちろん彼らは日教組の実態や全教の実態を知っているわけではなく、たんに頭の中で妄想的にふくらんだ被害妄想が現実とはまったく異なる幻影を彼らの頭の中に映し出しているにすぎない。
 
 そしてここからマルクス主義を滅ぼすためには、日教組と全教を滅ぼさなければならないという、荒唐無稽な右翼の共通認識が生み出され、それをファシスト政権である安倍晋三政権も共有しているのである。
 
 つまり、彼らは階級闘争が存在するのは、マルクス主義者が存在するからであり、マルクス主義者が存在するのは、日教組と全教という教育労働運動が存在するからであるという見解をもとに、階級闘争を滅ぼすために、日教組と全教を滅ぼそうというのである。
 
 だから安倍晋三ファシスト政権の教育改革には、このような隠された意図も当然存在するのである。
 
 もちろん中には、「マルクス主義教育」によって生産された「マルクス主義者」もいないわけではない。
 
 たとえば、「宇野理論」の創設者である宇野広蔵や、「労働価値学説」の創設者である林紘義がそうである。彼らの理論の裏にはちゃんと“メイド・イン・東京大学”のシールが貼ってある。
 
 長い間、官学の拠点であったこの学校は、すべてをぎこちないドイツ風の講壇風に変えなければ気がすまず、「マルクス主義」さえ、講壇風の社会主義に変えてしまった。
 
 だから彼らは「マルクス主義者」を自称はしているが、彼らの堅苦しく陰気な文章の裏には、つねにリカード、アダム・スミス、プルードン、ベルンシュタイン、といったブルジョア経済学者や小ブルジョア社会主義者、修正主義者が隠れており、マルクスの名前で資本主義を擁護することこそが彼らの本当の仕事であるし、それこそが官学の意味なのである。
 
 これに対して本当のマルクス主義者は資本主義の矛盾そのものから生まれてくるのである。資本主義の矛盾が労働者や青年に闘争の必要性を感じさせ、闘争の必要性が革命的理論の必要性を生み出すのである。
 
 そして人は必要なものは努力して獲得する能力を持っているのだから、マルクス主義者になろうと決意した彼はほどなくマルクス主義者になるのである。
 
 つまりマルクス主義者は自分で自分を教育するのであり、圧政と横暴がはびこり、多くの人が虐げられている社会では、マルクス主義者は社会のどこからでもわいてくるのである。
 
 それはちょうど、19世紀と20世紀の変わり目の広大なロシア帝国で、相互の連関なく、どこからともなくボルシェヴィキの革命家たちが続々とわき出てきたように、圧政と横暴がはびこり、多くの人が虐げられている社会そのものが彼らを生み出したのである。
 
 変革を要する社会では、社会自身が変革者を生み出すのである。
 
 その点では、教育を支配することによって社会を支配しようとするファシスト政権は彼らの願望とはまったく正反対のことしかできないであろう。 

差別といかに闘うか?

2006-11-14 14:11:25 | 政治
 ブログの中でも、赤星マルクス研究会は差別的と指摘され、自己批判したばかりなので、こういうテーマはわれわれにふさわしくないのかも知れないが、重要なことなので、あえて書きます。
 
 われわれは少し前に、婉曲(えんきょく)に、解放同盟は、現在の闘い方をあらためる必要があるのではないかと主張しましたが、どうも分かっていただけないようなので、今度は直接的に言います。
 
 解放同盟の幹部いうように一部の問題分子が“エセ”なのではなく、同和事業そのものが“エセ”なのではないかというのが、われわれの率直な見解です。
 
 われわれだけではなく一部の“善意の人々”が同和事業はもうやめる時期に来ている、解放同盟は運動の原点に立ち返るべきだというのは、解放同盟の将来を思うがゆえの建設的な意見です。解放同盟はこういう“善意の人々”の声にきちんと耳を傾ける必要があるのではないかというのがわれわれの基本的見解です。
 
 差別されているがゆえに、貧乏であり、貧乏であるがゆえに、差別されている、したがって政府なり地方公共団体に、貧乏から脱却するための何らかの経済的な施策を要求することによって、差別から脱却しようというのは差別反対運動の正しいあり方ではありません。
 
 言うまでもないことですが、日本にはなんら特別な理由がないのに、ホームレスの生活を強いられたり、貧困の底であえいでいる人々が何百万人もいます。解放同盟はこういう人々になんというつもりなのですか?自分たちは特定の理由で貧困であるがゆえに、政府によって救済される権利があるが、諸君たちはこれといった理由がないのに貧困に陥ってしまったのだから、それは自己責任だ、したがって諸君たちには、政府に貧困からの救済を求める権利はない、などと言うつもりですか。それこそ差別というものではないですか?
 
 現在日本で進行している事態は、労働者階級の生活の全般的な劣悪化であり、その最弱の部分がすでに最低限以下の生活に押し込められてしまっていることです。こういう情況は労働者がそれぞれの立場を越えて団結し、闘いに立ち上がることによってしか解決の道はありえません。
 
 そしてわれわれ赤星マルクス研究会は、労働者のための組織なのだから、労働者の団結が促進されることを念願し、労働者の団結を阻害するものを容認できません。だから一部の人々の特権的な利益や権益を擁護、代弁する見解は絶対に受け入れることはできないのです。
 
 確かにいろいろな差別、女性差別や人種差別、民族差別、宗教差別等々が貧困と結びついている例はありますが、これは資本の支配と不可分に結びついているからではないですか。
 
 たとえば、男女平等がこれほどやかましく言われているのに、不正規雇用の大半が女性であり、女性の平均賃金が男性の60%にしかすぎないのは、資本、つまり雇用者がグルになって女性差別を利用しており、女性差別を利用価値のあるものとして温存しているからでしょう。
 
 つまり、労働者の賃金を最低限に押さえつけようという資本の論理があり、日本はそれが優先される社会だから、資本によってあれやこれやの差別が利用され温存されているのです。だとしたらここで問題になっているのは人為的に貧困を作り出すことによって、利潤を増やそうとする資本の論理そのものではないですか。
 
 そしてこのような経済的困窮と差別が分かちがたく結びついている問題は、資本主義的生産様式の廃棄によってのみ克服可能であるがゆえに、われわれは長い間、差別に反対する運動と社会主義が結びつく必要があることを訴え続けてきました。
 
 もちろん差別に反対する闘いは基本的に(自由・平等・博愛という)ブルジョア民主主義の課題であって、社会主義運動に解消されるものではありません。ですから、運動の独自性は保持されるべきであるし、差別に反対する闘いをそのものとして取り組むことも当然ありうると思います。
 
