「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。3

2011-11-30 | 古代史

私の亡くなった母の出身地は、久留米の高良内(こうらうち)と謂って耳納連山の西の端の高良山と明星山の間にあって、筑後川の支流である合川(あいかわ)の上流の扇状地に位置しています。

 

高良大社の直ぐ南下です。高良内には、幼少の頃時々母に連れられて行った思い出があります。

 

ツラツラ考えますと、以前は『かわち』とも謂っていたように記憶しています。ここは、古い昔は(こうらうち)ではなくて(かわち)と呼ばれていたのではないでしょうか。

 

そうでありますと、『耳納(みの)』『高良内(かわち)』になり、古事記に書かれています崇神天皇の条項で、オホタタネコが見つかった『河内(かわち)美努(みの)』と同じと考えられます。

 

御諸山(三輪山のこと)は、筑後川の向こう側の朝倉の甘木(目配山)に在ります。此処には、非常に古いと謂われる大已貴神社(おおなむちじんしゃ)があり、高良山(高良大社)に向けて建てられています。

 

先日行った『師木(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)』と思われる『城島(しき)の大善寺玉垂宮(だいぜんじたまたれみや)』からも近く、古代はこの辺(城島の玉垂宮)で政治が執り行われていた。と考える事ができます。

 

もし、是が正しい歴史であれば、高良大社の高良玉垂命は『オホタタネコ』であるとも考えられます。

 

御井津比売命はその後に来たものと考えるべきでしょう。そして此の『オホタタネコ』が垂仁天皇と一緒に飛鳥に行ったとも考えられます。

 

 

と謂うことで、第10代崇神天皇・第11代垂仁天皇は『城島(しき)の大善寺玉垂宮』に居たと考える事ができますし、第12代景行天皇と第14代仲哀天皇は九州に居た痕跡を、伝承にて充分に残しています。

 

 

 

 

 

 

 

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九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。2

2011-11-29 | 古代史

平成23年10月26日威光理神社を調べに行く事に致しました。

 

城島中学校のすぐ横にありました。社殿は最近建て替えられているようで、鳥居の表札に『威光理神社』とあり、中にある由緒には、伊我理神社になっていました。

如何視ても崇神天皇がいた気配は認められません。近くに居られる宮司の大石悦司さんにお話を伺ってみましたが、詳しい事は解りませんでした。

 

がっかりして久留米を目指していた所、『宮前』と書かれたバス亭の看板を目にしまして前方を見ますと立派なお社があります。

 

『是は。』と思わせる感覚が脳裏を過ぎりました。直ぐに車を神社の駐車場に入れ、鳥居の表札を見ますと『玉垂宮(たまたれのみや)』とあり、通称大善寺(だいぜんじ)と呼ばれているお社です。

早速境内を歩き回り、その格式の高さに脱帽し、私の霊感が確信を高めました。

 

拝殿横の宮司、隈 正實さんに会って、最初に、高良山玉垂宮(高良大社)との関係を伺うと、

 

『関係がない事はないが、高良大社より古く、明治36年に1800年祭を、昭和28年に1850年祭を執り行って居り、私が平成15年に創設1900年祭を執り行った。』由。

 

昔は有明海の入り江が直ぐ近くまで来ていたそうで、『草創期の事は判らないが、景行天皇の皇子である国乳別皇子(くにちわけみこ)を始祖とする水沼君(みぬまのきみ)が当地を治められたとき、その祖神を祀ったのが始まりだろう。』と考えられているそうです。

 

現在の祭神は高良大社と同じで八幡神・玉垂命・住吉大神だそうです。

 

わたしは、ここが『瑞垣宮』であると考え、宮司の隈さんに、『此処が昔、崇神天皇がいた場所とも考えられますので、何か天皇の居た痕跡が在りませんか?』と問い。食い下がりましたら、久留米市教育委員会発行の『大善寺校区の文化財マップ』と謂うパンフレットを戴きました。

 

驚くべきことに、玉垂宮の直ぐ傍に『天皇屋敷古墳』と載っているではありませんか。

 

是は誰の天皇の事か訊ねましたが、口伝で詳細は不明の由。一緒に現地に行って見ましたが、現在は住宅地の中にあり、遺跡が荒らされ残念ながら昔の面影は在りませんでした。

此処には間違い無く天皇が住んでいた痕跡が認められます。

 

紀元103年頃(宮の創建年)より後の天皇で、此処に居た天皇はいったい誰天皇になるのでしょうか。

 

わたしの心中では開化天皇・崇神天皇と垂仁天皇が示されました。記・紀にはどちらも『師木(城

島)の瑞垣宮』に住んでいた。事になっています。

 

また、周辺には夥しい古墳や遺跡が記入されており、有明海の豊富な食料調達を生む

潟を控えたこの地区は、吉野ヶ里や纒向の何倍もの価値が眠る遺跡と思われます。

 

