「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

古代史編年 その2 (広開土王碑に刻まれた『辛卯』の解釈は、西暦331年が正しい。と考えられます)

2014-11-05 | 古代史

次の若帯日子天皇(成務天皇)は八坂入姫命から生れて、(日本書紀では)景行14年から成務60年6月11日とされ、此れは、景行の期間が60-14=46(23年間)成務の期間は60年の半分の30年間、何故か景行と同じ、合計で53年の生涯です。(西暦371年)

しかし、古事記には、成務の没年は『乙卯』と述べられており、この干支を西暦で考えますと295年か355年に成り、仮に355年に亡くなったのであれば16年の差(長生き)があり、古事記を信じれば、成務は37歳位での生涯であった。と想われます。改めて、成務の生存時期を考えてみましょう。

 

景行は最初に皇后にしたのは、兵庫県に居た播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおおいらつめ)であります。若建吉備津日子女(わかたけるきびつひこめ)とも呼ばれ、彦坐王(孝霊天皇)の子であります吉備津日子命の子とも考えられます。三人の男子を儲け、次男と三男は双子で生まれており、三男が小碓皇子(日本武尊)です。

小碓皇子(日本武尊)の子が第14代の仲衷(帯中日子天皇)に成ります。播磨稲日大郎姫は早く亡くなったものと考えられ、景行は、その後に崇神の孫であります八坂入姫を皇后にして、毎年のように12名の子を儲けて、その長男『若帯日子皇子』(成務)を後継者にします。

順番的には小碓皇(日本武尊)子の次に生れてきたのが、若帯日子(成務)であると考えられます。仮に1歳の差と考えますと成務の誕生年は西暦283年と捉えられます。(同じ年月日に生れたのが建内宿禰です。)

仲衷(帯中日子天皇)は、『日本武尊』と『両道入姫命』(垂仁の娘)が儲けた子の次男であり、生存年を推測致しますと、日本武尊は西暦282年に生れて西暦312年頃に亡くなったお方と考えられ、仲衷(帯中日子天皇)は、日本武尊の17歳頃に誕生した。と仮定しますと、西暦299年頃の誕生になります。

ウィキペディアでは、仲衷は、成務18年~60年、仲衷9年2月6日没とされ、二倍暦で考えますと25歳~26歳で亡くなっています。仲衷が25年生きたと考えれば仲衷の崩御は324年頃と想われます。

此れは、成務が355年に亡くななるのには、不可思議さが伴いますが、考察の一つには、西暦320年頃『成務』は病に倒れ、仲衷への禅譲が行なわれたものとも解釈を考える事が出来ます。

 

もう一つの解釈では、

成務は建内宿禰と生年月日が同じで、父で有る景行天皇は建内宿禰を成務に仕えさせますが、宇佐公康氏の伝承では『成務』は子が無ったとされ、生存期間は短ったものと考えられます。

恐らく10歳前半にて亡くなったものと思われます。建内宿禰はその後仲衷に使えます。仮に、成務が12歳(西暦295年)で亡くなったとすれば、日本武尊も景行天皇も存命中であります。此れをどの様に解釈するかを問われます。

わたくしには、成務は妃を2人娶っていますが、皇后は娶って居らず、若くして亡くなっているのもと感じられます。亦、後を継いだ仲衷(帯中日子天皇)に付いた建内宿禰は景行・成務・仲衷・応神・仁徳の五王に仕えたとされ、成務と仲衷は若く亡くなったものと考えられます。

仲衷は長戸國(下関)から香椎宮に移し筑紫~筑後の『従わない熊襲(狗呉族)』退治をしますが、仲衷(帯中日子天皇)は西暦324年頃突然亡くなります。

その後(324~325年頃)、息長帯比賣命(神功皇后)と一緒する建内宿禰は(大善寺『高良廟』貝塚古墳に埋葬されている。と考えられます下照姫=伊香賀色謎が孝元天皇との間にて、生んだ『彦太忍信命』は、建内宿禰の祖父になりますので、まだ久留米市高良台周辺か佐賀県武雄市で生存して居たとも考えられます。)熊襲退治(甘木の羽白熊鷲・八女の田油津媛)の後、