 だから、われわれは解放同盟や女性解放運動家や黒人解放運動家やもろもろの“正義の人々”が、独自の運動を展開したり、差別の撤廃を社会に求めたり、必要とあればそのために政府や地方公共団体に財政支出を要求することの必要性も認めてきました。
 
 また、そんなに社会正義を望むなら、赤星マルクス研究会に入って、世界社会主義の勝利のために活動せよ、などという紋切り型の主張もしていません。
 
 われわれマルクス主義者は、差別に反対する運動と社会主義が結びつきを機械的に解釈したり、差別に反対する運動は社会主義運動に従属すべきものと考えたり、社会主義運動の下請け機関とも考えてはいません。(他の左翼政党のことはわれわれとは関係がありませんので知りません)
 
 われわれ赤星マルクス研究会は、差別に反対する運動と社会主義運動は、その根底において資本の支配に反対せざるをえないという共通の利害関係を持っているからこそ、両者の友好的な関係を維持すべきだと考えています。だからこそ、こうして言いたくないこともあえて言っているわけです。
 
 ヒスパニックに対する差別反対のポスターを印刷して街々に張り出すことを要求し、そのための財政支出を国や地方公共団体に要求することと、ヒスパニック差別反対のポスターを印刷するためにヒスパニック用の印刷所を作ってヒスパニックを雇用せよと要求することはまったく違うことです。この区別しなければならない事がらを、同じであると考え、混同することから、現在、全国各地で“エセ”騒動が起こっているのではないですか。
 
 地区の生活環境が劣悪であり、それは不当な差別の歴史に基づくものであっても、それは基本的に地方行政や国の行政の問題でしょう。家の前の道がでこぼこであれば、日本国民なり市民として、町なり市当局に対して、はやく何とかしろと言えばいいのであって、差別の問題と切り離して考える必要があるのではないですか。町なり市当局がその地区が特定の地区であることを理由にして生活環境の改善を拒めばそれこそ、それは差別であって、そのような差別に対しては断固として闘えばいいだけの話です。
 
 正さなければならないのは何であるのかは、もうはっきりとしていると思います。
 
 
        

安倍晋三政権は拉致問題解決の道筋を示せ

2006-11-11 22:13:54 | 政治
 拉致問題に関する安倍晋三政権の対応は何をやっているのか、何がやりたいのか、まったくわからない。
 
 連日のように、マスコミを通じて、拉致問題が報じられる。
 
 しかし、それで安倍晋三政権はどうしたいのか、どうするつもりなのかという、先が見えてこない。
 
 まさか、安倍晋三政権は北朝鮮という国は拉致という許しがたい犯罪を犯している国だから、宣戦布告して撃滅する必要があると考えているのであろうか?
 
 もしそうであるのなら、日本国民に対して、戦争の可能性について率直に語るべきであろうし、自衛隊とその家族に対しては戦闘により命を失う可能性があると言うことをきちんと説明し了解をえるべきであろう。
 
 この問題について、拉致問題担当の中山は「拉致被害者全員を日本に返すようにきびしく要求しています」などといっている。
 
 ウソだ!安倍晋三政権と中山は卑劣なデマを飛ばして日本国民を欺いている!
 
 われわれが言っていることがウソでないというのであれば、安倍晋三政権とくに中山は内閣の拉致担当なのだから、日本国政府は北朝鮮政府といつどこでそのような交渉をやっているのかをはっきりさせるべきであろう。
 
 この問題に対する、北朝鮮政府の態度は明白だ。拉致問題はすでに終わっている、この問題について日本政府と話し合うことは何もない。また日本政府は一方的に経済制裁を科したのだから、そのような国に対して交渉することも何もない、である。
 
 そして北朝鮮政府は交渉の前提として、経済制裁の解除を要求するだろうが、安倍晋三政権はそれに応じるつもりはないのだから、日本政府と北朝鮮政府の交渉などというのはまったくありえない話なのである。(なお、ついでにいっておけば、実は、現在の北朝鮮政府は経済制裁の解除を要求する必要すら感じていないのである。つまり、北朝鮮政府はすでに日朝間が断交状態であるのであれば、断交状態のままでもいいではないかという立場に完全に移行している。)
 
 したがって、拉致問題の帰趨はまったく明白だ。日本政府が一方的な経済制裁によってすべての窓口を閉ざしてしまったので、この問題は未完のまますべてが終了したのである。
 
 政治問題としても、外交問題としても終わったのであり、残された方法としては、日本の自衛隊が北朝鮮を軍事的に占領して自力で拉致被害者を捜し出すという方法しか残っていない。
 
 そして、安倍晋三政権がこの第三の方法が取りえないとするなら、それは拉致問題の解決がすでに暗礁に乗り上げて座礁したということであり、すべての希望の火が消えたということでしかない。
 
 安倍晋三政権はこのことをはっきりと国民に語るべきだ。安倍晋三政権は自分たちの狂信的な民族主義ゆえに、結果として、拉致被害者たちを見捨てることになってしまった、ということを国民に率直に語るべきであろう。
 
 安倍晋三政権は制裁を圧力として、つまり、誠実に交渉しなければ制裁するという圧力を加えることによって交渉を継続することも可能であったが、問答無用の制裁が先行してしまったために、次に切るカードがなくなってしまったのである。
 
 もちろん、在日朝鮮人の本国への送金停止という方法も残っているが、これは在日朝鮮人の差別であり、その基本的人権を侵害するという重大な問題を含んでいるために、これ自体が大きな国内問題と国際問題になるであろう。
 
 安倍晋三政権が、北朝鮮政府との交渉ではなく、対立を選択したときからこうなることはわかっていた。
 
 安倍晋三政権はその狂信的な民族主義が拉致問題にもたらした結果について、精算しなければならないときが近づいている。中山のようにいいかげんなデマをついて、国民をペテンにかけられるような時期はもうとっくに過ぎている。
  

自民党の国会議員は使い捨て

2006-11-09 00:58:04 | 政治
 前首相であった小泉純一郎氏が、自民党議員を集めた「日本の夢作り道場」で講演し、“小泉チルドレン”を前に、「政治家は使い捨てになる覚悟をしなければならない」と訴えた。
 
 かくして、「日本の夢作り道場」は「政治家の悪夢作り道場」となり、出席者した“小泉チルドレン”たちは凍り付いた。
 
 自由民主党にとって、政治とは人をペテンにかけるもの、人は利用されるために存在するもの、利用価値がなくなればサヨウナラ、というあまりにもあけすけで正直な真実の吐露である。
 
 むしろこういうありがたいお話は、新庄剛志とか萩原欽一とか藤原紀香といった、来年参議院選挙に自民党から立候補がうわさされているバカ者たちを集めて聞かせてやるべきではなかったか?
 
