「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

今、ホツマ伝が面白い。(ホツマが伝える日本古代史の解明。)

2017-10-04 | 古代史

わたくしの考えでは、豊受大御神(西暦206年頃)の司った『ホツマ國』とは九重町~ゆふいん~安心院~院内の山間部を示しており、平野部に未だ進出をしていなかったものと考えられます。

ヒタカミ國』の範囲とは、日田市を中心とした『ホツマ国』を含む福岡県田川市・添田・英彦山~大分県大分市~直入郡豊肥地区~阿蘇高森~大分県津江~熊本県山鹿と謂った、やはり山間部を指し、未だ、水稲による平野部での大規模水田耕作には至らず、陸穂と水稲による段々丘陵と、焼畑・狩猟・採集生活が主であった。と考えられて、魏志倭人伝(東夷伝)に書かれています平野部での大規模二重環濠や楼閣を備えた集落は、佐賀県神崎市の『吉野ヶ里遺跡』や福岡県朝倉市の『平塚川遺跡』といった、一部の地区にて、西暦206年頃より以後に始まったものと考えています。

ヒタカミ國の中心地は日田市日高の求来里邑(ダンワラ古墳・法恩寺山古墳群)で、豊受大御神(5代目ヒタカミムスビ)やその子であります耶蘇杵(ヤソキネ)(6代目ヒタカミムスビ)=神皇産霊尊=伊弉册尊の兄=大幡主命=白山神=久留米市に居たアワナギ沫蕩尊(根国~若狭~山陰・山陽サホコチタル国の守を勤めた人で、ソアサ=四国を治めた天萬尊アメヨロズの子に為ります)の子である白山姫(クグリ姫)=伊弉諾尊の姉を娶り、タカキネ高木神(7代目ヒタカミムスビ)・弟のスクナ彦名・妹の大宮姫ミチコ(アマテルの東局=大分市古国府(東院)に在ったと想われます。の典侍になり、イキツヒコネ活津彦根=斎名ハラキネを産みます)・妹の七夕姫コタエ(アマテルの東局=大分市古国府の内侍になりますが、後には福岡県小郡市に在る『七夕神社』にて祀られます)が、ホツマ伝に記されています。

    因みにアマテル東局の『下侍』にはツクバハヤマ筑波早馬の娘であります、ソガ蘇我姫が為っています。

    蘇我氏の本拠地は、南大分東院~向原と思われますので、地理的には納得出来ます。現在、筑後地方には『速馬行事や早馬神事』として残影があります。うきは市大生寺(大聖寺→後に、大阪の大聖将軍寺と、野中寺に、礎石が運ばれます。)で生れた聖徳太子は、『厩戸ウマヤドの皇子』と呼ばれた蘇我氏であります。蘇我氏と馬(宇摩)(氏)は関係が有りそうです

 

 

スサノオは天日鉾命として、アカル姫を追って国東半島の姫島に遣って来て、豊後杵築を中心に活躍するのでありますが、『記・紀』や『ホツマ伝』では天照大神の末弟と述べられています。

ホツマ伝では伊弉册命が生理中に孕んだので、其の穢れがスサノオに宿って大いなる隈(苦魔)となり、後に騒動を起こします。

現在の医学では生理中に孕む事はありません。此れは豊受大御神が、孫の『アマテル』と同年代の『新羅の王子スサノオ』を『伊弉册命』の養子としたものと考えられます。

ホツマの伝によりますと、

スサノオは、常に雄叫び泣き喚んでいたと述べられ、新羅国に帰りたかった想いが伝わります。

スサノオは、国東半島杵築市熊野に在ります『真那井』の『朝日宮』(場所の特定は不明です)で赤土アカツチ』の娘『ハヤスフ姫』を見初めて、求婚を申し込みますが叶わずに、その後は次第に、アマテルの北の局ツボネが在ります、『イサワ大内宮』(杵築市大内地区に在ったものと考えられます。)に出入りするように為ります。