大集落が形成されていたと想われます。ひょっとしたら、此処に倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめみこと)が居たのかもしれません。

 

三牧(みまき)氏の全国での分布地図が必要と思われます。全国の苗字検索では382

軒が、電話帳に載っているようです。

 

 

 

 

 

 

 

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九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。

2011-11-28 | 古代史

第二部、九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。

 

 

大分県ゆふいん温泉在住  秋永祥治

 

徒然、幼少の頃を思い考えますと、わたしの生家である福岡県久留米市篠山町のすぐ近所に三牧(みまき)さん(以前は御牧と書いていたそうです。)と謂うお宅がありました。

江戸時代、有馬藩の篠山城内の数千坪の広大な土地に住まわれており、(一般の家臣は城外に居住していた。)有馬藩の家臣団には記入が無く、(どうも特別扱いの待遇と想われます。)平屋洋風家屋、広いリビングに大型電蓄を置いてあり、わたしが5~6歳のころから12歳ごろまで毎日のように6歳上のお兄ちゃんに遊んでもらって家族みんなで可愛がってもらっていました。

 

岩戸山古墳群の近くの八女市広川にもおばあちゃんが居られて、時々リアカーを引いて皆で歩いて八女まで行った事を思い出します。

 

このお宅(当時のご主人は養子)が、中村八大(作曲家=代表作は『上を向いて歩こう。』)の叔母?(伯母?)さんのお宅で、中国から引揚げて来た中村八大はここから明善高校へ通って東京へ出て行ったとの事です。

 

三牧の姓は、有馬藩の家臣に大工として丹波篠山から連れて来られている人もいるそうですが全く関係がないそうです。

 

この三牧(みまき)さんは、ひょっとしたら、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらのみこと)=崇神天皇や御間城姫(みまきひめみこと)と関係があるのでは?と想われます。

 

もし、その事が証明されれば御間城氏の一族は八女の近くに居た事になるかもしれませんし、崇神天皇は此処(八女)から奈良へ移動したことも考えられます。

 

崇神天皇は奈良県桜井市金屋の師木の瑞垣宮(しきのみずかきのみや)に居住して、

 

御陵は山辺道勾之岡の辺にある。とされています。

 

わたしが久留米に居た学生の時代、志岐(しき)姓の人は居ましたが、地名では見当たりません。

 

天草には在りますが、邪馬台国からは遠くになり過ぎるようです。

 

散々考え、探しましたが、如何しても(しき)の地名が出てきません。そして、諦めずに念じて喘いで居ましたら、不思議にも、斎(いわい)の祖である息長氏の霊界からの声が聞こえたようでした。『城島』と。

 

そう謂えば、久留米市荒木の南の筑後川下流に『城島』(じょうじま)と謂う地があります。(有明海の海水と筑後川の真水が合流する場所で、淡い海、とでも謂うべきか、動植物が変化に富んでいまして、ビロウ・ガジュマルに似た植物やムツゴロウ・潟カニ等海産物が多く、また此処は昔からの筑後の酒造どころでもあります。)

 

川と川とに挟まれた地域を、古来は(しき)または敷島(しきしま)・磯城嶋(しきしま)・式嶋(しきしま)・城島(しきしま)と呼んだ。と謂われています。

 

崇神天皇の居た『師木の瑞垣宮』の師木(しき)は、久留米(以前は三潴郡)(みずまぐん)の城島(当時は、しき又はしきしまと呼んでいた。)とも解釈されます。

 

仮に、城島が師木の事であるとしたら、瑞垣宮(みずがきのみや)は何処に為るのでしょうか。

 

『瑞垣』とは神殿や神域のまわりを囲む垣根の事を謂うそうで、固有名詞ではありません。

 

ネット地図にて、城島一帯を調べました所、怪しげな神社を一つ見つけました。城島町楢津にある『威光理神社』と記入されています。(いひかりじんしゃ)と呼べば善いのでしょうか。初めて目にする名前です。何時頃の時代の創建で、祭神は誰でしょうか?調査の必要を感じます。

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史21

2011-11-27 | 古代史

わたしのルーツ『秋永氏』の古代の姿が解明出来たようです。(但し、崇神天皇の生存時間軸を現在のウィキペディアの情報を基準に考えていますので、時間軸が変わればもっと明解に為るものと考えられます。)

 

纏めますと、

アカルヒメは、崇神天皇か天之御影神(斎=祝=ホフリの祖で稲荷大明神のモデルと想われる。)の命を受けて、新羅の王子である天之日矛(あまのひほこ)の元へ田川郡大任町大行事秋永(当時は息長)より、妬ついで行き、祈祷・霊験をもって祀り事を執り行ったと想われます。しかし、夫である天之日矛が協力的で無い為、愛想を尽かして日本に帰って来ました。

 

