「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

欠史八代の歴代天皇が師木(城島)県の娘を娶った理由を考える。

2012-10-30 | 古代史

わたくしの頭に引っかかる疑問のひとつに欠史八代の王が師木県の娘を数多く娶っています件です。

古事記においては、第2代綏靖天皇が師木(城島)県の河俣毘賣命(かはまたびめ命)・第3代安寧天皇が波江(山門郡の飯江)の阿久斗比賣命(あくとひめ命)・第4代懿徳天皇が師木(城島)県主の子である飯日比賣命(いいひひめ命)を続けて3代に亘り久留米~大川~山門郡辺りの豪族から娶っています。

この理由を今回は考えてみたいと思います。

 

日本人の源流は、紀元前2千5百年頃に、蚩尤(しゆう)が初代中国王朝、「夏」黄帝に討伐されて追われ、現在中国雲南省等に追い遣られています少数民族「苗族」(ミャオ族)の九黎族(クン・リー族)が棲んで居た場所と謂われます長江(揚子江)中流域からそれに味方した苗族は揚子江下流域に散らばり、その後「」・「」・「」の民となり(三苗と呼ばれた。)、国が滅びる際に何度も難民として遣って来ているものと考えられています。

「呉」は紀元前12世紀~11世紀の「太伯」に始まると謂われており、「太伯」は号を「句呉」(くご・こうご)と称し、句(く)は狗(く)と一緒です。姓は「姫」(き)であり、日本で使っている「姫」も尊い人の意味として、関係を感じられます。魏史の東夷伝にも倭の王が「自分は太伯の末裔である」と述べた。と記されています。この「呉」の場所は現在の上海付近であり、紀元前473年南にある隣国(浙江省・会稽)の「越」に滅ぼされます。

この「句(狗)呉」(くご・こうご)は熊本県菊池市から九州一帯へ(後に熊襲と天孫族から謂われます。九州には「熊」「隈」の付く地名・人名・神社が数多く残っています。神社にて神を祀り鳥居を立てた信仰もこの「句(狗)呉」(くご・こうご)の民であったと考えられます。「句(狗)」はのことで、現在でも神官が祝詞を挙げる時「ウゥオォー」と犬の声らしきものを発します。そして、神社にある獅子は「狛犬」(こまいぬ)と称します。また、「呉」服と謂う言葉や広島県の呉市が当時の大陸との交流を示しています。)、

紀元前334年以後には「」に滅ぼされた「」が本州の山陰・北陸の日本海側に遣って来ているものと考えられます。(越後・越中・越前の名前が残っています。出雲の高志之八岐大蛇も「」とも解釈できます。また、「」は苗族の信仰の柱(鳥・蛇・鹿)であります。)

紀元前223年以後には「」に滅ぼされた「」の人が、遣って来ていると考えられています。その根拠は、「」の王の号は初代(紀元前1千年頃)熊繹(ゆうやく)~熊艾(ゆうがい)~熊黵(ゆうたん)~熊勝(ゆうしょう)~熊楊(ゆうよう)~熊渠(ゆうきょ)と43代に亘って「熊」が付いており、王族の末裔が鹿児島県~熊本県付近に上陸し、「隈」「球磨」「隅」「熊」にその痕跡を感じます。その後、「」の徐福一行3千人が佐賀県の金立(きんりゅう)・多久聖廟(たくせいびょう)(1708年建立)や静岡・和歌山他に痕跡を残しています。

九州や山陰北陸方面に「」「」「」「」から来た「苗族の人」が稲作や味噌・醤油・麹を使った食文化、鷹・鴨・烏の鳥・蛇・鹿を大切にする動物崇拝や水・風・山といった自然崇拝の風習を齎し、日本人特有の価値観を創り上げていたものと考えられます。その根拠に、現在でも人の姓を「苗字」(ミャオ字→ミョウジ)と謂っています。これは古来、苗族(ミャオ族)の人々が日本列島に遣って来ていたでありましょう。

 

その後、紀元後に苗族(秦氏)海南島~台湾~琉球~鹿児島、及び新羅経由で大勢遣って来たと考えられるのが天孫族(瓊瓊杵尊を意味しています。=高躬結び神の孫)です。天孫族は、太陽(日)を神と崇める信仰を、当時の最新のアイテムである「丸鏡」で表し、後に、神社の御神体として鳥居の奥に神殿を建てたものと考えられます。

 BC473年~『呉』から、熊本県八代市~天草市~玉名市に遣って来た。と、考えられます。(会稽から、直接)

