「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。10

2011-12-07 | 古代史

古事記には、天孫降臨の条項に、瓊々杵尊(ニニギノミコト)の述べた言葉として『此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。』とあります。

 

日本書紀では、『そ宍(し)の空国(からくに)を、頓丘から国(くにま)ぎ行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到る。』となっています。

 

此の二つの記入の中で、気になりますのは、日本書紀の空国(からくに)を、覓(ま)ぎ行去りての意味です。これは、『まだ、移住者(統治者)のいない土地を探しながら笠狹碕に来た。』と解釈されます。目的は、移住地探しであったと謂う事になります。

 

そして笠沙の岬に住む「木花之開耶姫(コノハナサクヤ姫)」と婚姻しています。亡くなった後の埋葬地は可愛山(かえやま)となっています。

 

葦原中国の笠狹碕博多の西の糸島半島の事だと考えられます。此処周辺には『記・紀』に出ている条件が揃っています。可愛山(かえやま)と可也山(かややま)吾田(あた)と有田(ありた・あた)日向と日向高千穂と高祖山の比定地があり、地図をご覧になれば解りますが、此処の糸島は、韓国に向き合っていまして、ここは朝日も夕日も照る立地です。日向や鹿児島にある吾田の比定地は韓国とは向き合っていません。

 

半歩譲って、宮崎の高千穂峰に降り立ったにしても、笠狹碕は博多の西の糸島半島の事だと考えられます。

 

鹿児島の野間半島は条件に無理があるようです。

 

瓊々杵尊(ニニギノミコト)は福岡県糸島市高祖山(417m)周辺に住んで居たものと考えられます。

 

 

と謂うことに成りますと、天照大神は此処糸島に居られたとも考えられる事ができます。

 

 

1965年(昭和40年)糸島市曽根遺跡群の平原遺跡にて、弥生時代後期中頃と思しき墳墓から棺と伴に(中には40面分もの銅鏡片が這入っていたそうです。)

 

夥しい勾玉・管玉等の装飾品が発見されました。副葬品から埋葬された人物は女性であると考えられ、此の中に、天照大神が持っていたと思しき『八咫鏡』が発見されて、1号墓の主を、調査主任であった原田大六氏は『大日(おおひるめむち)』である『玉依ひめ』(神武天皇の母)ではないだろうか。と推定されているそうです。

 

また同氏は殯宮(もがりのみや)と思しき建築物の痕跡を見つけられています。

 

玉依ひめは海神(わたつみ)の子であります。姉妹には『豊玉ひめ』がいます。当時は、大日貴(おおひるめむち)は結婚出来たのでしょうか。

この時代で可能性を持っていますのは、『玉依ひめ』『玉ひめ』『木花之開耶姫』『万幡豊秋津師比売』『照大』の1神4人になります。

 

『玉依ひめ』『豊玉ひめ』は綿津見神の子です。『木花之佐久夜毘売』は大山祇神(おほやまつみ)の子です。『万幡豊秋津師比売』は高木神の子です。

 

此の中で、大日貴(おおひるめむち)には、『玉依ひめ』も大いに可能性を持っていますが、一番可能性を感じますのは、『天照大神』を挙げることも出来ます。

鏡と謂う点からも、『天照大神』の方が相応しいとも考えられます。

 

原田大六さんの業績に敬意を払うと伴に、『玉依ひめ』に『天照大神』も加えたいと思います。

 

古事記にては、イザナギが禊をして、左目を洗ってアマテラス、右目を洗ってツクヨミ、鼻を洗ってスサノオの三貴神を生むのですが、福岡市西区小戸(おど)には、その地と謂われています小戸大神宮(おどだいじんぐう)が在ります。

此処が、天照大神の誕生地であると考えられます。

 

 

後世、纏向に遷都した垂仁天皇が娘である倭姫命に命じて、20年架けて天照大神を祀る場所を見出した伊勢神宮のある伊勢志摩の地名は、天照大神が居た伊都志摩(いとしま)から変化したものと考えられます。

 

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九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。9

2011-12-06 | 古代史

最後に、初代神武天皇です。

 

古事記では、白檮(かし)原に住んで居て畝火山の北の方の白檮(かし)の尾根のほとりに埋葬された。事になっています。

 