 そして、この小泉純一郎の恐怖の絶縁宣言、“小泉チルドレン”たちにとっては死刑宣告に等しい絶縁宣言が彼らに告げられていた間、そばに座っていた安倍晋三は終始、ニヤニヤと笑っていた。われわれはむしろこの方が背筋が寒くなったが、安倍晋三にとってこれで郵政造反組の復帰問題は決定的になったというところであろう。
 
 正直言って、このような現在の自由民主党にはどのような希望も残されていない。彼ら全体が有権者から見捨てられるのは時間の問題であろう。  

引き返す道はありや?

2006-11-02 04:01:37 | 政治
 月も変わったことだから、ここは冷静にわれわれの思考の跡をふり返ってみよう。
 
 9月にはわれわれは安倍晋三政権が誕生しそうだということで、安倍晋三政権反対のキャンペーンをはってきた。
 
 われわれは安倍晋三をとりまく連中がろくでもない政治ゴロであったことから、安倍晋三政権をファシスト政権もしくは新日本軍国主義政権と規定した。
 
 ファシズムを極端な国家主義(国家社会主義)と規定すれば、それはその通りであろう。しかし、ファシズムにはもう一つの契機、すなわちブルジョア民主主義を専制的な暴力支配に置き換えるという側面があり、この点では安倍晋三政権は力量不足でそれを行うだけの政治的実力はないと判断した。
 
 それで、われわれは安倍晋三政権は中途半端なファシスト政権、もしくは自民党の各派閥の均衡の上に成り立つ反動的政権であると考えた。
 
 そして、外交問題では、北東アジアにファシスト政権が誕生することは、その実態はともあれ、世界の平和にとって大きな不安定要因であると考えた。
 
 われわれの危惧は政権発足直後に、北朝鮮の地下核実験実施という予想外の出来事に対する対応で、表面化した。
 
 安倍晋三政権はすぐさま、日本と北朝鮮の間の人と物の遮断に乗り出し、事実上、日本と北朝鮮の関係は途絶した。
 
 そしてアメリカ政府とともに国連安保理で北朝鮮の制裁決議の制定に乗り出し、それは全会一致で採択された。
 
 この国連安保理の北朝鮮制裁決議は41条の非軍事的措置に限定するとはされていたが、同時に「貨物検査」の実施を容認しており、アメリカが想定しているような公海上での強行乗船、強行検査という事態になれば、北朝鮮と「臨検」実施国との間の軍事衝突が懸念されることになるのでわれわれはこの点を中心に批判してきた。
 
 ところが、アメリカは途中で、方針を変更した。アメリカは公海上での「臨検」は“当分の間”実施しないことになった。
 
 このあたりから舞台は大きく回り始める。
 
 アメリカが北朝鮮との軍事衝突を避け、中国と連携して北朝鮮に圧力を加える方策を選択することによって、6ヶ国会議再開の条件が生まれ、それは10月31日に劇的に発表された。
 
 そこで問題となるのが、安倍晋三政権がこの間、北朝鮮に対してとってきた政策である。安倍晋三政権は、基本的に、北朝鮮に圧力をかけて、北朝鮮政府を瓦解させることを目的としてきた。そのために、アメリカをけしかけ「臨検」を実施させようとし、アメリカと北朝鮮の軍事衝突を誘発しようとしてきた。
 
 これは二つの点で大きな問題がある。一つはいうまでもなく、国際紛争を平和的に解決するという日本政府のこれまでの政策を180度転換させるものであるし、軍事的にであれ、非軍事的にであれ、他国の政府を転覆させてやろうという政権はこれまでに一つもなかったことである。第2には、アメリカを挑発して、アメリカに北朝鮮との戦争をやらせようとしたことである。
 
 第2の点については、われわれはこういうことはアメリカ国民の恨みと不信感を買うからやめろ、という警告を北朝鮮のミサイル発射実験のときに警告したにもかかわらず、それは行われた。
 
 そればかりか、この間、政府の要人達は、たびたび「核武装論議」なるバカげたものをやって、むしろ世界の不信感とひんしゅくを買ってきた。そして極めつけは安倍晋三による憲法第9条改正発言である。
 
 これを客観的に見れば何を血迷っているのか、という話になるが、むしろこういったことすべては国内向けに行われているのである。
 
 つまり、一方において連日のように排外主義と「北朝鮮討つべし」を煽るマスメディアがあり、他方においてそれに踊らされている人々がいる。この中で安倍晋三政権内部では北朝鮮に対して強硬な手段を訴えれば、訴えるほど自分たちの支持は増えるのではないかという、ある種の妄想が広がっている。
 
 (なお、妄想云々ということについていえば、核兵器を開発するということと、核兵器を使うということはまったく別の話であるし、ましてや北朝鮮の核ミサイルが日本に飛んでくるなどということは、現実的な根拠のある話ではない。「頭がおかしい指導者」云々ということでいえば、金正日よりも安倍晋三の方がよほどファナティック=狂信的で理性的ではない。安倍晋三は政治的指導者として必要な冷静さと思慮深さに欠けている。)
 
 このようにマスメディアやブルジョア知識人の作り出している虚像に日本中が熱に浮かされたように振り回されている間に、日本の外では別の事態が進行している。
 
 それは中国とアメリカの関係強化であり、中国とロシアの関係強化である。
 
 これはちょうど1890年にドイツのウィルヘルム2世がビスマルクを退任させ、「新航路政策」という拡張主義的な政策に乗り出したときに似ている。ウィルヘルム2世の新外交政策によって、ビスマルクが長年かけて作りあげてきたフランス包囲網は解体し、英・仏・露のドイツ包囲網(三国協商)へと転化して、第一次世界大戦の遠因になったように、米・露・日の中国封じ込め政策がいつの間にか、米・中・露・韓の日本封じ込め政策に転化する可能性を秘めている。(可能性というよりも、事態ははっきりとそういう方向に向かっている。)
 
 包囲していたはずのもの(ドイツ)がいつの間にか逆に包囲されてしまったという“外交革命”の背後には、列強の利害が激しく衝突する帝国主義の時代という歴史的な背景があったが、現在でもアジアでの覇権をめぐって妄想をたくましくしている連中が安倍晋三政権のまわりにはごろごろいるし、アジアの盟主日本というのは、ひょっとすると、日本資本主義自身の要求なのかも知れないのである。

 列強の利害が衝突する問題では、自国の利益に固執しようというのが安倍晋三政権の特徴であるので、とうぜん何かあるたびに日本の敵はどんどんと増えていくことになる。
 
 こういう事態は、実は、安倍晋三政権が誕生する前からわれわれはある程度予測していたが、安倍晋三政権が誕生してわずか一ヶ月ほどの間にそれが顕在化してしまうということまでは想定していなかった。
 