次には、BC223年~『楚』の人々も『隈・熊』『酥・蘇』(つまり、『熊襲』と揶揄される。事に為ります。)の文字を携えて遣って来ていると考えられます。(会稽から、直接、鹿児島~八代~天草へ)

その次は、『秦』の徐福等3000人が、松浦~有明海から佐賀県神崎に上陸したと考えられます。

その亦次には、BC110年頃『南粤王族』(耳族)が、鹿児島県曾於郡~串間市に『玉壁』(翡翠玉)を携えて、海南島・琉球・沖縄経由で遣って来ています。

韓半島経由の天孫族は福岡県の糸島方面(福岡市西区妙見岬に小戸大神宮があり、此処で天照大神・月読命・素戔嗚尊が生まれているものと考えられます。)から上陸を目指しますが先住者である「句(狗)呉の民」(博多に七隈・鳥飼の地名が在り、此処にも句(狗)呉の民が居たものと考えられます。)との争いを避けて九州を廻り込み、最初は鹿児島~宮崎方面で上陸をしますが、句(狗)呉との争いで移動を余儀なくされたと考えられ、句(狗)呉が居なく、稲作に適した平野部は少ないが、海産物が豊かで防御に適した山の多い大分の別府湾や、有明海沿岸に一先ず腰を落ち着けたものと考えられます。葛城氏が、多くいます。

此処から海路からは安曇連を遣って志賀(鹿)之島に上陸し、陸路では中津~豊前~田川~日田~筑後方面へと次第に北部九州に浸透して行き、先頭に立って素戔嗚尊とその部下である五十猛武士団が反抗する句(狗)呉の集団を筑後平野まで南下させたものと考えられます。

この筑後~日田~玖珠には今隈・山隈・乙隈・横隈・松隈・篠隈・隈上・日隈・月隈・星隈・三隈・大隈と「隈」だらけで、「苗族末裔」の痕跡を残しているものと考えられます。

 

わたくしの妻の実家は佐賀県三養基郡基山町にあります。

この基山(基肄山)には五十猛神を祀った「荒穂神社」(神紋は丸に平四つ目)があり、素戔嗚尊の右腕とも考えられる武将が、要である筑紫地域を守って居たものと考えられます。この「荒穂神社」は代々「筑紫氏」が神官を勤めていますが、この「筑紫氏」こそ、素戔嗚尊の第一?の家来であったと考えられます。{五十猛神は、素戔嗚尊の子とされていますが、(素戔嗚尊の子は正勝吾勝勝速日天忍穂耳命であると想われます。)わたくしには、側近に50人の勇猛な家来衆が居たと考える解釈が妥当であると思われます。}

直ぐ傍の福岡県の原田には「筑紫神社」神紋は隈立四つ目)があり、当然「筑紫氏」が神官を勤めています。(現在は味酒氏が宮司です。)

妻の母方は「武田氏」(家紋は武田菱)であった。と以前に述べましたが、父方の姓は「寺﨑」(家紋は木瓜=門光)と謂い、妻の父の弟である「修三」が「筑紫氏」の養子となり「荒穂神社」の神官を継いで居ます。

「筑紫神社」の(神紋は隈立四つ目)と「荒穂神社」の(神紋は丸に平四つ目)とは紋が似ており、一族の関係を感じます。

 

この荒穂神社には久留米市の高良神社から飛んできたと伝承の残った石があり、以前には久留米の高良山近くの先住勢力(狗奴国の狗古智卑狗)との戦があったものと考えられます。以前に訪れた大善寺玉垂宮の宮司の隈正實さまも「隈」があり、この辺りは苗族の主要な地点であったものと考えられます。其れを天孫族が南へ(菊池以南へ)押し遣って、筑後に天孫族(瓊瓊杵尊を意味しています。)を混ぜ入れたものと考えられます。

 

この様に考えると、何故、竹野姫が田主丸に棲んで居たかが納得出来、第9代開花天皇が狗)呉の末裔と推察される伊迦賀色許賣命(いかがしこめ命)(物部氏)を城島(しき)の玉垂宮に住まわせ、亦、歴代の第2代綏靖天皇が師木(城島)県の河俣毘賣命(かはまたびめ命)・第3代安寧天皇が波江(山門郡の飯江)の阿久斗比賣命(あくとひめ命)・第4代懿徳天皇が師木(城島)県主の子である飯日比賣命(いいひひめ命)を続けて3代に亘り久留米~大川~山門郡辺りの豪族と婚姻を計り、先住民族「狗奴」との融合を求めていたのが覗い知れます。