橿原市にある畝傍山の北に位置する神武天皇陵をネット地図にて確認をしてみますと、そんなには違和感を生じません。

 

橿原(かしはら・かしはる)は香春(かはる)や香椎(かしい)とも似ていますが、どうも、これは違うようにも想えます。

 

しかし、地図にて福岡市香椎近辺を探りますと香椎原と謂う字がありました。橿日原(かしひはら)が橿原(かしはら)に変化したとも、あるいは逆に橿日が橿日原→橿原に変化したとも考えられますので、東征以前に神武天皇が此処に居たとも考える事が出来ます。

 

神武天皇は、『記・紀には詳しく経過が説明がなされており、矛盾点や疑問点が地名上では見出す事が出来ませんので、多分飛鳥で亡くなったものと想われます。

 

ただ一点、出発地である日向を、宮崎の日向と謂う風に考えるのが一般的ですが、福岡の西区から前原町にかけても日向川や日向峠の名前が認められます。近くには、高祖山や飯盛山が見受けられ、野方遺跡、吉武・高木遺跡も近くに在り、数多くの遺跡が見受けられます。

 

神武天皇の母は、玉依姫(たまよりひめ)で海神の娘(わたつみのむすめ)とされています。対岸の志賀之島には海神社(わたつみじんしゃ)の総本山があります。

 

神武天皇は日向(ひむか)吾田邑(あたむら)吾平津媛(あひらつひめ)と結婚して、手研耳命(たぎしみみのみこと)を生んだとされています。

 

この吾田邑(あたむら)は前原町の有田か室見川傍にある有田の事かも知れません。

 

これは、検討の余地が残ります。

 

そう謂えば、記・紀では、神武天皇はに向かって船出をして、速吸之門で一艘の小船の珍彦(椎根津彦)に出会います。そして筑紫の菟狭(うさ)に行きます。その後、筑紫の岡水門に寄り道をして、安芸の国を経て吉備の国へ向かうのですが、

 

神武天皇が宮崎の日向から出発したら、菟狭(うさ)への方角はへ向かう事となり、

疑問が残ります。

 

博多(日向)から出発すれば、東には速吸之門(関門海峡)があり、理に適います。

 

やはり、博多の日向が出発地と考えるのが自然のように想われます。そして、其れまでは香椎宮に住んでいたものと想われます。

 

神武天皇は博多出身の人と謂う事に考えられます。)

 

 

 

《追補》2024年2月22日

神武天皇=崇神天皇が、即位した場所は、磯城(久留米市荒木玉垂宮)から出陣して、佐賀県神崎の吉野ヶ里(高躬結び神一族の領地)を占領。その後は日の隈公園(西九州大学)近くの西郷『柏原』で即位滞在した。でありましょう。その後は背振山系を制圧し、糸島の瓊瓊杵尊由来の三雲を制圧、避難していた第2代天照大神向津姫=瀬織津姫を殺害。墓は朝倉山田の『長田大塚古墳』に造られたものと考えられます。

因みに、磯城(久留米市荒木)が、荒木村重の源元地と想われます。西郷隆盛(秋永氏流れ)も、神崎市西郷が源元と考えられます。

 

 

 

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九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。8

2011-12-05 | 古代史

第4代懿徳(いとく)天皇は、『軽之堺岡宮(かるのさかいおかのみや)』に住み、『畝傍山』の真名子谷(まなこたに)(日本書紀では南の谷)に埋葬した。となっています。 

 

これも、第8代孝元天皇と一緒で香春町の香春神社近くとも想われます。 

畝傍山とは、田園地帯に屏風のように山々の嶺が高さを揃えて田んぼの畝のように長く延びている山の事だそうです。

『畝傍山』は固有名詞とは限らず、解釈が如何にでも出来る事になります。

此の記述より読み解ける事は、畝傍山は東西に延びている山並みである可能性が高い。と

考えられます。

真名子谷は現在認められませんが、8月に出会った柳井秀清(香春町郷土史研究会会長)さんの居られる近くの鏡池の近くの墓地ではないでしょうか。此処も王の墓の口伝が残っていると述べられていました。近いうちに訊ねて観たいと考えています。

