「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

漸く、『アメ ノ タリシホコ』の正体が解明できました。 『多利思北狐』とは、押坂彦人大兄皇子(蘇我馬子)であります。

2019-02-13 | 古代史

第29代欽明天皇(天国排開広庭天皇・斯帰斯麻天皇=シキシマテンノウ=久留米の城島シキ唐島カラシマの天皇)は、第26代継体天皇(袁本杼命・近江息長氏)と(田主丸町唐島で育った。と考えられる、息長氏か百済昆支王の娘の、どちらか。と考えられますが、日本書紀では、武烈天皇の姉とされていますので、此れは昆支王の5人の子の一人と考えられます。)手白香皇女の間で生まれ(507年皇后になり、その後の誕生ですから508年~509年頃の誕生)、539年12月即位して、朝倉の『広庭宮』で、政務を司ります。571年4月崩御した事に成っています。

 

継体天皇は、上宮王家の日田市石井地区(ガランドヤ・穴観音古墳)の石井が新羅と関係が深く(天日鉾=スサノオ=崇神が多くの新羅系渡来人=元は、熊本玉名市=江田船山古墳~久留米白山町=白山姫=天之御中主命=水天宮の白氏が、渡韓してシロ・シラを造った。と、考えられます。 を有明海から筑後川流域に住まわせています。)、19年も田川飛鳥宮に這入れずに、やっと526年田川飛鳥宮入り。苦労して527年石井を滅ぼします。

 

この継体天皇が倭に這入って来るまでの19年間、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人(うきは市に巨瀬川が流れています。)の豪族間の権力の駆け引きが、熾烈を極めたものと考えられます。

韓半島の倭の任那府(金官伽耶国・キンキュウコウオウ金仇衡王=即位期間521年~532年)は、532年に新羅に吸収され、滅亡しますが、倭(日本)の内部では、『雄略天皇』期の韓半島遠征時に、百済王族との友好関係(対、高句麗・新羅を考慮して百済王『ヒユウ毗有』が、倭王族との姻戚関係を決断、『蓋鹵王』として、『市辺忍歯別王』と弟の『御馬皇子』・一族を受け入れます。)を結び、安全策として王家の親族多数を田主丸町唐島(片瀬カタノセ=磐瀬イワノセと考えられます、筑後川の瀬があります。)秋永氏集落に住まわせます。

筑後川流域では、親百済派(後の天智天皇系)と、日田上宮王家の親新羅派(後の天武天皇系)の対立が生じていたものと思われます。

 

527年、継体天皇の命を受けた親百済派の近江毛野臣が六万の兵を率いて任那に向かうのを、磐井(日田市石井地区の上宮王家)の命を受けた豊後葛木~肥後菊池・玉名の親新羅派連合軍が、妨害をして、『磐井(石井)の乱』が起こります。

一旦は、継体天皇(息長氏)と、協力した田川飛鳥宮の安閑(息長氏)・佐賀日の隈地区の宣化(息長氏)が勝利しますが、何れの王も次々に暗殺されます。

 

『辛亥の変』531年です。『辛亥の変』とは、日田上宮王家『磐井(石井)』が滅んだ事を意味します。

 

此の時期に、裏で暗躍したのは、大連の大伴金村と考えられます。

 

大伴金村は、武烈天皇(百済の武寧王の事)の時に、大連になりますが、

田主丸町唐島で育った武烈は、武烈天皇8年(501年)12月に武寧王として、百済に帰還します。

近江息長氏の継体天皇の担ぎ出し(傀儡政権の樹立)、豪族間の調整(表向き、実力者物部氏のアラカイ麁鹿火を立てる)、任那府や百済・新羅・高句麗との調整は、使者を派遣し(512年、任那のタリ哆唎国守であった穂積臣押山に軍馬40頭を託した。)、立場を守る為に、ライバルの芽を摘む事も(大臣である平群氏マトリ真鳥・シビ鮪父子を征討)、大忙しであったろう。と、考えられます。

 

大伴金村の行動計画の一番のポイントは、

伝統ある豊受大神一族に繋がる上宮王家である磐井(石井)を、同じ一族の息長氏を使って、どのようにして双方を滅ぼすか。又は、力を削ぐかで有った。と、考えられます。

継体が、倭に居ない中で、512年任那府4県が、武寧王(倭に居た時は武烈天皇)の依頼で百済に割譲され、継体暗殺後の532年には、金官伽耶は新羅の『法興王』(チショウ智証マリツカン麻立干の子)に依って滅ぼされます。

 

『欽明天皇』時代になると、姻戚関係を結んだ『蘇我稲目』が突然に台頭します。

「大伴金村は百済から賄賂を貰った。」と、物部氏オコシ尾輿等から批判され、韓半島外交の失敗を糾弾されて失脚します。

 