アカルヒメは河内息長氏の居る大阪の比売碁曾神社へ隠れ、後を追ってきた天之日矛は、始めはアカルヒメの出身地である彦山の大任町大行事息長(秋永)へ直行したものと思えます。

しかし、アカルヒメを見つける事が出来ず、暫らくして、調査の結果近畿に居る可能性を嗅ぎ付け、難波への出航の願いを出しますが穴戸に住んでいた倭国の一国の王から『この地より移動してはいけない。』と、関門海峡を通過する許可が出ず、仕方なく、

 

想像1、強行突破して淡路を経て播磨に上陸、その後息長氏の本拠地(天之御影神が居られる処)近江へ赴き、暫らく三国・若狭・丹波辺りで過ごし、息長水依比売を娶ったと考えられます。その後但馬の地へ向かったと想われます。

想像2、博多の志賀島(角鹿つのが)に着いた。天之日矛が角鹿に着いて暫らくすると、崇神天皇に新羅の王子と名乗るものが居る。と報告が来て、様子を探りに家臣を派遣します。そうして、逸れや之やで崇神天皇と面会し、気に入られ、但馬の国や淡路の国を遣るといわれますが、天之日矛は此れを断り、自由にさせて下さるだけで善いと述べ、益々気に入られ、兄弟分の契りと日子坐王(彦坐王)の日本名を戴き、近江や三国近辺を移動し但馬地方に落ち着きます。

 

その後息長大姫大目命(アカルヒメ)の代わりに近江に居た妹の息長水依比売命を娶る事が出来ました。

また、二女の御井津比売命(みいつひめみこと)を久留米の高良大社に日巫女として遣わせているものと思われます。そして、長女?の水穂五百依比売命は狗奴国(益城町)へ遣わせたと思われます。

その後、1、垂仁天皇に3年仕え意富加羅国(おおからくに)に帰った。2、日本で一生を終えた。とも謂われています。

 

一方、アカルヒメは難波から生まれ故郷の大行事息長(秋永)へ戻り、香春神社で祭祀日巫女として、亦、倭国の女王として祀り事を執り行っていたと考えられます。

 

この噂を伝聞した但馬地方にいた天之日矛は、ツヌガアラシトとして一度は香春神社にやって来たと想われます。

 

しかし、神の巫女になったアカルヒメの生き様を見て、アカルヒメを助けて守っていくよう自分の子供や家臣を幾人か置いて、但馬または意富加羅国(おおからくに)へ帰って行ったと想われます。

 

この人達の子孫が、『辛嶋氏』や『鶴我氏』『赤染氏』として現在に在しておられるのだと想われます。息長大姫大目命はやがて亡くなったものと想われます。

 

後世の『宇佐氏』はその後、『大神氏』『辛嶋氏』と共に宇佐神宮を造営にかかわり、左の一の神殿に八幡大神(応神天皇)を祀り、真ん中の二の神殿に比売大神を祀り(息長大姫大目命=阿加流比咩=天照大神と息長水依比売命=稚日女尊(ワカルヒメ)=丹生都比命)、右端の三の神殿に息長帯比売命を祀り天皇家の宗家神社として後世の明治まで天皇家が近畿から何度も参拝することになり、

 

伊勢神宮には一度も参拝は無い理由が理解されます。

 

神話の世界で息長大姫大目命が天照大神のモデルとなり、息長水依比売命が稚日女尊(わかるひめ)のモデルとなったと考えられます。ツヌガアラシト(天之日矛)がスサノオのモデルとも考えられます。

 

第一部おわり。

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史20

2011-11-26 | 古代史

崇神天皇の生存時間軸が近世に近づくと謂う事になりますと、全体の時間軸を整合するために考えを変えねばならない部分も生じます。例えば1、天之日矛は来日時期が後世にずれるので朴赫居世の子では無い。2、同じく脱解王は彦坐王の子では無い。事になります。

 

 

古事記の葦原中国平定の項で最初に呼ばれる名前で、豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)と謂うのがあります。

 

葦が豊かに生えていて、秋の実りが多く水が豊かで稲穂が豊かに広がっている国。と謂う意味でしょう。これが葦原中国(あしはらなかつくに)と謂われる処です。現在では出雲地方や日本全体を指していると理解されていますが、

 

この葦原中国は熊本平野のことを指すとも想われます。

 

先日行って来ました益城町から熊本市にかけて、正に古事記に述べられた通りの光景を目に致しました。

 

阿蘇溶岩台地から広々とした熊本平野の水前寺や浮島神社等に灌ぐ豊富な湧水と、豊かな稲穂が豊かに実った様子や、秋津川や秋津町名があり、

 

秋永(秋長)の石棺・井王(五百)・水穂の国、水穂五百依比売命との関連等を総合的に検討しますと、何となく関係が有りそうに考えられます。

また、磯城島(しきしま)は、本来は奈良盆地を指すと謂う事ですが、(現在は日本の国自体を指す言葉として使われるようになっていますが、)奈良には磯や島が無く、

 