『イサワ大内宮』には、出雲(根国)の守で有ります『クラキネ蔵杵』の娘『マス姫モチ子』(典侍で、天之穂日命を生んでいます。)とその妹『コマス姫ハヤ子』(内侍で、俗に謂う宗像三女神タケコ・タキコ・タナコの三つ子を生んでいます。)がアマテルの妃として(ある意味では、人質として)侍っていました。

因みに、『下侍』としては山背(香春町~苅田)のカダ(苅田)(浮殿古墳・御所山古墳が残っています。)の娘『アチ子』が居ました。

スサノオは『マス姫モチ子』と、その妹『コマス姫ハヤ子』と肉体関係を持ちます。

 

ゆふいん塚原の『ハラミの宮』にて、二尊伊弉諾命・伊弉册命)に大老翁ウオヤオキナとして仕え、その後ココノエ九重の内宮の高御座に居ます、アマテルの右臣と為った実力者桜大人サクラウチ・桜大刀自サクラノオオトジ』の娘、

 

橘氏の元祖で、大山カグツミ(大山橘統み)のであり・大山祇(天津真浦)の祖父。アシツ姫=木之花開耶姫とその姉であるイワナガ姫の曽祖父になります。}

 

『桜谷瀬織津姫サクラ谷セオリツ姫』『ホノ子』(南の局の典侍)に依る『北の局』とスサノオの関係行状の告発により、スサノオは豊後杵築より追放され、根国(出雲)に居付く事になります。

瀬織津姫は、功績により、ゆふいん『浅間宮』アマテルの『内宮』(皇后の事)になり、その後天之忍穂耳命(第8子=最後の子)を生みます。

 

北の局を解任された『マス姫モチ子』(典侍で天之穂日命を生んでいます。)とその妹『コマス姫ハヤ子』(俗に謂う宗像三女神タケコ・タキコ・タナコの三つ子を生んでいます。)は、杵築から程遠くない山香~宇佐~赤村に棲んでいたと考えられます『赤土アカツチ』が引き取り、赤土宮=宇佐宮(安心院)の自分の局で養いますが、『マス姫モチ子・天之穂日命』と『コマス姫ハヤ子』は出雲(根国)の守で有ります父『クラキネ蔵杵』の元へ逃げ?亦は送り帰されます。

 

(現在でも、山香・宇佐は、『粘土赤土』の産地で有名です。『粘土赤土』は水稲を作る田んぼの土地や、ため池の下地材料として必要不可欠なものです。また、壁材として建築には必要で、『赤土』氏は粘土・水銀を生業にしていた人であった。と考えられます。)

 

タケコ・タキコ・タナコの三つ子は、『赤土』氏の『宇佐宮』に放置された為、瀬織津姫の要請により、宗像氏の娘『豊比咩アヤ子』(西局乙下侍)が養育係として派遣され、その後、豊比咩アヤ子は杵築北局『大内宮』の『内侍』になり、アマテルとの間に『熊野クスヒ尊』(第7子)を儲けます。

この『熊野久須毘クスヒ尊』が紀州熊野に渡って『熊野本宮大社』で祀られます。『熊野』の元は、豊後国東半島杵築に在ります『熊野』が本貫地と思われます。

 

ホツマ伝によりますと、

赤土アカツチ氏の弟が、『足名椎アシナツチ』であります。『足名椎』は、安心院佐田邑の『粗長アラオサ』(住民を大まかに束ねる押さえ役)をしていたとされ、妻の『手名椎テナツチ』との間に『稲田姫』を儲けたとされ、『稲田姫』は『スサノオ』と結婚して、大屋毘古・大屋姫・柧津ツマツ姫・事八十神コトヤソ・大己貴命オホナムチ・葛城一言主ヒトコトヌシ・大年=大歳オオトシ蔵クラムスビ・須勢理姫スセリの8子を儲けたと述べられています。

(古事記では、スサノオが『櫛稲田姫』の後に娶った、『神大市姫』=『大歳御祖神』が、『大年神』と『宇迦之御魂神』を生んだと述べています。ホツマ伝と、伴に信じれば、『櫛稲田姫』=『神大市姫』=『大歳御祖神』と謂う事に為ります。)

