「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

小松清次画伯の思い出。

2013-04-30 | 日記

わたくしの趣味は音楽とオーディオです。学生時代は東京赤坂に在った神原音楽事務所のビラ配りを東京文化会館やイイノホールにてよく遣った事を懐かしく思い出します。おかげで、リヒテル・アンドレワッツ・イムジチ合奏団等多くの演奏を無料で聴かせて戴き感謝しています。

下宿で聴く音楽再生プレーヤーの余りの音の貧弱さにオーディオ装置の大切さを痛感し、以来オーディオにも開眼し、今日までいい音を目指して努力して参っております。わたくしは、学校を出ると関西で5年程建築建材関係の会社に就職し営業として奈良・和歌山・兵庫・京都・滋賀を動き回りましたが、此の頃は歴史には興味が無く、多くの史跡を眺めながら仕事をしていましたが、今から考えると勿体無い思いです。

空気・水・音楽を含めた文化的住環境を求めて、昭和51年から此の由布院に移り住んでいます。

由布院は昔から文人墨客が多く棲みつく場所でもあります。

川上津江の金鱗湖近くに棲んで居られた明治25年生まれの小松清次画伯もその一人でした。

昭和56年当時わたくしは33歳で、音楽再生装置は、弦楽器が好く鳴るとの評判であった英国タンノイ社製ⅢLZと謂うスピーカを鳴らしていました。九州電力の検針係りの方から、竹針の蓄音機や素晴らしく音の好く鳴っているステレオ装置を持っておられて、印象派のゴッホ、セザンヌに傾倒された満89歳になる矍鑠(カクシャク)とした油絵描きさんが居られる情報を聞き、お宅を訪ねました。

千坪近くもあろうかと想われる雑木林の中に古い木造の平屋とアトリエが繋がっていました。

静かな佇まいに鳥の声が啼きわたる中、たったお一人で暮らされており、玄関に現れて、「どちら様かな」との言葉の『間』と『丁重さ』に明治人の教養と風格を感じ、一言にて人格の優劣が決まった思いを致しました。

アトリエに案内され、壁にはゴッホ・セザンヌ風の「」と「空気感」の漂う「澄んだ明るい色彩」の絵画が何枚も掛けられ、北面だけは採光の為に木製の窓枠が高く広く採られており、外の木々の緑の照りと小鳥のさえずりが印象に残っています。

アトリエの広さは2間半×3間半で、天井高は3、2m。アトリエへの入り口の右横にステレオの装置があり、左右の英国グッドマン社製、アキシオム80・オーディアム81スピーカの間に『クレデンザ』と呼ばれています、千円で家が建つと謂われた昭和の初め頃の値段で950円位もしたと謂われる米国製の大型蓄音機が鎮座しており、体験した事のない別世界へ来た想いがしました

音楽の方も、イツアーク・パールマンのバイオリンが素晴らしく善く聴こえ、わたくし宅のタンノイが聴けなくなり、小松宅と同じアキシオム80のスピーカに変更しました思い出があります。

 

この小松清次画伯はわたくしと同郷の久留米市荘島出身で、画伯のお隣がブリジストンを創立された石橋正二郎氏宅で、画伯幼少の頃、垣根越しにおばあちゃんから飴玉を貰った事があるとの言。

わたくしの生まれた昭和23年の久留米市篠山には、隣の屋敷にブリジストンの久留米工場長であった『龍頭』さまが住んでおられ、わたくしが産まれる時、産婆さんが間に合わず、龍頭さまのおばあさまが産湯をとって下さった由。何かの縁を感じます。(この石橋家に繋がる『龍頭』さまは、阿蘇神社に祀られます神八井耳命系の健磐龍命と関係を想像されます。)

小松画伯の父は明治~大正~昭和に掛けて鹿児島本線や久大線(筑後軌道鉄道)の工事を請け負って財をなされた小松組を創設されておられ、画伯の奥様は朝倉の西家の出身で、本来は、後に最高裁長官や国際司法裁判所判事になる田中耕太郎氏の許嫁(いいなずけ)の方であったのが、破談になり小松清次画伯の元に来ておられ、二男二女を儲けられたそうです。

