第二部、九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。
大分県ゆふいん温泉在住 秋永祥治
徒然、幼少の頃を思い考えますと、わたしの生家である福岡県久留米市篠山町のすぐ近所に三牧(みまき)さん(以前は御牧と書いていたそうです。)と謂うお宅がありました。
江戸時代、有馬藩の篠山城内の数千坪の広大な土地に住まわれており、(一般の家臣は城外に居住していた。)有馬藩の家臣団には記入が無く、(どうも特別扱いの待遇と想われます。)平屋洋風家屋、広いリビングに大型電蓄を置いてあり、わたしが5~6歳のころから12歳ごろまで毎日のように6歳上のお兄ちゃんに遊んでもらって家族みんなで可愛がってもらっていました。
岩戸山古墳群の近くの八女市広川にもおばあちゃんが居られて、時々リアカーを引いて皆で歩いて八女まで行った事を思い出します。
このお宅(当時のご主人は養子)が、中村八大(作曲家=代表作は『上を向いて歩こう。』)の叔母?(伯母?)さんのお宅で、中国から引揚げて来た中村八大はここから明善高校へ通って東京へ出て行ったとの事です。
三牧の姓は、有馬藩の家臣に大工として丹波篠山から連れて来られている人もいるそうですが全く関係がないそうです。
この三牧(みまき)さんは、ひょっとしたら、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらのみこと)=崇神天皇や御間城姫(みまきひめみこと)と関係があるのでは?と想われます。
もし、その事が証明されれば御間城氏の一族は八女の近くに居た事になるかもしれませんし、崇神天皇は此処(八女)から奈良へ移動したことも考えられます。
崇神天皇は奈良県桜井市金屋の師木の瑞垣宮(しきのみずかきのみや)に居住して、
御陵は山辺道勾之岡の辺にある。とされています。
わたしが久留米に居た学生の時代、志岐(しき)姓の人は居ましたが、地名では見当たりません。
天草には在りますが、邪馬台国からは遠くになり過ぎるようです。
散々考え、探しましたが、如何しても(しき)の地名が出てきません。そして、諦めずに念じて喘いで居ましたら、不思議にも、斎(いわい)の祖である息長氏の霊界からの声が聞こえたようでした。『城島』と。
そう謂えば、久留米市荒木の南の筑後川下流に『城島』(じょうじま)と謂う地があります。(有明海の海水と筑後川の真水が合流する場所で、淡い海、とでも謂うべきか、動植物が変化に富んでいまして、ビロウ・ガジュマルに似た植物やムツゴロウ・潟カニ等海産物が多く、また此処は昔からの筑後の酒造どころでもあります。)
川と川とに挟まれた地域を、古来は(しき)または敷島(しきしま)・磯城嶋(しきしま)・式嶋(しきしま)・城島(しきしま)と呼んだ。と謂われています。
崇神天皇の居た『師木の瑞垣宮』の師木(しき)は、久留米(以前は三潴郡)(みずまぐん)の城島(当時は、しき又はしきしまと呼んでいた。)とも解釈されます。
仮に、城島が師木の事であるとしたら、瑞垣宮(みずがきのみや)は何処に為るのでしょうか。
『瑞垣』とは神殿や神域のまわりを囲む垣根の事を謂うそうで、固有名詞ではありません。
ネット地図にて、城島一帯を調べました所、怪しげな神社を一つ見つけました。城島町楢津にある『威光理神社』と記入されています。(いひかりじんしゃ)と呼べば善いのでしょうか。初めて目にする名前です。何時頃の時代の創建で、祭神は誰でしょうか?調査の必要を感じます。