どうも磯城島は天草島の古来の呼名のようにも考えられます。現在、熊本県天草郡苓北町志岐に志岐城跡が残っています。熊本県には古墳が多く、天草島にも古墳があります。九州の古代史を研究する上で北部九州が注目されていますが、これからは、熊本も重要な位置を示す事と為るように思えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史19

2011-11-25 | 古代史

益城町の『秋永の石棺』は、はじめは、卑弥弓呼の墓かもしれないと考え、次に、御井津比売命が高良大社から移動して来たとも考えられ、現地に赴き、五感を砥ぎ、匂いを嗅ぎ分ける事にしました。

10月12日熊本県益城町大字小池字秋永に行きました。

 

熊本平野の東側に在し、熊本空港の南に位置した、東が、飯田山を主峰とした山々に近い処で、山からの湧水の多い地形のようです。

 

役場で石棺の情報を得るため立ち寄りましたが、担当者がお休みで、後日電話で済ますことにしました。

 

秋永姓が1軒あることを確認して、大字小池(おいけ)字秋永へ行きました。

 

秋永さん(昭和8年生)のお宅に伺って由来や地区の話をして頂こうとしましたが、14~15年前に脳梗塞で病に倒れられて、詳しいお話は伺えませんでしたが、裏山に秋永神社があると言われたので行ってみました。

 

小高い丘の上にあり、階段を30段ほど上ると鳥居があり、鳥居には熊埜宮と書かれていました。(通称秋永神社と地域の方は呼ぶそうです。)

 

相当古い神社の佇まいがあり、社殿は向かいの飯田山に向けられていました。

 

社殿に向かって左の石碑に宮司名が井王と書かれ横には秋永の字がありました。

 

鳥居下の民家の畑で仕事をされていた方に伺うと、祀りの時の宮司は近くの浮島神社から来られる由。

 

と謂うことで、2~3キロ程はなれた浮島神社を訪ねました。

 

阿蘇山系からの湧水池の中に建てられた神社で、此処の宮司さんが井王さんとおっしゃる方で、京都から1100年前に来られた由。祭神は熊埜坐都命で遠方の白髪岳方向に建てられています。

 

後日、役場の担当者に、電話で『秋永の石棺』の事を伺いました。

 

秋永地区から昭和42年に7墓の弥生時代後期の石棺が出土して、5号石棺の中から鉄剣が1振出てきた由。棺の中は丹で四面を塗られ底に炭が敷かれていたそうです。そのほか鉄矢じり・鉄片・壺・高杯等が側から出土されている由。

 

帰宅途中の車の中で、益城町の秋永の主は、息長の誰であるかを色々考えました。

 

そして導かれた結論は、此処に来たのは多分、御井津比売命ではなく、息長水依比売命と日子坐王の長女?である水穂五百依比売命(みずほいおよりひめみこと)となりました。

理由は、宮司である『井王(いお)』さんと、水穂『五百(いお)』が一緒(本家の一族)と想われる関係が認められます。

 

また、九州では古くより熊本平野の事を『みずほの国』と称していて、以前、東京―熊本間を寝台特急『みずほ』が運行されていました。水穂五百依比売命は熊本の『みずほのくに』と関連が認められます。

 

そう謂う訳で、『秋永の石棺』の一部は水穂五百依比売命の墓と考えられます。

 

と謂う事であれば、その後狗奴国は邪馬台国と友好関係を結んだ事でしょう。

 

しかし、息長水依比売命と日子坐王の間に水穂之真若王(みずほのまわかのみこ)が居ました。古事記には、近淡海の安(やす)の直(あたい)の祖と書かれていますが、『近淡海の安』とは近江の野洲と考えていいのでしょうか。

この人も益城町(狗奴国)へ来ているとも考えられます。如何なる理由からでしょうか?この方が秋永5号石棺の鉄剣の主とも考えられなくもありません。

 

そして、卑弥弓呼とも、同一人物であるとも考えられなくもありません。

が、しかし、邪馬台国の勢力範囲が、熊本平野まで在ったとも考えられ、狗奴国はそれより南の八代平野付近に在ったとも考えられます。

 

常識的に考えるのであれば、筑後平野と熊本平野の間には南関・山鹿と謂う山並みの関があり、国境に丁度よい地形を成しております。ので、南関より南が狗奴国と視るのが自然です。

今後のみなさんの検討と研究が必要と思われます。

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史18

2011-11-24 | 古代史

『三国志』の『魏志』倭人伝に『卑弥呼の墓』は径100余歩とあります。

 

わたしは、1歩は70センチ位と考え70~100メートル前後の古墳をイメージしていたのですが、ネットで『卑弥呼の死』を眺めていたら、当時の尺度は『一寸千里の法』で、1里は76~77メートルで、1里は300歩とあります。

