「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

『大蔵姓田尻氏正統系譜』から、導かれます笠縫氏と阿部仲麻呂の出身地。

2019-09-18 | 古代史

わたくしの説では、

『息長氏=秋永氏』で有ったのであれば、豊受大神以後、次のようにして、天皇家が成立したものと、考えられます。歴史を組み立ててみましょう。

※、豊受大神一族は、中国大陸から曹操の鉄鏡(金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡)を持って、遣って来た西暦205年頃の後漢、袁氏(袁譚?=袁紹の長男)の血脈の帰化人で、阿蘇氏(息長氏)と姻戚関係を結び、日田市~大山町~ゆふいん~九重町~田川~大分~福岡の、所謂北部九州を統括していました。

 

九州南部(熊本・宮崎・鹿児島)は、

紀元前473年以降に、会稽(上海周辺)や南方の海南島周辺から何度も、黒潮海流(2ノット~3.5ノット※1ノット=1852m)に乗って渡来の阿蘇氏=白氏(呉の太白=姫氏→紀氏)であります。海南島からは、イ倭族・シエ曾族も犬祖伝説や醤油・味噌・藍染の醗酵技術、焼畑・放牧・矢的の習慣を持って、宮崎・鹿児島・熊本に遣って来ていると考えています。

宮崎県串間市の古墳から出土した、玉壁(翡翠玉)は、中国雲南省に興った秦國由来の『ナンエツ南粤國』の王が、同じものを着用して埋葬されており、紀元前110年頃に、南九州に、『ナンエツ南粤國』から船で流れ着いた。と、考えられます。

宮崎の西都原古墳群は、『ナンエツ南粤國』と大いに関係があるものと思われます。

 

彼ら南方系渡来人を総称して『シユウ蚩尤』に繋がる『リー又はレイ黎族』と呼びます。

 

海南島には、『賀茂』の地名が残っており、

記紀で述べられています『賀茂建角身命=八咫烏』は、海南島にルーツがあると考える事が自然です。(ホツマ伝の叙述から読み解きますと、鹿児島~苅田~行橋~田川香春町に移動した後に日田~阿蘇に落ち着きます。)

 

天皇即位の儀礼の『ダイジョウサイ大嘗祭』では、必ずや『八咫烏の旗』が立てられ、南方の『ビロウ枇榔の葉』が用いられて、執り行われます。

 

昔から、中国人の事を『支那人』と呼んでいましたが、『支那』は雲南省に地名が残って在り、ベトナム・雲南省・海南島方面から、黒潮海流に乗って、台湾~沖縄~南九州へ辿り着いた。と、考える事が自然です。

 

(以上は、内倉武久さまの研究成果。を参考にして述べさせて戴きました。)

 

八咫烏(=大山咋・琴平神・松尾神・国造速瓶玉命・息長氏です。)の姉が、豊玉姫(=天鈿女・息長大姫大目命・息長水依姫・猿女・罔象女・阿蘇津姫・内色許売命)です。

 

豊玉姫は、豊受大神一族の『イザナミ伊弉冉』の弟の『ツワモノヌシ又はヒョウズジンと謂う。兵主神』と結婚します。

 

『兵主神』とは、中国の古代の武人英雄『シユウ蚩尤』を指し、日高彦穂穂出見尊(=記・紀では第8代とされています孝元天皇と、第4代の懿徳天皇の事に積み増しされています。)の事であります。

(懿徳の皇后は天豊津比賣命=豊玉姫で、天児屋根命=第12代景行天皇・第7代孝霊天皇に、記・紀では積み増しされています。の妃です。→行橋の勝山黒田周辺に居た事が想像されます。)

 

兵主神(日高彦穂穂出見尊)と豊玉姫(息長大姫大目命)の間でウガヤフキアワセズ(=金折・住吉神・記・紀では第9代開花天皇・稚倭根子比古大毘毘にされています。)を、宮崎県の鵜戸神宮で儲けます。

 

ウガヤフキアエズは、阿蘇西ノ宮から長崎県早岐の西ノ宮(広田宮)→博多春日市須久岡本→太宰府四王寺山→久留米磯城(城島)へと、移動をしたものと考えられます。

 

久留米磯城大善寺玉垂宮で、『玉依姫(伊迦賀色許賣命)』と連れ子の『崇神(新羅から戻ってきた天日鉾、即ち須佐之男命)』を養います。

 

(百嶋由一郎説の根幹は、『開花天皇と神功皇后は夫婦であった。』であり、百嶋説とわたくしの考えを融合させた場合は、『玉依姫=伊迦賀色許賣命』は、『神功皇后=息長帯姫命』と同一人物である。と謂う事に為ります。

