「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

秋永氏探求から紐解く息長古代史15

2011-11-21 | 古代史

海を渡ってきた天之御影神(あまのみかげしん)は家族と伴に、創め大任町大行事息長(秋永)=彦山(日子山)に居たものと思われます。

 

彦山(日子山)は521年北魏の僧『善正』が開山したと謂われていますが、それよりずうっと以前(紀元前)から山岳修験者が居た事は間違い無いものと考えられます。

彦山(日子山)で祷りをする傍ら『勾金(まがりかね)』で銅の鍛冶を行っていたとも考えられます。彦山(日子山)の御神徳に、『天照大神の御神勅により、この地に降臨された天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)は、農業生産の守護神として、また鉱山、工場などの産業の守護神として崇敬されています。』とあり、

どうも彦山の開山は天之御影神が関わっているものと想われ、アカルヒメ(息長大姫大目命)が彦山(日子山)の開山を、父である天之御影神に霊言(天忍穂耳命を祭神として祀る事)として与えたのかも知れません。(香春神社は英彦山に向けられています。)

 

その後一部の息長氏は香春に残り、多くの息長氏は経済が豊かな大阪や山代・近江・鈴鹿・奈良の近畿各地へ渡って行きます。

天之御影神は家族と共に近江の三上山附近に移動したものと考えられます。(地図にて滋賀県野洲市から近江八幡市~東近江市にかけて香春~英彦山周辺とそっくりに感じられます。例えば、香春岳と三上山・英彦山神社と阿賀神社・鏡神社・貴船神社・鏡山等何か繋がりが感じられます。)

 

こういった事も、すべてアカルヒメ(息長大姫大目命)の霊言で行われたものと考えられます。福岡県に在る糟屋郡(かすやぐん)須恵町(すえまち)とか言う、酒や陶器に関する地名も一緒に近畿へ移動して行っています。

 

アカルヒメが家族と伴にこの地を離れたかは、解かりませんが、当時の情勢を考えると多分この香春の地で亡くなった事でしょう。ですから、後世、宇佐神宮が創られたと考えられます。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする