「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

崇神天皇は西暦258年10月に景行天皇に殺された。(倭の大乱第3幕)と考えられます。

2015-05-11 | 古代史

伊香賀色謎命(玉依姫)は玉垂宮にて開花天皇との間で崇神を儲けた事に為っていますが、崇神は玉依姫の連れ子です。開化の跡目を崇神に託します。

開花天皇は、一方で『木綿の院』(由布院=橿原の宮)から田主丸に進出して居た和邇氏の意祁都比売命(おけつひめのみこと)=竹野姫を娶り、第一子の彦湯産隅命=彦坐王を儲けています。

此の兄になります彦湯産隅命=彦坐王は、崇神に執っては母(玉依姫)と高木神と其の一派の和邇氏であり、如何しても許せなかった人物と察せられます。

此れが、彦坐王が田主丸より移動して、崇神の居る久留米市玉垂宮より遠くに離れています(勝山黒田~苅田)みやこ郡辺りに『都』を構えた原因の一つと考えられます。

 

もう一つの要因は、高天原(由布院=橿原の宮)に棲んでいた卑弥呼であります宇那比媛(宇奈岐日女命)(建田氏≒尾張氏≒和邇氏)が、西暦238年魏への卑弥弓呼(崇神)との不和での調停依頼で西暦240年に苅田~田川(鷹羽)に遣って来たと考えられます天御影神=高躬結び神とその息子の嫁であります息長水依比賣命=天鈿女命です。

熊本県菊池市に在ります狗奴國が『呉』を後ろ盾にしており、其れと組んだ崇神(狗古智卑狗)が有明海~博多湾の物部氏の強力な軍事力をもって、苅田市登美能那賀須泥毘古(とみのナガスネヒコ)=彦坐王=景行天皇を攻めますが、攻め切れません。高木神・和邇氏派の登美能那賀須泥毘古(とみのナガスネヒコ)=彦坐王=景行天皇と卑弥呼(宇奈岐日女命=宇那比姫)は魏に難升米と都市午利を派遣して助けを求め(西暦238年)、親魏倭王金印紫綬を受領します。

魏志倭人伝では、正始元年(西暦240年)に大守弓遵が答礼使として、建中校尉『梯儁』(たいしゅん・ていしゅん)等を倭に派遣し『倭王』に拝仮したとされています。わたくしは、此の『倭』に派遣をされた(中に居た?)のが、以前に帥升王が倭から後漢に生口106人の中の末裔の息長氏であったと考えています。此処に出てきます『倭王』とは、『高躬結び神』(瓊瓊杵尊)であった。と推察出来ます。

京都、東寺に有ります高野大師行状図画『稲荷記』には、稲荷大明神は『魏の大臣』と記入されており、

 稲荷大明神については、その後の考察にて、息長水依比売命が秋永水依比売命で有れば、秋永の発祥の地は田川郡大任町。隣町と謂う地理的条件から香春神社の辛國息長大姫大目命と同一人物と考えられ、『大目』の発音は、当時はオオメでは無くて、ウズメ(鈿女)と呼んでいた(百嶋氏研究より)

このことから、ゆふいんの『高天原』で、天女の舞をして、八百万の神々を喜ばせた『天鈿女アメノウズメ』とは辛國息長大姫大目命の事であることが判明し、豊玉姫=市祁島姫=龍神姫=弁天さまが同一人物であることが分かったのであります。

豊玉姫=市祁島姫=龍神姫=阿蘇津姫(実父は、豊玉彦=健磐龍命=建雷男命です)は阿蘇で、豊受大神(高躬)の息子の兵主神=日高彦穂穂出見尊と結婚をしており、秋永水依比売命(息長水依比売命)の義父は天御影神、即ち『蜀』の太守をして『魏』(蜀の成都)から日田に遣って来た、豊受大神(高躬)の事であります。藤原氏に依って、隠された人物です。

『天御影神』=『稲荷大明神』は『魏』の曹操から任命された大臣=倭王であったとも、『魏』から、逃げて西暦206年頃に倭に遣って来た。とも考えられます。

須佐之男命は、ウガヤフキアワセズ=開花・住吉神の義理の弟であり、誕生は西暦222年頃と考えられます。

 