しかし、何故この様な山の中に王宮を構えなければならなかったのでしょうか。

答えは一つ、銅や鉄の生産の為だと考えられます。

みやこ町黒田と香春町との間の障子ヶ岳(427m)から七曲峠(新仲哀隧道)の間には、

採銅所が見受けられ、他にも幾つかの採銅所が見受けられます。此の辺りは銅剣・銅矛・銅鏡等の軍事工場としての重要な役割を担っていたものと考えられます。

 

飛鳥(近畿)に移動し、居着いた海人(天人)集団の仲間を支えたものと考えられます。と謂うことは、飛鳥(近畿)においては、可なり多くの、争いごとが起きていたものと推察されます。

そして、その後第10代崇神天皇の時代に採掘の安全無事と採取の増大の為にも、香春神社は祭祀神社として息長氏の霊力が必要とされ香春神社が創建されたのだと考えられます。{第4代懿徳(いとく)天皇の時代も祭祀が行われていた事は謂うまでもありません。}

 

『軽之堺岡宮』の、もうひとつの解釈は、『軽』の地域との堺にある、岡の宮と解釈をして、『記・紀』に出てくる『岡』水門・『岡田の宮』の事を指すとも考えられます。

しかし、この宮がどの辺りであるかは特定できていません。

 

 

 

第3代安寧(あんねい)天皇は『片塩(かたしお)の浮穴宮(うきあなのみや)』に構えた。『畝傍山』の南の窪地に埋葬した。とあります。

 

之も『畝傍山』が如何にでも解釈できます。『片塩の浮穴宮』の場所が不明ですが、此処も片塩や浮穴宮の印象から海岸に近い場所、黒田近くの宮とも考えられ行橋か苅田・朽網あたりとも考えられます。若しくは、北九州黒崎の穴生(あのお)辺りとも考えられます。近くには水巻町の立屋敷遺跡もあり、弥生時代の条件は揃っています。

いずれは解明されるものと想われます。

 

《追補》

12月26日ネットを眺めていましたら、苅田町役場の中には3世紀中頃から後半に構築されたとされる石塚山古墳があり、此処では三角縁神獣鏡を含む銅鏡が十数面他、剣・矛・鏃が出土しており、直ぐ傍には浮殿神社がありました。此の浮殿神社は神明造りで、堅魚木が奇数になっており、男神を祀っています。地元では苅田山笠の集合の場所となっており、この浮殿神社が以前は第3代安寧天皇が居られた浮穴宮とも考えられます。また、直ぐ南の行橋には片塩ではありませんが、片島の地名も見受けられます。

 

 

 

第2代綏靖(すいぜい)天皇は『葛城の高丘』(かづらきのたかおか)に住み、倭の桃花鳥田丘(つきだのおか)、(古事記では衝田岡になっています。)に埋葬した。となっています。

『葛城の高丘』(かづらきのたかおか)は特定できません。探し出せませんので、多分飛鳥の葛城に居たとも想われます。しかし、倭とわざわざ書いて有りますので、北部九州。博多の早良区か西区に埋葬したとも考える事も出来ます。

 

根拠は、第5代孝昭天皇の項で『葛城の掖上の博多山』が早良区に在った為、葛城(此の

言葉は、固有名称ではなく、状況を指す意味にも解釈出来ますので全国至る所で葛城の名称が使われます。)を一応、神武天皇・綏靖(すいぜい)天皇の出身地と思しき地に近い所と考えました。

 

そう仮定しますと、第6代孝安天皇の処で検討しました、吉武・高木遺跡の王墓の主かも知れません。

 

 

《追補》

『葛城の高丘』(かづらきのたかおか)は、最近大分市明野台にある葛木(かつらぎ)の事ではなかろうか、と感じています。高丘と謂う地形的に合致して、衝田岡(つきだのおか)のイメージを彷彿致します。尾張氏の本貫地でもあり、大いに可能性を感じています。

 

 

 

 

 

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九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。7

2011-12-04 | 古代史

第7代孝霊(こうれい)天皇は『黒田廬戸宮(くろだのいほとのみや)』に居住、『片丘馬坂(かたおかうまさか)』に埋葬したとあります。

 

現在、奈良県磯城郡田原本町黒田・宮古が住居で、埋葬地は、奈良県北葛城郡王子本町の尾根にある古墳を比定地にしているそうです。

 