長男が、東大を金(銀?)時計をもらって卒業する時、チフスに罹り亡くなり、一週間後に長女も失われています。

この朝倉の西家は島根津和野の啓蒙思想家である西周(にしあまね)家と関係があると想われ、大正の4~5年頃東京青山に居った『おじ』から直接聞いた話として、森鴎外の『鴎外』の号は『おじ』が持っていたが、森林太郎(森鴎外)が気に入り「俺にくれ」と謂って鴎外と名乗るようになった由。

此処でも甘木朝倉が登場し、西氏の古代朝倉との関係が偲ばれます。また、朝倉市入地に有る西家と津和野の西家の関係も調査の必要がありそうです。)

小松清次画伯は生涯1枚の絵も売らず、唯、自分が納得できる絵を描き切る事を目指し105歳まで生きられ天寿を全うされました。(但し、唯一ブリジストン美術館に一枚だけ寄贈したそうです。)

小松清次画伯の事をもっと知りたければ、1981年(昭和56年)版 ステレオサウンド社より発行のSTEREO SOUNDO誌 NO,59 のスーパーマニアの項に数ページに亘り写真入りで特集されています。

 

 

 

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甘木朝倉に認められる『斯波氏』。

2013-04-17 | 古代史

応仁の乱(1467年~1477年)にて、室町足利幕府が弱体化して戦国時代へと向かい下克上の力の世界になりますが、其の時期に登場する姓氏に、斯波氏が有ります。一般には、足利泰氏が陸奥斯波郡(岩手県紫波郡)を所領としたのが始まりであろうと解釈されていますが、本当にその様に考えるべきでしょうか。この足利泰氏の時代は源頼朝前後の12世紀から13世紀であります。それ以前の時代は如何だったのでしょうか。

南北朝時代は、越前国守護職は斯波氏が任じられており、甲斐氏・織田氏・朝倉氏の三守護代が脇を支えていましたが、室町時代には甲斐氏と朝倉氏が台頭し、斯波氏と対立し斯波氏の領地三国を甲斐氏・織田氏・朝倉氏三氏で分け、応仁の乱では朝倉氏が甲斐氏を越前から遠江守護代に追い遣り、朝倉氏が越前守護職に就きますが、戦国時代には朝倉氏も織田氏に滅ぼされています。

 

わたくしには、此の「斯波氏」と「朝倉氏」の古代での関係を『甘木朝倉』にて認めることが出来ます。

ウィキペディアでは、

朝倉氏の出自は、開花天皇の皇子「彦坐命」となっており、

 

平成25年3月16日のブログで述べた通り、吉井~田主丸で生まれたと考えられる「彦坐命」と、場所が合致し、わたくしの考えを裏付けられ、理に適います。

『安(やす)の直(あたい)の祖』(甘木朝倉に夜須の地名があります。)とされる彦坐王の子である水穂之真若王の末裔が朝倉氏や斯波氏(どちらも息長氏の血が混じっている。)とも考える事が出来ます。

 

朝倉宗高が但馬養父郡朝倉に住したのは、平安時代末期とされ、それ以前は筑前甘木朝倉に居たと考えられます。朝倉の高木邑は天孫族の本貫地であり、優遇されるのは当然です。

「斯波氏」は、斎明天皇が斎明7年(661年)朝倉橘広庭宮の行宮を置いた場所近くに、「志波柿」で有名な「志波」の地名があり、天孫族名門「志波(斯波=司馬)氏」も此処から越前~陸奥に移住したもの。と考える事が出来ます。

実際は、足利泰氏から分かれた子が養子として天孫族名門斯波(志波=司馬)家に入り、斯波家氏を名乗り、子孫が後に室町幕府三管領家の筆頭となったものと考えられます。

また、甲斐氏も流れが菊池氏と佐野氏がありますが、どちらも九州阿蘇にルーツがあり、この阿蘇にある阿蘇神社は田川の辛國息長大姫大目命を祀っています香春神社とも関係が認められ(香春神社の元宮である古宮八幡神社は古くは『阿曾隈の社(あそくまのやしろ)』と呼ばれていた。とされ阿蘇神社は香春から阿蘇へ移動したと考えられています。)、神紋も一緒の『違い鷹羽』であります。(わたくしの家紋も『違い鷹羽』です。)此れも息長氏と関係を考えられ、越前に牧場騎馬技術者として移住して、斯波=司馬氏に重用されたものと考えられます。

この様に、姓氏を考える場合は、天孫族の移動の流れを汲み、関係を探る必要性を感じております。

 

