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労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

参議院選挙延期の費用は誰が払うべきか

2007-06-22 20:18:46 | 政治
 参議院選挙が有権者に何のことわりもなく突然一週間延期された。

 そしてこのことによって、選挙準備を行っていた多くの地方自治体が大なり小なり損失を被っている。

 選挙用の案内や啓発文書、ポスター、会場の再確保費等々、投票日が変わってしまったために廃棄処分するしかない大量の印刷物を前に、自治体の役人が「仕方ありませんね」とヘラヘラ笑っている。

 地方自治体の役人にとっては、これらの制作費のでどころは税金なのだから、百万円が二百万円になろうが、一億円が二億円になろうが、それこそどうでもいいことがらにすぎないのであろう。だからこそ、「仕方ありませんね」などとヘラヘラ笑っていられるのだが、有権者は同時に納税者でもある。

 これらの自治体の役人たちは、納税者からかき集めた貴重な税金を、全国的な規模で見れば、数十億円とも数百億円とも見られる税金を、どぶに捨てるような、まったく何の役にも立たない形で浪費してしまったことをなぜ笑うことができるのか?

 そもそもこういう“予想外の出費”を税金でまかなおうなどという発想そのものがおかしいではないか。納税者=有権者がそのような税金の出費を認めなければならない理由は何一つない。

 もともと予定されていた参議院選挙の投票日を突然変更したのは、自由民主党と公明党なのだから、これらの費用はこれらの党が国会でのその議席数に応じて、有権者=納税者に弁済すべきものであり、地方自治体の役人たちは請求書を持っていく先を完全に間違えているのだ。

 しかもこれらの党は納税者=有権者に対して、結果的に、大きな迷惑と負担をかけ、経済的な損害を与えたにもかかわらず、謝罪の言葉の一つすらない。

 それどころか安倍晋三とかいうバカ者は、「国民のためにやりました」と堂々と居直っている。これではまるで税金ドロボウが、国民のためにドロボウをやったんだ、文句あるかと居直っているのと同じだ。ところで安倍晋三というのは何者で、どういう役職についている人物なのだ?自民党の幹事長をやっている中川秀直よ、答えてみろよ!    

戦後労働運動の転換点

2007-06-17 00:36:53 | 政治

 自ら掘った墓穴にはまりこんで溺死寸前の安部自民党がところかまわず吠えている。
 
 年金問題では、「クズ」「ゴミ」といった不穏当な発言まで飛び出している。
 
 世界には100以上の国家が存在しているが、自国民を「クズ」呼ばわりしてもよいという権限を持っている国はどこにもないはずである。
 
 ましてや、「クズ」と名指されているのは社保庁の公務労働者であり、形式上安倍晋三が雇用主になっているのである。つまり、破産寸前の会社の社長が労働者に向かって、会社が傾いたのはお前たちが「クズ」だったからで、ダラダラしているヤツはみんな首だ、と恫喝しているようなものである。そしてこれが単なる恫喝にとどまらないから問題は深刻なのである。
 
 1970年代に入って日本資本主義は成熟期に入って、低成長期に入ると各分野で過剰雇用や過剰生産力が問題となり、資本はリストラや人員整理によって利潤を確保する道を選んだ。
 
 これは国家資本によって運営されてきた部門も同様で、電電公社や国鉄、専売公社が相次いで民営化され、民営化される過程で合理化によって多くの労働者が職を失った。
 
 そして、この合理化の過程で行われてきたのが、国鉄労働者やその他の現業労働者にたいする攻撃である。勤務時間中に風呂に入ったとか、働きもせずに遊んでいるとか、そういう些細なことをとらえて、あたかも国鉄の赤字が国鉄労働者のせいであるかのようなデマ政治を行ってきた。
 
 これが曲がりなりにも受け入れられてきたのは、民間の労働者がより苛酷な状態にあったからで、民間では、組合もないところや、組合があってもほとんどが御用組合で、組合員の利益を守るよりも会社の利益を守ることに熱心で、労働者が突然解雇を言い渡されたり、何の通告もなく給料を引き下げられるということが当然視され、雇用と労働条件が保証されていると思われていた公務員の身分がうらやましく思われていたのである。
 
 しかし、時は過ぎて、郵便局まで民営化され、最後の公務員労働者にまで資本とその国家の攻撃の手が伸びてくるに及んで日本の労働運動は決定的な転換点に至ろうとしている。
 
 つまり、労働運動とはいったい何であるのか?労働組合とはいったい何であるのか?というもっとも根底的な問題を日本の労働者に投げかけはじめているのである。
 
 例えば、政府は詰め込み教育を強化するために、土曜日の授業復活に乗り出そうとしているが、そうすれば当然、教育労働者の週40時間労働制は崩れる、それでもいいというのが現在の政府、すなわち安倍晋三内閣であり、日本のマスコミと称する浅薄な連中の見解である。
 
 また、社保庁の年金問題でも、端末操作の時間を限定していることが、何か重大問題であるかのようなことを日本のマスコミは主張し、政府もそれに追従して社保庁の労働者はけしからんと言っているが、現行の多くの事業所で端末操作の時間を限定しているのは決して、理由のないことではない。労働者が長時間端末操作を継続することが実際に労働者の健康に害を及ぼしているから労使協定を結んでそうしているのだが、労働者の労働条件などどうでもいいのだという日本のマスコミと政府の露骨な態度は彼らが思っている以上に深刻な影響を日本の労働者に与えている。
 
 労働者に経営の責任のすべてを押しつけ、賃金を切り下げ、労働者を無権利状態において、しかりとばし、威嚇・恫喝し、、労働強化に追い立て、異議を申し立てるものを職場から排除する。そういう現在日本の労働現場を縮図を、われわれ労働者が日々目の当たりにしている現実を、自宅で毎日テレビで、これでもか、これでもかと、見せられ、聞かせられるたびに、日本の労働者の意識は確実に変化している。

 この社会の支配階級が、声をそろえて、労働者の生活などどうでもいい、役に立たないヤツは首だ、文句を言うヤツはいらない、というのであるから、労働者は自分たちの生活を守るためにはどうすればいいのか、自分たちで考えるほかないであろう。
 
 日本の労働運動は大きく生まれ変わるし、変わらなければならない時代がやってきているのである。
 

皆さん、何か他人事

2007-06-08 01:01:57 | 政治

 テレビを見ていて驚いた。自民党幹事長の中川秀直氏が安倍晋三の「一年間で5000万人もの不明年金記録を全部調べる」という発言の真意を質問されて、「総理の発言は重いのだから、できなかったら責任をとってお辞めになるんじゃないですか」とまるで他人事のように平然と答えている。
 
 また先日は21世紀臨調から、「安倍政権は国民の信任を得ていないのだから、参議院選挙で敗北したら、できるだけ早く総選挙を」とまるっきり三行半を突きつけられている。
 
 自民党のなかで、そしてブルジョアのなかで安倍晋三は急速に“過去の人”になりつつある感がある。
 
 一つには、すでに参議院選挙の票読みが行われており、選挙の結果がおぼろげながら予測できる段階に到達しているということと、もう一つには、ブルジョア諸君には安倍晋三の「教育改革」がおもしろくないという点がある。
 
 そもそもブルジョア諸君が日本の学校教育を改革しなければならないと考えたのは、過去の「ゆとり教育」のなかで子供たちの学力の低下が目立ってきたからで、子供たちの学力を底上げするために、むしろ「詰め込み教育の強化」なり、一部の子供たちを特別に教育するような教育の複線化こそ望んでいたのだが、安倍晋三の教育改革はそのどちらでもなく、日本中の学校で大日本帝国マンザイをやろうというものでしかない。
 
 教育の質が労働者の質に直結し、労働者の質が生産性に直結すると考えている総資本にとって、これはある意味でゆゆしい事態なのだが、この辺のところを安倍晋三内閣はまるでわかっていない。
 
 それどころか自民党の政務会長の中川昭一氏は某週刊誌の今週号に1ページまるまる使ってデカデカと大きな文字で、何で経団連ごときのいうことを聞かなければならないのかとケンカごしで経団連を挑発している。
 