 

しかし、百嶋神社考古学では、『金山彦』と『オチノ姫』の間に『稲田姫』が熊本県山鹿市にて儲けられた。とされ、如何も『足名椎』=『金山彦』、『手名椎』=『オチノ姫?』=『神大市姫』が推察されます。『足名椎』=『金山彦』は、その後、全国を股に(『鉱山』を求めて)渡り歩いたものと考えられます。

 

また、『大己貴命』と『大年神』は同一人物では無く、スサノオの子の『兄弟』で有ったと述べられている事が驚きです。

 

わたくしは、2017年8月28日『崇神の父親は開花ではなく、大山咋(大国主命)であった。』のブログの考察にて『大己貴命』と『大年神』は同一人物である。と述べていました。

ホツマ伝は、『大己貴命』は佐田大神と述べており、記紀での記述は、『猿田彦』(佐田彦大神)は同じ安心院の佐田地区に居て、ニニギの天孫降臨の場面にてゆふいんの天宇受賣命と、※天八衢アメノヤチマタ地界と天界の領域の境界の事であります。放射線状に四方八方に道が広がった状態ではありません。勘違いをされておられる方が多いようです。)

にて出会ったたもの。と考えています。(天の八衢の場所は別府市『天間』地区と考えています。)

 

わたくしは、『大己貴命』と『大年神』と『猿田彦』の関係を再度考えて見る事にしました。

大年神社』は安心院佐田地区に在り、スサノオを表す『竜王山』・『三女神社』も近くに在ります。

 

百嶋神社考古学研究では、『大年神』は『天児屋根命』(春日尊)とされて、『佐田大神』と『佐田彦大神』は別神とされています。

わたくしには、『大己貴命』と『大年神』は兄弟である。とのホツマ伝の記述と照合して考察しますと、『佐田大神』は『大己貴命』と解釈され、『佐田彦大神』が『猿田彦』=『大年神』=『天児屋根命』(春日尊)であろう。と考えられます。

 

わたくしの最新の説では、『八衢毘古神』が『猿田彦』=『大年神』=『天児屋根命』(春日尊)=『登美能那賀須泥毘古』=『景行天皇(大帯日子淤斯呂和氣)』=『岐クナド神』=『彦坐王』がイメージされます。

因みに、『八衢比賣命』は、『猿女』=『天宇受賣命』=『辛国息長大姫大目命』=『息長水依比賣命』=『幸キサカ姫(荒吐神アラハバキ)』=『市来島姫(弁財尊天)』=『水波能女命(ミズハノメ)』です。

 

そう謂えば、故郷の久留米市御井町に高良神社下宮『幸神社』が在りました。

 

 

アマテル・月読命は、幼少期に母である伊弉册イザナミが亡くなり、豊受大御神(斎名、タマ杵)(祖父)が治世の基礎であります人間性(人格)形成を指導した。と述べられており、此の場所は、ゆふいんの『浅間宮(坂下り宮)』の生誕地と、『豊受大御神』と息子の『耶蘇杵ヤソキネ』が通常時居たと考えられます、日田市『日高』のダンワラ古墳地域と考えられます。

アマテルは、人生後半には一時、基山町の『伊勢=妹背』に棲み、孫のニニギネを育てたと考えられ、ニニギネの足跡が『基山山頂』や『荒穂神社』の祭神に残っています。

ニニギネの兄の『櫛玉火明命』は、父の『天之忍穂耳命』から『飛鳥田川(多賀宮)の央君』を命じられ田川郡香春町~赤村へ移動します。『ニニギネ』はホツマ国(ゆふいん・九重)の『央君』です。

『櫛玉火明命』は、『スガタ姫』・『ハツセ姫』・『天道日女命』の三人を娶りますが、子が無くて『天香語山=カグ山ツミ(橘山統み)の子』の子の『高倉下』を養子にしますが、『ハツセ姫(豊マドの娘)』に憎まれて追放された。と述べられ、世継が無くて亡くなります。(わたくしの見解では、此の人がアマテルではなかろうか。と想われます。)

