「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

崇神の父親は開花ではなく、日高彦穂穂出見尊(孝元天皇)であった。と考えられます。

2017-08-28 | 古代史

 此れまでのわたくしの考えは、『倭の大乱』の切っ掛けの推察は、

スサノオを追放の後の倭を治めていた大己貴命(筑紫)と少彦名命(豊後)(スサノオ系大幡主命=神皇産霊尊派)は、スサノオが新羅から連れて来た磯城(城島)周辺の人々が、筑前朝倉で起こしたクーデターにて、大己貴命がゆふいんに居た父である神皇産霊尊(耶蘇杵)・少彦名命を頼って逃げ、ゆふいん塚原(高天原)で、追ってきた新羅系・スサノオ派を迎え撃ちしましたが、敗れて逃走。

日出~杵築の大屋毘古命の助けで、愛媛に逃れ、少彦名命の傷の回復後に、島根のスサノオの居ました出雲に移動したことに為っています。

しかし、ホツマ伝(解読ガイド書)の如述からは、『倭の大乱』の切っ掛けは『二人の天照大神』が原因と考えられます。

ゆふいんのトヨケ(豊受大御神=ホツマ君・東の君・大物忌大神・アサヒ神・5代タカミムスビ・タマキネ・木公)の子、ヤソキネ(トヨケの長男で、白山姫=ココリ姫=イザナギの妹、と結婚して白山神とも呼ばれた)の子は四人(タカキネ・少彦名命・ミチコ[アマテル東局典侍]・コタエ[アマテル東局内侍])と述べられ、如何もヤソキネ(トヨケの長男)とトヨケは、最初は日田市日高町『求来里クコリ邑』(ダンワラ古墳傍)に棲んで居た。と考えられます。その後ヤソキネは博多湾周辺に移動したのもと考えられます。(百嶋神社考古学では、ヤソキネは、大幡主命=神ムスビ神=刺国大神(トヨケ?)の子、に相当するお方と考えられます。)

ココリ姫(父アワナギ・母不明)の弟のクラキネ(根国=島根周辺を守るマスヒト=領主)の子、マス姫モチ子[アマテル北局典侍]が、天穂日命(アマテル第1子)を生み、次に(クラキネの子)コマス姫ハヤ子[アマテル北局内侍]が、タケコ(第2子)・タキコ(第3子)・タナコ(第4子)=俗に謂う『宗像三女神』を儲けます。

通常であれば、天之穂日命(マス姫モチ子が生んだアマテル第1子)がアマテルの後を継ぐのでありますが、ホツマでは第8子=末子とされています処の、天忍穂耳命(母は瀬織津媛(穂の子)=向津媛=二代目天照大神=卑弥呼)が後継します。

モチ子とハヤ子はアマテルの弟スサノオと関係を持ち、子を儲けた事に解釈され、天穂日命はアマテルの後継者を外されたものと考えられます。

{記紀では、天之穂日命は、その後大己貴命の国譲りの使者として、ゆふいん高天原の高木神(ヤソキネの子・第7代タカキネ)と天照大神(瀬織津媛穂の子=向津媛=二代目天照大神=卑弥呼)の意向で、出雲へ向かいますが、出雲に居着き、帰って来ません。}

 

ホツマ伝(解読ガイド書)の如述では、スサノオと櫛イナダ姫(父は足名椎・母は手名椎)が儲けた第五子に、オオナムチ大己貴命・斎名クシキネ(初代大物主・佐田大神・日隈君・田中神・八重垣臣・カル君・顕国玉・大黒様)が述べられ、その子がクシヒコ櫛彦(二代目大物主・初代コトシロヌシ・大國主命・エビス神)で、クシヒコはミホツ姫(タカキネ=7代目タカミムスビ神の子)と結婚して、コモリ(子守尊・ミホ彦・水分神)を儲けた。とされ、驚きました。

 

大己貴命=佐田大神=田中神=日隈君=大黒様と、大國主命=事代主命=恵比寿神は、親子の別人で有りました。

 

大己貴命が佐田大神と同一人物とされ、甘木朝倉の『大己貴命神社』と島根松江の『佐太神社』(佐太大神=佐田大神=大己貴命)が納得できます。出雲大社は『日隈の宮』とも呼ばれ、『日隈君=大己貴命』が納得されます。大己貴命(スサノオの子クシキネ)が倭(九州)から島根出雲へ、息子のクシヒコ(大國主命)と伴に逃げた?ものと、解釈されます。そして、クシヒコ櫛彦=大國主命(恵比寿神)=事代主命は、ミホツ姫(タカキネ=7代目タカミムスビ神の子)と結婚しており、国譲り後に、タカキネ=高木神から赦されたものと考えられます。

 