わたくしは、

任那府と百済王室の再興を望んだ『欽明天皇』に、『蘇我稲目』が、佛教を敬い新羅王を投げ出して、法皇に為った『法興王』(誕生年は不詳。即位514年~540年崩御とされています)の新羅での数々の業績の話をしたものと思われます。元々は、百済・金官伽耶・新羅は、倭人が韓半島に鉄・銅・金・銀の金属を求めて白頭山迄の基地から起こった国であり、倭人にとっては、百済・新羅の何方も親しみを持っていたものと、考えるべきです。

 

※ウィキペディアでの、『法興王』の治世は、

先代の智証麻立干によって強化された王権を背景に、数々の国家制度の整備に努めた。517年に「兵部」を設置し、520年には官位制度を整えるとともに、官職ごとに公服とその色彩の序列を定めるなど、律令による政治を敷こうとしたとされる。後に531年には17等の京位のさらに上に、すべての国政を司る「上大等」の官位を設けた。また、536年には新羅独自の年号をはじめて定めて建元と称するなど、前代よりもさらに王権の強化を果たしたことが伺える。

対外的には521年(梁の普通2年)に、百済に伴われて梁に対して朝貢を行い、百済との好関係(羅済同盟)を背景に伽耶方面への勢力拡張を図った。522年には伽耶国王が通婚を求めてきたことに対し、伊飡(2等官)の比助夫の妹を送ってこれに応えたが、532年には金官国を滅ぼした。投降してきた金官国王金仇亥の一族は王都に移住させたが、本国を食邑として安堵したとともに、こののち準王族的に優遇したという。なお、金仇亥の末子の金武力は新羅に仕えて角干(1等官)の位にまで上ったと記されているように、服属させた周辺小国の王を貴族階級に取り入れていくことは、新羅の対外伸張政策の特徴であった。ちなみに、金武力の孫に、三国統一の大功を挙げる金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫)が現れることとなる。

528年には貴族層の反対を押し切って仏教の公認を行ない、さらに534年には興輪寺の建立を開始し、仏教を広めることにも努めた。『三国遺事』王暦には十日行を行ったこと、殺生を禁じたこと、また王妃が王の死後に出家して法流と号し永興寺に住んだことなどが伝えられる。また、『三国遺事』 興法・原宗興法条には、法興王自身も出家して名を法雲とし、法空と号したことが伝えられる。

在位27年にして540年7月に死去し、哀公寺の北峯(慶州市孝峴里)に葬られて法興王と諡された

と、述べられています。

 

欽明天皇は、『佛教思想』で国を治める方法を執った『法興王』に痛く感動を覚え、その有能な人物であります、新羅王を引退させて『法興王』を倭に招聘することを画策し、実行をしたものと思われます。

 

倭に、金?造仏像を持って、若い従者(後の『蘇我馬子』=押坂彦人大兄皇子になります。)と伴に、遣って来た『法興王』の子が、『多利思北狐』の実体像で有ると考えられます。

 

わたくしの勝手な推測ですが、欽明(571年崩御)の跡を継いだ第30代敏達天皇(ヌナクラノフトダマシキ沼名倉太珠敷命・別名をオサダノオオキミ他田天皇・585年崩御)が、南大分の蘇我氏の本拠地に来た、仏法を重んじる『法興王』で有った。

と思っております。

亦、『大伴氏の金村』の正体も、渡来人で有ったものと考えられます。

 

応神天皇期に、韓半島経由で倭に渡来した『弓月君』等の大勢の渡来人、所謂『月氏』は、雄略期から欽明・敏達期(蘇我氏4代の時期)に掛けて、倭王朝を根底から変革させる大きな力(代表的には、527年の磐井の乱と531年の辛亥の変です。)を与えています。

 

月氏(大山祇命→大山橘み→橘氏。※平群氏。)は、親新羅、親百済、親高句麗、と、入り乱れて居たものと、考えられます。

 

 平群氏の解釈については、一般には博多早良区に以前に平群邑が在り、其処が『平群氏』の本拠地であった。と、考える研究者が多いので有りますが、日本武尊や景行天皇の滞在の伝承は窺えず、

わたくしは、固有名詞では無くて、山が平たく群れる状態の地域に住んでいる人々。と、想われて、景行天皇が行宮を設けた伝承があります、吉井町若宮八幡宮(日の岡古墳・月の岡古墳があります。)が、日本武尊も居たものと考えられます。

 

うきは市吉井町から久留米(しき)に掛けて平たく群れて横たわる耳納連山の麓に住した橘氏(大山祇)一族を、『平群氏』と呼んだものと、考えています。

此の『平群氏』は、後の桓武天皇を、高野=竹野タカノ新笠の出身地であった唐島秋永地区が、耳納連山の麓に位置する事で、『桓武平氏』と呼ぶ切っ掛けに為ったものと考えられます。

『耳納』ミノは『水縄』ミノとも謂い、元は日田市の豊受大神(高躬)一族の『美濃』ミノに繋がっています。平群氏とは、日田市から久留米市に架けて平たく横たわっている耳納連山一帯に住した人達の総称を意味している。と考えられます。

奈良県の『平群』の名称は、ずっと後(7世紀の天智天皇~天武天皇頃)の人々が、663年10月の白村江の戦い後、うきは~朝倉から大阪・奈良へ避難移動していて、朝倉・平群の名前も一緒に持って行ったもの。と考えています。

 

 

『元興寺伽藍縁起』では、オサダ他田(後の敏達天皇)・推古は幼児期に南大分の後宮(東院)で一緒に居た時期がある。と述べられており、後に二人は結婚をします。(記紀では、二人は、父は欽明天皇で、母違いの兄と妹。と述べられています。普通ではあり得ないことです。)

また、南大分にはワサダ稙田地区が在り、此れはオサダが→ワサダに転化したもの。と思われます。『オサダ他田』とは、南大分の『ワサダ稙田』を意味しています。

 

随書にある、(文帝の)開皇20年(600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 タイ?(ワ倭の間違い?)俀王の姓アマ 字タリシホコ 号アハケミが遣使して宮中にやって来た。と述べられており、

 

西暦600年は、倭では、推古8年で、男王では無くて、研究者を苦しめております。

 

わたくしの考えでは、

600年の時期は、倭王は男王であった。と考えるべきであります。

 

585年に崩御した『敏達天皇』(=『法興王』で、本来の『多利思北狐』は息子の蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子です。)の次に即位したのが、欽明天皇の実子『池辺皇子・大兄皇子・橘豊日命・用明天皇』です。『用明天皇』は、585年10月即位して587年5月天然痘で崩御したと記紀は記述をしていますが、此れは不自然であります。 

  

『用明天皇』は、587年に『敏達天皇の息子=押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子』から殺害(毒殺)されたものとも、考えられます。『用明天皇』の子であります『厩戸皇子』が、本当の『聖徳太子(622年2月没)』と考えられます。

 

蘇我蝦夷が、(推古天皇628年4月崩御の後、)629年田村皇子『舒明天皇』(敏達天皇=法王の第1皇子である押坂彦人大兄皇子。の子、誕生年不詳~641年11月崩御。和風諡号は、『息長足日広額天皇』)を擁立します。

 

 

642年皇極天皇が即位。蝦夷の息子の蘇我入鹿が、643年斑鳩宮(福岡県みやこ町~豊津町)に居た、『欽明天皇』の実子の『用明天皇』が儲けた『厩戸皇子』の子であります『山背大兄王』(継体=福井息長氏→欽明→用明→厩戸皇子→山背は、息長氏の日田上宮王家の血が流れています。)への襲撃を行い、自害へ導きます。

故に、入鹿の襲撃を知った、父の蝦夷(大山祇系司馬氏=月氏=馬の鞍造り)は、禍が入鹿に降りかかる。事を心配します。

 

当然、福岡県うきは市の橘地区に在ります寺『大聖寺(大生寺)』で産まれた、と考えられます『厩戸皇子・豊聡耳』(622年2月没)は、本来の聖徳太子であります。

 

 

 

随書に述べられております、『俀王姓阿毎字多利思北孤』は、蘇我馬子(626年6月19日死去)=押坂彦人大江皇子(出生・死去共に不詳)』が、父『敏達天皇』の皇后『推古天皇=小墾田皇女(626年6月19日崩御)』を娶り、摂政として権勢を誇っていた。と、考えられます。

 

 

 

 《その後の考察による訂正》2019年4月6日

 

『用明天皇』と、『厩戸皇子』・『崇峻天皇』は何方も、押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子に殺されたものと考えられます。従って、『俀王姓阿毎字多利思北孤』とは、蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子で有った。と推論されます。

 

 

 

 

 

 

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田主丸町唐島にいた、コンキ昆支王が第24代仁賢天皇の事で、昆支王の子『牟大』が百済第24代東城王と、考えられます。

2019-02-05 | 古代史

日本書紀・古事記を鵜吞みにして、歴史を信じている人には、正しい歴史は解明出来そうにもありません

どちらの書も、本当の事。と、本当とはハッキリしていない事。噓をついている事。を交えて記入している。ので、其処の取捨選択が求められ、研究者を悩ます事になります。

 

日本書紀での武寧王の各加羅島での誕生項は、全くの出鱈目の噓であります

 

此れは、武烈天皇(武寧)が倭王を投げ捨ててしまって、百済王と為って韓半島に行った事で、倭人(後の藤原不比等等日本書紀編纂者)は、(武寧王の倭での足跡を消したかった為に)武寧王が生まれて直ぐに百済に送り返された。とされ、武烈天皇は悪逆非道の天皇と有らぬ悪口を日本書紀に書き残したものと、考えられます。(武烈天皇の悪口雑言は古事記には一切出てきません。)

武寧王(父は加須利君=蓋鹵王です。)は誕生して直ぐには百済に送り返されてはおらず、誕生の場所は、佐賀県唐津市鎮西町の各加羅島では無くて、福岡県田主丸町唐島秋永氏(息長氏)の地区であります。

義父のコンキ昆支王(多分、此のお方が倭の『第24代仁賢天皇字名はシマノイラツコ嶋郎とされている。と考えらます。)と、5人の子(内の一人は百済の『東城王』に為ります『牟大』、もう一人は『タシラカノヒメミコ手白香皇女=欽明天皇の母』?と考えられる)が、武寧王(父はカスリ加須利君=ガイロ蓋鹵王です。コンキ昆支・文周王とは、年の離れた母違いの兄弟になります。)と一緒に暮らしていた。と、考えられるのです。

(百済第21代ガイロ蓋鹵王は、即位455年~475年です。子に第22代文周王・即位期間は475年~477年です。・昆支王・第25代武寧王即位期間は502年~523年です。)

 

百済史を研究され、ブログを起こされておられます、

kei-wataさまの『ピグの部屋』を読んで、『百済の歴史』を勉強してください。

 

 

 百済物語10 武寧王(5)斯麻の即位 治世 漢江を取り戻せ

より、ほぼ全文掲載します。

 

倭国に滞在していた、百済の王子のひとり、斯麻(しま)。五〇一年、急きょ、百済に戻ることとなった。百済王である牟大(むだい・むた)が、家臣の衛士佐平・苩加(はっか)に討たれたとの急報が届いたからだ。

 

斯麻が百済の王都である熊津に戻るのは、これが最初ではない。養父で、牟大王の実父でもある昆支(こんき)も、父・毗有(ひゆう)王の命により、兄の慶司(けいし)の代わりに倭国に赴くのだが、時おり百済に帰っていた。昆支が最後に百済に戻ったのが四七五年、蓋鹵王(がいろおう、慶司)が高句麗の攻撃により 都の漢城を奪われ殺害されたため、南遷した慶司の遺児である文周(ぶんしゅう)を助けるために。昆支の代わりに、倭国には牟大と斯麻が残ったのだが、翌年(四七六年)、昆支が急死、そして、文周王も解仇(かいきゅう)一派により殺害されたため、牟大が百済に戻り、翌年、百済王になった(東城王)。

 百済にいる牟大と、倭国にいる斯麻。牟大に子がいたかどうかは不明だが、どちらにせよ、牟大の子が倭国に赴くことは無かっただろう。王の長男が倭国に赴くというのは、わずかに阿華王が長男の腆支を送り込み、腆支が久爾辛を送り込んだ事例はあったが、それ以外は、王の弟が倭国に赴くこととなった。牟大と斯麻、実の兄弟かどうかはわからないが、牟大にとって、頼りになる弟分は、斯麻をおいてほかにいなかっただろう。三国史記によると、斯麻は牟大の子となっている。これは、実の親子関係というよりは、前に書いたように、政治的な養子関係からきたものだろう。歳の離れた(義)兄弟であり義理の父子関係と、互いに信頼しあう関係から、次の王は斯麻がふさわしいのではと、多くの百済の豪族が思っていたことだろう。古代ローマの帝位継承の事例は知らずとも、古代中国の堯から舜への禅譲のことはよく知っていたはずである。

 百済に戻り、殺害された牟大の後を継いで王になった斯麻。即位式などは後回しで、早速、苩加の討伐に乗り出す。自らも軍を率いて、牟大がかつて築いた牛頭城を拠点に置く。そして、解明の率いる軍勢が苩加軍を破る。破れた苩加は牛頭城に送られ、そこで王命により処刑された。

都に戻るやいなや、王は使者を梁に送った。牟大の後を継いで、王になったことを報告するために。中国南朝も、南斉が滅び、梁が建国しているので、祝賀も兼ねて。祝賀の使節は、まだ倭国にいた際にも送っているのだが、今度は百済王の肩書きで。

 続いて、斯麻は、高句麗に兵を送った。百済にとって、高句麗に奪われた、かつての都である漢城の周辺は、回復すべき失地。肝腎の漢城周辺は、一応高句麗の領土ではあるのだが、直接統治されておらず、そのため、もともとこの地にいる百済の残党が隙を見て一時的に占領し、それを高句麗軍が取り戻す、ということがたびたびおこなわれていたようだ。とはいえ、高句麗領には変わりなく、これまでの百済軍も、大軍を送り込む時間的余裕も兵力も無く、手をこまねいて望郷の念を抱くしかなかった。今回、即位して幾許も経たないうちに、高句麗に兵を送るというのは、失地を取り戻すという、高句麗に対する百済の強い意志表示を表明したことになる。もっとも、この時点に於いては、さほど良い結果は得られなかった。むしろ、食糧難に悩まされたり、隙を突いて靺鞨軍が攻め込んできたりと、痛手を受けることが多かったのだ。