 安倍晋三の命運はすでに定まった、というべきであろう。      

政治的雪崩現象

2007-06-01 02:13:45 | 政治
 現在、日本の政治には不思議なことが起こっている。
 
 現職大臣の自殺、膨大な年金の記載漏れの政治問題化、安倍内閣の支持率急落、本来これらはそれぞれ別個の問題であるはずなのだが、それが渾然一体の“政治的危機”として安倍晋三政権を襲っている。というよりも正確には、何か得体の知れない“政治的危機”に襲われていると、安倍晋三が妄想的にとらえて政治的なパニックに陥っているのである。
 
 しかもこの“政治的危機”妄想をふりはらうために、安倍晋三政権は、年金の時効を取り払う法案をわずか半日の審議で、委員会採決を強行し、法案を衆議院の本会議に送って、本会議でも強行採決を行おうとしている。(強行採決はもう行われたのかもしれない)
 
 明らかに安倍晋三は狼狽しており、平常心を失っている。
 
 労働者はここに権力の維持に異常な執念を燃やしている独裁者を見ているし、政治的反対者は安倍晋三の政治的な稚拙さ、人格の幼さを見ている。安倍晋三、組み易(やす)し、そのような結論を引き出した政治家も多いであろう。
 
 政治はここへきて一気に流動化に向かっている。何しろ、日本国総理大臣が“まとも”ではないことをすべての人に知らしめてしまったのだから、なるようにしかならないであろう。   

死んでお詫びをされても・・・

2007-05-30 00:47:41 | 政治
 1945年、日本の敗戦直後、何人もの将軍たちが、毒を飲んだり、腹を切ったり、拳銃で自分の頭を撃ち抜いたりして死んでいる。
 
 彼らは一様に、死んでお詫びをするといって自殺していったのだが、彼らのなかにはアメリカ軍が進駐してきて戦争犯罪者として逮捕されることを恐れて自殺したものが何人もいる。
 
 例えば、名前を出して恐縮だが、満州事変の時、関東軍の司令官をしていて、後に昭和天皇の側近にまでなった本庄繁氏もその一人だ。
 
 もちろん、彼が死を選んだのは、「お詫び」というよりも、アメリカ軍に逮捕され、追求され、満州事変の真実が明るみに出ることを恐れたからである。本庄繁氏が命をかけても守りたかったのは誰か、ということは、もちろん満州事変の首謀者とされている石原完爾氏ではなかったことだけは確かである。

 「死んでお詫びをする」といえば聞こえはいいが、何かを秘匿するために死に逃避するのは無責任な行為そのものであろう。
 
 そして同じことが現在の日本でも起き始めている。
 
 「死んでお詫びをいたします」そのように言われても、たかが経済犯罪ぐらいで死なれては、労働者としては「君は誰をかばって死を選んだのか、そういう選択は人間として卑怯ではないか」と言わざるをえない。
 
 近年、日本では人間の命がだんだんと軽いものになっている。それはいうまでもなく、「国のために死ね」と人々をさんざん煽っている心卑しい人間が内閣総理大臣をやっているからである。
 
 この内閣のもとで、死ななくてもいい人間が何人も死んでおり、そのことだけでもこの内閣の即刻退陣を求めることは労働者にとってにとっての正義である。
 
 日本には自分の政治的な野望を達成するためには、死体の山を築いても、という人間はいらない。
 
 

もう拉致家族会は解散の時だ (拉致家族会結成の10年)

2007-05-16 02:21:25 | 政治

 ある人が、われわれ赤星マルクス研究会が拉致家族会は方針を変更するか、解散した方がいいのではないかと問題を提起しながら、結論部分で「勝手にしろ」というのはいかにも傲慢ではないかと言っている。
 
 たしかに、「勝手にしろ」というのは無責任な態度であったのかもしれない。
 
 そこで、今回は『諸君!』6月号に載った横田夫妻の櫻井よしこ氏との対談を読みながら、拉致家族会のことをまじめに考えてみよう。
 
 この文章、前半は横田めぐみさんが拉致されて、消息不明のなかで、北朝鮮に拉致されたことが分かるまでの苦労話でそれなりに理解できるものである。
 
 しかし、後半部分になると、読めば読むほど「?」マークがいくつも浮かんでくる。
 
 なかでも最大のものは、いったいこの人たちは何をやりたいのか、何をしてほしいのかさっぱり分からないことなのだ。
 
 言われているのは、拉致問題の解決に消極的だった人々に対する人々に対する非難と、北朝鮮に対する非難のみで、この会が結成された当初の目的であるはずの拉致された自分たちの家族を取り返すためにはどうすればいいのか、何が必要なのかという観点からの発言はいつの間にかどこかに行ってしまって一切出てこない。
 
 そもそも横田夫妻は横田めぐみさんがもう生きていないと確信しているのではないか?
 
 たとえば横田早紀江氏は最後にこんなことを言っている。
 
 「最近、『教育の荒廃』が叫ばれていますが、命の尊さを大人たちがきちんと教えないことにも原因があるのではないでしょうか。『人の命を軽んずることは許されない』という姿勢をみせて自ら範を垂れ、どんなことでも誠心誠意取り組めば必ず通じるのだと、身をもって伝えたい。ささやかではありますが、拉致問題がお子さんたちに命の尊さを伝える一助になればと、願ってやみません。」
 
 これは金正日は横田めぐみさんの命を軽んじて奪ってしまったから、金正日に報復して、命の尊さを思い知らせてやるのだといっているのと同じであろう。もちろんわれわれは報復や仇討ちが命の尊さを子供たちに伝えるものであるとは絶対に思わないが、ここでここで語られているのはそういう殺人事件の被害者の心境であろう。
 
 そうだとすると拉致家族会運動というのは多くの人々が考えているのとはまったく違ったものである可能性があるということだ。
 
 そういう点を考えながら次のところを読むとある程度納得できる。
 
 「滋 当初は『拉致担当大臣』といっても手足となるスタッフはおらず、とくに情報部門の人材が不足していて、動きたくても動けない状況だったようです。しかし、機構改革で有機的なつながりができたためか、最近の政府の対応は非常にしっかりしており、私どもも不満はございません。
 
 むしろ懸念されるのは、六者協議など外交面での今後の行方です。日本政府は『拉致問題の進展がなければ、対北朝鮮エネルギー支援には応じない』との立場をとっており、私どももこのスタンスには賛成です。しかし報道によると、中国の武大偉外務次官と米国主席代表のヒル国務次官補は『「進展」の定義を明確化せよ』と日本側に求めているそうですね。この背景には、『六者会議で拉致問題は扱いたくない』という意図が透けて見えますし、かといって日本政府が定義を明確化してしまうと、交渉カードを北朝鮮にばらしてしまうことになりますし・・・・。
 
櫻井 そんなもの、日本が応じる必要は金輪際ありません。安倍政権の『進展』の定義は、少なくとも『話し合いに応じる』という程度のものではありません。拉致被害者の方々を全員まとめて傷一つつけずに日本に帰してもらうこと以外、『進展』はないのです。自国民を多数拉致されたにもかかわらずコメや重油を支援しようという発想の方が、よほど道議にもとる行為です。
 
早紀江 そうですよね。日本のみならず世界中から人々を拉致した非道な国家が、拉致してきた国々からぬけぬけと食糧やエネルギーを強奪するなんて、許し難い行為です。」
 
 無前提のまま読めば、実に意味不明な会話である。日本政府は『拉致問題の進展がなければ、対北朝鮮エネルギー支援には応じない』との立場をとって、六カ国協議に臨み、その立場の理解を他国に求めながら、他の国に、「では『進展』の定義は何か」と聞かれて、「これは外交カード(!?!?)だから明らかにすることはできない」といい、さらには「拉致被害者の方々を全員まとめて傷一つつけずに日本に帰してもらうこと以外、『進展』はないのです。」ともいい。最後に「日本のみならず世界中から人々を拉致した非道な国家が、拉致してきた国々からぬけぬけと食糧やエネルギーを強奪するなんて、許し難い行為です。」ともいう。
 