呉(隈氏族)との関係があります崇神(卑弥弓呼)は西暦234年(甲寅)12歳時に塩土翁=博多の大幡主命=神御巣日神(=高躬の子である耶蘇杵の事です。)の話を聴き『東征』を決意します。筑後の久米将軍を立て安曇族・狗呉族と伴に博多湾から船で出発して、苅田町近衛の丘辺りで(古事記では孔舎衛坂となっています)衝突が起きたものと考えられます。

海路で失敗した幼い崇神は豊後杵築熊野から賀茂建角身命(八咫烏=阿蘇氏の豊玉彦=健磐龍命の子で、豊玉姫の弟です。崇神の祖父になります。)の案内で、陸路にて山国町吉野を通って一旦久留米へ帰ります。途中に和邇氏(月氏)の本拠地浮羽~朝倉がありますが、巧く帰還したものと考えられます。

倭(北部九州)は崇神派(久留米・有明海沿岸・肥後熊本・博多湾沿岸)と彦坐派=アマテル派(苅田・香春・行橋・朝倉・田主丸・浮羽・日田・小城・武雄)に分かれていたと想われ、崇神の本拠地久留米(城島=師木=磯城)でも、兄弟でどちらに味方するかが、分かれていたものと思われ、兄磯城・弟磯城が対立し、弟が兄を崇神に密告し殺します。

物部安曇族も真二つに分かれて、伯仲していたものと考えられます。

 

崇神二度目の遠征は、福永晋三さまの研究の通り、若宮~鞍手方面より、攻めます。

辛うじて防御して危機感を感じた卑弥呼と彦坐王は、魏から『倭の大目』として『梯儁』が遣って来たと考えられます。

魏の後ろ盾を得た勝山黒田の長髄彦=天之児屋根命=景行天皇に対して、崇神はもう一度攻めます。

が、攻略は出来ず小康状態が続きます。

其処に、近畿に渡った開花天皇の兄であります大彦命から景行天皇に対して、『喧嘩をせずに近畿~中部東海~関東を治めた自分の下に来なさい。』との知らせが有ったものと勘繰られます。

将来も、戦が続くのに嫌気をさした景行天皇は、後ろ盾の卑弥呼(宇奈岐日女命)も248年頃に亡くなっており、息長水依比賣命の義父である天御影神=高躬神の勧めもあり、西暦251(辛未)年近畿に移住を下したものと想えます。天御影神は近江に、彦坐王と息長水依比賣命は奈良県纏向に住み着いたものと考えています。

 

 

福永晋三さまの研究では、神武(崇神)は、最初は海路にて行い、その後に陸路にて二度行なっており、筑豊鞍手~田川~豊前犬ヶ岳辺りを徘徊している模様で、如何も『香春一の岳(香春神社があり)・二の岳・三の岳』周辺(勝山黒田も含む)が『やまと』だそうです。わたくしも同感で、一致しております。

崇神(神武)は日本書紀に拠りますと、辛酉(しんゆう)の年に橿原宮にて即位した事になっていますので、わたくしの説にての解釈は、西暦241年(辛酉)に、倭国の任命権(実務の『王』を宣言出来る)を持っています卑弥呼(宇奈岐日女命)が居た、木綿の院(由布院)に安心院方面から遣って来て、卑弥呼に即位認証を迫ろうとしたものと考えられます。

卑弥呼であります宇奈岐日女命(宇那比姫)は和邇氏と関係がある尾張氏であり、彦坐王の後ろ楯でもあり、非常に窮するものと想われます。推測ですが、宇奈岐日女命は木綿の院(由布院)から避難脱出して、大分市の東院(とい)に隠れたものとも考えられます。

根拠は、わたくしの説では、大分は神武(崇神)に対して快く思っていない『層冨県(そほのあがた)の波多丘岬の、新城戸畔(にいきのとべ)』(わたくしの説では大分市錦町)や、『臍見(ほそみ)の長柄丘岬(ながらのおかさき)の猪祝(いのほふり)』(わたくしの説では大分市明野葛木)が棲んでいた場所であり、勘注系図に有ります葛木の高田姫(宇那比姫=宇奈岐日女命の兄であります建田背の妻)は此処の出身と想われます。(高田橋があります)此処は尾張氏・海部氏・津守氏の本貫地であります。

卑弥呼(宇奈岐日女命)が居なくなった木綿の院(橿原宮)=王都を占拠した崇神(神武)は(西暦241年)即位を一方的に宣言したものと想われます。

 