 やがて、疫病がはやり、水不足に苦しむ民と豪族は、国の蔵を開けてほしいと嘆願した。そこで、王は、国の蔵を開けて、彼らの飢えをしのいだ。

 先代の牟大の時は、国の蔵を開くことを許さなかった。前にも書いたが、米ならば豪族の蔵にたくさんあるので、そちらを開いたほうが民のためになるという、もっともらしいことを言って、豪族の力を削いでいった。けれども、それが豪族たちの離反と恨みを買い、結局、苩加の反乱として返ってきたのだ。今回も、同じことをすれば、民や豪族は靺鞨や高句麗に逃れ、第二の苩加を生み出すかもしれない。敵に自ら力を与えることはできないし、そもそも、豪族に昔日の勢いは無く、王権も安定している。今必要なのは、民、豪族たちと力を合わせ、靺鞨や高句麗を退け、漢城の地をとりもどすこと。漢江流域をとりもどすことといったほうが表現的にはよいだろうか。

 高句麗は、五〇七年、将軍高老が軍を率いて、漢城にやってきた。そこで、斯麻は自ら軍を率いて、高句麗軍を退けることに成功した。

 その五年後、再び高句麗軍は、今度は大軍を率いてやってきた。史料には具体的な数字は書かれていないが、おそらく二、三万ほどだろうか。北方の城は次々と落ちていく。斯麻は、今回も自ら軍を率いていく。今度は、精鋭の騎兵隊三千を引き連れて。

 高句麗軍は、百済軍の軍勢をみて、これを破るのは容易いと思い、特に作戦は立てず、数にものをいわせて叩きつぶすことにした。たしかに、数だけをみれば、それも当然だろう。けれども、高句麗軍にそう思わせて油断させるのが、斯麻の思うツボだった。

 

 斯麻が自ら選んだとされる、三千の精鋭たち。騎兵というのは、文字通り、馬に乗って走らせて、攻めること。一般的に、騎馬隊といっても、実際には高官が馬にまたがって陣頭指揮するだけで、ほかは歩兵で戦うものだ。日本の戦国時代に川中島で五度も戦った武田方と上杉方の騎馬隊もそうだった。ところが、騎兵の場合は、みんな馬にまたがって戦うのだ。そうすることで、機動力が活きるため、すかさず敵の背後に回り込むことができるのだ。そして、虚をついて、一斉攻撃する。日本人が騎兵を用いたのは、源義経の逸話(史実か不明)を除けば、日清戦争もしくは日露戦争からといわれている。さすがの高句麗軍も、百済の騎兵による奇襲攻撃には対処できなかった。騎兵戦術はむしろ高句麗のほうが得意としてはいたが、まさか、百済軍が騎兵戦術を採ってくるとは予想だにしなかったからだ。こうなると、兵が多いことがかえって不利に働いた。兵が多すぎるため、かえって統制がとれず、いたずらに犠牲者が増えていくのだ。結局、高句麗軍はほぼ全滅してしまった。

 これまで、高句麗軍は、斯由王が百済の攻撃により戦死してから、その子である伊連の代に、その息子の談徳以来、百済には勝ち続けていた。一時期、腆支王の軍に負けたことはあったものの、四七五年にはついに百済王城を落とし、百済王慶司を捕らえて殺し、恨みを晴らした。それから、百済のほうが国内に問題があったことと、高句麗も王の交代があって、直接刃を交えることが無くなっていたが、百済が武寧王の即位により高句麗と抗争することとなり、今度は失地回復に執念を燃やす百済のほうが、恨みを晴らして久しい高句麗よりモチベーションが高かったためか、百済の方に戦いが優位に進んだといえる。

 此度の戦により、漢江の周辺は、およそ四十年ぶりに百済に戻ってきたのだ。これで、百済にも「恨」が消えたことになる。元は同じ扶余族でありながら、さながら春秋時代の呉と越の関係のごとく、互いに「臥薪嘗胆」「不倶戴天」の敵として争ってきた高句麗と百済。ここで、両国は停戦と相成ったのだ。もはや互いに「恨み」は消え、これからは、相対する国と国との関係となるのだ。決して友好的ではなく、この後も両国の抗争は続くのだが、ひとまず両国は呉越ではなくなったのだ。

 早速、このことを梁に知らせる。翌年(五二一年)、梁の高祖・武帝(簫衍)はこのように冊命した。

 「行都督、百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王隆(りゅう、斯麻のこと)は、(梁の)藩屏(はんぺい)として守り、遠くから貢を納め、忠誠を尽くしている。朕はこれを喜ばしく思い、前例に倣い、使持節都督・百済諸軍事・寧東大将軍という、栄誉ある爵号を授けることとする」

 武寧王の「寧」は、「寧東大将軍」から採られた。「武」は、高句麗を破ったことからとも、梁の武帝の武から来ているとも言われている。もしかしたら、倭王武の武も考慮されているかもしれない。
 