 しかしだ、日本政府と横田夫妻が拉致被害者はもうみんな金正日に殺されてしまっているという観点に立っていると考えると、なぜ『拉致問題の進展』の定義が「外交カード」になるのかわかるであろう。
 
 つまり、日本政府と拉致家族会は「拉致被害者の方々を全員まとめて傷一つつけずに日本に帰してもらうこと以外、『進展』はないのです。」という実行不可能な要求を北朝鮮政府に突きつけて、六カ国協議の合意そのものを妨害しようとしているのである。
 
 だから横田早紀江氏の「日本のみならず世界中から人々を拉致した非道な国家が、拉致してきた国々からぬけぬけと食糧やエネルギーを強奪するなんて、許し難い行為です。」という発言になる。ここではもう拉致被害者をいかに救出するのかという観点はまったくどこかにいってしまっており、いかに北朝鮮政府に打撃を与えるのかというギラギラした憎しみと復讐の感情のみがほとばしり出ている。
 
 そしてこういう憎しみの感情こそ、拉致を口実にして北朝鮮との戦争をたくらんでいる安倍晋三政権にとっておおいに利用価値があるというものである。
 
 だから、横田夫妻はその安倍晋三政権に期待に応えるべく、「拉致問題」の障害になっている「存在」をいくつもあげている。野中広務、田中真紀子、朝日新聞、「左翼系の学者」、社民党、等々である。(われわれ赤星マルクス研究会の名前を出していただけなかったのは残念というほかないし、どういうわけか真っ先に名前が出てくるはずの日本共産党の名前がない。)
 
 これらの「存在」は実は「拉致問題」の障害と言うよりも安倍晋三政権の障害なのであって、このような愚劣なことをぬけぬけというところに彼らの救いようのない堕落が現れている。
 
 日本で「拉致問題」に本当に責任があるのは、長い間、政権与党の地位にあった自由民主党であり、日本の警察である。彼らは自分たちの統治している国で住民が「行方不明」になっていることを放置し続けていた。気づいていたのか、気づかないふりをしていたのかは知らないが、彼ら日本の支配層や政権与党や治安当局がもっと自国民の保護に気を遣っていたら今のような状態にはならなかったのである。
 
 また現在では残念ながら、拉致家族会の存在が「拉致問題」解決の最大の障害になっている。日本政府も拉致家族会も拉致被害者はみんな死んでしまっていると思って北朝鮮への復讐心だけで行動しているが、はたしてそうか?
 
 もちろんわれわれには北朝鮮で誰々が生きているという情報をもっていないが、みんな死んでしまったという確たる証拠もないのであろう。
 
 そして全員死亡という証拠がない以上、生きているという想定の下で活動するしかないであろう。われわれが何度も言うように生きている人を救い出すための活動は、殺された恨みを晴らすための活動とはまったく違うものである。
 
 われわれは昔、社労党(社会主義労働者党)時代に、大分裂を経験したがそのときの論点の一つが在日朝鮮人問題であった。われわれは労働者の政党として民族主義に組することはできないという立場で、在日朝鮮人にわれわれとともに日本政府と闘いたいというのであれば、帰化して日本国籍を取得してすべきであると言った。反対派の人々や在日の人々はわれわれの主張に憤激したが、原則的なわれわれの主張は正しかったと思っているし、その原則に固執して組織を割ってしまったと言うことも仕方のないことであると考えている。
 
 だから横田夫妻が個人的に金正日体制が許し難いという想いを押さえきれないというのであれば、われわれはやはり、あの時のように、横田夫妻には日本国籍を捨てて、北朝鮮籍を取得して北朝鮮の労働者階級とともに金正日独裁政権打倒の闘いに立ち上がることをおすすめする。
 
 ともかく現在の「拉致家族会」の活動は何かにつけて後ろ向きであり、結成当初の理念を見失っているのではないか、ここらあたりで頭を冷やすために解散するのも一つの手である。       

退廃を深める日本のブルジョアジー

2007-05-15 11:32:31 | 政治
 ブルジョアの機関誌『日本経済新聞』が北朝鮮政府に対して「力をみせろ」とわめいている。(5月13日付『日本経済新聞』朝刊、2面「コリア・ファンタジーの怪」、編集委員、伊奈久喜筆を参照)
 
 この新聞、もともとはブルジョア的理性と知性を売り物にしてきた新聞だが、最近では、恥も外聞も捨てて、ひたすら日本軍国主義復活の旗振り役を演じようとしているかのようである。
 
 その軍国主義推進機関誌『日本経済新聞』紙がいうには、リビアが核を放棄したのは、1986年にアメリカがカダフィ邸を空爆したからであるという。
 
 つまり、日本のブルジョアジーは、アメリカがリビアに対して力をみせたから、リビアは核を放棄した。だから、北朝鮮に対しても金正日の自宅を空爆をせよ、交渉はそれからだというのである。
 
 最初にいっておくが、無警告に行われたアメリカのカダフィ邸の空爆ではカダフィは死ななかったがカダフィの家族は死んでいる。これはアメリカによる純然たる国際テロ行為、つまり国家犯罪そのものであり、アメリカもそのことを知っているから、この件については公式の外交文書で触れるわけにはいかないのである。つまり、この行為が国際法上問題があったということをアメリカ政府自身が認めているのである。
 
 また、カダフィが核を放棄したのはアメリカが20年前に空爆したからではない。北アフリカ、アルジェリア、リビア、エジプトの支配者は急進民族主義者であり、彼らのもとで広がりつつあるイスラム原理主義に対抗するためには、欧米との強調が欠かせないと判断しているから、これらの国の支配層は急速に欧米に接近しているのである。特にリビアは産油国で石油や天然ガスの主な輸出先はヨーロッパだから、経済制裁をまぬがれたいという気持ちはより強かったのである。
 
 ところで、いったい誰が、金正日の自宅を空爆するのか、自衛隊のF15戦闘機か?そうではないのである。日本のブルジョア諸氏が望んでいるのは、もちろん、アメリカ軍に金正日の自宅を爆撃してもらうことである。
 
 つまり、日本の軍国主義の対北朝鮮戦争計画は自生的なものではなく、アメリカ合衆国をペテンにかけて、北朝鮮との戦争に引き込み、自分たちは後方でアメリカ軍のお手伝いして、漁夫の利をえようという浅ましいものなのである。
 
 日本のブルジョアジーは、日本の国民もアメリカの国民もバカだから、まさか自分たちの対北朝鮮戦争計画に気がつくようなことはないであろうと思い上がっているが、日本軍国主義の考えていることは、アメリカ合衆国ばかりか、韓国、中国、ロシアにおいても周知の事実である。
 
 他の国が何もいわないのは、自分たちにとって日本資本主義はまだまだ利用価値があると思っているからにほかならない。
 
 そして、こういう日本のブルジョアジーの根拠のない思い上がりこそが、自ら国際的な孤立を深め、破滅の道を選択させているのである。
 
 われわれが主張しているように、新生日本軍国主義の破滅が、たんに政治的な変革にとどまらず、社会変革と結びつかざるをえないのは、この運動の背後には、この社会の支配階級である日本のブルジョアジー自身が、すでに、支配階級としての健全性を喪失して、理性と冷静さを見失いつつあるからであり、これは別の言葉で言えば、ブルジョアジーが統治能力を失いつつあるということでもある。したがって、この日本の軍国主義化運動は日本国憲法の改正を含めて行くところまで行き着かざるをえないのである。
 
 もちろん、もちろんわれわれは日本のブルジョアジーが戦争熱に浮かされて、北朝鮮との戦争を渇望していることは破滅への一里塚だから勝手にやらせておけという傍観的な立場をとるつもりはない。戦争、とりわけ、日本周辺での、日本軍が関わるかたちでの戦争は、労働者にとって不利益であるがゆえに、われわれは明確に戦争に反対するとともに、東アジアで無用な緊張を高め、それをテコに軍国日本を建設しようとするあらゆる試みに反対するであろう。

