昨日、嬉しいハガキ&残念なハガキが届きました。<o:p></o:p>
嬉しいハガキは、東北道・岩手サービスエリアから、アンケートを書いたお礼です。次回利用時、ホットコーヒーをサービスしてくれるとのこと。<o:p></o:p>
残念なハガキは、地元放送局の番組モニターに応募しましたが、落選のお知らせでした。来年も応募したいと思います。
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昨日、嬉しいハガキ&残念なハガキが届きました。<o:p></o:p>
嬉しいハガキは、東北道・岩手サービスエリアから、アンケートを書いたお礼です。次回利用時、ホットコーヒーをサービスしてくれるとのこと。<o:p></o:p>
残念なハガキは、地元放送局の番組モニターに応募しましたが、落選のお知らせでした。来年も応募したいと思います。
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昨日(3/29)の糸井さんの『ほぼ日』を見て、何やら禅問答のような感じを受けました。<o:p></o:p>
ブログ、ツイッター、Facebookに書き込みしたり、新聞のテーマ募集に応募するため文章を書きます。知らないことが多いのに気が付きました。自分の書いた文章を一人でも読んでいただける人がいるとしたら、自分の伝えたいことをしっかり表現したいと思います。このため、「自分のわかっていることが、どこまでなのかを、考える習慣を身に付けようと思います。」わからないことだらけです。でも、新しい発見があります。その小さな感動を大切にし、文章で表現していきたいと思います。<o:p></o:p>
ニコニコさんに時々言われる『上から目線』は、わからないのに、わかったように決め付けることへの警鐘のような気がします。<o:p></o:p>
昨日(3/29)の糸井さんの『ほぼ日』は、次のとおりです。(抜粋)<o:p></o:p>
一昨日、陸上競技の為末大さんのツイッターを見つけて、
さっそくフォローして読みはじめました。
専門の領域はちがうのですが、
このテイストは将棋の羽生善治さんの書くものに、
なんとなく似ていると思いました。
それはぼくの勝手な思いこみなのかもしれませんが、
「じぶんのわかっていることが、
どこまでなのかを、いつも考えている」
そういう人の文章だと感じるのです。
わかっていることは、とても少なくて、
そこに、もうちょっとわかることが加わると、
ものすごくうれしかったりします。
でも、まてよ、さてさて、ん~?
そういうことって、ほんとは、
誰でもできるはずのことなんじゃないのかな?
「わかった」の分量はともかく、
「ちょっとわかる」ことで「わからないこと」も知る。
誰でも、そうすればいいだけのことですよねぇ‥‥。
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