 そういう点では、時代の流れは急速であり、時代の流れから完全に取り残されている日本資本主義は急速に、帰れない河を渡りはじめているのかも知れない。
    

1万3千人のために19万人の権利を剥奪する。

2006-11-01 01:30:30 | 政治
 厚生労働省、すなわち安倍晋三政権によれば、労働者が毎月の給料から支払わされている雇用保険は、自分たち政府のカネであり、自分たちが好き勝手に使ってよい金であると考えており、どうせ使うなら労働者いじめのために使って、弱い立場の労働者をさらに苦況に陥れてやろうというのであるから、あきれてものも言えない。
 
 その悪党どもが今回打ち出してきたのは、自主退職した労働者に対する失業給付の制限である。
 
 「厚労省の調査によると、過去3年間で失業手当を複数回受け取った人は受給者全体の3.4%、約19万人に上った。うち3回以上の受給者は1万3千人以上いる。
 
 雇用保険に加入して6ヶ月で退職し、一定期間働かずに失業手当で暮らした後、手当が切れればまた短期間の仕事を探すような働き方を、厚労省は問題視している。」(『日本経済新聞』10月30日、朝刊)
 
 そこで、厚生労働省、すなわち安倍晋三は、自主退職の場合には、失業手当を受け取るために必要な保険料を納める期間を、現行の6ヶ月から12ヶ月に延長しようというのである。
 
 この場合、ハローワーク(政府)と資本にだまされて、地獄のような職場に送り込まれた労働者は、最低でも1年間はその職場で“お礼奉公”をガマンしなければ失業給付を受けられないことになる。
 
 ところでこういう「地獄のような職場」は、ほんの一握りなのだろうか?
 
 その答えは、9月の雇用統計にはっきりと表れている。
 
 今月の失業率は前月比で0.1%上昇し、4.2%であった。
 
 現在、景気が回復しているのに、失業率が上昇したのは、若い女性労働者を中心に、より好条件の仕事を探すための自発的な離職が拡大したからである。
 
 もちろん、若い女性労働者が中心であるのは、この層が派遣労働、アルバイト、臨時雇用、等々の不正規雇用者の中心層であり、低賃金、加重労働、劣悪な労働条件、社会保険が完備していなく、ボーナスもない、というないないづくしの職場であるからだ。
 
 厚生労働省、すなわち安倍晋三政権は、小泉純一郎政権時代に大規模に進められた雇用の不正規化、労働条件の劣悪化によって、大量に生み出された「地獄のような職場」に労働者を縛り付けるために、労働者から一定期間失業給付を取り上げようというのである。
 
 政府が、奴隷の逃亡を防ぐ、奴隷監督のようなことをやっていいのか?
 
      

見苦しいアリバイ工作

2006-10-30 01:48:58 | 政治
 現実的な問題として、拉致問題はすでに解決不能になっている。
 
 北朝鮮政府と日本政府は、すでに事実上の国交断絶状態となっており、両国の間に人と物の流通は途絶している。
 
 もちろんこれは日本政府の一方的な通告によるもので、日本政府は北朝鮮政府に事実上の最後通告を突きつけたのである。(われわれは日本には交戦権がないのでこのような冒険主義的な外交政策を取るべきではないと日本政府に警告したが、もちろん日本政府はそれを無視した。)
 
 しかし幸いなことに、日本政府と北朝鮮政府の間で戦闘が行われないのは、日本と北朝鮮の間に韓国が挟まっており、日本の自衛隊、北朝鮮軍とも渡海して戦争を行う能力を持っていないからである。
 
 日本政府と北朝鮮政府の関係が最悪の状態となり、これ以上悪くはなりようがないところまで悪化してしまったので、北東アジアの緊張状態は安定に向かっている。
 
 つまり、この状態がしばらく続くものと見られるが、話し合いの窓口をすべて閉ざし、日本と北朝鮮の間に架かっていた橋をすべて燃やしてしまった後で、安倍晋三政権が「拉致問題」云々というのは恐るべき矛盾であろう。
 
 というのは、日本政府と北朝鮮政府の話し合いなくして「拉致問題」の解決はありえないからである。拉致問題の解決のために北朝鮮政府に対して強い決意で臨むということと北朝鮮に対して強い態度で臨むということは同じではない。
 
 拉致問題の解決のために北朝鮮政府に対して強い決意で臨むということは、何らかのかたちで日朝交渉を前提としており、日朝間の交渉をすべて打ち切るということではない。
 
 つまり、安倍晋三政権が本当に拉致問題の解決を望むというのであれば、話し合いの窓口をすべて閉ざし、日本と北朝鮮の間に架かっていた橋をすべて燃やしてしまうべきではなかったのだが、ことはすでに行われている。
 
 つまり現在の安倍晋三政権の北朝鮮強硬政策は、拉致被害家族と拉致被害者を犠牲にして行われたのであり、交渉の場どころか両国の関係そのものが途絶してしまった以上、「拉致問題」はすでに過去のものとなってしまったのである。
 
 そこで安倍晋三政権が採用しようとしているのが、NHKの海外向け放送で拉致問題を取り上げることを命令するという強硬策である。
 
 「ひとみちゃん、助けてあげるからがんばって」なんて、あまりにも無責任じゃないか。どうやって助けるというのか。助けるための手段をすべて放棄したのは日本政府自身であろう。北朝鮮政府と交渉もできないほど関係を悪化させてしまって、どうやって拉致被害者を救出するというのか。
 
 北朝鮮政府は今回の地下核実験で国際的な孤立化を覚悟しており、虎の穴に二、三年籠城する決意である。だからしばらくは突っついても何の反応もしないし、すでに日本なしでもやっていけるような体制の構築を作っていこうとしている。
 
 制裁によって北朝鮮政府の瓦解を目指した安倍晋三政権の試みは、すでに失敗したのであり、冒険主義的な政策は丁半バクチのようなものであろう。サイはふられ、ツボは開けられた。安倍晋三政権の思惑ははずれ、第二次朝鮮戦争もなければ、北朝鮮政府の瓦解もなかった。これがすべてであろう。そしてつぎの勝負は、当面というよりもこれから先もずっとないかもしれないのである。
 
 安倍晋三は前もって「冒険主義」の意味をもっと良く理解する必要があった。
 
 なお、放送命令についていえば、現在のマスコミの体制はすでに大本営化しており、強制的な大本営発表であろうが、自発的な大本営発表であろうが同じことであろう。
 
 マスコミが世論誘導の道具となり、視聴者を一定の方向に誘導することを何とも思わなくなって、マスコミは視聴者の信頼というもっとも重要なものを失いつつあるのである。
 
      