安倍晋三政権の行く手に大暴風雨あり

2007-04-24 18:22:33 | 政治
 安倍晋三政権が“くだらないこと”に足を取られて、複雑骨折のうえ、ご臨終になる可能性が出てきた。
 
 それはもちろん、長崎市長(候補)銃殺事件のことである。
 
 この前のブログでは意図的に書かなかったが、この事件の奇妙な点は安倍晋三氏の事件直後(10分後)のコメントである。
 
 当初これは、政治的なテロと考えられていたので、安倍晋三氏はテロに対して寛容的にすぎるのではないかという非難がなされていたが、その後何らかの利権をめぐるトラブルであろうという見方が広がるにつれて、その奇妙さは際立ちはじめている。
 
 つまり、安倍晋三氏の「真相究明うんぬん」というコメントは、これが政治的なテロではないということを前提にした発言であるので、なぜ安倍晋三氏は事件発生10分後に、これが政治的なテロではないということを知りえたのかという疑問であり、さらにはそこまで知っていたのであったのなら、このような事件が起こるということ自体を前もって知っていたのではないかという疑念である。
 
 このことはある意味でどうでもいいと言うことではない。人は何かをやった(作為行為)から罰せられるだけではなく、何もしなかった(不作為行為)によっても罰せられるのである。
 
 したがって殺人計画が具体的に進行中であることを知りながら、何もしなかった(犯行を積極的に止めようとしなかった)ということで殺人幇助(ほうじょ)の不真正不作為犯の罪に問われる可能性もある。
 
 もちろん事件とは無関係の一般市民が殺人計画が進行中であり、その計画を知ってしまったが怖くて誰にも言えなかったという場合に罰せられることはないが、その人が刑事であり、事件を捜査中に捜査対象者が殺人を計画していることを知り、どうせあいつが殺そうとしているのはヤクザだということで何もせず、結果として殺人が実行されてしまった場合、その刑事は事件を防止する義務があったにもかかわらずその義務を果たさなかったということで殺人幇助の不作為犯の罪を問われることもある。
 
 この場合、安倍晋三氏は日本国の内閣総理大臣であるから当然、殺人計画があれば、それが実行に移されないように防止する義務があるので安倍晋三氏の地位は殺人幇助の不作為犯の犯罪構成要件となる。だから、安倍晋三氏がもし前もって知っていたということであれば大変なことになる。(ひょっとすると安倍晋三氏は東京拘置所の中で参議院選挙の結果を聞かなければならなくなるかも知れないのである。)
 
 そういう点からいえば、情況証拠は安倍晋三氏にとってますます不利になりつつある。
 
 今週の『週刊朝日』によれば、警察庁の幹部は驚くべき証言をしているという。
 
 「実をいうと、警視庁は実行犯である城尾哲弥容疑者が所属していた組織・水心会を長期間にわたって長崎県警の頭越しに捜査していたのです。
 
 にもかかわらず、今回の凶行が防げなかった。長崎県警はもちろん、警察庁、警視庁内でも『見逃した』、『捜査ミスだ』と非難囂々(ごうごう)なんです。
 
 この捜査に警視庁が関わるきっかけとなったのは、実は、安倍晋三首相絡みの話。昨年秋、警視庁が安倍首相サイドから当時在籍していた秘書のトラブルについて相談を受けたことでした。トラブルの中身は、秘書が右翼や暴力団から脅されている、というもの。
 
 警視庁はそっそく捜査を開始。水心会の関与を特定し、今年1月、水心会幹部を銃刀法違反容疑で逮捕した。その後も、ほかの水心会の構成員らをマークしていたのです。」(『週刊朝日』、5/4、11合併号)
 
 日本の警察が「マークする」というのは、通常は電話などを盗聴するという意味であり、城尾哲弥容疑者が犯行に使用した拳銃はこの時警察が押収した拳銃と同一の種類の拳銃(リボルバー38口径)である。
 
 しかも城尾哲弥容疑者は水心会の幹部(会長代行)なのだから警察が彼をマークしていないわけがない。
 
 また城尾哲弥容疑者のいう、「ケジメをとる」というのは、ヤクザ言葉で、組織に不利益を与えたものに責任を取らせるということであり、あくまでも組織を前提とした言葉であるし、事件直後、城尾哲弥容疑者のほかにも不審な者がいたという目撃証言もあり、この犯行が組織ぐるみの犯行であったという疑いはぬぐいきれない。
 
 そしてこの犯行が水心会の組織が関与するかたちで行われていたとするなら、水面下で水心会を監視していた者はその計画を知りえたであろう。
 
 しかも、捜査を依頼したのが安倍晋三氏の関係者であったとするなら、当然、安倍晋三氏は捜査の進捗状況を報告されていたであろうし、その報告の過程で殺人計画が進行していたことを知りえたのかも知れないのである。
 
 いずれことの真相はあかるみに出るであろう。 

安倍内閣の暴走

2007-04-14 00:35:12 | 政治
 「国民投票法案」と「米軍再編法案」が強行採決で衆議院を通過した。日本列島には政治に対する怒りが大きく渦巻いている。
 
 安倍晋三政権になって重要法案はすべて強行採決によって国会を通過している。
 
 要するに、自民党と公明党が衆議院で多数を占めているから、自分たちが望んだ法案を数の力で通過させているのである。ここには救いがたいおごりと慢心がある。
 
 これははっきり言ってブルジョア民主主義の破壊であり、その結果は自由民主党のみならず、日本の将来にとって破滅的なものとなろう。自民党が自分たちだけで破滅したいというのであれば、われわれは何もいわないが、日本の社会を巻き込むかたちで破滅に向かって進んでいるというのであれば、われわれも何事かをいう必要がある。
 
 現在、日本の社会には、政治によって見すてられた人々が何百万人もおり、彼らには不満と怒りが鬱積している。議会政治が人の話を聞く耳を持たないというのであれば、選挙で自分たちの代表を選んで、自分たちの見解を政治に反映させようとする試みが無意味であるというのであれば、彼らは自分たちでそれ以外の方法によって自分たちの見解を主張し、政治に反映させようとするであろう。
 
 彼らこそ社会の真の主権者であり主人公なのだから、彼らにはそうする権利がある。いずれにせよ、政治不信、政党不信として存在していた人々の怒りや鬱積は、すでに議会政治というこの社会の大枠のなかにはおさまらなくなってしまったようだ。だとするなら、これはやがて行動というはっきりとしたかたちで現れて来るであろう。
 
 今回の安倍晋三の愚挙は、戦後長い間暗黙の事項として存在していた、階級間の“休戦協定”を一方的に破棄するものであり、社会の防波堤(議会政治にはこのような役割もあった)には修復不能な亀裂がはいってしまったのである。
 
 われわれもこのような事態が来るのはもっと先の十年後、二十年後のことであると考えていたが、時の流れは、最近どんどんと速くなってきている。そういう点では、バカ・ファシストが自分の愚かさもかえりみずにバカなことをやっていると笑っていられた時代はあっという間に終わってしまったのであろう。
 
 われわれは安倍晋三によって無理矢理、激動の時代の扉の前に立たされてしまったのかも知れない。
 
    

『報道ステーション』は1969年12月の新左翼

2007-04-06 02:03:53 | 政治
 自他ともに新日本軍国主義のちょうちん持ちを自認している『報道ステーション』は、最近不気味さを増している。
 
 あれやこれやの殺人事件を延々と取り上げ、最後に人間の自分勝手さを攻撃する。
 
 これはつい数年前のマルクス主義同志会の『海つばめ』のようなものである。堕落している、利己主義だ、自分勝手だ、云々とつねに道徳的観点から、まるで道徳的な資本主義でもあるかのように、労働者に道徳的なお説教をたれる。
 
 悔い改めよ!天国は近い!こういって彼らは本当に天国の人々になってしまったのだが、これはマルクス主義同志会の政治と活動が完全に行き詰まっており、自分たちで新しい展望を切り開くだけの活力さえ喪失していたからである。
 