二代目『飛鳥田川(多賀宮)の央君』は、ニニギネと『アシツ姫=木之花開耶姫』との三つ児の第一子であります『火明ホアカリ命 斎名ムメヒト 二代目ハラの央君』と、『コモリ=大国主命の子で、3代目大物主』の二女の『タマネ姫』が儲けた『国照ク二テル』(ニギハヤヒ)が就任します。

 

 

《 ホツマ伝39文より、》
 
ヒノカミココニ   ひのかみここに    日の神ここに(日の神=アマテル)
                                        
ミチマナフ カレヒタカミソ  みちまなふ かれひたかみそ    道学ぶ       故 日高みぞ (日神が学び高まる所は日田市日高地区)
                                             
アメノミコ チチヒメトウム  あめのみこ ちちひめとうむ    陰陽の皇子(オシホミミ=アマテルと瀬織津姫の子)  チチ姫栲機千千姫=オシホミミの内宮と生む
                                 
ミコフタリ ヱハアスカミヤ  みこふたり ゑはあすかみや    皇子二人   兄はアスカ宮(斎名、テルヒコ=櫛玉天火明命は飛鳥宮に居る)
                                          
トハハラミ  とははらみ    弟はハラミ(斎名、キヨヒト=ニニギネは高天原=ゆふいん塚原)
                               
ソノトキクニオ   そのときくにお     その時テルヒコとキヨヒトの時代に国を
タマワリテ ソヨノハツコノ  たまわりて そよのはつこの     賜わりて  十四の裔の其の先ずっと
 
ワレマテハ ヨソノタウケス  われまては よそのたうけす     我までは現在までは  よその治(他の豪族の介入) 受けず
  
ソレノキミ アスカオウチテ  それのきみ あすかおうちて   それの君(神武天皇=崇神天皇が)  アスカを討ちて(ニギハヤヒ=櫛玉火明命に仕えるナガスネ彦=景行天皇=猿田彦=久那土神=天児屋根命の居る香春町~赤村)
                                        
クニオトル カミニタカエリ  くにおとる かみにたかえり   国を盗る      上(御上・公)に違えり(国を盗む、間違った行為である)
                                          
カレナレス イママタキタリ かれなれす いままたきたり  故 和れず  今また来たり(神武=崇神が再度遣って来た)
 
トラントス コレモカミカヤ  とらんとす これもかみかや  盗らんとす  これも上かや
 
スヘキミヨ   すへきみよ   皇君よ」
  

と、述べられています。《スヘキミヨ=皇君よ》とは、神武=崇神=スサノオを指している。と考えられて、飛鳥宮とは、櫛玉火明命がゆふいん高天原から(ニニギネにホツマ央君を譲り)、田川赤村~香春町周辺に移動した場所で在ったと考えられます。現在の香春町の柳井秀清さま達が守っておられます『央君さん』の墓は、『櫛玉火明命』(アマテルかもしれません?)の墳墓と考えられます。

 

此処に居たのが、『ホアカリ(ムメヒト)の臣』とホツマ伝で述べられている『登美能那賀須泥毘古』=『猿田彦』=『八衢毘古神』=『大年神』=『天児屋根命』(春日尊)=『景行天皇(大帯日子淤斯呂和氣)』=『岐クナド神』=『彦坐王』と、

妻であります『八衢比賣命』=『猿女』=『天宇受賣命』=『辛国息長大姫大目命』=『息長水依比賣命』=『幸キサカ姫(荒吐神アラハバキ)』=『本来の市来島姫(弁財尊天)』=『豊玉姫』=『水波能女命』と謂うことに為ります

 

『豊玉姫』は、元来は孝元天皇=日高彦穂穂出見尊(日田市日高町ダンワラ古墳地域の出身です)の皇后であって、韓半島に渡り、姪の『玉依姫』と『孝元』との間に出来た『天日鉾』=『スサノオ』を新羅に置いて倭(別府湾奈多海岸→宇佐大元宮→田川=多賀飛鳥宮へ移動)に帰って来た。と考えられる。お方です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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