いじめとダメ教師

2006-10-28 01:21:34 | 政治
 子ども達は、社会のなかで大きくなる以上、つねに何らかのかたちで社会の影響を受けている。
 
 だから、われわれの社会において、立場の弱い労働者がなんやかんやいやがらせを受けて、職場を追われ、ある人は零落してホームレスになったり、またある人は絶望のあまり自殺したりする(日本の自殺者は毎年3万人以上もいる!)ことがあいついでいれば、子どもも当然、それをまねるのである。
 
 だから、労働者いじめが、弱い者いじめが、常態化しているわれわれの社会で、子ども達にだけ弱い者をいじめるなとお説教しても、あまり説得力はないのである。
 
 むしろ、現行の制度のままで、子どものいじめを取り締まれば、いじめはより巧妙に、より陰湿になるだけである。
 
 もちろんこれは一般論であって、暗い社会でも子ども達は健全に成長する能力を持っている。このような子ども達に内在する健全な発達能力を引き出すことこそ学校教育に求められているものであるが、実際には、残念なことに、事態は逆の方向に向かっている。
 
 つまり、ここ10年あまり進んでいるのは、教育の反動化であった。教育の反動化は一つには、「日の丸・君が代」の押しつけに見られるような国家主義教育の強化としてあらわれ、他方においては、教員の統制強化として進んできた。
 
 つまり自民党政権の教育政策は、この間、教育の管理統制を強化することによって、子ども達の管理統制を強化し、“教育の荒廃”に立ち向かおうというものであった。
 
 そして自民党は、長い間ずっと、悪い教員がいるから悪い教育が行われる、教育を良くするには悪い教員を排除する必要があるという観点に立ってきた。
 
 そこで子どもを“甘やかす”教師はダメ教師のレッテルを貼られて、担任をはずされたり、ある場合には「研修」と称して、学校現場そのものから切り離すようなことも実際に行われてきた。
 
 だから今回の福岡のいじめ自殺事件にしても、担任、もしくは前担任がダメ教師のレッテルを貼られて、いじめ自殺の責任を押しつけられている。つまり彼らのような悪い教員がいるからいじめ自殺が起こったという見解なのである。
 
 確かに、自殺した子ども達の担任教師達はいずれも生徒迎合的で、生徒の歓心を買うために、いじめに加担するような、また、いじめを助長するような、加担行為を行っていた形跡がある。
 
 二十年、三十年前であれば、それこそ不真面目な教員はどこにでもいっぱいいたし、彼らの不真面目さは生徒の冷笑を生むだけで、それがいじめにつながることもなかったが、現在は教員の管理統制がどの都道府県でも強化されており、教員の採用自体がきびしくなっていて、それこそ“良い先生”(管理職や教育委員会から見て)でなければ教員になれない時代になっている。だから、そういう教員の性格そのものからくる“不見識な”言動は、学校現場ではほとんどなくなっている。
 
 むしろ現在増えているのは、生徒の歓心を買う必要性を感じている教員の数である。校長や教頭による校内巡視は日常的に行われており、彼らが教室を通り過ぎるときに子ども達が勝手なことをやっていれば、それこそ、その教員の指導力に「?」がつき、それが数度ともなれば、校長室に呼び出されて「改善」を指導される。それでも改善されなければ、担任をはずされ云々と、きちんと授業をできない教員を徐々に追い込んでいくシステムはもう現在の学校システムのなかに存在している。
 
 そのような学校に存在する排除のシステムに引っかかって、ダメ教師の烙印を押されないためにも、生徒に迎合して、見せかけだけの静かで良い学級を作ろうという教員は少なくない。
 
 この場合、教員を管理している「排除のシステム」の執行者たち(校長や教育委員会)にとって、極端な暴力教師はそれ自体が問題行動で容認はできないが、子ども達に威嚇的な態度をとったり、言葉で子ども達の心をいためつける教員や生徒に迎合して“静かで良い学級”芝居をけなげに実演している教員は、学校の秩序維持に協力してくれる望ましい教師なのである。
 
 つまり、90年代以降、日本の全国の工場・職場で「成果主義」が取り入れられて、アメとムチで労働者の選別がなされたように、教育現場でも「成果主義」が取り入れられて、教員の選別が進んでおり、「排除のシステム」に引っかからないように無理をする教員の数が増えているということである。
 
 それを特徴的に表しているのが、福岡のいじめ自殺事件である。死んだ子は相当ひどくいじめられており、まわりの子ども達はそのことに気がついていた。死んだ子どもの友人は「死ぬ」という言葉を本人から聞いてさえいる。
 
 しかし、死んだ子の通っていた学校の教員のなかで、事態の深刻さに気づいていた教員は誰一人いなかったのである!教員と子ども達の間に信頼関係があれば子ども達の誰かが教員に知らせたであろうが、子ども達のなかで教員にいじめの事実を告げようと思った者は誰一人としていなかったのである。
 
 この事実は、現在の教育現場で教員と子ども達の信頼関係がすでに相当希薄になっており、両者の間には深い溝が横たわっていることを示している。このような教員と子ども達の信頼関係を破壊しているものこそ、見せかけだけのよい教育環境を作るために学校現場に導入された「排除のシステム」である。
 
 政府の文部行政が教育委員会を追いつめ、教育委員会が学校を追いつめ、学校が教員を追いつめ、教員が子どもを追いつめるという、「排除のシステム」のなかで、追いつめられた最もか弱いウサギが、この制度の犠牲に供されるために、火のなかに投げ込まれるのである。
 
 これではいじめもいじめ自殺もなくなることはないであろう。    

崩壊の危機に直面する高校教育

2006-10-27 01:54:27 | 政治
 高校教育は非常に難しい局面を迎えようとしている。
 
 全国の高校で必須科目の未履修があいついでおり、すでに200校近くの進学校でそのようなことが起こっていることが発覚している。
 
 われわれは別に学校側の言い分をそのまま承認するわけではないが、進学校が現在のようになってしまったのは、ある程度理由のあることである。
 
 現在、学校の完全週5日制が行われ、そのうえ“ゆとり学習”という教科以外の授業時間を組み込まなければならないので、高校のカリキュラム(履修科目)の編成は非常に窮屈になっているのである。
 
 結局、限られた時間を各教科がうばい合うことにならざるをえないのでどうしても、声が大きい者が勝つことになる。
 
 大学入試には、数学が欠かせない、英語は基礎科目として重要だ、理系でも現代国語が当落を左右する等々、の声は“官軍”の錦の御旗のようなもので、こういうことに表だって反対する教員はあまりいない。
 