 これに対して『報道ステーション』は一つの組織の状態ではなく、一つの時代を映し出している。
 
 それはあえて言えば、1969年の12月のようなものである。「佐藤訪米阻止!11月決戦勝利!」この言葉で新左翼は69年を乗り切ろうとしたが、すでに新左翼運動は下降線をたどっており、何事もなかったかのように佐藤栄作は飛行機に乗ってアメリカに飛び立っていった。
 
 「闘いすんで日が暮れて」つもる思いは負けてはならない闘いに負けてしまったという挫折感だけである。高倉健のヤクザ映画がはやったのはこの頃である。
 
 この頃の日本の思想状況は、パトスとか、情念とか、怨念とかいったドロドロとした、理性に基づかない人間の情動があちこちで吹き出しており、ニヒリズム(虚無主義)の風潮が蔓延していた。
 
 このニヒリズムのなかで、70年代の爆弾闘争と「内ゲバ」という新左翼のテロリズムが醸成されていったのだが、不思議なことに『報道ステーション』を見るたびに、この頃のことが想起されるのである。
 
 それは、おそらくこの番組のいたるところで道徳的な憤激が、パトスとか、情念とか、怨念とかいった理性に基づかないドロドロとした人間の生の感情が吹き出しているからであろう。しかもそれはけっして暖かいものではない。普通、人間の感情は暖かいものだが、それが暖かくないのは、その感情が人々の共感を呼ばないものであり、人々が共感を呼ばないことが情念とか、怨念とかいったドロドロとした人間の生の感情の突出になっているからである。オレが一生懸命やっているのにお前らは何で分からないんだ、そういう人間の空しい叫び声があちこちで反射してこの番組の雰囲気をかたちづくっている。
 
 ではなにゆえ『報道ステーション』はこのような暗い情動の虜(とりこ)になってしまったのか?
 
 それはもちろんこの番組が掲げている新日本軍国主義にある。いくら「新」の字をつけていても軍国主義は軍国主義でしかない。戦前の日本が家族-地域-国家といった天皇を頂点とする儒教的なピラミッド型の秩序を理想としながら、現実には日本の労働者・人民とアジアの人々を蹂躙(じゅうりん)する凶暴な軍事的独裁国家でしかなかったように、現在の新日本軍国主義が家族-地域-国家といった天皇を頂点とする儒教的なピラミッド型の秩序の再建をめざしたところでうまくいくはずもないのである。
 
 儒教的な秩序は封建的な身分制度に基礎を置いているのであるから、資本主義の発展とともに、その基礎となっている身分制度が崩れるとともに、崩壊し、そのような道徳自体が意味のないものになっていくのは避けられないのである。
 
 こういうことはすでに戦前の日本でも起こっていたのであり、それが凶暴な軍事的独裁国家を生み出す原因にもなっていたのである。
 
 だから例えば、新日本軍国主義の推進機関である「教育再生会議」が正月には家族そろって、日本の伝統やご先祖様のお話をしましょうなどと言っても、正月にも家に帰れず働かなければならない労働者が数十万人も、数百万人もいる日本の現実のなかでは、あいつらはバカじゃないかと笑いものにされるしかない。
 
 また日本の政府やマスコミがこのような過去の亡霊に取り憑かれ、愚かな言動をふりまくたびに日本の孤立化も進行していくしかないのである。
 
 新日本軍国主義勢力は時代に合わないものを人々に押しつけようとして失敗し、国際社会からも、日本国民からも乖離し、孤立感を深めつつあり、それがやり場のない感情の突出となって表れはじめている。
 
 1969年12月の新左翼は、この挫折感のなかで大量の脱落者と一握りのテロリストたちを生み出すことによって衰退していったが、新日本軍国主義勢力は困ったことに権力マスコミを掌握している。彼らが絶望からテロリズムに傾斜していったら、それこそそれは人類社会の脅威であろう。
 
 そういう点では、日本の政治は難しい局面を迎えそうである。

安倍晋三政権にとって「拉致問題」とは何か?

2007-04-06 02:01:59 | 政治
 安倍晋三政権にとって「拉致問題」とは何かを明らかにする事件がいくつも起きている。
 
 1. 「鴨田小学校拉致未遂事件」
 
 この事件は、「自称、拉致被害者」、つまり日本人が日本人をペテンかけて連れ出そうとし、それができないと分かると暴力的に拉致しようとして失敗した事件。
 
 2. 「73年品川区母子失跡事件」
 
 この事件は北朝鮮の工作員を夫に持つ日本人女性が夫を捜して、北朝鮮工作機関の拠点であった貿易会社の近辺を探し回っていたために、母親と子ども二人が行方不明となり、子ども二人が北朝鮮に連れて行かれたもの。
 
 日本政府、すなわち安倍晋三政権は1.については完全に無視しており、2.については「拉致事件」として認定している。
 
 1.は日本人が日本人を北朝鮮に連れて行こうとしたものであり、2.については朝鮮人が朝鮮人を北朝鮮に連れて行ったものである。(子どもたちは父親の朝鮮籍に入っていた)
 
 安倍晋三政権が1.についてはいっこうにかまわないが、2.については「断じて許しがたい」というのは、1.の実行犯が日本人で2.の実行犯が朝鮮人だからであろう。
 
 つまり、日本人同士なら何をやってもかまわないが、朝鮮人が朝鮮人を北朝鮮に連れて行くのは許しがたい犯罪行為であるというのは、明らかに朝鮮人に対する民族差別であり、「拉致問題」を利用して朝鮮総連を不当に弾圧したり、在日朝鮮人の人権を蹂躙(じゅうりん)したり、北朝鮮政府に対して敵対的な挑発行為をとろうというものであり、ヒトラーのナチスドイツがユダヤ人への偏見を利用して、ゲルマン民族主義を煽って「恐怖の第三帝国」を築き上げたようなものであろう。
 
 またこうも言えよう。1.の被害者は左翼で、2.の被害者は左翼ではないからであると。左翼でないものは法律の保護の対象となり、左翼は法律の保護の対象にはなりえない、というのであればそれこそ思想信条による差別というものであろう。
 
 このことは安倍晋三政権が「拉致問題」を一つの政治問題としてとらえているということであり、自分たちの政治、すなわち新日本軍国主義体制樹立の道具としてとらえているということでもある。この観点からするなら、たしかに1.は安倍晋三政権にとって利用価値のないものであるがゆえに取り上げるには値しないものであろう。
 
 そして2.は朝鮮総連を追いつめる道具にできるということで、34年も前の事件であろうが、被害者が朝鮮国籍をもつものであろうが、おおいに利用価値があるというものだ。
 
 安倍晋三政権のもとでこのように「拉致問題」が政治の道具となることによって、「拉致問題」の解決は不能となり、ますます労働者にとってどうでもいいものになっていく。
 
 ある意味でこれが「拉致問題」の「解決」なのかも知れない。安倍晋三政権が「拉致問題」を解決不能などうでもいい問題とすることによって、この「問題」自体を忘却の彼方へ、歴史の闇の中に抹消しようというときに労働者が言うことは何もない。  

日本は六ヵ国協議に賛成していなかった!