大己貴命はアマテルの娘タケコ(田心理姫=多紀理毘売命=多祁理比賣命)を妻として、クシヒコ(大國主命)を産むのでありますが、タケコ(田心理姫)は、スサノオとアマテル北局(大内宮=杵築の大内地区に在ったもの。と考えられます。)コマス姫ハヤコの不倫の子と考えられて、一般にはスサノオの子と呼ばれますが、正式にはアマテルの第2子で有ります。大己貴命とタケコ(田心理姫=多紀理毘売命=多祁理比賣命)の血縁関係は、母違いの兄妹?婚か、従兄妹?婚か、本当のところは不明です。

 

此処で問題と為るのが、『大己貴命は佐田大神である。』と述べられている事です。甘木朝倉には『大己貴命神社』が有り、朝倉黒川地区には『佐田』地区の名前があり、此れまでのわたくしの考えでは、

安心院町佐田邑(ホツマ国)に居た、猿田彦(佐田毘古命)が、ゆふいん塚原(高天原)の天宇受賣命=猿女=辛国息長大姫大目命=市祁嶋比賣命と結婚して、高木神の家来として、朝倉~英彦山に移動したものと考えていましたので、猿田彦(佐田毘古命)と佐田大神(大己貴命)の関係が問われる事になります。

 

実は、百嶋由一郎さまの神社考古学研究では、佐田大神(甘木朝倉)と佐田毘古命(猿田彦)は別人とされ、間違わないように。と釘を刺(指)されています。

と、謂うことは、大己貴命(クシキネ)と大国主命(クシヒコ)の関係同様に、佐田大神(大己貴命)佐田毘古命(猿田彦)は別人で有った。と考えられます。

 

と、謂うことから導かれます解釈は、金比羅神社で祀られています大物主命は、大己貴命(クシキネ)=初代大物主命の息子であります、大国主命(クシヒコ)=二代目大物主命で有ったと理解できます。

玉依姫(賀茂建角身命=大山咋の娘=息長氏)が、記紀での第9代開花天皇の妻、伊香色謎命の事であります。

ホツマ伝では、ウガヤフキアワセズは、最初は内宮の『ヤセ姫』との間にて、『彦五瀬命』を儲け、その後、玉依姫と結婚しており、『玉依姫』は『白羽の矢』との間に生まれた『ミケイリ』(日本書紀では「三毛入野命」や「三毛野命」・「稚三毛野命」、古事記では「御毛沼命(みけぬのみこと)」と表記されています)を連れ子して、ウガヤと結ばれた、とされています。

ホツマ伝では、ウガヤと玉依姫との間で『イナヰイ』(稲飯命)と『カンタケ』(神日本磐余彦火火出見尊=神武天皇 若御毛沼命(わかみけぬのみこと)- 古事記表記  斎名タケヒト)を儲けた事になっており、『ミケイリ』と『カンタケ』は父違いの兄弟と如述してあります。

ホツマ伝の如述では、『二人の天照大神』と同様に、真実を隠しています。

 

ウガヤの子とされています『カンタケ』の実体は、玉依姫の連れ子『ミケイリ』であった。と考えられます。『玉依姫』と『白羽の矢』の関係は、百嶋説を採用しますと、『白羽の矢』は『大山咋』の事であります。

つまり、『大山咋』と『玉依姫』の禁断の親子婚の子が『神武天皇』=『崇神天皇』で有った。事になります。有っては為らない問題が生じて、此れは間違いです。

 

記紀では、大己貴命と大国主命は混合されて、二世代を一世代として世間の解釈を欺かしています。

ホツマ伝では、

カンタケ=神武(崇神)は、ウガヤ(豊玉姫と日高彦穂穂出見の子)が世を身罷る時にウガヤが居た宮崎宮にタネコ天種子命を連れて行き、『白矢羽のヲシデ』=倭王の璽シルシを賜り、ツクシ(私見では、糸島と想われます)でアイラツ姫を娶り、タギシミミを生むのでありますが、

此の『白矢の羽』は、わたくしの考えでは日高彦穂穂出見尊』を暗示しており、カンタケ(神武=崇神)が『日高彦穂穂出見尊』(豊玉姫の夫)と『玉依姫』(賀茂建角身命の娘)の間に生まれたものと、考えています。

 

と、謂うことは、阿蘇神社の『健磐龍命』と阿蘇国造神社の『速瓶玉ハヤミカタマ』は親子の関係と由緒にあり、元来の『健磐龍命』は『豊玉彦』の別名である。

と解釈され、捏造でないとすれば、景行天皇の時代以後に春日氏(藤原氏=阿蘇氏)が他の阿蘇氏と伴に祭神名を不明朗にしたものと思えます。

 

そして、『彦坐王=景行天皇』と『崇神』は兄弟では無かった。事になります。

 

ホツマ伝では、『御年神』は『蛭児』の別名と述べられ、ヰチヂ市千魂命=ココトムスビが春日殿とされ、フツヌシ経津主命=香取尊の妹、アサカ朝霞姫を娶って、天児屋根命春日尊を儲けた。と述べられ、天児屋根命ヒメ比賣尊(健御雷神=カシマ尊の子)が儲けたのが、オシクモネ天忍雲根命=鹿島押雲=春日若宮と述べられています。