 高句麗を破り、漢江を取り戻し、とりあえず高句麗とは停戦したが、ふたたび攻め入ってこないとも限らない。そこで、斯麻は漢城に赴くと、北方の防衛のため、隻峴(そうけん)城を築かせることとした。これは王の存命中は完成しなかったが、後年、高句麗の軍勢をこれでくい止めることとなる。

 五二三年、斯麻王は、六十二年に及ぶ波瀾万丈の生涯を閉じた

 

 

 

以上が、

kei-wataさまの『ピグの部屋』

百済物語10 武寧王(5)斯麻の即位 治世 漢江を取り戻せ

でした。

勝手に掲載して申し訳ございません。

 

 

武寧王は、倭の唐島(加羅島)で462年から501年まで暮らしており、その間に、昆支王(475年百済に帰り、翌476年崩御)の子で有ります所の、

 

牟大がサンキン三斤王(477年即位479年没)の後で、百済王(第24代東城王479年即位しますが、501年に殺されます。)に為っております。其の後が武寧王(502年~523年)で有ります。

 

この時代に平群氏が出てきますが、糸島には武内氏・平群の地名が認められ、研究者は『糸島』に目が行きがちですが、当時の政治の中心地は朝倉~うきはで有った。事を見逃してはいけませんね。平群氏や蘇我氏(司馬氏)・大山祇命(橘氏)の所謂、『月氏』は筑後川中流域(日田~うきは~朝倉)で活躍しているのです。

 

継体6年4月(512年)、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣します。この時、筑紫国の馬、四十頭を、百済の武寧王(倭に居た武烈王の事で、梁の王から、寧東大将軍→征東大将軍の称号を賜ります)の依頼で、与えます。筑紫の馬を飼っていた場所は、

 

田主丸町唐島の一つ手前(久留米市寄り)のバス停の場所が『』です。此処で筑紫の馬を飼育したもの思われます。

 

523年武寧王が亡くなった後、倭では、527年に『磐井の乱』が起こり、531年倭王家(日田上宮王家)が滅びます。

 

そして、532年倭の『金官伽耶國』が、新羅の『法興王』によって、併合されます。

 

 

 

 

 

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川原宮を考える。武烈天皇・天智天皇の正体。(武烈天皇は武寧王に為った。天智天皇は武寧王の末裔。と考えられる。)

2019-02-02 | 古代史

日本書紀に拠りますと、

 

斉明天皇は斉明7年7月24日(661年8月24日)朝倉広庭宮にて、崩御されますが、遺体を奈良県明日香村の川原寺迄運んで、其処で、斉明7年11月7日モガリ殯をした。と述べられています。

 

わたくしの解釈では、殯の場所が違います。

 

舒明天皇{田村皇子(押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子の子)の事で、聖徳太子(=厩戸皇子=用明天皇と穴穂部間人皇女の儲けた子)の子の山背大兄王と天皇位を争った人。蘇我蝦夷の推挙で628年推古天皇崩御後、629年即位します。}と皇極天皇(寶皇女=天豊財重日足姫630年=37歳で皇后になります。後の斉明天皇です。)は、田川赤村の岡本宮で過ごし、(福永晋三さまが、解明、発表されました。)

 

舒明天皇崩御(641年=寶皇女48歳の時)後、642年1月15日(642年2月19日)に皇極天皇として、田川赤村の岡本宮で即位しました。

 

即位して14日後の、皇極天皇元年1月29日(642年3月5日)には安曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。

 

皇極元年4月8日(642年5月12日)には追放された百済の王族、『ギョウキ翹岐』が、従者を伴って来日します。

 

皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・寶皇女50歳の時)に田川飛鳥板蓋宮(赤村から香春町よりの宮殿跡地出土の場所が考えられます。)へ遷都します。

 

皇極2年11月1日(643年12月16日)、山背大兄王が蘇我入鹿に襲われ、11月11日には自害に追い込まれます。

 

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日、寶皇女52歳の時)田川飛鳥板蓋宮板葺殿にて『オッシ乙巳の変』が起きます。

 

 

中大兄皇子は、皇極天皇が626年(33歳時)に産んだとされ、『乙巳の変』での年齢は中大兄19歳であります。妹にハシヒト間人皇女(第36代孝徳天皇の皇后)と、弟に大海人(天武天皇)が産まれた。事にされています。

 

が、しかし、

中大兄皇子の『中』とは、2番目を意味しており、1番目は(蘇我入鹿に殺された、山背大兄王=上宮王家の欽明→用明→厩戸皇子の血脈者)誰であったのかと、疑念が生じており、娘のハシヒトノヒメミコ間人皇女を弟(孝徳天皇=軽皇子)の嫁にしております。これもまた、尋常では無くて、異常であります。

 