2007-02-19 00:42:00 | 政治
 われわれは情報不足でマスコミの報道を信頼するしかないので、先に行われた六ヵ国協議において日本は合意に賛成し、国内向けにゴチャゴチャ言っているだけだと思っていた。
 
 しかし、2月18日の『赤旗』に発表された六ヵ国協議の議事録ではそうでなかったことがわかる。『赤旗』の議事録ではこうなっている。
 
 「アメリカ合衆国、中華人民共和国、ロシア連邦、大韓民国は各国政府の決定に従って、(共同文書)第二条5項および第四条に規定された朝鮮民主主義人民共和国に対する支援負担を、平等と均衡の原則に基づき分担することに合意し、日本が自国の憂慮事項が扱われ次第、同一の原則に従って参加することを期待し、またこの過程で国際社会の参加を歓迎する。」
 
 これをみると今回の六ヵ国協議の合意は、北朝鮮、アメリカ、中国、ロシア、韓国の5ヵ国の間でのみ行われており、日本政府は合意事項に、参加を期待される立場であることがわかる。
 
 つまり、北東アジアの安全保障の枠組みを話し合う六ヵ国協議から現在のところ日本は完全に脱落してしまっており、残りの5ヵ国によって復帰を期待されている存在なのである。
 
 こういう極めて重要なことを伝えなかったことはマスコミの日本国民に対する背信行為であり、その責任は極めて重大である。
 
 もちろん、日本政府が言う「自国の憂慮事項」とは「拉致問題」のことで、4ヵ国(アメリカ、中国、ロシア、韓国)はこの問題が「扱われる」、すなわち、日朝の作業部会が開かれた段階で、日本が国際社会に復帰することを期待するといっているのだが、日本政府の説明、もしくは意向では「拉致問題で何らかの進展があれば」復帰するということになっている。(この復帰の時期の食い違いについても日本政府とマスコミは口を閉ざしている。)
 
 そして「拉致問題」の進展は、現在の日本政府のやり方ではほぼ不可能であることを考えると、日本が六ヵ国マイナス一ヵ国協議に復帰する日はもうないということでもあろう。
 
 われわれは日本政府とはいかなる利害関係も持っていないので、基本的に日本政府にあれこれと指図したり、指導したりするという立場ではない。日本政府がこれでいいというのであれば、好きにすればいいのだし、結果については、すべて日本政府が一身で責任を負うべきことがらであろう。
 
 つまりわれわれの立場は、日本政府が国際的に孤立して破滅の道を歩もうとも、そういうことにコミットしないという立場である。(われわれは安倍晋三政権が誕生する以前に安倍晋三政権が誕生すればこういうことにしかならないという警告はすでに何度も行っている。)そもそも一国の政府というのは国民がそこまで手取り足取り面倒を見なければならないものなのか?
 
 われわれが言いうることは、こういうことをやっているようでは日本資本主義の総体的な破産はそんなに遠くない日にやってくるだろうということのみである。  

マルクス主義同志会の賃上げ反対論

2007-02-14 02:12:07 | 政治
 客観的に言えば、マルクス主義同志会(旧社会主義労働者党)の時代はとっくに終わっている。
 
 20世紀最後の年であった2000年から、われわれ赤星マルクス研究会が登場する2005年まで、この組織が果たそうとした役割は労働者にとってまったく許しがたいものであった。
 
 この5年間は日本資本主義の再建の5年間であり、日本の失業者は300万人を越えていた。
 
 この日本の労働者階級が大きな困難を抱えていた5年間に、林紘義氏を筆頭とするマルクス主義同志会は、マルクス主義そのものを葬り去ることによって、左翼運動や労働運動そのものを葬り去ろうとした。
 
 彼らのこの試みが失敗したことはすでに明白なものになっている。彼らのマルクス主義からの逸脱は、むしろ彼らの社会的孤立を深め、労働者からの影響力を喪失させるのに役だったのみである。
 
 そこで彼らは再び装いを新たにして同じことを繰り返そうとするのだが、今では彼らのやることなすことすべてが喜劇的にしか見えないのは、この組織がすでに没落の最後の段階に到達しようとしているからである。
 
 この「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」というマルクスの有名な言葉(正確には、「ヘーゲルはどこかで、すべての世界史上の大事件と大人物はいわば二度現れる、と言っている。ただ彼は、一度は悲劇として、二度目は茶番として、とつけ加えるのを忘れた。」[『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』]という言葉)については、誰かがヘンなことを言っていたのでもう少し説明が必要なのかも知れない。
 
 誰か(名前は忘れた)は、このヘーゲルの言葉とマルクスの言葉を一緒にして、これが史的唯物論(?)であるというのだが、ヘーゲルとマルクスでは使い方はかなり違っている。
 
 ヘーゲルがこの言葉を使ったのは『歴史哲学』の第3部である。
 
 「共和制はローマでは、もはや存続することは不可能であった。キケロを読めば一番よく分かることであるが、公共の事がらがいかに勢力者の私的声望によって、その権力によって、その富によって左右されたことか。また一切のことがいかにケンカずくで処理されたことか。
 
 こうして共和国のなかにはもはや何の支柱もなく、支柱はただ一人の個人の意志のなかに見出されうるにすぎなかった。
 
 カエサルはローマ的合目的性を身につけたその好個の典型であり、最も正しい知性によって決断を下すとともに、少しの私情、私心もはさむことなしに、その決断を勇猛果敢に実行に移した人であるが、そのカエサルこそ個人生活と公共生活との媒介をなし、当時の状勢が必然的に要求したところの共同生活の支柱、政治的団結の手段と方法とを供することによって、世界史的な役割を果たしたのである。
 
 カエサルの事業は二つの面に分けてみられる。すなわち、国内の対立を鎮定したと同時に、国外関係でも新生面を開拓したことである。
 
 これまではローマの世界制覇はアルプスの圏内に限られていたのであるが、カエサルはさらに新しい舞台を開いたからである。すなわち、彼は今後、世界史の中心点になるはずの舞台を、ここに建設したのであった。
 
 それからまた、ローマの中だけでは解決されないで、全ローマ世界を征服することによってはじめて勝負がつくような戦を通じて世界の支配者となったのである。
 
 かれはなるほど共和制に反対したには違いがない。しかしそれは実は共和制の幻影に対して反対したまでである。というのは、そこには共和制が残存していたというだけで、そのすべてはもはや名目にすぎなかったからである。
 
 ポンペイウスや、元老院に加担した連中はみな、実は自分一身の地位と権威、個人的な野心を、共和国の権威という美名の下に満足させようとしたにすぎなかった。したがって、共和制の護持の必要を叫んだ中立の連中も、やはりこの美名に迷わされていたのである。
 
 カエサルはこのかけ声の手の内を見抜き、その形式主義にとどめを刺し、自ら主権を握ることによって、こういう手合いの個人的な野心を腕力を持っておさえ、もってローマ世界の統一をうち立てたのであった。
 
 にもかかわらず、ローマの最もすぐれた人たちでさえも、カエサルの支配を偶然的なもの見、個人的野心に基づくものと見、当時のローマの全運命がすべてカエサルの個人の野心によって左右されようとしたかのように考えた。
 
 キケロがそうであったし、ブルトゥスやカッシウスもそうであった。彼らはこの一人の人物を除けば、自ずから共和国が蘇生するものと思いこんだのである。
 
 このとんでもない誤解から、極めて高潔な人物であったブルトゥスと、キケロよりはずっと実行力のあったカッシウスとは、彼らが誰よりもその徳行に敬意を表していたその人を暗殺したのである。
 
 けれども、ローマの国家は、もはやただ一人の人間の指揮に待つほかないものであったことは、その後早速、証明され、ローマの人々もまた、これを思い知らされねばならなかった。
 
 一体に国家革命などというものは、それが繰り返して行われる時にはじめて、世人を納得させるものであることが、これを見てもわかる。
 
 この意味で、ナポレオンは二度、敗北する必要があったし、ブルボン王朝は二度、廃止されなければならなかった。
 
 要するに、はじめは単に偶然的、可能的なものとして見えなかったものも、反復されることによってはじめて現実的なものとなり、確認されることになるのである。」(『歴史哲学』)
 
 名前も思い出せない人の批判をするのは本意ではないので、簡単にいうのだが、その人はこのヘーゲルの言葉をそのままマルクスの言葉として、「民主主義は堕落して、必然的に独裁に転化する」というようなことを言っていたと思う。
 
 しかし、ここではヘーゲル自身が、なぜカエサルが死んで、カエサル(ローマ初代皇帝、オクタビアヌス)が出てきてのかということに答え切れていない。
 
 確かにヘーゲルは、古代ローマがイタリア半島を越えて世界帝国になりつつあり、都市国家の制度である古代民主主義とは違う統治形態を必要としていたということを見ていたが、古代ローマの民主制の基礎であった、自営農民であるとともに、軍事力の中心であった重装歩兵でもあった平民が没落して、参政権だけを持っていたプロレタリー(無産市民)に転落してしまっており、古代民主主義の基礎そのものが消失していたことを見ていない。
 