此の『黒田』は、行橋の傍、みやこ郡勝山町黒田とも考えられます。香春町の東にある山並み(仲衷峠)の向こう側に位置しています。直ぐ傍には稗田阿礼(ひえだのあれ)の出身地と言われる稗田(ひえだ)があります。ここは後で景行天皇も行宮(かりのみや)を暫らく置いたと言われている地の傍です。

 

片丘馬坂』とは、直ぐ近くにある標高216mの馬ヶ岳と考えられます。

 

 

第6代孝安(こうあん)天皇は、『室』に住み、玉手丘(たまてのおか)に埋葬とあります。奈良県の御所市に『室』の地名があり、一般には其処の事であると信じられています。

 

室見川中域の、西区、飯盛山近くに、野方遺跡吉武・高木遺跡夫婦塚古墳があります。此の吉武・高木遺跡は、弥生時代前期末から中期初めにかけての王墓と謂われており、青銅の剣、矛、勾玉、朝鮮半島製の多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)などが出土しており、これらの副葬品は国の重要文化財になり、福岡市博物館に展示されています。

 

『室』とは、福岡市の室見川(むろみがわ)一帯の事だとも想われます。が、しかし、『玉手の丘』であると考えられる名前が出てまいりません。

 

後考えられるのは、『室』の字は八女市の岩戸山古墳群の中にある弥生時代前期から末期にかけての室岡遺跡群にも覗えます。傍には『岡山』と名のついた丘もあり、此処からは、鉄を再加工生産していたと想われる痕跡も発掘されています。まだ、王の墓が発見されていませんが、将来見つかる可能性を秘めています。どうも、此処、八女市室岡遺跡群か博多の吉武・高木遺跡近くに居を構えていたものと考えられます。

 

と謂うことで、九州に第6代孝安天皇が居た可能性を否定出来ないと謂う事に考えられます。

 

 

第5代孝昭(こうしょう)天皇は、『葛城の掖上(かずらぎのわきのがみ)』で住み、『掖上(わきのがみ)の博多山』に埋葬した。とあります。

 

『掖上(わきのがみ)』が何の事を謂うのか不明ですが、ネット地図にて福岡市明治道り、の早良区西新に脇山口(わきやまぐち)と謂う地名が(交差点)が見受けられます。

ずうっと早良街道(国道263号線)を辿ると、油山(597m)の流れの山に脇山が在りました。早良区の奥に脇山小学校や脇山の地名があり、正しく、合致しました。

 

地域の人が呼んでいる早良王は、第5代孝昭天皇を指す事になります。

 

この方も九州に居たと比定されます。しかし、此のお方は、尾張連(おわりのむらじ)との婚姻を結んでいる事になっていますので、途中、飛鳥にも足を運んでいるとも想われます。

 

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九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。6

2011-12-03 | 古代史

次に、第8代孝元(こうげん)天皇です。

住まいは『軽(かる)之堺原宮』で、埋葬地は『剣池(つるぎいけ)の中岡之辺り』です。

 

奈良県橿原市大軽にある『剣池』の傍にある古墳が孝元天皇の墓とされていますが、此の池は、第15代の応神天皇が作ったとされており、此の古墳も箸墓古墳と同じ時代か、少し古い古墳ではないかと言われており、疑問の余地が残されております。

 

北部九州にあったと仮定して、『軽』(かる)とは何処の事でしょう?

まったく思い浮かべるあてが有りません。(かり)と呼ぶのであれば刈を連想して北九州の苅田や久留米の苅原がありますが、(かる)と(かり)、これは違うようでもあります。しかし、否定は出来ません。

 

ネット地図にて、博多湾一帯・行橋一帯・有明海一帯を探しましたが、出てきません。地名を諦めて『剣池』に切り替えました。『剣』をキーワードにネット地図にて探すと、鞍手町に剣岳(126m)があります。

『軽』と鞍手の『鞍』には何か関係があるのでしょうか。近くには、遠賀川が流れており、遠賀川の下流には弥生時代前期の遺跡、立屋敷遺跡もあり、木月池があります。浮洲池や幾つかの池も見受けられ、剣神社・八剣神社・熱田神社もあります。此処は御所の条件が揃っています。