 《追補》

朝倉の志波政所に在ります、真言宗普門院は天平19年(747年)に、第45代聖武天皇の勅願により、行基が創建。場所は現在の地では無くて、すぐ横を流れる筑後川の泊瀬の向こう岸の中島に位置していた。と謂われ、中島は、現在は筑後川の放水路となって狭くなっており、朝倉水害の土砂の廃土を搬入し、当時の面影を失っています。中島の対岸が『恵蘇八幡宮』です。『恵蘇八幡宮』の地は、『恵蘇の宿』と謂い、筑後川の瀬が側に在り、船舶の宿泊地であった、『泊瀬』と覗えます。

記・紀にて、『泊瀬部』と謂う場所は、此の朝倉の『恵蘇宿』の地を指し示しています。

わたくしは、此の、中島地区こそが第37代斉明天皇が661年、来訪した朝倉『広庭宮』であった。と考えています。

何故、斉明天皇が来訪したのかは、『泊瀬部』の付く歴史上の人物を調べれば、理解する事ができます。『泊瀬』・『朝倉』の号の付く人物は、全て此の地に居たか、朝倉で産まれた。と解釈するべきです。奈良県ではありません。泊瀬は、初瀬→長谷に繋がり、奈良県の長谷寺は、此処の地、朝倉『泊瀬』が源であろうと考えられます。

つまり、斉明天皇の夫の第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の、前々の(蘇我馬子から殺された)第32代崇峻天皇(泊瀬部=長谷部若雀天皇)や、第21代雄略天皇(大泊瀬幼武・大長谷若建命)、第29代欽明天皇(天國排開広庭天皇)及び、その第3皇女の穴穂部(阿蘇のカルデラや盆地の事)第31代用明天皇(橘豊日天皇・池辺皇子=幼少期は南大分『東院』(後宮と呼ばれていた。)に推古天皇と一緒に暮らして居たものと、考えています。後の時代に男子禁制になります。)に嫁いだハシヒト間人皇女(聖徳太子の母と謂われています。)、そして、斉明天皇の子であります『ハシヒト間人皇女』は、この地に居られた事が想像される。のであります。

そして、第33代推古天皇(額田部皇女・豊御食炊屋姫尊)は小墾田宮(南大分『古国府』近辺と考えられます。)で亡くなるのでありますが、子でありました早世した竹田皇子の墓の傍に埋葬する事を遺言して、恵蘇八幡宮に在ります1号・2号古墳に埋葬されたものと、考えています。

この事柄を真実と考えますと、斉明天皇が朝倉広庭宮に来た理由が紐解けます。

佛法を重んじた娘の『ハシヒト間人皇女』(第36代孝徳天皇の皇后)が此の朝倉の地に棲んで居たと思われます。

孝徳天皇(天万豊日天皇)は、難波長柄豊碕宮(大分の明野~鶴崎地区『葛木』と考えています。)で政務を摂り、奈良には行かず、654年11月に豊後長柄豊碕宮で病気で亡くなり、『ハシヒト間人皇后』は、その後仏教の盛んな朝倉の橘氏の『尼寺』(栢寺)に来ていたと思われます。

記紀は『行宮』と、嘘を述べて、ごまかしています。

 

奈良の長谷寺も、朝倉普門院と同じく、神亀年間に造られた『木造十一面観音立像』(本地佛では、『十一面観音像』とは、『天照大神=アマテル=ワカヒト』=本来の『若宮』を意味しています。『水波能比売命=豊玉姫』が『不動明王』の事です。)を本尊にしています。そして、奈良の長谷寺には『普門院』があります。

当時の、朝倉の普門院(普門寺)は、『広大山普門寺』と号して、現在は、神亀元年(724年)に行基に依って造られた『木造十一面観音立像』(1.74m)を本尊にしています。普門院と称するのは、天和年中(1681~1684年)だそうです。

弘法大師も、唐から帰国した翌年の大同2年(807年)に此処朝倉の『普門寺』を訪れて、真言密を修した。と伝わっており、『筑前国続風土記』には、「この寺の仏堂広からずと雖も、その営作の精巧なること国中第一なり」と記されており、此処は特別の地であった。と考えるべきです。