もっともわれわれがこういうからといって決して必須科目の未履修を容認しているわけではない。
 
 しかし、われわれは必須科目は履修すべきであるという立場にも立っていないのである。実際、これから理科系の大学に進学して科学者もしくは技術者として生きていこうとする人のなかで「11世紀にトルコのセルジューク朝を開いたのはトゥグリル・ベクである。」ということが意味のある人生を送る人はおそらく1000人に1人もいないであろう。
 
 そういう点からするなら、高校における必須科目の選定の仕方そのものにも問題がないわけではなかったといえよう。
 
 これは現在の指導要領が相反するいくつもの教育目標を同時に掲げているからである。“ゆとり教育”としては、子ども達の教育負荷を軽減させるために、教える内容も教える時間も軽減する必要があり、全人教育(子どもの全人格的な発達を目指す教育)としては、受験科目にとらわれないできるだけ幅広い知識や教養を身につけさせる必要があり、受験教育としては、子ども達がきちんと望む大学に進学できるように、受験科目をしっかりと身につけさせる必要がある。
 
 これまでは建て前(全人教育)と本音(受験教育)をそれなりに使いこなしてきたのだが、学校5日制と“ゆとり教育”によって全体の授業時間が減ってしまったために、本音(受験教育)が建て前(全人教育)を飲み込んでしまうという前代未聞の“珍現象”が起きてしまったのだ。
 
 本来“ゆとり教育”は受験教育の弊害を是正するために設けられたのだが、“ゆとり教育”は逆に、進学校の予備校化を促進し、受験教育第一主義を生み出し、結果として、400ある進学校の半数近くが“違法状態”(『学習指導要領』の基準を満たしていないという点で)になってしまったことになる。
 
 かくして戦後民主教育が掲げていた全人教育(子どもの全人格的な発達を目指す教育)はすでに名ばかりで崩壊状態といえるが、今さらに二つの勢力によって最終的に葬り去られようとしている。
 
 その一つは、国家主義的、反動的教育である。
 
 反動派は、教育の荒廃を戦後民主教育のせいにしている。教員が子どもを甘やかすから子どもがつけあがった、教員に指導力がないから子どもが教員の言うことを聞かない、戦後民主教育が全人教育(子どもの全人格的な発達を目指す教育)などといって「個」を重視したから、自分勝手な子ども達が出てきた、等々と主張することによって、教育に国家主義と統制主義、規律主義を持ち込もうとしている。
 
 もちろん統制の対象は子どもばかりではなく、教員もそうである。われわれの反動的な政府は教員を追いつめ、子どもを追いつめ、学校を兵舎とすることによって、教育の荒廃を克服できると考えているが、教員と子ども達の“奴隷化”はたんに彼らの“奴隷反乱”を準備するだけであろう。
 
 これにたいして日本の資本の勢力は、資本主義的な競争を勝ち抜くために、学力の向上を要求している。つまり、受験勉強であれ、何であれ、子ども達に知識を詰め込んで、優秀な産業戦士を生み出すような教育を求めている。
 
 もちろん、知識といっても「ロシア革命は1917年に起こった」という類のことではなく、資本に利潤をもたらす、自然科学の知識であり、その応用としての技術学の知識である。ノーベル賞を受賞した野依氏が座長に選ばれたのもそれが理由であろう。
 
 そういう点では、本音(受験教育)が建て前(全人教育)を飲み込んでしまうというという現状は資本の勢力にとって望ましい姿でもある。(もちろん彼らは社会の支配的な勢力として、現在多くの進学校が行っている“掟破り”は承諾できないであろうが、その意図するところ、数学や物理、化学の詰め込み強化には反対どころか、望ましいとさえ考えている。)
 
 かくして戦後民主教育はますます無力なものになっていく。
 
    

悔い改めたヤンキーはトンヤンキー?

2006-10-26 21:40:50 | 政治
   ※ 東洋鬼(トンヤンキー=日本軍国主義者の手先の蔑称)

 いじめ問題の視察とやらで、山谷ゆり子が教育再生会議の義家某を引き連れて、福岡を訪れた。

 その姿はいかにも、という感じだ。二人とも、現在の学校教育で“需要”が高いタイプの“教育者”である。

 山谷ゆり子氏は、いかにも“お局(つぼね)様”タイプである。現在の教育現場には女性が数多く進出しており、管理職に重宝がられるのが、このタイプである。

 つまり、校長氏は自分でいえないことを“お局様”教員に託している。そして使命感に燃えた“お局様”は、女性教員を放課後に密かに呼び出しては、服装がどうの、化粧がどうの、子どもを甘やかしているの、等々とあることないこと因縁をつけて、いやがらせをして恫喝する。

 “お局様”に逆らったら、それこそいじめの対象になりうる(教員の世界にもいじめはある)ので、学校は恐怖の支配する職場となる。

 そういう点では、山谷ゆり子氏は現役でも“お局教師”として充分通用する。(いじめ教師がいじめを視察するなどというおよそ相反することをやっているよりはましであろう)

 もう一人は、どこにでもいる悔い改めたヤンキー先生である。何をどう悔い改めたのかは知らないが、こういう教員は結構どこの学校にもいる。しかも、たいていは生徒指導をやっており、問題のある生徒に、「ボクも昔は不良だったから君の気持ちがよくわかるんだ。」と猫なで声で接近する。

 もちろんこういうことは教育上望ましいことであり、自分の気持ちを理解してくれる教員を渇望している子ども達にとってはかけがえのない存在なのかも知れない。

 それでもこういう教育には問題がある。というのは、子どもにお説教をたれて悔い改めてよい子になりなさい、という教育は、つまるところ、自分の気持ち、もしくは自分の考え方を変えよという教育に帰着するのであり、観念的な教育そのものである。

 悔い改めたヤンキー先生の教育は、子どもが社会なり、家庭なり、学校なりと不適応をおこしているときに、子どもの心の有り様を変えて、社会なり、家庭なり、学校なりと適応せよと説くものでしかないからである。

 しかし、現在の教育の荒廃には、社会のもろもろのひずみが色濃く投影されているのである。そういう点では、不適応をおこしているのはむしろ社会なり、家庭なり、学校なりであって、子どもたちはその犠牲者にすぎない。

 元ヤンキー氏も良い大学を良い成績で卒業したから、ヤンキー先生と呼ばれているわけで、大学に行く資力(金の力)も勉学の条件も獲得できなかった元ヤンキー諸君は、いくら悔い改めたからといっても、社会の底辺で、生活のためにもがくしかない。

 ヤンキー先生はなぜそういう単純な事実に目を向けることができないのか。

 もちろん、教員と革命家はちがう。だからわれわれ労働者は、教員に良心的教員は現在の社会こそが、不当な社会なのだから、社会変革に参加せよ、などという法外な要求をするつもりはない。(もちろん教員のある部分はわれわれが呼びかけなくとも、自発的に労働者として、労働者の事業に参加することは言をまたないことである。)

