「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。3

2011-11-30 | 古代史

私の亡くなった母の出身地は、久留米の高良内(こうらうち)と謂って耳納連山の西の端の高良山と明星山の間にあって、筑後川の支流である合川(あいかわ)の上流の扇状地に位置しています。

 

高良大社の直ぐ南下です。高良内には、幼少の頃時々母に連れられて行った思い出があります。

 

ツラツラ考えますと、以前は『かわち』とも謂っていたように記憶しています。ここは、古い昔は(こうらうち)ではなくて(かわち)と呼ばれていたのではないでしょうか。

 

そうでありますと、『耳納(みの)』『高良内(かわち)』になり、古事記に書かれています崇神天皇の条項で、オホタタネコが見つかった『河内(かわち)美努(みの)』と同じと考えられます。

 

御諸山(三輪山のこと)は、筑後川の向こう側の朝倉の甘木(目配山)に在ります。此処には、非常に古いと謂われる大已貴神社(おおなむちじんしゃ)があり、高良山(高良大社)に向けて建てられています。

 

先日行った『師木(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)』と思われる『城島(しき)の大善寺玉垂宮(だいぜんじたまたれみや)』からも近く、古代はこの辺(城島の玉垂宮)で政治が執り行われていた。と考える事ができます。

 

もし、是が正しい歴史であれば、高良大社の高良玉垂命は『オホタタネコ』であるとも考えられます。

 

御井津比売命はその後に来たものと考えるべきでしょう。そして此の『オホタタネコ』が垂仁天皇と一緒に飛鳥に行ったとも考えられます。

 

 

と謂うことで、第10代崇神天皇・第11代垂仁天皇は『城島(しき)の大善寺玉垂宮』に居たと考える事ができますし、第12代景行天皇と第14代仲哀天皇は九州に居た痕跡を、伝承にて充分に残しています。

 

 

 

 

 

 

 

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