剣岳の中腹にある熱田神社若しくは八剣神社も気になります。

熱田大神とは草薙剣の神霊のことだそうです。

景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の帰り、尾張で、宮簀媛命(みやさくひめみこと)と結婚し、草薙剣を妃に預けた。日本武尊が伊勢国能褒野(のぼの)で亡くなると、妃は尾張熱田にて社地を定め、剣を奉斎鎮守したのが熱田大神の始まりだそうです。

 

剣池とは木月池?の事だと想われなくも無いです。

また、『丘の上』とは、剣岳の近くの丘陵とも察せられます。

『軽』は立屋敷遺跡ではないでしょうか。との想いで、心の中で先祖(息長)に問いかけますと、間違っている由。

想い直して推考を重ねました。そして導かれたのが、『軽(かる)』は『香春(かはる)(かる)』の事ではないだろうか。との仮説です。

 

古事記にて、第8代孝元天皇の条項を再度見てみますと、軽之堺原宮(かるのさかいはるのみや)に居を構えて剣池之中岡(つるぎいけのなかおか)に埋葬したと記入されています。

ネット地図で香春町から大任町秋永辺りを視て見ますと、柿原、平原、今任原、中津原が

あります。どうも、香春神社の前の中津原辺りに王宮があったと考えられます。

 

また、剣池之中とは、剣池の中の丘、と解釈して鏡山の事に考えられます。

鏡山は、平地である田んぼの中に『おむすび』の様にポッコリと盛り上がった古墳にも見える感があり、古い昔は、此処の周りが池であったと想われます。

その様に考えますと、鏡山周辺が、古代は『剣池』であったと謂う事に考えられます。

 

そうしますと、宮内庁が管理している鏡山の河内王の古墳は、第8代孝元天皇の墳墓と考える事が可能です。

 

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九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。5

2011-12-02 | 古代史

崇神天皇以前は如何であったかが気になります。一緒に紐解いてみましょう。

 

 

 まず、都を定める条件を頭に治めましょう。飲料に適した水や、環濠に廻らす堀や稲作用の川・豊かな米や野菜が収獲出来る広い平野・薪に用いる雑木が沢山ある山・何時でも収穫して食料を調達出来る海の潟等が必需です。そして、都(環濠)の近くには溜池が多く在ったと想われます。

 

日本書紀には開花天皇は『春日』に居て、春日の『率川(いさかわ)の坂』に埋葬した事になっています。

 

『春日』は現在の奈良公園の周辺で、率川(いさかわ)はその地を流れる小川の事だそうです。埋葬地である『率川(いさかわ)の坂』は奈良県油阪町坂上にある念仏寺古墳を比定地としているそうです。

 

 仮に、第9代開花(かいか)天皇が崇神天皇の親で、北部九州に居られたと考えましょう。

春日の名前は、福岡に春日市があります。

率川(いさかわ)と呼ばれる川は、ネット地図で見ても見当たりません。

ここで、想像を廻らします。当時と現在は呼び名が異なって居るかも知れません。可能性がある川を探ります。

春日地域に流れを持つ川で、当時も在っただろうと想われる川は那珂川(なかがわ)と御笠川(みかさがわ)があります。その両川の間に春日市が在るようです。近くには溜池が点在しており、その中に日拝塚古墳と須玖・岡本遺跡があり、奴国の丘歴史資料館があり、春日神社や春日公園も認められます。

 

次に、『福岡の古墳マップ』で福岡県の古墳の分布図を見てみますと、糸島から春日・筑紫野市・箱辺りにかけて集中しています。また、行橋から苅田にかけて、久留米から八女にかけてあります。後は、豊前中津・甘木・朝倉・耳納山麓・大牟田に在ります。

日拝塚古墳を調べてみますと、前方後円墳で築造時期は6世紀前半と推定。となっています。是は違います。

 

須玖・岡本遺跡を奴国の丘歴史資料館に問い合わせをして、いつ頃の遺跡か伺いますと、紀元前1~2世紀頃からの物だそうです。可能性が有りますので、足を運び検証を行うことにしました。

 

 

2011年11月16日、快晴の下『奴国の丘歴史資料館』へ伺いました。

 若い男性職員の方が対応に出て参られ、須玖・岡本遺跡について概要を伺うと、弥生時代中期から古墳時代に架けての遺跡だそうで、

パンフレットによりますと、1899年(明治32年)前方後円墳から偶然発見された甕棺の内外から、30面前後の中国鏡やガラス壁(宝器)をはじめ銅剣、銅矛、銅戈といった青銅製の武器、ガラス勾玉や管玉など多数の貴重な品々が出土したそうです。