天武天皇に至っては、天智天皇の弟ではない。と述べる研究者が多くおられ、(兄から弟の天武へ、4人の娘、大田皇女、ウノノササラ鸕野讃良皇女、新田部皇女、大江皇女を嫁がせていること。天智天皇と天武天皇の年齢差を考慮すれば、これは、明らかに不自然で、説明できない。)とされています。

 

最近では殆どの研究者が此の説を支持しておられ、天智天皇と天武天皇は、兄弟では無くて、天武が天智天皇(=中大兄皇子=ギョウキ翹岐)を殺した。説が優勢です。

 

当時としては遅い、37歳で皇后に成った皇極天皇が、中大兄皇子・ハシヒトノヒメミコ間人皇女・大海人皇子(天武天皇)を、産んだのかが、疑問視されています。

 

 

秦氏(波多=幡)の先祖とされる弓月君は、応神天皇の時代、百二十県の民を率いて百済から倭に渡ってきて帰化した渡来人です。匈奴・烏孫(兎孫)・月氏に繋がっています。

 

上宮王家とは、日田~ゆふいんの豊受大神一族の末裔の事で(日=太陽を祀り神とする民の事です。)、

 

ゆふいん(豊受大神・伊邪那美)~田川飛鳥(アマテル=ホアカリ=饒速日命=瓊瓊杵尊)~日田(豊受大神・耶蘇杵・高木神・白山姫・彦火火出見尊=孝元天皇)~うきは市(大山祇命・橘氏・平群氏・蘇我氏は、月氏=拝火神の民、である渡来人(大半が応神期に渡来)です。~田主丸町(タカノ竹野)(天鈿女=ミズハノメ=豊玉姫に繋がる息長氏=秋永氏の本拠地で、此処、唐島で、百済25代武寧王(斯麻王=倭では『武烈天皇』と記されています。

このお方は『宋書』の謂う、倭の五王の『武』ではなく、倭王『武』は雄略天皇と考えています。西暦462年誕生。)と第26代聖明王が誕生し、育っています。

 

武寧王、又は聖明王の末裔が、タカノ高野(竹野)の新笠=秦氏の援助で平安京が成立、平安遷都した第50代桓武天皇(737年~806年、即位は781年、父は光仁天皇。)の生母です。

 

武寧王(倭王『第25代武烈天皇』)は(501年)40歳の時に、『倭王』として百済に渡ります。その時に、聖明王も一緒に渡ります。

 

宋書に拠りますと、5世紀の時代、百済と倭は、王家が姻戚関係を結んでいた統一国家状態であった。と解釈されます。

 

501年に倭王が突然に、百済に渡り、倭に王がいなくなり、福井県に居た息長氏(第26代継体天皇になるヲホド袁本抒を大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、倭(九州から山陰・近畿地方迄の領域)に、迎える事にします。

 

ヲホド袁本抒は、『武烈天皇』(武寧王になった人)の義理の姉(昆支の娘)で有ります『手白香皇女=欽明の母』を507年4月2日皇后に迎える事で即位しますが、『上宮王家』の反対があり、19年後の526年田川飛鳥宮に入り、

翌527年、田川勾金の『安閑』と佐賀和泉の『宣化』の協力を得て、田川飛鳥宮入りに妨害していた『上宮王家』の日田石井地区(ガランドヤ古墳・穴観音古墳等が残っています。)を攻め滅ぼそう。とします。

 

記紀では『磐井=石井の乱』として記述しています。

 

しかし、『安閑』・『宣化』の息長氏は継体後、直ぐに暗殺され、継体天皇(近江息長氏)も531年に朝倉で亡くなり(これもまた暗殺?)、三島の『合』に葬られます。(内倉武久さまが解明されました。)

 

上宮王家(ヲホド袁本抒=近江息長氏)の血を引く、欽明天皇が即位し、安定します。

 

此の、竹野郡唐島で育った武寧王(倭王としては『第25代武烈天皇(泊瀬列城宮に居た人)』の事です。百済に帰った後、502年『梁の武帝』から『征東大将軍』の位を得ます。)・聖明王の末裔が百済王族の『ギョウキ翹岐』と考える事ができます。

 

『翹岐』は、倭王の息長氏(秋永氏)の血脈を継承していたものと、考えられます。

 

『上宮王家』の『聖徳太子=厩戸皇子』(うきは市の『橘寺』=柏寺=大生寺=五台山大聖寺近くの厩所で産まれた。用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれている。と、記されています。)の子である、斑鳩に居た『山背大兄王』を643年に襲い、自殺に追い込んだ『蘇我入鹿』を許し難い事と捉え、従者『藤原鎌足』と伴に田川飛鳥宮板葺殿での行為に及んだものと考えられます。

その時に、『中大兄皇子』(翹岐)は「韓人殺鞍作臣吾心痛矣」

 

「韓人(からひと)である翹岐が、鞍作(入鹿の事)を心痛めて、殺しました。」

 

と、皇極天皇に奏上します。

 

