私の亡くなった母の出身地は、久留米の高良内(こうらうち)と謂って耳納連山の西の端の高良山と明星山の間にあって、筑後川の支流である合川(あいかわ)の上流の扇状地に位置しています。
高良大社の直ぐ南下です。高良内には、幼少の頃時々母に連れられて行った思い出があります。
ツラツラ考えますと、以前は『かわち』とも謂っていたように記憶しています。ここは、古い昔は(こうらうち)ではなくて(かわち)と呼ばれていたのではないでしょうか。
そうでありますと、『耳納(みの)』と『高良内(かわち)』になり、古事記に書かれています崇神天皇の条項で、オホタタネコが見つかった『河内(かわち)の美努(みの)』と同じと考えられます。
御諸山(三輪山のこと)は、筑後川の向こう側の朝倉の甘木(目配山)に在ります。此処には、非常に古いと謂われる大已貴神社(おおなむちじんしゃ)があり、高良山(高良大社)に向けて建てられています。
先日行った『師木(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)』と思われる『城島(しき)の大善寺玉垂宮(だいぜんじたまたれみや)』からも近く、古代はこの辺(城島の玉垂宮)で政治が執り行われていた。と考える事ができます。
もし、是が正しい歴史であれば、高良大社の高良玉垂命は『オホタタネコ』であるとも考えられます。
御井津比売命はその後に来たものと考えるべきでしょう。そして此の『オホタタネコ』が垂仁天皇と一緒に飛鳥に行ったとも考えられます。
と謂うことで、第10代崇神天皇・第11代垂仁天皇は『城島(しき)の大善寺玉垂宮』に居たと考える事ができますし、第12代景行天皇と第14代仲哀天皇は九州に居た痕跡を、伝承にて充分に残しています。