オシクモネ天忍雲根命=鹿島押雲=春日若宮の子がアメノタネコ天種子命(神武=崇神の鏡臣=左大臣で、直入中臣氏の祖)を儲け、その子がウサマロ宇佐麻呂(宇佐津臣=綏靖天皇の鏡臣=左大臣で三笠』氏を賜ります。)と述べられ、天種子命は三笠山に葬られた事に為っています。

 

 豊後高田市草地に『三笠山』があります。『天種子命』の埋葬地かも知れません。

 

百嶋神社考古学では、八幡神社の『大年神』は『天児屋根命』で、『御年神』は『大鷦鷯尊オオサザキミコト=仁徳天皇』の事とされています。

 

しかし、史書では、『大年神』の子が『御年神』である。と述べられ、ホツマ伝でも同じです。ならば、『天児屋根命』と『大鷦鷯尊オオサザキミコト=仁徳天皇』は親子と考えなければならない事になり、百嶋神社考古学では、『大鷦鷯尊オオサザキミコト=仁徳天皇』の父は『開花天皇』とされ、『天児屋根命』と『開花天皇』は同一人物と謂う事になり、一考を要する事に為ります。

 

わたくしの解釈では、『大鷦鷯尊』は八幡神(藤原氏)の関与が『祭神すり替え』として考えられ、本来の祭神は、オシクモネ天忍雲根命=鹿島押雲=春日若宮が『御年神』で有った。と考えられます。『八幡神の御年神』と限定して解釈するべきかも知れません。『蛭児』も忌み嫌われて、隠されたものと考えられます。

 

私見ですが、最初に近畿に渡って其処で生涯を閉じた王は、垂仁天皇で、景行天皇は少しの間は近畿(丹波~播磨)に居ましたが、亡くなったのは、阿蘇であります。

成務天皇は阿蘇(志賀の高穴穂宮)で育ち、杵築市御塔山古墳(岬の多々波池後陵)に埋葬されたもの。と考えられ、

『神功皇后・品陀和気命』と『応神=宇佐押人』と『本当の仁徳=菟道稚郎子』『安閑天皇』『舒明天皇』は田川香春町~赤村で亡くなり、

『仁徳に為り代わった人=大鷦鷯尊』(鮮卑族拓跋氏=物部氏の中核)が近畿・難波宮(高津宮)へ行って、政務を司り其処で亡くなります。(福永晋三氏の説『真実の仁徳天皇』を支持します。)仁徳以後は第37代斉明天皇までずっと倭(九州)であります。

近畿に天皇が居つくのは、『天智天皇』が西暦668年近江大津宮で即位した『天智・天武天皇』時代からであります。壬申ジンシンの乱』が起きたのは近畿でありますが、乙巳イッシの変』西暦645年は、田川赤村飛鳥宮大極殿で起きた出来事であります。『大化の改新』『冠位12階制』『17条の憲法』も、『聖徳太子』も皆、倭(九州)の飛鳥宮(田川赤村)での出来事であります。

蘇我氏の寺(向原寺=国分寺跡大分市歴史資料館)や、九州各地の寺・古墳の遺骨遺品は全て解体され、近畿に改めて建築・造営(法隆寺・東大寺)されたものと、考えています。糸島の古墳群を調査した学芸委員は、全ての古墳は遺骨・遺品等が一切残っておらず、まるで掃き清められた様であった。と盗掘とは考えられない旨の言葉を残しています。

 

近畿の古墳からは多くの阿蘇天草溶結凝恢岩が使用され、長年朝日新聞文化部で考古学に携わられた、内倉武久さまの説、犬祖伝説を持つ熊曽=阿蘇氏が阿蘇凝恢岩を近畿に持って行った。(熊曽は日本中を席巻した)

串間市の古墳から江戸時代に出土した、南粤ナンエツ由来と考えられます王族が身に着ける『玉璧』ギョクヘキ(=翡翠)から推察された、「日本人は南方から黒潮に乗って遣って来た。」と謂う解釈の件。

そして、燦然と輝く「継体天皇は甘木朝倉の『合』に埋葬された。」の論文は、説得力があり、通説の日本古代史学会に大きな波紋となっています。今後は大いに評価されるものと思われます。

 

《追補》2019年11月23日

訂正が遅くなり申し訳ありません。

その後の検討で、ホツマツタエより、崇神=スサノオ(息長氏)の父親は、豊受大神の(袁氏の血を引いた妻を娶った蜀の太守、『高躬』と考えられます。神紋は木瓜に唐花亦は丸に唐花。)息子の日高彦穂穂出見尊であります。母親は玉依姫=伊香色謎命=息長帯姫(神功皇后=息長氏の神紋は丸に違い鷹羽)⁇です。

 

 

 

 

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