 だから、ヘーゲルは可能的なものは必然的であるという弁証法の真実を語りながら、その内実を語れないでいる。
 
 だから単にヘーゲルのマネをしているだけの彼も何の根拠も示さずに、「民主主義は堕落して、必然的に独裁に転化する」などというのである。
 
 これに対してマルクスはなぜ「歴史は繰り返す、一度は悲劇として、二度目は喜劇として」なのかということを『ヘーゲル法哲学批判』の中でくわしく説明している。
 
 「近代的諸国民にとってさえ、ドイツの現状の固陋(ころう)な内容に対するこの闘争は、無関心事ではありえない。
 
 なぜなら、ドイツの現状は旧制度のいつわらざる完成であり、そして旧制度は近代国家のかくされた欠陥であるからである。
 
 ドイツの政治的現在にたいする闘争は近代諸国民の過去に対する闘争であって、この過去のなごりにこれらの国民はいまだに悩まされているのである。
 
 彼らの国で悲劇を体験した旧制度がドイツの亡霊として喜劇を演じるのを見るのは、彼らにとって教訓深いことである。
 
 旧社会が世界の既存の権力であり、これにたいして自由が個人の思いつきであったあいだ。ひと言で言えば、旧制度が自分で自分の正当性を信じ、また信じないではいられなかったあいだは、それの歴史は悲劇的であった。
 
 旧制度が現存の世界秩序として、やっと生まれかけてきた世界と戦っているあいだは、旧制度の側にあったのは世界史的な誤謬であって、けっして個人的な誤謬ではなかった。それの没落は、だから悲劇的であった。
 
 これに反して現在のドイツの制度は、一つの時代錯誤であり、一般に認められた公理にたいする明白な矛盾であり、すなわち衆目にさらされた旧制度の空しさであるが、それは自分自身を信頼していると思いこんでいるだけなのに、世界にも同じように思いこむことを要求しているのである。
 
 もし自分自身の本質を信頼しているのであれば、その本質を別の本質の下にかくそうとしたり、偽善や詭弁に逃げ道を求めたりするであろうか?
 
 近代の旧制度は、もはや、本当の主人公たちがすでに死んでしまっている世界秩序の道化役者でしかない。
 
 歴史というものは徹底的であって、古い形態を葬るときには、たくさんの段階を通るものである。世界史の形態の最後の段階は、それの喜劇である。
 
 ギリシアの神々は、アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』のなかですでに一度傷ついて悲劇的に死んだのであるが、ルキアノスの『対話』のなかでもう一度喜劇的に死ななければならなかった。
 
 なぜ歴史はこういう道筋を通るのか?それは、人類がその過去と明るく別れるためである。こういう明るい歴史的運命を、われわれはドイツの政治的諸勢力にも要求する。」(『ヘーゲル法哲学批判』1844年)
 
 1844年というのはマルクスがようやくマルクス主義者になりかけた時期であったので、言葉遣いが後年のものと比べて違う。ここでマルクスが言う「旧制度」というのは、フランス革命前のアンシャン・レジームのことである。
 
 つまり、マルクスはアンシャン・レジームがフランス革命の中で没落していったのは、悲劇的であったが、アンシャン・レジームに近代的な装いをこらしただけのドイツの「旧制度」(1844年当時のドイツ)は喜劇的であるというのである。
 
 ここでマルクスはそのドイツの旧制度に対して、「もし自分自身の本質を信頼しているのであれば、その本質を別の本質の下にかくそうとしたり、偽善や詭弁に逃げ道を求めたりするであろうか?諸君たちは、もはや、本当の主人公たちがすでに死んでしまっている世界秩序の道化役者でしかないではないか」と断罪しているのである。
 
 そしてその言葉はマルクス主義同志会の諸君にそのままあてはまる。
 
 なぜなら彼らの本質は18世紀の「リカード派社会主義」そのものだからである。
 
 18世紀のリカード派社会主義は資本主義擁護論によって資本主義を克服するという、完全な自己矛盾の中で解体していったが、その解体は資本主義的生産様式を乗り越える論理をまだ社会主義が持たなかったという時代的な制約の下では一つの悲劇でありえた。
 
 マルクス主義は、彼らの欠陥の克服の過程で生まれたのである。
 
 ところが21世紀の「リカード派社会主義」はマルクス主義の偽装の下であらわれている。すなわち、「リカード主義同志会」が「マルクス主義同志会」を僭称しているのである。
 
 しかし、彼らがいくらマルクスを自称していても彼らが何ものであるのかは、春が来ればたちまち明らかとなる。
 
 彼らマルクス主義同志会は春闘の時期になると「賃上げ」と「革命闘争」を対置し、労働者に「賃上げ」ではなく「革命闘争」を選べと言いながら、自分たちは「革命闘争」はやらないと公言しているのだから、結局のところマルクス主義同志会は労働者に何もするな、賃上げ闘争をするなと言っているに等しい。
 
 彼らの労働者の賃上げ闘争にたいする憎悪はまさにリカードのものである。賃上げは資本家の利潤を減少させるという恐怖こそ、彼らをして労働者の闘争圧殺に駆りたてる衝動そのものである。
 
 そのためにありとあらゆる誹謗と中傷が動員される。賃上げ運動を指導しているのは組合主義者や共産党の日和見主義者である、わずかばかりの賃上げで格差はなくならない、大企業の労働者が賃上げすれば格差はもっと広がる、賃上げで景気の回復などできない、云々と。
 
 しかし、組合主義者や共産党の日和見主義者が賃上げ闘争に取り組まなければならないのは、そうしなければ彼らが労働者から見すてられるからであり、労働者が賃上げを求めるのは、格差を縮小させるためでもなく、景気を回復させるためでもなく、自分たちの生活を維持するためである。
 
 つまり、生活そのもの(資本主義的生産様式の下で労働者が強要されている生活そのもの)が彼ら労働者を賃上げ闘争に駆りたてているのである。
 
 だから春一番が吹けば、毎年、労働者からしてみれば、「なんだあいつらは?」という話になる。こういったマルクス主義同志会の異様さはまさに現代の喜劇であり、「一つの時代錯誤であり、一般に認められた公理にたいする明白な矛盾であり、すなわち衆目にさらされた旧制度の空しさ」そのものであろう。
 
 しかし、マルクスはこの喜劇に対してこうもいっている。「なぜ歴史はこういう道筋を通るのか?それは、人類がその過去と明るく別れるためである。」と。
 
 だから、労働者階級が明るくマルクス主義同志会に別れを告げる日はもうすぐやってくるであろう。
 
 
     

人命の尊さこそ知らしめよ

2007-02-12 00:58:44 | 政治
 前回は、現代版曾我兄弟仇討ち物語(刑事訴訟法の改悪)であったが、今度は、現代版「殉職物語」である。
 
 何というか、現在の日本の社会は確実に病んでいる。
 
 事態が深刻であるのは、この病には自覚症状がないために、悪くなくなることはあってもよくはならないということである。
 
 ここで新日本軍国主義のチョウチンをもってドンチャン騒ぎをやっているのは、一部のマスコミ、特にテレビ朝日の報道ステーションである。
 
 報道ステーションでは、連日のように、東京で列車事故のまきぞえになった警官を“美談”として報道している。
 
 しかし、第一に、線路内に女性が入った時、事故にあった警官が、列車を止めようとはしないで、女性を止めようとしたのは必ずしも正しい判断であったとはいえないということ。
 
 第二に、救助活動や救難活動、救命活動はつねに二次災害を防止するという観点からなされるべきで、一つの命を救うためにもう一つの命が失われるということでは救助活動の意味がないということ。そういう点ではこれは“美談”ではなくて、救助活動が失敗した例であろう。
 
 第三に、これが一番重要なことだが、こういう話が“美談”として伝えられると、マネをする人が必ず出てくる。もし誰かがこの警官のマネをして線路に飛び出してその人が列車にはねられて死んでしまった場合、誰が責任をとるのか。報道ステーションにこういう事態に対して責任をとる決意はあるのか?
 
