「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

倭の由来と、豊受大神の正体。

2020-01-01 | 古代史

中国の三国志記、『魏書』第30巻『東夷伝倭人条項』に記述された『倭』の部分が、日本の事で、中国に於いての『日本』の認識は、『倭』とされています。

 

わたくしは、何故に、当時(後漢・魏・呉・蜀の時代)の中国の人達が『日本人』を『倭人』と呼んだのか?の疑問がいつも付き纏っていました。

 

今日は、此の事を皆様と一緒に考察したいと思います。

 

『倭』は、現在は『ワ』と発音をしていますが、古代史研究家の『内倉武久』さまは、『ヰ=ゐ』と呼ぶべきである。と講演会で述べられており、わたくしも同感で、ブログでは、『倭』は『ゐ』と述べています。

志賀島で出土した金印の刻印『漢委奴国王』の発音は『カンノワノナノコクオウ』ではなくて、『カンノイドコクオウ』又は『カンノイトコクオウ』と読むものと考えられます。

 

中国には、チベット系少数民族の『倭イ族』と呼ばれる人々が、貴州省・四川省・雲南省に、戦乱の結果、散逸していますが、本来は、四川省成都市北40キロにあります、古蜀の長江文明『三星堆サンセイタイ文明』を造った人々であろう。と、中國の研究者に考えられています。

 

わたくしのブログでの、肝は、阿蘇(健磐龍命=豊玉彦)で、豊玉姫=阿蘇津姫を息子(彦穂穂出見尊=兵主神)の嫁に娶って、日田・浮羽に遣って来た、豊受大神の正体であります。阿蘇に来る前は何処に居たのでしょうか?

 

豊受大神は曹操ソウソウの鏡(金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡キンギンサクガンシュリュウモンテツカガミ)を持って、中国大陸から渡って着ている。と考えられ、袁エン氏の親族であろうかと思っています。

 

西暦190年代から210年代に架けての『袁』氏における登場人物は、『袁紹』エンショウ(西暦142年生まれ。『曹操』との、西暦200年『官渡カントの戦』で敗戦した人で、202年病死します。)と、その子長男、『袁譚』エンタン。(西暦205年、南皮で、曹操の子『曹純』に斬首されます。)次男、『袁煕』エンキ。(207年遼東の『公孫康』に、弟の『袁尚』と伴に斬首されます。)三男、『袁尚』エンショウ。(207年遼東の『公孫康』に斬首されます。)です。

 

『袁紹』の202628日死後、『袁譚』と『袁尚』は後継者を巡って骨肉の争いをします。

203年『袁譚』は、『袁煕』と『袁尚』の軍に追い詰められ、苦し紛れに本来の敵であります、『曹操』と同盟を結び、その証として、『袁譚』の娘を、『曹操』の子『曹整』に嫁がせて、縁組を行います。

しかし、直ぐに『曹操』は、『袁譚』の盟約違反を理由に、『袁譚』の娘を離縁させて、『袁譚』の元へ送り返して、再び『曹操』と『袁譚』は対立して、205年戦を行い、南皮で『袁譚』は殺されます。

『袁紹』・『袁譚』・『袁煕』・『袁尚』の人生は中国大陸で完結しており、『倭』に遣って来てはいません。

では、誰が『倭』(日本)に遣って来たのでしょうか。

 

実は、『袁紹』には、姉妹がおり、西暦180年代に、四川省『成都』の太守をしていた後漢の官吏『高躬』コウキュウが、『袁紹』の姉妹を娶っています。

 

『高躬』はその後に『蜀』の太守をします。が、『高躬』と、その息子である『高幹』の消息はその後不明です。

 

わたくしは、『豊受大神』(ホツマ伝では、第5代タカミ結び神)の正体は、三星堆サンセイタイ(四川省成都)蜀ショクの太守をしていた、『高躬』コウキュウ→タカミ が、西暦206年『曹操』の鏡を持って日本に遣って来て、高皇産霊尊タカミムスビジン=タカミ結び神と呼ばれたものと、考えています。

 

故に、中国大陸の人達の認識は、『高躬』タカミの本貫地三星堆(蜀)に居た倭イ族の地から、『高躬』コウキュウ→タカミの子である『高幹』コウカン→タカミキ→タカキと伴に日本へ遣って着ており、日本を『倭』イと呼んだものと判断されます。

 

『高見』氏・『高木』氏は、天武天皇の子孫の『高階』氏(高階真人・高階朝臣)と伴に、蜀の『高躬』『高幹』親子にルーツを持つものと考えられます。

 

 

 

 

コメント (3)
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