 しかしだ。社会の現状に対する認識を持っている教員と持っていない教員の差はあまりにも歴然としている。

 実際、ヤンキー先生は、安倍晋三ファシスト政権の教育再生会議に参加しているが、決して、子ども達のために体をはって教育反動と闘うために参加しているわけではないであろう。ヤンキー先生よ、君にそれほどの根性と困難を抱えている子ども達に対する熱情があるというのか?あるというのであれば、それをここでへ見せてみよ。

 実際、ヤンキー先生は“お局(つぼね)教師”山谷ゆり子の後ろを歩きはするが、山谷ゆり子に、あんたは目つきが悪い、そういうヤクザ・チンピラの目をしていては、子ども達は寄りつかない、教育を何と思っているのか、狩人(かりゅうど)がウサギを追いつめるように、教員を追いつめるのが教育行政なのか、お前は何か非常に大きな勘違いをしているのではないか、ということすらできないでいる。

 身近な誤りを正すことができない人間に、どうして現代教育の誤りを正すことができようか。

 結局、多くの学校の“元ヤンキー先生”が管理職に利用されているように、元祖“ヤンキー先生”も安倍晋三ファシスト政権の教育反動化に利用されているにすぎないのである。      

石原慎太郎、吠える

2006-10-25 00:42:39 | 政治
 東京地裁において、「日の丸・君が代」に反対して処分を受けた教員が、処分無効を訴えていた裁判で、処分無効の判決が出た日、東京都知事の石原慎太郎は会見を開いて、
 
 「東京都の高校を見てみろ!授業を受けているのは、前のほうの二、三列ぐらいじゃねぇーか!」と記者団に向かって吠えた。
 
 “ファシズム語”は理解できないという人のために、通訳すると、こうである。
 
 現在、東京都の高校教育が荒廃しているのは、「日の丸・君が代」が掲揚されないからであり、「日の丸・君が代」は子ども達のなかに秩序をもたらすためにも必要なのだ、これが石原慎太郎のいいたいことであるのだが、ちょっと待て、石原なる人物は昨日、今日東京都知事になった人物なのであろうか?
 
 そうではないだろう、彼はもう東京都知事を2期務め、3期目の野望に燃えている人物なのである。
 
 この間、彼は教育委員会に反動的な人物を押し込み、学校現場で「日の丸・君が代」を掲揚することを強要し、それに反対する教員を処分し続けてきたのである。
 
 そして、学校現場における教員や子どもの統制に人一倍熱心で、東京の反動教育は安倍晋三の反動教育を先取りするものであった。
 
 つまり、現在の東京都の教育は石原慎太郎の“作品”なのであって、彼の教育政策の結果でもある。
 
 その石原慎太郎が、東京の学校を見てみろ、みごとに破綻しているだろう、などというのはとりもなおさず、石原慎太郎自身の教育政策がすでに完全に破綻しているということなのでしかない。そして、石原慎太郎が教育現場に「日の丸・君が代」を押しつけて、子ども達を国家主義教育で縛り付けようとする教育が、“教育の荒廃”に対して何の効用もなかったということでしかない。
 
 石原慎太郎は、東京において、10年近くも好き勝手な教育をやってきて、これ以上何を望もうというのか?
 
 その答えは、奉仕活動の強要だそうである。
 
 「為人民服務!」(ウェイ・レンミン・フーイー=人民に奉仕せよ!)というのは、文化大革命当時の非常になつかしいスローガンなのだが、われわれがいまだにこのスローガンに郷愁を感じるのは、このスローガンが紅衛兵たちの内心から出た言葉であったからである。
 
 そもそも奉仕活動は自発的に行われるから奉仕活動なのであって、それが強要されればそれは単なる奴隷労働にすぎない。
 
 21世紀にもなって、子ども達に、奴隷労働を教えるのは、野蛮そのものであって、少しも教育的ではない。これは“教育の荒廃”どころか“教育の破壊”そのものであろう。
 
 (なお、誤解する人がいるかも知れないので、若干説明するが、現在でもいろいろな学校の総合学習のなかで、通学路のゴミを拾ったり、用水路を掃除したり、駅舎のペンキ塗りをしたり、お年寄りの世話をしたりする活動に取り組んでいる学校があるが、これは子ども達に命令してそうしているのではなく、子ども達が話し合いのなかで、こういう活動をやろうと決めて実行しているのであって、このような活動は子ども達の話し合い、計画、実行というプロセス全体を見なければならない。よい教員であれば、この子ども達の話し合いの過程こそが、最も重要な教育的要素であることを見抜くはずである。)

教育基本法の「改正」問題について

2006-10-24 21:31:52 | 政治
 現在、教育基本法「改正」法案の国会審議が行われようとしている。
 
 改正の主なものは、教育の目的に、いくつかの徳目を掲げて、子ども達に倫理的な規範を獲得させようというものであり、その徳目の中心はいうまでもなく愛国心である。
 
 国家が、法律によって、子ども達が獲得すべき徳目を定め、それに向けて努力するというのが教育の目的であるというのは、いうまでもなく国家主義教育(国家のための教育)の特徴である。
 
 安倍自民党政権は、教育基本法を改正することによって、現行の国民教育制度を国家主義的教育へと改変しようというのだが、純然たる法律論からすると、教育基本法の全体は日本国憲法の第26条の「教育を受ける権利」を成文化したものである。
 
 一方の日本国憲法において、すべての国民(子どもを含むすべての人々)に、どのような教育を受けるかの選択権(またはどのような教育を拒否するのかという拒否権)を保障しておいて、他方の教育基本法において、日本国においてはこれ以外の教育はありえないのだなどというのはまったく矛盾もしくは混乱しているのであって教育基本法が「改正」されれば教育基本法自体が違憲状態になる。
 
 したがって安倍自民党政権は教育の制度を根本的に変更する必要があると考えるならば、最初に、憲法26条を改正して、しかるのちに、教育基本法を改正すべきであろう。
 
 もちろんこのことは自民党もよく知っているからこそ、改正法では「教育に対する国の不当な支配の排除」の規定を一部分残しながら、教育に対する国の関与を部分的に認める記述になっている。
 
 しかしこれでは何のための「改正」なのかさっぱりわからない。なぜなら現行の教育法体系のもとでも、教育に対する国の関与は一定程度認められており、「不当な支配の排除」という言葉が残っているかぎりは、国家主義教育(国家のための教育)そのものは排除されているのである。
 
 もっとも、今回削除される部分には、国民の教育を受ける権利を履行する義務を国に課している部分があるが、いくらこのような規定を削除しても、国家がすべての国民(子どもを含むすべての人々)に、どのような教育を受けるかの選択権(またはどのような教育を拒否するのかという拒否権)を保障するのであれば、それを誠実に履行することは国家に課せられた義務であるということであり、明文規定がなくなったからといって、国家がこの義務から逃れることなどできるはずもないことである。
 