そうやって天孫族が「句(狗)呉の本体」である菊池の傍まで婚姻作戦で豪族の切り崩しを図ったものと考えられます。自分たちの領地を切り崩されるのを可としない狗奴国(熊本県菊池市)の「狗古智卑狗」は怒り、天孫族を攻めたものと思われます。

この争いの時、由布院から第6代孝安天皇とか建田背・宇奈岐日女が久留米市~大川市辺りまで遣って来て陣頭指揮を振るったものと考えられます。

 

 後の中国の文献に出てくる、讃・珍・済・興・武「倭の五王」はAD4世紀前期~AD5世紀末期迄の王と、考えられ、倭には、鮮卑族拓跋氏が遣って来て、応神王権の交代が起こっており、この時期の朝鮮半島は、『高句麗』との関係で『倭王』と『百済王』が一体化している。と、考えられます。

解釈が難しく、研究者を悩ましています。

讃・珍・済・興・武「倭の五王」は『倭王』と『百済王』を混ぜて比較しながら考えなければならない。と、想われます。

 

 

 

 

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欠史八代の天皇系図の不整合を考える。

2012-10-08 | 古代史

古代史を勉強して、如何しても疑問が消えないものの一つに天皇系図とその他の姓氏の系図の不整合性があります。天皇系図の方が3代程多くある考えられます。また、107年の師升王をスサノオ命であると述べていますので、時間軸上の問題が生じています。

この問題を考えて見たいと思います。

わたくしの論では、欠史8代の時期は九州に天皇がおられ、第7代孝霊・第8代孝元・第9代開花天皇は夫々行橋(黒田)・田川(香春)・春日に居られた事になっています。しかし、高天原が由布院にあったと考えられる事で、当初の『倭』は最初から『西倭』(ニニギ命)と『東倭』(ニギハヤヒ命)に分かれていた。と考えられ、『東倭天皇』が『建波邇安王』まで消されていると述べていました。

その後、考察を深めますと、どうも真実は違うようです。

『東倭』にて争いが起きて、ニギハヤヒ正統の天皇が(多分孝霊天皇)『西倭』の行橋・黒田に避難して其処から反撃をしていた(四道将軍)と考えるべきである。と思われます。

其の根拠となるのは、孝霊(大倭子日子賦斗邇命)・孝元(大倭子日子国玖琉命)・開花(若倭子日子大毘々命)の三人とも名前に『根』の文字がついております。この『根』は島根の出雲を表しているとも想われ、三人とも出雲をルーツに持つ『東倭天皇』であったと考えられます。

『建波邇安王』は叛乱軍の王であった。と視るべきでしょう。

 

また、『東倭』を『大倭』と呼んでいたとも考えられます。

そうしますと、第6代孝安(大倭帯日子国押人命)にも『大倭』があり、第4代懿徳(大倭日子鋤友命)にも可能性が出てきます。

そして、開花天皇は『若倭』となっていますので、『西倭王』になったとも解釈できます。

この様に考えますと、欠史八代の内、三代は出雲にルーツを持った天皇で、残る五代のうち二代(懿徳・孝安)は議論の余地を残す事になります。

 

記紀は西倭天皇と東倭天皇(大倭天皇)の名前を一緒にしてしまっているとも考えられます。

 

もし、仮にこの三代を東倭(大倭)の天皇とすれば、ニギハヤヒ命・・・・・孝霊―孝元―開花―崇神となり、西倭はニニギ命・・神武―綏靖―安寧―懿徳―孝昭―孝安ー開花―崇道(比古由牟須美命=彦湯産隅命)の流れとなります。天皇が重なるのは、孝昭と孝霊孝安と孝元となり、西倭には同時期二人の天皇が居られた事になります。

 

もし、仮にこの五代を東倭(大倭)の天皇とすれば、ニギハヤヒ命・・懿徳―孝安ー孝霊―孝元―開花―崇神となり、西倭はニニギ命・・神武―綏靖―安寧―孝昭―開花―崇道の流れとなります。

 

 

記紀を読み直して考察致しますと、

わたくしの想像では、第6代孝安天皇の時に、記紀の偽装がなされているように思えます。(孝霊・孝元・開花3代が大倭天皇)

