「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

神武天皇は存在しなかった。

2012-01-16 | 古代史

第2部が終わって3千人以上の閲覧者の訪問を戴き大変感謝を致しております。ありがとう御座いました。 

 

私としては、第一部の「息長氏は秋永氏である。」の顚末記で述べた、香春神社の由緒、「辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給う。」の文章に出てくる「神代」の文字が気になって仕方がありませんでした。

 

一般の読者の方も、「息長大姫大目命」が天照大神であったのではないか。とするわたしの考え(霊感)を、時代錯誤も甚だしい論理と一蹴されたのではないでしょうか。

 

第2部「九州王朝を紐解く垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。」で崇神以前の8代の王が存在したと考えることが出来ることになり、この「神代」の様も明らかになり、わたしの心中もすっきりした筈ですが、三浦佑之さんの口語訳古事記の内容を冷静に再考すると、どうも不自然に感じられることがあります。それは、初代神武天皇をあれだけ克明に、詳しく、まるで記者同伴で一部始終を見てきたかのように描写されていますが、綏靖天皇から開花天皇までは、どこ其処に住んで、誰それを娶り、だれ某が生まれ、どこ其処に葬った。とあまりにも簡単に述べてあります。

これは、不自然そのもの、首を傾げます。考察の必要を感じます。

 

口伝伝承をした稗田阿礼は、香春神社の東、仲哀峠を越えた行橋市稗田の出身といわれ、7世紀後半から8世紀前半に生き、第40代天武天皇に命じられ712年に古事記が完成しています。

第10代崇神天皇の時代を、仮に2世紀後半から3世紀前半としますと、400~500年以前の出来事になります。その伝承を書き留めたのが「古事記」であります。崇神天皇から初代神武天皇まで9代あります。

この事と欠史8代の記述の様を基準とすれば、初代神武天皇の記述には無理があります。

明らかに神武天皇は綏靖天皇の前に付け足されております。

初代は綏靖天皇で、次に安寧―懿徳―孝昭―孝安―孝霊―孝元―開花となり、第9代は崇神と考えられます。

そうしますと、香春神社の「神代」の意味が理解出来ます。初代綏靖から第8代開花までは地方の王で在ったに過ぎず、四道将軍を派遣し諸国を従わせた後、崇神が(東征を行って?多分東征は行っていないと想われます。)倭国を統一したものと考えられます。崇神天皇を古事記では所知初國御眞木天皇(はつくにしらししすめらみこと)、日本書紀では御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えています。

神武天皇にも、日本書紀では始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)の称が贈られており、初めて国を治める天皇がふたり存在することになります。

 

ウキペディアの崇神天皇では、この事については、{神武天皇は崇神天皇より後に「帝紀」「旧辞」の編者らによって創られたと考えられる。それ故に崇神天皇が国(大和)を治めた最初の天皇であると考えられる。『常陸国風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある。}と、されています。

 

例えば、大善寺玉垂宮に居た崇神は博多の香椎宮から出発をしたものと考えても合点がいきます。

古事記に述べられておる神武天皇の詳しい痕跡条項は、創作されているものと考えられます。

と、謂う事で、神武天皇の東征が疑われる事だけではなく、神武天皇の存在までが可也、あやしくなりました。神武を崇神に重ねることも考えねばならないでしょう。

 

そうしますと、辛国息長大姫大目命が天照大神であっても何等違和感が生じません事になります。

そして、卑弥呼が天照大神であったと謂う説が真実味を帯びてくることにもなります。

 

 

《追補》2024年3月5日

 

その後の考察で、『辛国息長大姫大目命』は、阿蘇氏の娘『阿蘇津姫』の事で、記紀では、『天鈿女命』として、『天照大神』の岩戸隠れの際に、岩戸の前で、半身を裸で舞い踊り、八十神を『弩っと』笑わせて、天照大神が岩戸を開ける場面に登場したお方です。

 

『辛国息長大姫大目命』は、福岡県田川郡香春町に在ります『香春神社』の祭神として、忍骨神=天之忍穂耳命と伴に祀られており、此処(大任町)には、秋永氏の源元とされた、『秋永』地区があり、わたくしのブログをやる切っ掛けをつくりました。

 

このお方『辛国息長大姫大目ウズメ命』=『天鈿女ウズメ命』は、『瓊瓊杵尊』が高天原から(ゆふいん塚原には、『ハラミの山』と考えられる『別府鶴見岳』と、接しています。)糸島の『笠沙岬』へ降臨の際、『天八街アメノヤチマタ』(現在の名は、天間アママ)に居た怪しげな人物(猿田彦=佐田毘古命)を調べに遣わされる場面にも登場し、後に猿田彦=景行天皇=天之児屋根命=長髄彦命と結婚をします。

 