 

と、謂うことは、佐賀県北川ダム傍の、『野波神社』の『下の宮』で祀られています『息長宿禰王=神功皇后の父親』が『八咫烏=賀茂建角身命』のことで、

 

『息長宿禰王』の父が『迦邇米雷王』ですから、『迦邇米雷王』が『豊玉彦=八大竜王=健御雷之男命=健磐龍命』である。と謂う事に為ります。)

 

一方の『兵主神』と『豊玉姫』は、→苅田・行橋(宇原神社・青龍窟・石塚山古墳)に足跡が残っています。多分此処(苅田)で『豊玉姫』と別れたものと想われます。

『兵主神=孝元=彦穂穂出見尊』は、近江大津シノ宮で亡くなり若狭伊奢沙別宮(気比神宮)に埋葬された。と、ホツマツタエは述べています。

後に応神(品陀和気命)が武内宿禰に連れられて、笥飯神(本来の伊奢沙別神=彦穂穂出見尊=孝元)を、お詣りします。

※(八咫烏の娘の玉依姫とは、伊香賀色謎命の事で、神功皇后を意味しています。8世紀に記・紀で述べています仲哀天皇は、藤原不比等の捏造の人物と考えられます。従って、息長帯姫命=神功皇后は最初の夫は孝元で、崇神を儲け、二番目の夫が、甥の開化天皇(伯母豊玉姫と孝元が儲けた人。)になります。合間に、武内宿禰との間で、『品陀和気命』を儲けています。)

 

その後の『豊玉姫』は、アマテル所縁の多賀(田川)『香春宮』で『天之児屋根命』(景行・長髄彦・猿田彦・ホアカリムメヒトの臣)に養われて、『辛國息長大姫大目命』として、名を残しています。

 

『天児屋根命』との間で、『天忍雲根命』(鹿島押雲・春日若宮=大雀命?)と『日立命』(日高彦)を儲けます。

ホツマ伝では、『天忍雲根命』(鹿島押雲)の子が、『天種子命』です。『天種子命』の子が『宇佐万呂』(宇佐津臣命)であります。

宇佐公康さまの伝承を信じれば、『天種子命』が『崇神天皇=スサノオ』と、同一人物に為ります。

 

『天忍雲根命』が、『天之児屋根命』の子では、時間軸に齟齬が生じ、『天種子命』(崇神天皇=スサノオ)の父であります『天忍雲根命』(鹿島押雲・春日若宮)は、如何も『日高彦彦穂穂出見尊』と、同一人物である。と考えざるを得ません。

『日高彦彦穂穂出見尊』の出身地であります、大分県日田市日高町の横の『若宮町』には、『若宮神社』が在り、祭神は、当然に藤原氏が、『仁徳天皇』へ変更しています。本来の祭神は、『日高彦彦穂穂出見尊』で有ったのかも知れません。

 

ホツマ伝では、『天種子命身罷る 百八十七歳 骸納む 三笠山。 春日の殿に 合ひ祭る 三笠の姓。 宇佐万呂に 賜ひて讃ゆ 三笠臣』と述べられており、

 

『天種子命』は、『三笠山』に埋葬された。『宇佐万呂』(宇佐津臣命)に『三笠』の称号が贈られた。と謂う事が理解でき、

此の『三笠山』とは、国東半島豊後高田市草地に在ります『三笠山』と謂う解釈ができます。

しかし、宇佐公康さまの伝承を信じれば、『三笠山』の場所は国東半島杵築市狩宿の『大熊山』(小熊山古墳=スサノオ=崇神の墳墓と考えられます。)です。

 

つまり、753年(天平勝宝5年)唐長安での『王維』らの送別の宴席で『阿倍仲麻呂』が詠んだ『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』に出てきます、『三笠山』とは、福岡県春日市の『三笠山』(宝満山)では無くて、国東半島の『三笠山』(春日山)であった。と解釈することも出来ます。

その根拠は、

阿倍仲麻呂(698年~770年1月没。73歳)は、※『阿倍比羅夫』の孫と謂われており、阿部・安部氏は大分に多く生活しています。

 

※    『阿倍比羅夫』は、漢の太祖『劉邦リュウホウ』皇帝に繋がる、『大蔵』氏で、後漢皇族の『阿智王』(姓は、劉リュウ→笠リュウ→笠縫リュウホウ→カサヌイ氏と呼ばれた。と、考えられます。