孝安天皇大倭帯日子国押人命)(東倭の血の這入った西倭天皇と思われます。)は葛城室之秋津島宮(どうも由布院と考えられます。)に居て、姪(めい)の忍鹿比賣命(おしかひめ)を娶り、大吉備諸進命(おほきびもろすすみみこと)と大倭根子日子賦斗邇命(おほやまとねこひこふとにみこと)=第7代孝霊天皇の二柱が産まれた事になっていますが、この二人は根(出雲)方面からの避難者と想われ、孝安天皇には子供が居なかった考えられます。

そして、孝安天皇は葛城室之秋津島宮(由布院)にて兄嫁である宇奈岐日女命(宇那比媛命)の世話をしておられていたものと考えられます。

第4代懿徳(大倭日子鋤友命)の弟?の師木津日子命の子に和知都美命(久留米の御井宮に居られたと考えられます。)がおり、その子に二人の娘があり、姉が蠅伊呂泥(意富夜麻登久邇阿禮比賣)、妹が蝿伊呂杼と謂い、二人とも第7代孝霊天皇に嫁いでいます。と、されています時間軸の不自然さが解消され納得出来ます。

西倭の孝安天皇に子が無かった為、孝元天皇(大倭子日子国玖琉命)(東倭=大倭?)の子である若倭根子日子大毘毘命(開花天皇)が統一の倭王となったものと考えられます。

そして、玉垂宮に居られた崇神天皇纏向にて初めての『倭の統一』を成し遂げる事になります。

 

 

第4代懿徳天皇大倭日子鋤友命)にも大倭の文字がついていますが、第3代安寧天皇の子は常津日子伊呂泥命・大倭日子鋤友命・師木津日子命の三柱になっていますが、常津日子伊呂泥命は女性と想われ、根(出雲)へ嫁がせ、代わりに大倭日子鋤友命を養子として貰い受け、「換え姫(き)」的な事を行っており、東倭(大倭)との血縁天火明命邇邇芸命)の絆を深めていたものとも考えられます。第6代孝安天皇も血縁が繋がっており、大倭の名前が付いているものと覗えます。

 

 

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その後の天忍穂耳命の行方。

2012-10-04 | 古代史

高天原(由布院)に居られた(須佐之男命の子と想われる)正勝吾勝勝速日天忍穂耳命はその後どうなったのでしょうか。

葦原中国の平定の後、老いた正勝吾勝勝速日天忍穂耳命彦山近郊に高木神と伴に『猿田毘古神』=景行天皇が先導して疎開先の由布院(高天原)から移動されたと考えられます。※

 ※ホツマ伝の解釈では、天忍穂耳命は生まれつき病弱で、思兼神とその妻のワカ姫が、ずっと付き添って杵築の八坂川(ヤスカワ)から、タガ若宮(田川香春)に移動し、小石原峠(箱根=荷を運ぶ・峠を行き過う様)を越えて英彦山経由で日田(ケタ壺・ヤマテの宮。その後は、瓊瓊杵尊が新治宮をつくります。)で亡くなります。遺体は『英彦山』に埋葬された。と、叙述されています。

一行は福岡県朝倉に腰を落ち着け、彦山を信仰の霊峰と崇め、『英彦山神宮』には、天忍穂耳命を主祭神として祀っています。その近くには『高住神社』があり、其処では『豊日別大神』が主祭神の一神として祀られています。この『豊日別大神』は『高躬結び神』のことであり、また、此の周辺には、数多くの『高木神社』があり、朝倉市黒川には『高木邑』があります。この高木邑の傍には『佐田地区』があり、『佐田毘古命』は高木神の息子の『耶蘇杵』の子『大己貴命として、朝倉市林田余名持の地で産まれたと考えられます。

後に、第37代斎明天皇が百済の復興を願って福岡県朝倉市に『朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろのみや)』行宮(あんぐう)を営えた理由は上記の歴史を物語る証左でありましょう。

亦、越前を拠点とした、戦国時代の守護大名である朝倉氏は『但馬国養父郡朝倉』が発祥とされ、第9代開花天皇の第3子日子座王の後裔(日下部氏・・・この祖は日田の郡に棲む『邑阿自(おほあじ)』と豊後国風土記では述べられています。)と謂われても居ますが、開花天皇は此の福岡県朝倉の地からも近くの久留米市荒木城島『玉垂宮』に棲んでおられており、田主丸町竹野には正妻である竹野媛とその子、彦湯産隅命(日子坐王)が居られ、その直ぐ傍の朝倉には関係を考える事ができます。