『龍神姫』とも『水波能女命』とも『弁財天尊』とも『市杵島姫命』とも『豊玉姫』とも謂い、秋永氏=息長氏の源元です。

 

猿田彦と結婚をしたのは、二度目の結婚で、

 

最初の結婚は日田市の日高彦彦穂穂出見尊=孝元天皇=兵主神です。開化天皇(若倭根子日子大毘毘命)になるウガヤフキアエズ=住吉神を、宮崎県の『鵜戸神宮』で儲けます。

 

阿蘇氏の『豊玉姫』=『天鈿女命』=『辛国息長大姫大目命』には、弟、阿蘇北宮『國造神社』で祀られている『賀茂速瓶玉』=『賀茂建角身命』=『八咫烏』がおります。

『賀茂建角身命』は、『瓊瓊杵尊』から、『伊賀古夜姫(以前は、瓊瓊杵尊の妃)』と『カワイの國』(福岡県田主丸町川会邑鹿島)を賜り、『玉依姫』を儲けます。(ホツマ伝に拠る。)

 

『玉依姫』が、『日高彦彦穂穂出見尊』との間で儲けたのが『天日鉾』=『スサノオノミコト』=『崇神』であります。

 

『崇神』は父である『日高彦彦穂穂出見尊』を名乗ります。此れが、神武天皇『彦火火出見尊』に間違われる原因でしょう。

 

そして、『玉依姫』は、『開化天皇』の皇后に為ります。此れが『開化天皇』の子が『崇神天皇』にされた、原因です。

 

『開化天皇』と『崇神天皇』は、母親違いの兄弟です。

 

『天日鉾』=『スサノオノミコト』=『崇神』=『ツヌガノアラシト』は、新羅王にするべく、豊後葛城氏と伴に韓半島に渡り、置き去りにして帰ってきますが、敦賀に大勢の新羅人と伴に遣って来た後、国東半島『姫島』から、『杵築』で止め置かれます。

 

アマテルとスサノオが誓約したのが八坂川を挟んでの行為だったと思います。『眞名井』の地名も近くに在ります。

 

杵築にはアマテルの東局ヒガシノツボネが設置され『大内宮』に二人のアマテルの妃が出雲から遣って来ます。

 

素戔嗚尊=崇神が『大内宮』の妃二人に手を付けて、生まれたのが、『天之穂日命』と、三つ子の『宗像三女神』です。

 

『ゆふいんと高天原』を最初に治めて居たのは、大山祇命(月氏)一族の王であります『高躬結び神』です。日田市(傍に大山町が在ります。)から隠居國として、娘の伊弉冉(イサ子)と共に『ゆふいんアサマの宮』をつくり、『ゆふいんアサマの宮』で『伊弉諾尊』・『伊弉冉』との間で『アマテル』を儲けます。

 

長男の『耶蘇杵』は、大幡主命として、日田市で『白山姫』(水天宮)を娶り、『大宮姫』を儲けます。朝倉市林田余名持にては、鹿児島県曾於郡大崎町の『太耳』(雲南省から渡来の耳族)の娘を娶り、『大己貴命』を儲けます。

 

由布岳の事を『奥壺オキツボの筑波山ツクバヤマ』と呼んで居たものと考えられます。ゆふいんには、『壺池』が、在りました。『ツクバ』とは、『斎き奉る』事を意味して『バ』は、耳・羽・葉を意味しています。

つまり、双耳峰を意味しています。ゆふいん盆地から見上げる由布岳は『双耳峰』です。

 

ゆふいんに居た瓊瓊杵尊が、『八州巡り』を行って茨城県に立ち寄り、『筑波山』を命名したものと考えられます。

 

アマテルの孫とされる『瓊瓊杵尊』が、『アサマの宮』を『サカオリの宮』に改称します。

 

この『サカオリの宮』を懐かしみ、愛知県熱田神宮近くの『宮津姫(父親の名は『乎止与』で、ゆふいんで暮らして愛知に移動した人です。)』宅で一緒に居た『日本武尊』が、『サカオリの宮』の絵図を見てみたい。と述べ、『乎止与』が、「わたくしが、行ってきましょう」と、ゆふいんに着て、絵図を描いて送った。と、ホツマ伝は述べています。

 

『日本武尊』は『景行天皇』(猿田彦)の子ですから、古事記・日本書紀の歴史記述には、恣意的な時間軸積み増しの齟齬が認められます。

 

わたくしの想像では、『アマテル』と孫の『瓊瓊杵尊』が、重なり合い、同一人物と考えられます。

 

根拠は『饒速日命』と『瓊瓊杵尊』の随行者に、何方にも『天之児屋根命』=猿田彦=景行天皇が認められます。

 

天皇家の始まりは、景行天皇からであるのは、明らかであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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