わたくしは、朝倉中島(筑後川の川原)に在った『普門寺』、別名を『川原寺』と呼ばれた。と思っています。を奈良県の『長谷寺』に移築?したもの。と考えています。

『川原寺』と対を為す、『ハシヒト間人皇后』と関係があります『橘寺』(尼寺)は、浮羽町流川に在ります行基創建由来の古刹『大生寺(大聖寺)』ではなかろうか。と思っています。大阪府八尾市の太子堂(大聖勝軍寺)・野中寺の礎石は、この寺(大聖寺=大生寺)から運ばれたもの。と、考えられます。

此の浮羽町~吉井町地区は『橘氏』が大勢います。現在も、鎮西身延山『本佛寺』や『延寿寺』・『満願寺』・『妙福寺』が橘氏地域に在り、近くの古墳群との考察から、耳納山麓に『橘寺』と呼ばれた『寺』があり、多分「栢寺」と思われます。九州政権が、白村江の戦以来、近畿へ遷都し、「栢寺」荒廃後に『行基』が『大生寺』を創建したものと考えられます。

鎮西身延山『本佛寺』は、明治の初期に、山梨県の身延山から、日蓮聖人の御真骨分安聖地と鎮西栴檀林(学校)として九州総括寺を兼ねて創建されており、何故、この様な耳納山の中腹地に立派なお寺が造られたのか。首をかしげます。

その理由は『橘氏の寺』が以前に存在していて、此処から佛教が全国に広がった聖地と捉えられていた。からと考えられます。

その証拠に、『本佛寺』の本殿の垂幕には、井桁の中に『橘紋』がハッキリと這入っています。

此処、『橘氏の寺』に集められた聖徳太子(穴穂部=阿蘇→若狭に避難したハシヒト間人皇女が産んだ子、父は用明天皇と言われています。)(南大分の向原寺=蘇我稲目が仏像を欽明天皇と相談して、自分の寺へ持って帰った場所です。その後は豊後国分寺になり、現在は大分市歴史資料館に成っています。)由来の48体(多くの仏像が、九州が北限の『楠木』で造られています。)の仏像は、後に奈良法隆寺へ運ばれています

応仁の乱(1467~1477年)の兵火に遭い、朝倉の『普門寺』(以前は『川原寺』と呼ばれた。と、考えています。)は焼失しますが、再興を行ったのは、何んと!!!『斯波時勝』であった。と伝わっています。

『斯波』は、『宋書』夷蛮伝倭国条に記入されています、元嘉2年(425年)の使者『司馬曹達』の『司馬』に関係があると考えられます。

『斯波』(司馬)氏は、元は、軍馬を養成する役割の渡来人だったとも考えられます。『曹達』が名前でしょう。

 

聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれ、『馬』との関係が暗示されており、聖徳太子の研究には、『馬』を考察する必要性を感じます。そう謂へば、『蘇我馬子=聖徳太子』の説。の研究者がおられましたね。

 

法隆寺の釈迦三尊像を創ったとされます、『鞍作止利』は、司馬氏で有ります。

 

聖徳太子は斑鳩宮に居たとされ、斑鳩宮は南大分の東院と考えています。聖徳太子の埋葬されています場所は、大分市東院宮苑に在ります、『千代丸古墳』(7世紀初頭築造)と思っております。

父で有ります用明天皇は『磐余池辺双規宮』(勝山黒田~豊津町周辺と考えています。)で病気で亡くなります。

 

この時、病気平癒を願って四天王寺(別名を堀江寺と謂い、此れは行橋市の堀江に造られて、後に大阪に移築された。と考えています。)や、法隆寺(別名を斑鳩寺です。後に奈良県に解体移築されます。わたくしは、向原寺の事と考えています。)が造られています。

 

推古天皇は飛鳥宮赤村~香春町と考えています。)で政務を執ります。この飛鳥宮は、アマテル=ホアカリ=饒速日命がゆふいんから移動して来て、創った宮です。第34代舒明天皇(赤村の岡本宮)や第35代皇極天皇も、此処で政務を執ります。

 

第35代皇極天皇(飛鳥宮板葺殿にて)の時に、息子の中大兄皇子が、中臣鎌足と組んで、『蘇我入鹿』を誅するのですが、その時に、『蘇我入鹿』を『鞍作』と呼び、蘇我氏は『司馬=斯波』氏であった。と理解されます。蘇我氏は馬の『鞍』を造ったり、香春岳で産する銅で『佛像』を創った技術者であった事柄が、解りました。

 

やはり、斯波氏・朝倉氏のルーツは此の朝倉長田志波(笠縫氏)地区であったことが理解できます。  2018年11月9日 記

 

 

 

 

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