 

そうすると、径100余歩とは25~30m位になります。驚きました。そうなると、想像6、で述べた事は、アカルヒメ(天照大神)の墳墓としては可能性がありますが、『魏志』倭人伝の中の『卑弥呼の墓』に鏡山は大きすぎます。

 

心中で『卑弥呼の墓』が解明されました。

 

『卑弥呼の墳墓』は福岡県田川郡大任町大行事秋永(息長)にある円墳であると想われます。

 

秋永と書かれたバス停の傍にあります。直径が30m位で、高さは3~4m位。山の頂附近と下の方に近隣の方が墓を拵えていました。傍に民家が1軒あります。2回目に田川に行った時に調べた古墳です。

 

此処、秋永(息長)にある。と考えられます。

 

しかし、ある研究者によりますと、当時の一歩は、右足と左足を合わせたのを一歩と数えるとも述べられております。

そうすると、一歩は約140cm位に為ります。100余歩とは140m以上に考えられます。紀元248年頃にそんなに大きな古墳があったのでしょうか。どうも、これは纏向さんに都合の良い理論のように感じ取れます。

 

一帯何を根拠にすれば善いのでしょうか。

 

『魏志』倭人伝では卑弥呼は正始8年(248年)に亡くなっています。

この時代の日巫女は息長の誰の事でしょうか。思い浮かぶのは息長帯比売命(神功皇后)です。

 

もし仮に神功皇后だとすれば、奈良に在る神功皇后の墳墓は一体何なのでしょうか。

 

考えられますのは、応神天皇が母の霊魂を自分の傍に置きたかった為、改めて造らせたものと想われます。当然立派なものでなければ為りません。

 

分骨若しくは頭髪を埋葬して祀ったものと想われます。

 

が、しかし、『魏志』倭人伝には卑弥呼に弟が居て、卑弥呼の死後王になるが、国が乱れて、卑弥呼の血を引く13歳の壱与(いよ){台与(とよ)}を女王にして、国が治まったとあります。

 

この事項を真に受けますと、神功皇后であるとは考えられず、どうも天照大神になります。弟がスサノオで、妹にワカルヒメ(息長水依比売命)が居ます。壱与(台与)とは、息長水依比売命の娘、御井津比売命の事とも考えられます。

 

でも、200年程時間軸が合いません。悩む所です。崇神天皇の時間軸そのものが間違っているのでしょうか。正しい崇神天皇の時間軸が求められます。

 

私の勘では、天照大神が卑弥呼と想われます。対象人物がすべて適合します。

 

仮に、卑弥呼が天照大神と謂うことであれば、13歳の壱与(台与)は、御井津比売命か息長帯比売命とも考えられます。

 

英彦山(耶馬の倭国連合)と熊本の益城町(狗奴国と想われる。)の間に久留米高良神社(奴?・倭国連合)があります。

 

祭祀女王に任した御井津比売命(二代目卑弥呼?)は狗奴国との争いの間をとりもって、高良神社から益城町大字小池(おいけ)字秋永へ移動したのかも知れません。

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史17

2011-11-23 | 古代史

また、天霊系神・地霊系神と謂う言葉があります。

 

天霊の神とは八大弁才尊(はちだいべざいそん)、俗に謂う七福神の弁天さまの事とされています。この弁天様は、水や音楽の神様とされています。

 

この弁天さまは、ウィキペディアを見ますと『本来はヒンドゥー教のサラスヴァティー(清なる河)の事であるが、日本では神道の神とも見做され、宗像三女神とか市杵嶋姫神(いちきしまひめのみこと)の事と謂われている。』とあり、市杵嶋(いちきしま)から広島の厳島(いつくしま)神社が造られたそうです。

 

この市杵嶋姫命は『記・紀』では天照大神がスサノオの剣から創った神になっています。

 

近江琵琶湖に浮かぶ竹生島にある、真言宗・宝厳寺(ほうごんじ)の弁天さまはどうでしょうか。

 

724年聖武天皇の夢に天照大神が現れ、『琵琶湖に小島があり、そこは弁才天の聖地であるから寺院を建立せよ』との神託があったので、『行基(ぎょうき)』を勅使として遣わし寺院を開基させた事になっています。

 

が、古代は口伝で、息長水依比売命が琵琶湖の水の守り神さまとされて祀られていた事を聖武天皇は知っていたと想われます。

 

と謂うことであれば、息長水依比売命は弁才天と謂う事にも考えられ、天霊系の元になります。

 

地霊の神とは、稲荷大明神(いなりだいみょうじん)の事だそうです。常に我々の身近な処に居られて、我々が正しい行いや言動で生きているかを見守って下さっている神様だそうです。

 

白髭を生やされた高貴なお方で、右手に稲束を左手に宝珠を持たれた神様とされています。この稲荷大明神のモデルは、どうも鍛冶神の祖と謂われている天之御影神(あまのみかげしん)と思えてきます。(近江八幡市に白髭神社遺跡があります。)