崇神は即位宣言の前に、和邇氏の本貫地朝倉~田主丸~浮羽も掌中に収めたものと想われ、即位宣言後の崇神8年10月(西暦245年10月)筑後國高橋邑(太刀洗町上高橋の)の『活日』(いくひ)に酒を造らせ、和邇氏の本貫地高橋邑(老松神社)で宴を催し、大田田根子に『大神』(おおみわのかみ)(大國主命)を祀らせて酒を献上させ、祖父の大國主命への感謝と、平和が何時までも続く事を祈願しているものと考えられます。

 

『此の神酒は、我が神酒ならず、倭成す、大物主の、醸みし神酒、幾久、幾久。』

 

木綿の院(由布院)=(葛城の室の秋津嶋宮)には、往還があったと考えられ、滞在して(日本書紀巻3では神武31年夏4月と記されています)(西暦256年頃)、有名な腋の上の『ホホマの丘』(福万ふくま山)での言葉を残しています。

 

あなにえや(何んと素晴らしい事であろう) 国を得つる事は 内木綿の 真狭き国ではあれど 蜻蛉(あきづ)=(トンボの事)の臀呫(となめ)=(交尾)をするが如し(盆地が細長くて、山々が連なっている様子)』の感慨の言葉を発しています。

 

また、古事記には『彦太忍信命』が、木綿の院(由布院)に居たと考えられる木(杵築)國造の祖、『宇豆比古命』の妹である『山下影姫』を娶り、『武内宿禰』を生んだと述べていますので、(由布院には山下湖があり直ぐ傍の小田の池周辺から弥生~古墳時代の鏃が出土しています。)『大杵社』(木へんではなく、禾へんで、オオゴシャと呼びます。)には、樹齢数千年の天然記念物の大杉があり、この社では椎根津彦=宇豆比古命を祀っています。『武内宿禰』は由布院で生れたのかも知れません。

 

西暦251年頃、景行天皇(長髄彦)が近畿に移住して『倭』から居なくなり、崇神(神武)は久米将軍の勧めにて安心院の妻垣神社(足一騰宮)の多祁理比賣命の末裔で有ったと考えられます莵狭津比賣(媛蹈鞴五十鈴比賣命)を娶ります。遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)が莵狭津比賣で有ったのかも知れません?

その後の崇神は、宇佐公康さまの『古伝が語る古代史』の通り、その後は国東半島安岐の市来島に移り二人の男子{宇佐都臣命(宇佐稚屋)と御諸別命}を儲け、其処にて亡くなった。とされています。わたくしの考察では崇神は西暦258年に亡くなっているものと考えられ、二人の男子は西暦253~258年頃に生れた事が解ります。

崇神の子であります宇佐都臣命が伊予の越智宿禰女常世織姫を強奪して、生れましたのが宇佐押人で、此の宇佐押人と叔父であります御諸別命が、後の戦で息長帯比賣命(神功皇后)と武内宿禰との間に出来た誉田別命を破り、軽?(香春)の豊明宮にて応神天皇として即位した事になっています。

 

宇佐公康さまの『古伝が語る古代史』では、『神武の兄が景行天皇である。』と述べられており、此れをどの様に理解するか、これまでは理解不能の謎でありましたが、漸く解明できたようです。

『神武が崇神である。』のであれば、『崇神の兄は彦湯産隅命=彦坐王』であります。

 

『古伝が語る古代史』では、『景行』が『彦坐王』で有ると謂う事を述べていることになります。

 

日本書紀には次のように景行の事跡を述べております。

 

熊襲が九州で叛き征伐のため、景行12年8月に纏向=日田を出発し豊前國京都郡勝山黒田に行宮を設けて10月に豊後国の碩田(おおきた)で土蜘蛛を誅して、11月に日向国に這入っています。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げます。日向高屋宮(鳥栖市弥生が丘~基山町三ケ敷と考えています)で六年過ごし、18年3月に都へ向け出発し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(熊本県葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年9月に纏向=日田に帰還します。

 

わたくしの解釈は、『豊後国の碩田(おおきた)で土蜘蛛を誅した』の条項は、豊後国杵築で崇神を殺した。と謂う事になります。

2014年5月14日のブログ『何んと!!!杵築市には1000を越える夥しい古墳が在った』で述べていますが、此れは西暦258年10月頃に彦坐王が崇神にリベンジに遣って来て討ち果たしたもの考えられます。

その後、崇神は杵築の小熊山古墳に埋葬されたもの考えられます。

 

 

 

 

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