「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

秋永氏探求から紐解く息長古代史20

2011-11-26 | 古代史

崇神天皇の生存時間軸が近世に近づくと謂う事になりますと、全体の時間軸を整合するために考えを変えねばならない部分も生じます。例えば1、天之日矛は来日時期が後世にずれるので朴赫居世の子では無い。2、同じく脱解王は彦坐王の子では無い。事になります。

 

 

古事記の葦原中国平定の項で最初に呼ばれる名前で、豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)と謂うのがあります。

 

葦が豊かに生えていて、秋の実りが多く水が豊かで稲穂が豊かに広がっている国。と謂う意味でしょう。これが葦原中国(あしはらなかつくに)と謂われる処です。現在では出雲地方や日本全体を指していると理解されていますが、

 

この葦原中国は熊本平野のことを指すとも想われます。

 

先日行って来ました益城町から熊本市にかけて、正に古事記に述べられた通りの光景を目に致しました。

 

阿蘇溶岩台地から広々とした熊本平野の水前寺や浮島神社等に灌ぐ豊富な湧水と、豊かな稲穂が豊かに実った様子や、秋津川や秋津町名があり、

 

秋永(秋長)の石棺・井王(五百)・水穂の国、水穂五百依比売命との関連等を総合的に検討しますと、何となく関係が有りそうに考えられます。

また、磯城島(しきしま)は、本来は奈良盆地を指すと謂う事ですが、(現在は日本の国自体を指す言葉として使われるようになっていますが、)奈良には磯や島が無く、

 

どうも磯城島は天草島の古来の呼名のようにも考えられます。現在、熊本県天草郡苓北町志岐に志岐城跡が残っています。熊本県には古墳が多く、天草島にも古墳があります。九州の古代史を研究する上で北部九州が注目されていますが、これからは、熊本も重要な位置を示す事と為るように思えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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