甕棺の上には、長さ3.3メートル、幅1.8メートル重さ4トンの上石が置かれていましたそうで、この甕棺墓は、他の墓から離れてつくられ、ことのほか手厚く埋葬されていることから、奴国王の墓と考えられているそうです。

 

そして、年代的には、後漢の光武帝から金印を賜った王より数世代前の王

の墓と推定されているそうです。

 

此処に、天皇が居られた痕跡は在りませんか。と訊ねますと、その痕跡は出土品の中からは認められませんでした。と言われました。

 

 やはりそうか。と想いながら、直ぐ目の前の遺跡調査資料棚に目をやりますと御陵遺跡と書かれた遺跡調査報告書が目に付きました。

御陵遺跡と書かれた資料を手に取り、この御陵とは、誰が、何時、何を根拠で名づけたのか伺いますと、『普通は遺跡の出た場所の地名で名づけるのですが、ここの遺跡は、地域の人々の口伝で名づけられた。』由。

 

 

御陵とは、高貴な特別な言葉で、普通は天皇が居られた場所を意味しているものと想われます。

 

 

9代開花天皇は此処に居られた可能性が大いに有る。と考える事が出来ることになります。

 

 

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九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。4

2011-12-01 | 古代史

ウィキペディアにて『垂仁天皇』を開いて、『皇居』の欄を視て見ますと、

 

 『日本書紀』には都は纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)で、『古事記』には師木玉垣宮(しきのたまがきのみや)になっています。

 

 どうして違うのでしょうか?その下の『事績』(日本書紀の編年に拠る)の欄の2行目に、

 

 『垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫(日子坐王の娘)を立后、10月、纏向に遷都した。』となっています。

 

 これは、師木の玉垣宮を纏向の珠城宮に移動したことになります。

 

即ち、九州久留米市城島の『大善寺玉垂宮』を奈良飛鳥の『珠城宮』へ遷都したと理解できます。 

 

 と謂うことで、崇神天皇が治めた九州王朝は垂仁天皇の即位2年の10月に奈良飛鳥王朝に移動になったものと考えられます。

 

 垂仁天皇はその後、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめみこと)の箸墓古墳を改めて作ったものと考えられます。

 

そして、此の時点からが本当の意味での飛鳥大和王朝の始まりと考える事ができます。

 

天皇を迎えるため天族(海族)の同胞は、何世代もの間近隣諸国の豪族と友好血縁を深め、次々と親族を増やしていたものと想われます。

 

四道将軍の派遣によって、周辺の敵が居なくなり安全が確保されるようになった事と、大規模古墳の築造に見られるように近畿の経済の豊かさが増した事も挙げられましょう。

 

 

と謂うことになりますと、磐井の乱の解釈が違ってまいります。 

第10代崇神天皇は(此の時まで生きられて居たかどうかは疑問譜が残りますが、)第11代垂仁天皇と伴に、一族ほか巫女(オホタタネコ)や高官・職人等、様々な人たちを大勢従えて奈良飛鳥の地へやって来ました。

 

 しかし、八女・久留米・朝倉等北部九州に残った親族も大勢いたものと思われます。残った人々は九州が聖地(本家)の意識があったものと思われます。それで、第12代景行天皇や第14代仲哀天皇が九州を長期間うろついたのも理解できます。

 

 

 後世、第26代継体天皇はその地を攻めたのです。

 

 

 

 20年もの間、飛鳥の地に這入れなかった訳が解明されました。

 

そして、筑紫の君葛子が『屯倉』の返還だけで許されたのも理解できます。 また、岩戸山古墳が破壊されなかった訳も頷けます

大和に居た、九州から来た人々は、継体天皇を決して許さなかったものと考えられます。

 

 

 大胆な想像ですが、磐井の乱の『磐井』とは『斎(いわい)』の事で、息長氏の事を指しているとも考えられます。

 

 息長氏(継体天皇)が息長氏(斎=いわい)を滅ぼした事になります。

 

 

 

磐井の乱の本当の真相は、飛鳥朝廷での単なる天皇の跡目争いだったのかも知れません。

 

 

 

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