 第四に、こういう話を“美談”として報道するということは、どのような事情があろうとも、線路の中に入ってはいけないという社会の不文律を犯すことになる。実際に、線路に飛び出すことは、生命に関わる重大な結果をもたらすのであるから、こういう行為は無謀であり、やってはいけないことなのだということこそマスコミが伝えるべき真実であろう。
 
 これは不幸な事故であって、このようなことが再び起きないように再発防止を訴えることが社会の公器であるマスコミのなすべきことではないであろうか。
 
 報道ステーションがこのような社会に対する責務を忘れて、現代版「殉職物語」に熱中しているのは、国民に“自己犠牲”の精神を訴えるためである。
 
 戦前の軍国主義教育では、国家主義とともに「人命は鴻毛のごとく軽し」(鴻毛=こうもう、おおとりの羽毛の意味で軽いもののたとえ)ということを教えることが重要な教育目標であった。つまり、人間の命というのはゴミのようなものであるから、国のためにいつでも投げ出せるようにしておけ、ということを幼い頃から子どもたちにたたき込むことが学校の仕事であった。
 
 日本のバカ・ファシスト安倍晋三も、国のために命を投げ出す人間を作ることが教育の目的であると平然と語っている。
 
 しかし誰かが誰かの犠牲によって生きており、社会が一部の人の犠牲によって存立しているような社会は、健全で民主的な社会とは言いがたい。
 
 民主社会は人命の尊重によって成り立っており、一人一人の人間を人間として大切にするということから出発している。
 
 そういう点からするなら、自己犠牲の精神を“美徳”または“規範意識”として、平然として国民に押しつけようとする国家は、もはやファシズム国家そのものであろう。
 
 安倍晋三が首相になってまだ半年もたっていないが、この政権のもとで確実にブルジョア民主主義は死滅に向かっている。
 
   

壊死に向かう日本のブルジョア民主主義

2007-02-10 01:54:38 | 政治
 民主主義が国民の不断の努力によって維持されるものであるとするのであれば、民主主義を守ることに熱心でない国民のもとでブルジョア民主主義が形骸化し、変質していくのは避けられない。
 
 とりわけ現在の日本の社会の支配的勢力である資本の勢力が衰退期を迎え、退廃を深めていく時には、彼ら自身が民主主義を桎梏と感じており、その形骸化のなかにこそ、安住の地を見出しているのであれば、なおのことブルジョア民主主義が変質して、壊死していくことは避けられない。
 
 そして、多くの誤解を持っている人々がいるようなので、このさいはっきりと言っておくが、われわれ赤星マルクス研究会もまたブルジョア民主主義の守り手ではない。
 
 われわれはこのブログで民主主義の諸原理に何度も言及しており、その諸原理が変質していくことに反対しているが、われわれの立場は変質したものを元に戻せという立場ではない。
 
 われわれは近い将来に、労働者の民主主義を獲得するために、ブルジョア民主主義を学んでいるのであり、労働者が受け継ぐべきものと、そうでないものをつねに取捨選択するために、民主主義の原理に立ち戻ってブルジョア民主主義を見ているのである。
 
 資本主義の上部構造としてのブルジョア民主主義は、当然のことながら、資本主義的生産様式と運命をともにするのであり、歴史的に限定された統治原理である。
 
 もちろんそれは奴隷制に基礎をおいていた古代ローマやギリシャの民主主義よりも、はるかに強靱で広範な基盤を持っているが、それでも資本と賃労働という敵対的な階級関係に基礎をおいている民主主義である以上、限界のあるものであり、人類普遍の原理というわけにはいかない。
 
 そういう点では、民主主義が真に花開くのは、社会の成員が真に平等で自由であるような社会であり、そのような社会は社会の成員があらゆる桎梏から解放されることによってのみ建設することが可能であろう。
 
 そして現在の日本の状況はこの特有の狭さを持っているブルジョア民主主義ですら、その守り手がいないために壊死しようとしているのである。
 
 その一例が、最近さかんにいわれている「被害者の権利」というものである。
 
 法務省はこの「被害者の権利」を保護するために、被害者が裁判に参加して、被告人に質問したり、検察官に代わって求刑することを認めるのだという。そのために刑事訴訟法の改正が今国会でなされるのだという。
 
 犯罪被害者にある程度の訴訟上の当事者能力を持たせるというのは、それほど問題のあることではない。被害者しか知りえない事実もあろうし、被害者しか知りえない情状もあろう。
 
 しかし、それが義務である場合、問題が生じることもある。被害者感情としてもう二度と加害者の顔を見たくないという場合もあるのではないか。実際、感情のもつれから犯行がなされた場合、犯行後も感情はもつれたままで修復不能になっている場合が多いのではないか。
 
 個人的なことでいえば、私は20年前にある人物から言葉たくみに北朝鮮に密入国することを勧められ、断ると無理矢理連れて行こうとし、それもできないとなると殺害しようとさえした。
 
 もしこの人物の刑事裁判が行われ、あなたも私のとなりに座りませんかと検察官にいわれたとしても、私は当然お断りする。正直言って、私はこの人物の顔を二度と見たくはないし、この人物がどうなっても私の知ったことではないのだから、私が二度と会いたくないと思える人物の顔を何度も強制的に見なければならない精神的な苦痛に耐えなければならない理由は何一つないからである。
 
 しかし、実際には、「被害者の権利」として語られているのはこのようなことではない。ここでいう「被害者」というのはもっぱら被害者の遺族のことである。
 
 つまり被害者の遺族が「被害者」を詐称して、法廷をリンチの場にしようというのを国法として認めようというのである。
 
 個人を基礎とするブルジョア民主主義のもとでは、犯罪は個人対個人の行為であり、当事者というのは直接被害をもたらした人と被害をもたらされた人に限定され、直接被害をもたらした人を加害者と呼び、被害をもたらされた人を被害者と呼ぶ。
 
 もちろん、一つの犯罪によって間接的な被害をこうむる人もおり、その人のためには違法行為による損害賠償という民法上の救済制度もある。
 
 つまり、犯罪によって間接的な被害をこうむった人は損害賠償請求訴訟によって裁判上の当事者になる道がある。
 
 ところが被害者の遺族のなかにはこの道を嫌うものもいる。一つは加害者は逮捕され拘禁されているので、生活力がないため賠償金の支払い能力がないということ。二つ目は、裁判が長引くということ。三つ目は、カネで解決するよりも被害者に直接報復してやりたいと思っていること。
 
 であるそうである。
 
 もちろん、一つ目の件については、被害者に支払い能力がなく、遺族にも生活能力がない場合は、国家なり自治体がある程度犯罪被害者の遺族に対して経済的な支援を行う必要があるであろう。
 
 二つ目の対しては、これは理由にならない。憲法では司法は迅速な裁判を国民に約束しているのであるから、司法はこれに答える義務がある。できないではすまされない問題だ。
 
 三つ目に対して、これが一番問題であるが、こういう被害者の遺族の報復感情を日本の司法は容認し、屈服を続けている。
 
 「被害者の遺族の報復感情」というのは、飾られた言葉であって、この言葉の本当の意味は「仇討ち」であろう。つまり、日本の司法は江戸時代の封建主義道徳を容認し、これに屈服しているのである。
 
 これは法の主体が、個人から、家族へと移行することでもある。親の敵を討つことや子どもの無念を晴らすことが封建社会で美徳とされたように、現在の日本でも失われた家族のために犯人を死刑にしてくれと法廷で絶叫することが美しい家族愛とされ、司法がそれを追認し、行政と立法、すなわち政治がそれを追認して法廷を被害者遺族の報復の場にしようとすることによって日本から「法の正義」は消滅しようとしている。
 
 これは戦前の天皇を中心とした家族主義を復活させることでもあり、戦後民主主義が死滅する過程でもある。
 
 こういうことがいいことであるという政党ばかりであるという現状では、そのようになるしかないであろう。
 
 日本の社会はますます体制変革以外に出口のない隘路に入り込もうとしている。