 この権利、義務関係から若干述べるならば、戦前の教育においては、教育は臣民(国民)の義務であり、教育の権利は国家のみが保持してきた。教育は「教育勅語」に掲げられた臣民の徳目をただひたすら押しつけることが教育の目的とされてきた。要するに「国のために死ね」ということを教えることが学校の目的であったのである。
 
 戦後の教育は、この軍国主義教育の反省点に立って、教育は国民教育(国民による、国民のための、国民の教育)を一般原則としてきた。
 
 この国民教育、または、ブルジョア民主主義教育は、個人(子ども)の人権の尊重と人格の形成を目的としてきたが、他方において、資本主義社会一般の常として、社会における人材の補給、配分という機能も果たしてきた。
 
 一流大学を出て一流企業へ、または、よい大学を出てよい就職先へという傾向があるのであれば、うちの子もということで、教育を通じての人材配分システムは、子ども達の間に過度の競争をもたらし、“教育の荒廃”と呼ばれる、いじめ、不登校、校内暴力等々のもろもろの不適応現象を引き起こしてきた。
 
 保守反動派はこの“教育の荒廃”現象を、戦後の教育が、「個」を重要視しすぎてきたからであるとして、戦前の教育への回帰を主張してきたが、戦前の学校においても、それが資本主義のもとで行われている以上、陰湿ないじめや不登校、不適応は存在していたのである。
 
 そして戦前の教育が子ども達に、幸福よりも、より大きな不幸をもたらしたことを考えると、今さら戦前教育への回帰は問題外であろう。安倍晋三政権が行おうとしているのは壮大なる、無意味以外の何ものでもないのである。
    

衆院補選の選挙結果をどのように読むか

2006-10-23 21:10:50 | 政治
 選挙が議席をめぐって争われるものであれば、自民党は2議席を獲得したのであるから、この選挙は自民党の勝利であったと総括すべきであろう。
 
 しかし、現在の有権者(とりわけ有権者の大多数を占める労働者)の政治意識や政治的傾向をみるという場合は別の見方も当然あるわけである。
 
 そういう点から考えると、今回投票率が低かったという点も多くの人々が、保守反動派の“危機感”を共有しなかった(投票上にいく必要性を強く感じなかった)ことのあらわれであろう。
 
 選挙の結果は以下の通りである。
 
 【神奈川16区】
 
    前回      今回       差し引き(率)
自民 159,268 →109,464  -49,804(-31.27%)
民主  87,991 → 80,450  - 7,541(- 8.57%)
共産  21,504 →  9,862  -11,642(-118.05%)
 
【大阪9区】
 
    前回      今回       差し引き(率)
自民 142,243 →111,226  -31,017(-21.81%)
民主 111,809 → 92,424  -19,385(-17.34%)
共産  27,347 → 17,774  - 9,573(-35.01%)
 
 神奈川16区で特徴的なことは、前回、民主党は、自民党にほぼダブルスコアで敗北していたのに対して、今回はほぼ互角の闘いをやっており、低投票率のなかで民主党はよく善戦したという評価ができる。
 
 この民主党の高得票は、神奈川16区と大阪9区の共産党の得票数を比べるとよくわかる、大阪9区では共産党はあまり票を減らしていないのに対して、神奈川16区では半分以下になっている。これは今回の選挙において、神奈川では共産党支持者の票のかなりの部分が民主党に回ったことの結果であろう。
 
 これに対して、大阪9区では、自民、民主、共産とも投票率をあまり減らしていない。これはこの選挙区の選挙闘争が激しい党派闘争として闘われ、組織選挙の様相を呈していたことを物語っている。
 
 特に、自民党は創価学会の全面的な支援を受けて、創価学会が根こそぎ動員をして自民候補を後押しした結果であろう。このことは安倍自民党が創価学会と公明党に非常に大きな借りを作ったということであり、この負債はそのうちに何らかのかたちで返済を求められるだろうということを示唆している。(資本主義社会ではタダのものはないということを安倍自民党は肝に銘じるべきであろう。)
 
 そしてわれわれが特に注目すべきは、今回の選挙における無党派層(支持する政党がないと答えた人)の動向であろう。
 
 これは神奈川16区も大阪9区もほぼ同じ比率で、自民党に3割、民主党に6割という比率で流れ込んでいる。
 
 小泉が登場した直後の参議院選挙や前回の衆議院選挙では、逆というほどではないにせよ、自民党の方が多かったことを考えると、時代はすでに“小泉時代”を過去のものとして咀嚼(そしゃく)して飲み込んでいることを意味している。
 
 神奈川16区は小泉純一郎の地盤であり、大阪9区へは小泉が何度も足を運んで自民候補にテコ入れしても、また安倍晋三自身が選挙応援に駆けつけても、浮動票を取り込めなかったことは、安倍晋三自民党政権が大衆をつかんでいないと言うことを意味している。
 
 また無党派層のうち共産党に流れ込んだ部分は、神奈川では5%に満たないものの、大阪では10%を越えており、党勢の後退に一定の歯止めがかかりはじめていることを意味しており、共産党にとって大阪の選挙闘争は大いに意義のある闘争となったことを意味している。
 
 なお、社民勢力の一部には共産党は大阪で候補者を出すべきではなかったという意味不明な議論もなされているが、選挙が単に議席をめぐる闘争に終始するものであればそのような議論も出てこよう。しかし、選挙は同時に公然たる政治闘争の場でもある。だから、労働者党が選挙の結果を度外視して、自分たちの主張を労働者に訴え、支持を獲得するためにだけ独自の候補者を立てることがあることは無条件に承認されなければならない。(もっともそのような議論の前に、共産党が労働者の政党であるのかについては重大な疑念があるのだが、われわれは労働者政党の選挙戦術について語っているのである。)
 
 そしてもっとも興味深いのは、今回の選挙が自民党にとって決してほめられるものではないにもかかわらず、ブルジョアマスコミは大本営なみに「勝った、勝った」と両手をあげて大騒ぎしていることである。
 
 これはファシスト安倍晋三とブルジョアマスコミが“共犯関係”にあることの何よりのあらわれであるが、最近このような傾向(ブルジョアマスコミの大本営化、翼賛勢力化)はだんだんひどくなっている。
 
 自画自賛というか、手前みそというか、現実を妄想的に解釈するというか、客観的現実と主観的願望をごちゃまぜにして妄想的世界に沈殿するというか、マスコミのなかに非常に病的な傾向が進行している。
 
 真に憂慮すべきは、このことかも知れない。