 

理由は、ありません。わたしの霊感です。

 

そうであれば、全国の八幡神社(殆どが、応神天皇や神功皇后といった息長氏を祀っています。神功皇后=息長帯比売命は三韓征伐の帰り船中で神懸かりして「自分は清龍権現である。」と述べた。と、糸島の宇美神社の伝承にあります。)の中にある稲荷神社の存在理由が納得できるのです。このお方は息長氏(秋永氏)の元祖と想われます。

稲荷大明神の祠には、必ず『鏡』が置いてあります。これは鏡を使って儀式を執り行う息長氏との繋がりが深い事を表していると考えられます。

 

天霊を司る神が息長水依比売命で、地霊を司る神は、天之御影神であると仮定すれば、天界・地界を統一するのが天照大神(太陽神=大日如来)と謂うことになり、宇宙の理が完結します。

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史16

2011-11-22 | 古代史

真言密教の儀式で、『護摩焚き』と謂うのがあります。

 

古来、神変大菩薩がこの儀式を執り行ったとされていますが、菩薩から神に変わったこのお方は何と謂う神様でしょうか。

 

一般的には役行者(えんのぎょうじゃ)が飛鳥時代の頃に始めたものと謂われていますが、もっと古くから(多分、紀元前から)行われていたものと考えられます。

 

この儀式をよく観察して見ますと、どうも空海(774年~835年)が日本の各地で古くから行われていた(彦山に始まる近江三上山・霊仙山~紀伊半島・大峰山・等)修験者の儀式を仏教に取り入れたものと想われます。

 

この儀式こそ古来、卑弥呼が執り行っていた様子に思えてきます。

 

例えば、柴燈護摩(さいとうごま)の儀式を眺めますと、四方を作り、槌・斧・水・剣・弓矢を用い、護摩壇の真ん中に『不動明王』を置いて手前に井型に組んだ木材の上に柴の葉を盛り、火を焚いて執り行います。

 

{儀式的には、1、床(とこ)堅めの儀 2、宝斧(ほうふ)の儀 3、閼伽(あか)の儀 4、宝剣(ほうけん)の儀 5、宝弓加持(ほうきゅうかじ)の儀の5つになっています。}

 

この中央の『不動明王』はアカルヒメ時代の古くは『鏡』であったと考えられます。

 

何故ならば、『不動明王』は太陽神である『大日如来の化身』と謂われています。『大日如来』は太陽の化身、『鏡』そのものであります。

(不動明王が恐ろしい憤怒の形相で創られた理由は、修験者に覚悟の程を問う為であったと考えられます。之によって霊力がもたらされると考えられます。)

 

この修験者の儀式は、息長氏元祖の天之御影神によって彦山(日子山)で執り行い、息長の本拠地(天之御影神の居る処)、近江の三上山や霊仙山・太郎坊宮阿賀神社を経て全国にもたらされたものと考えられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史15

2011-11-21 | 古代史

海を渡ってきた天之御影神(あまのみかげしん)は家族と伴に、創め大任町大行事息長(秋永)=彦山(日子山)に居たものと思われます。

 

彦山(日子山)は521年北魏の僧『善正』が開山したと謂われていますが、それよりずうっと以前(紀元前)から山岳修験者が居た事は間違い無いものと考えられます。

彦山(日子山)で祷りをする傍ら『勾金(まがりかね)』で銅の鍛冶を行っていたとも考えられます。彦山(日子山)の御神徳に、『天照大神の御神勅により、この地に降臨された天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)は、農業生産の守護神として、また鉱山、工場などの産業の守護神として崇敬されています。』とあり、

どうも彦山の開山は天之御影神が関わっているものと想われ、アカルヒメ(息長大姫大目命)が彦山(日子山)の開山を、父である天之御影神に霊言(天忍穂耳命を祭神として祀る事)として与えたのかも知れません。(香春神社は英彦山に向けられています。)

 

その後一部の息長氏は香春に残り、多くの息長氏は経済が豊かな大阪や山代・近江・鈴鹿・奈良の近畿各地へ渡って行きます。

天之御影神は家族と共に近江の三上山附近に移動したものと考えられます。(地図にて滋賀県野洲市から近江八幡市~東近江市にかけて香春~英彦山周辺とそっくりに感じられます。例えば、香春岳と三上山・英彦山神社と阿賀神社・鏡神社・貴船神社・鏡山等何か繋がりが感じられます。)

 

こういった事も、すべてアカルヒメ(息長大姫大目命)の霊言で行われたものと考えられます。福岡県に在る糟屋郡(かすやぐん)須恵町(すえまち)とか言う、酒や陶器に関する地名も一緒に近畿へ移動して行っています。

 