つまり、豊受大神一族が代々続いていた『上宮王家』(欽明→用明→厩戸皇子→山背大兄王の正当皇統)が滅んだ事に、心を痛めて、鞍作(司馬氏)の蘇我入鹿に天誅を行なった。となります。

 

 

『翹岐』はその後、『中大兄皇子』と日本書紀に記載され、『天智天皇』とされた。ものと、考えられます。

 

654年弟の第36代孝徳天皇(軽皇子)崩御後に、歴史上初の重祚(皇極天皇→斉明天皇)が、中大兄皇子(翹岐)が実務を取り仕切って、飛鳥宮板葺殿で行われます。斉明天皇元年655年1月3日62歳時ですが、その年の冬に飛鳥宮板葺殿は火災で焼失し、斉明天皇は『川原宮』へ一時遷都をします。

 

『川原宮』の場所は『うきは市』を流れます、筑後川支流の『隈の上川』傍の『川原町』であろう。と考えています。後に中大兄皇子(翹岐)が『川原寺』にします。

※ 『川原寺』(僧寺)と『橘寺=柏寺』(尼寺)は一本道で繋がっています。後に、藤原氏が奈良に同様の配置で『川原寺』(僧寺)・『橘寺=柏寺』(尼寺)を造ります。

 

663年の『白村江の戦い』以後に、多分667~668年頃『川原寺』は、奈良県に移築されます。

 

わたくしは、前回のブログで朝倉広庭宮が在ったのは、『うきは市中島地区』であろう。普門寺は、当時は川原寺と呼ばれていたと思われます。其処が『斯鬼斯麻宮』の事であろう。と述べていましたが、現地調査をしました処、普門寺が川原寺と呼ばれたのではなく、川原寺は別の場所であります『うきは市』川原町』に在った。と、考えを改めました。

 

『川原』は全国津々浦々に存在しているので、研究者たちから、根拠を要求される。と思います。

 

川原宮(川原寺)の根拠は、『隈の上川』に架かる2橋の名前です。国道210号バイパスを跨いで、『上御所橋』と『下御所橋』があります。

『御所』とは、『天皇』もしくは『上皇』が居られる場所を指します。

 

此れは、斉明天皇が居を構えたと考えられます『川原宮』を意味している。とも考えられ、

 

つまり、斉明天皇が亡くなり、殯をした場所は、奈良県の川原寺では無くて、うきは市の『川原寺』であった。

 

と、解釈する事ができます。

 

しかし、日本書紀では、

 

斉明天皇7年(661年)7月24日朝倉広庭宮にて崩御後の記述は、

    • 8月1日 - 皇太子(中大兄皇子)が天皇の喪に付き添い、磐瀬宮(泊瀬)に到着。2か月と6日後の
    • 10月7日 - 天皇の喪が帰りの海路に出航。16日間かけての
    • 10月23日 – 斉明天皇の喪が難波津に着く。2週間後の
    • 11月7日 - 飛鳥の川原で、殯りをした。9日まで発哀。

とあり、この記述を如何判断するか。が、求められます。

 

全体を見て、感じられます事は、『飛鳥の川原』は倭(九州)から、遠く離れた近畿奈良に存在している。(様に記入されている。)と感じられます。

 

しかし、よく検討をしますと、疑念を抱かせます記述があります。

 

つまり、斉明天皇が7月24日に亡くなり、8月1日に中大兄皇子が泊瀬(磐瀬)宮に着いた。と述べられている事です。

 

中大兄皇子が、近畿の飛鳥宮から6日~7日で遣って来るのは、不可能・不可思議な記述であります。如何やって連絡を執ったのでしょうか。

 

此の問題で、唯一の解答が得られますのは、田川の飛鳥宮近くの『難波津』で、中大兄皇子が船に乗って出発して、有明海から、又は太宰府の水城水門を通って、筑後川を遡って朝倉の泊瀬(磐瀬)宮に着いた。と考えるのが常識でしょう。

 

此の記述は、噓を書く事を強要された、編纂者の良心的な反抗と、捉えられます。

 

日本書紀の記述を信じれば、田川飛鳥の『川原』で殯をした。と謂うことになります。

 

『川原』は『香春』とも解釈できます。斉明天皇の人生の大半は、赤村~香春~大任で過ごしています。

 

しかし、中大兄皇子が泊瀬(磐瀬)の広庭宮に2か月と6日も滞在したと述べられており、これもまた不可思議な理解不能な行いです。通常は速やかに遺体を連れ帰り、殯を行います。

 

やはり、うきは市の『川原宮御所』で殯を執り行った。可能性が高い。との結論が付けられます。

 

『川原宮御所』近くの『月の岡古墳』は、如何も『雄略天皇陵』、『日の岡古墳』が『欽明天皇陵』の匂いがします。

 

ひょっとすると、此処が『川原宮御所』で有った。とも考えられます。

 

 

 

 

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