朝倉氏日下部氏も元は此処の朝倉・日田地区から派生したものと、考えるべきでしょう。

 

 

 

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第2代綏靖天皇の墓地探し。

2012-10-01 | 古代史

9月15日土曜日所用が在って大分市に出かけました。3時間程時間が空きましたので葛木地区へ調査を兼ねて訪ねました。此処は、わたくしの考えでは近畿に在る葛城以前の本拠地であり、第2代綏靖天皇がこの地に居られていたと、考えられるようになったからです。以前のブログにては『第2代綏靖天皇は、神武天皇の存在が考えられる糸島~博多の近くではないか。』として、下記の様に述べていました。

 

第2代綏靖(すいぜい)天皇は『葛城の高丘』(かづらきのたかおか)に住み、倭の桃花鳥田丘(つきだのおか)、(古事記では衝田岡になっています。)に埋葬した。となっています。

『葛城の高丘』(かづらきのたかおか)は特定できません。探し出せませんので、多分飛鳥の葛城に居たとも想われます。しかし、倭とわざわざ書いて有りますので、北部九州。博多の早良区か西区に埋葬したとも考える事も出来ます。

 

根拠は、第5代孝昭天皇の項で『葛城の掖上の博多山』が早良区に在った為、葛城(此の

言葉は、固有名称ではなく、状況を指す意味にも解釈出来ますので全国至る所で葛城の名称が使われます。)を一応、神武天皇・綏靖(すいぜい)天皇の出身地と思しき地に近い所と考えました。

 

そう仮定しますと、第6代孝安天皇の処で検討しました、吉武・高木遺跡の王墓の主かも知れません。

 

(その後、尾張氏が、大分市が本貫地であった事を発見し、追加記述をしています。 )

 

《追補》

葛城の高丘』(かづらきのたかおか)は、最近大分市明野台にある葛木(かつらぎ)の事ではなかろうか、と感じています。高丘と謂う地形的に合致して、衝田岡(つきだのおか)のイメージを彷彿致します。尾張氏の本貫地でもあり、大いに可能性を感じています。

 

 

と、考えが変わり第2代綏靖天皇の墓は大分市明野台にある葛木(かつらぎ)地区に在るものと想われるようになったからです。

大分市から国道197号線を鶴崎方面へ10分程行きますと乙津川がありこの近くは桃園地区となっていました。その右側にある50m程の丘の上が葛木地区になっています。(後で、桃園を調べました処、以前はこの地区は桃園村となっていて、合併にて桃園の地名が残った由。)どうも『桃花鳥田丘』は此処のようです。

都市化の中、大分家屋が建て込んで来ている葛木地区に登ってみますと、此処には古社と思しき鉾神社(ほこじんしゃ)があり、伊邪那岐命伊邪那美命との間に生まれた御子神である級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長戸辺命(しながとべのみこと)を祀っていました。

級長(しな)とは息が長い事を意味し、風の神とも、息長氏の元祖、天目一箇神天之御影神)の事とも謂われ、鍛冶神を指します。正に此処が尾張氏・葛木氏の本貫地であろう。と想われました。ひょっとしたら、最初は、天之御影神は此処に居たのかも知れません。近くにはの台の地名もあり、製鉄に必要な藤葛が沢山あったものと考えられます。此処の葛木の名前は、以前は葛城村と書いていたそうですが、明治22年に葛木になった由。鉾神社は近くにもう一つあり、『お旅所』と謂い御神輿が休まれる処とされています。

此の葛木地区は、亀塚古墳五十瓊敷入彦命を葬ったと考えられる)ともそう離れてなく、五十瓊敷入彦命川上麻須郎女の孫になり、この川上の地名は由布院にあり、此の地(葛木)に呼び出した川上(鍛冶)を使って刀1千口を作ったとも考えられ、其れが鉾神社と関連があるのでは?と勘繰られます。

 

この鉾神社の近く[衝田岡(桃花鳥田丘)]綏靖天皇の墓があると想われ、探す事にしました。時間の限られる中、出きる限り視て周り、調査の必要を感じさせられる墳墓を発見しました。江戸時代から棲んでおられる方が管理されています土地にあり、以前は庄屋をされて居たらしく、『定』と書かれた寛永年間の藩令板が二枚保存されており、管理をされていない江戸時代以前の古い墓地と思しき不可思議な石を敷き詰めた地があり、霊感を生じ、発掘の必要を感じました。今後、大分市文化財課に懸けあい調査を行いたく現地を後にしました。

 

 

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