『笠縫』氏とは、『劉邦』に繋がる漢からの渡来人=技術者集団を指しています。)が、応神天皇20年9月5日に、備中國窪屋郡大倉谷に遣って来て、帰化しており、

『阿智王』の孫が『東漢志挐 ヤマトノアヤ シダ又はシド』で、その子が『崇峻天皇』を朝倉で暗殺した、『東漢駒子』(別名は『坂上』氏の『駒子』です。)

 

『駒子』の七代後が、『阿倍比羅夫』(安曇比羅夫=642年田川飛鳥宮の皇極天皇(寶皇女)のもとに、崩御した舒明天皇への弔辞を持って、韓半島百済から帰倭した人とは、別人とされています。)です。

 

後には『原田』氏(筑前国糸島郡長糸邑原田に城を築いて原田氏を名乗ったのが発祥)→『田尻』氏(筑後國三池郡田尻より、発祥。)を名乗り、筑前・筑後・豊前・豊後・熊本で活躍をした氏族です。

 

熊本市在住の田尻久善さま所蔵の『大蔵姓田尻氏正統系譜』の写しを古川清久さまから頂き、参照しました。

 

『天の原』とは、具体的には『高天ヶ原』(ゆふいん塚原)を指し、大分~鶴崎の難波長柄豊碕宮(葛木)を717年(神亀元年)出帆した第9次遣唐使船は、別府湾を国東半島方面へ、ぐるりと北上して初日の停泊地、宇佐『長洲』(又は、豊後杵築『狩宿』)を目指します。

 

豊後高田(又は、豊後杵築)沖、に差し掛かると、夕日が西の空に沈みかけ、西南の方向に在ります『高天ヶ原』(ゆふいん塚原)鶴見岳方面を眺めて、この先の自身の将来の人生の不安・感慨に耽り、ふっと振り返って、東の豊後高田『三笠山』(又は、豊後杵築の三笠山=『大熊山』=崇神の墓)方面に目を遣ると、大きな月が『三笠山』の上にあった。と、謂う解釈になります。

 

博多湾から太宰府(南東)方面の『宝満山』(三笠山と思われます。)を望んだ場合は、『振りさけ観』れません。『天の原』の解釈が問われます。『天の原』とは、倭國土全体を指す事に解釈しなければなりません。拡大比喩解釈になります。

しかし、祖父の『阿倍比羅夫』は『太宰帥』になっておりますので、『仲麻呂』は、太宰府で幼少期を過ごした事が考えられ、太宰府方面への想いが有ったのかも知れません。

 

わたくしは、真実を求めて『春日』の本貫地であります、『宇佐』の豊後高田市草地に在る『春日神社』の調査を行う事にしました。

 

2019年9月17日晴天の下、午後1時過ぎに現地に着き、『神社由緒』の看板を眼にしました。

祭神は『春日四柱大神』です。創建は、809年(大同4年)です。

由来は、雷鳴と稲光のなかに白い鹿の背にまたがって現れ、「我は三笠山に住める翁ぞ」と告げて、南に飛び去りました。これぞまさしく『南都春日大明神』の神霊である。として、社殿を建立した。のが、始まりとされています。

 

豊後守護職であります、歴代大友(大伴)氏は此の春日社を特別に崇敬し、庇護しており、境内脇社に八坂神社(祇園社=スサノオ)・厳島神社(弁天社)が配されていました。

 

『春日神社』の正式住所は、大分県豊後高田市草地三笠山5206 と記入されており、驚きました。『三笠山』とは、『山』の事では無くて、『小字名』の『地名』の事でありました。近所の民家を数件覗き込み、『安部』姓がありましたので、『阿部仲麻呂』との関係が窺われ、民家のお方にお尋ねしますと、『此の古城区は33軒在り、内26軒が安部と阿部姓である。』由。

わたくしは、呆然として、立ち竦みました。

 

『間違いなく、阿部仲麻呂のルーツは豊後高田市草地三笠山であった。』と。

 

770年1月に『唐』で『阿部仲麻呂』(73歳)は亡くなっており、大友氏(大伴氏)が、『阿部仲麻呂』の出身地である豊後高田市草地三笠山に『春日神社』を809年に創建して、『唐』で出世して、帰国叶わなく、亡くなった『阿部仲麻呂』の想いに、報いたものと考えられます。

 

つまり、『春日なる 三笠山に いでし月かも』とは、異国の地からの『阿部仲麻呂』の生誕の故郷、『豊後高田市草地三笠山』への望郷の和歌を詠んだものであった。と、理解されます。

 

 

 

 

 

 

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