アカルヒメが家族と伴にこの地を離れたかは、解かりませんが、当時の情勢を考えると多分この香春の地で亡くなった事でしょう。ですから、後世、宇佐神宮が創られたと考えられます。

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史14

2011-11-20 | 古代史

ウィキペディアで天岩戸を見ていましたら、『日本書紀』に天照大神の妹に稚日女尊(ワカルヒメ)と言うのが居て、機織り器を扱っていた所スサノオが天班駒の皮を逆さに剥ぎ御殿の中へ投げ入れます。

これでワカルヒメが怪我を負い天照大神が怒って天岩戸へお隠れになるのですが、稚日女尊をワカルヒメと呼ぶとは初めて知りました。そして、この方が天照大神の妹となっています。

何となく、ワカルヒメとアカルヒメの『ワ』と『ア』の韻が同じなので同一人物にも思えなくも無いです。

 

天照大神に妹が居た事が判明。天照大神が息長氏でアカルヒメである。とすればワカルヒメが息長水依比売命に思えなくも無いです。

 

ですがワカルヒメの別名が、丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)と言います。この『丹生都』とは何のことでしょうか。

 

調べてみますと、『丹』とは朱砂と言って硫化水銀のことで、その鉱脈のある所を『丹生』と呼んだそうです。

 

わたしは、素直に丹生(にう)と呼ばれる地名の都(みやこ)と解釈しました。

 

そこで思い起こしたのが、息長丹生真人長人(おきなが にうのまひとのながひと)、別名、霊山三蔵法師(りょうぜんさんぞうほうし)です。

 

『丹生』とは、近江息長氏の本拠地米原にある地名です。(もちろん、各地にもあったと思われます。)『真人』とは八色の姓での位です。『長人』が名前です。

 

たしか、息長水依比売命は琵琶湖の近くに居たはずです。

 

ワカルヒメは息長水依比売命と謂う事にも考えられます。

 

と謂うことは、息長大姫大目命の親族(妹?)に息長水依比売命が居た事になります。

 

どうも、日本の歴史は二階建てに成っている様です。

崇神天皇の頃が一階で、その上に伝説上の人物として再登場させているようです。

 

と謂うことであれば、『想像4、』に揚げた宇佐神宮の『比売大神』は『アカルヒメ』『ワカルヒメ』を付け加えなければならないでしょう。

二人居たから『比売大神』と、研究者に判り難い表現となった事と考えられます。

 

また、宇佐神宮独特の二拝四拍手一礼と謂う参拝方法も、主神が二人居たから四拍手するのかも知れません。

 

そして、天照大神の父は天之御影神(あまのみかげしん)である。かも知れない事になります。しかし、神話の系譜上では天照大神の孫になっていまして、意富伊我都神(おおいがつのかみ)を息子として儲けています。

 

また鍛冶の祖神と謂われています。

 

この人こそ調べ得ることが出来る、息長氏の元祖と言って良いでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史13

2011-11-19 | 古代史

高良大社の高良玉垂命と御井津比売命の関連が頭から離れず推考を重ねました。

 

そして導き出されたのが、磐井の乱です。

 

御井津比売命は久留米の高良大社に日巫女としてやって来ました。その後、人々は御井津比売命を神として祀ったと想われます。

 

527年に大和王権に対して八女・久留米の磐井氏が叛乱を起こします。この出来事によって御井津比売命の名前を隠さなければならない事情が生じて(継体天皇と同じ息長氏であるので

 

推測1、継体天皇側が名前を消したかった。

 

推測2、磐井氏側が名前を消したかった。)、

 

御井津比売命の血を受け継ぐ後世の高良玉垂命を祀ることになったものと考えられます。

 

と、仮定すれば磐井氏は息長氏の親族と謂う事も考えられ、磐井の乱の捉え方もまた、違って参ります。

 

親族同士の争いとも考えられます。筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)があれだけの大戦をして、糟屋(かすや)の屯倉(みやけ)を献上しただけで死罪を免れたのも、頷けます。(普通では考えられません。)

 

息長氏は熊本県の益城町にも親族関係を結んでいるとも想われます。

 

益城の古墳群の中に『秋永の石棺』が残っています。

 

これは、『魏志』倭人伝にある狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼(ひみここ)の墓とも考えられます。それであれば、卑弥弓呼(ひみここ)は息長氏と謂う事に考えられます。

 

卑弥呼が卑弓弥呼と確執があったと書かれている条項の裏には、親族間の争いがあった事になります。当時の倭国の支配関係を考える上で多大に参考になるものと思われます。しかし、どうも腑に落ちません。

 

之も、更なる研究が求められます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史12

2011-11-18 | 古代史

そう謂えば、日子坐王と息長水依比売命の間に御井津比売命(みいつひめみこと)が居られます。

 

この御井津比売命は、神功皇后からは曾祖父(山代之大筒木真若王やましろのおおつつ きまわかおう)の年代の異母兄妹になります。

 

この御井津比売命が高良大社の巫女で来たと想われます。

 

その末裔として秋永 清さんが存在して居られるのかも知れません。

 

高良大社の在る一帯を御井町(みいまち)と称し、広く三井郡(みいぐん)と呼ばれていました。

 

高良大社は高良玉垂命(こうらたまたれひめ)を祀っています。左社殿に八幡大神、真ん中社殿が高良玉垂命、右社殿に住吉大神となっています。

 

首から勾玉を垂らしている巫女と想像される、このお方は、古伝書では367年に着坐して390年に亡くなっておられる事になっているそうです。

 

御井津比売命とは、今の所、時間軸が整合しませんが、わたしは、御井津比売命が此処へ来た事は間違い無いものと考えています。

 

もし仮に、御井津比売命が山陰~但馬から遥々やって来たのならば、どの様な事情があったのでしょうか。想いが過ぎります。

 

どうも、高良玉垂命と御井津比売命が重なって推理えて来ます。

 

何故ならば、バランス上この三神の真ん中は息長氏が着座されるのが自然と考えられます。少なくとも高良玉垂命は息長氏であることは、間違いないでしょう。

 

今後は、研究家のみなさんの成果が楽しみです。

 

秋永家(息長氏)の特徴として、親族が皆少ないようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史11

2011-11-17 | 古代史

先日、妻の曾祖母の実家を尋ねて久留米市山本町へ行きました。山本町は久留米市御井町の高良大社を末端にする、耳納(みのう)連山の麓に位置して、眼下に筑後川を望む事ができる高台にあります。

 

妻の曾祖母の旧姓は『上野』と謂い、筑後川を挟んだ向こう側の三井郡小郡の鰺坂にある『武田家』へ嫁に行っています。

場所は櫨(はぜ)並木街道の上にある集落です。

 

同行した妻の姉の記憶を頼りに家を探しましたが見つける事が出来ません。通りかかった車の人に尋ねました所、『その様な旧い話ならアキナガさんに訊いて下さい。この道の一番上の家です。』との言。

 

アキナガの名前を聞いてびっくり驚きました。

秋永さんに会ってお話を伺いたく尋ねてみましたが、不在で、この日は諦めて帰りました。

 

過日訪れ、会う事が出来ました。

昭和6年生まれの秋永 清さんという方で江戸時代から(それ以前はよく判らない由。)此処に住んで居たそうです。

 

昔から高良大社と縁が深かったそうで、『鏡開きの儀』の時など秋永さんが来ないと始められないので遅刻しないでと言われておった由。

 

ご親族は何軒ほど在りますか。と尋ねますと、この下に弟が一人居るだけで他の親族は居ないとの事。家紋は『三階松』でした。

 

この集落は上野姓が殆んどで、秋永は自分と弟の2軒だけで自分でも不思議に感じているとの事。

 

私の父の実家(田主丸町)の近くに大橋という集落があり、数軒秋永姓が在りますので、それとの関連を伺いましたら、全く関係は無いとの言でした。

 

高良大社と息長氏の繋がりを感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史10

2011-11-16 | 古代史

ネットで『万葉の旅』のブログを眺めていましたら、興味を注られる事項を発見しました。

 

香春 鏡山の項で次のように出ています。

 

河内王を豊前の国の鏡山に葬る時に手持女王(たもちのめおう)が作る歌3首

 

大君の 和魂あへや 豊国の 鏡の山を と定むる      巻3-417

 

豊国の 鏡の山の 岩戸立て 隠りにけらし 待てど来まさず  巻3-418

 

岩戸破る 手力もかも 手弱き 女にしあれば すべの知らなく 巻3-419

 

この歌3首は河内王の為に詠んだ筈なのですが、天照大神(アカルヒメ)を懸けて詠んでいると思われます。

 

手持女王(たもちのめおう)は当時此処『香春』が、天照大神(アカルヒメ)が居た場所である、と伝承されている事を知っていたとも、考えられなくもありません。

 

河内王が亡くなったのは7世紀の末(694年頃)と謂われていますので、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)の編纂より前という事になります。

 

『大君』とは河内王天照大神を懸けています。『和魂あへや』は、心が打ち解け和んで出会う二人の様子が伺われます。この二人、どちらも大日孁貴(息長氏?であることが隠されています。

 

手持女王は『たもちめ の おう』とも発音しますが、此処では多分、『たもちの めおう』と呼ぶのかも知れません。となれば、手持 女王となり、これは、祭・祀詞女王としてこの地を治めていたと解釈出来ることになります。

 

其処から導かれますのは、7世紀の卑弥呼(日巫女)であったかも知れません。だから、口伝で天岩戸伝説がこの地であった事を知っていた。と解訳する事も可能です。

 

やはり、アカルヒメは天照大神(大日孁貴)であったように感じられます。

 

 

 

 

 

 

 

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