 

西暦331年建国したばかりの新羅遠征を狗呉族と伴に行い、従わせます。

 

一般の研究者は、神功皇后の新羅遠征を『広開土太王碑』に刻まれています書の第1面の8行から9行にかけての、

 

『百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民』

 

(訳)   高句麗は、かつて百済と新羅を属民とし、両国は高句麗に朝貢して来た。しかし、倭は辛卯(かのと・う)年よりこのかた、海を渡って百済を破り、□に新羅を□して、百済と新羅を臣民とした

 

(東京大学教授 早乙女雅博著 広開土王碑の拓本 より転写させて頂きました)

 

という刻字があります。

 

辛卯』(かのと・う)の解釈を、晋書の高句麗『好太王』(西暦374年~412年頃)の即位時期であります西暦391年に求め、神功皇后の征韓時期との整合を図るために、(固持付けて)西暦391年を導いて解釈し、疑いを持っておられませんが、

わたくしの『辛卯よりこのかた』は『西暦331年よりこのかた』と解釈され、「而」(しかして、しこうして)の解釈が為されていません。

 

わたくしの古代史編年方式では、西暦331年が神功皇后の新羅遠征の時期に導かれます

研究者は『辛卯』の解釈であります『西暦391年』の再検討の必要を感じます。

 

神功皇后と建内宿禰は倭(北部九州)での地位を固めて、田川(北九州)に居た、香坂・忍熊両皇子を殺し、天下を暫く治めますが、蜂起した東國15カ国の王『御諸別命』と『宇佐押人』軍が息長帯比賣命(神功皇后)と建内宿禰・品陀和気皇子の軍に戦いを挑んで破り、西暦335年頃、近畿纏向田川飛鳥宮豊明宮にて宇佐押人『応神天皇』として即位したものと考えられます。

 

『応神天皇』(宇佐押人→途中で若狭地方の渡来人、拓跋賀に入替っている。と考えています。田川郡川崎町の帝階正八幡神社の伝承にて、『応神が即位した。』との場所。とされています。)(生存年は西暦306年頃~西暦394年頃の88歳)は、『崇神』の子『豊城入彦命』の孫とされています(わたくしには?マークが付きます)『彦狭島王』が(このお方の業績が神武天皇の業績、『神武東征』に『記・紀』では置き換えられています。景行天皇の弟である若木入日子命である。と考えられます)『宇佐津臣命』と『御諸別命』を儲けて、『宇佐津臣』が四国伊予の越智氏の娘『常世織媛命』を奪い、生ませたのが、『応神天皇』に為った『宇佐押人』であります。

 

『宇佐押人に入れ替わって若狭地方から来た応神(拓跋氏)』は和邇氏(物部氏)全盛の纏向(九州田川=鷹羽から行橋勝山黒田の事。)で生きるには、『和邇氏(物部氏)=大山祇命・月氏・橘一族』と『彦坐王=息長氏=阿蘇氏』の血縁が必要と考え、『仲姫命』(なかつひめ)と妹の『弟姫命』(おとひめ)、日田市~うきは市に居た高躬氏の縁者と考えられます『高木入日賣命』(たかきのいりひめ)、北九州宮田町に居たと考えられます和邇氏の『宮主宅媛命』(みやぬしやかひめ)と妹の『小甂媛命』(おなべひめ)、大任町~行橋の勝山黒田・苅田に居たと考えられます『息長真若中比賣命』(おきながまわかなかつひめ)を娶る事で、地位を磐石にします。

 

『息長真若中比賣命』(おきながまわかなかつひめ)の生んだ、『若沼毛二俣王』(わかぬけのふたまたおう)が、後の『福井県』に居た26代継体天皇に繋がる高祖父であります。

 

後に、第48代称徳天皇(764年~770年の間の即位)が『道鏡』を天皇にさせるべく、和気清麻呂を『宇佐神宮』の宣託伺いに上がらせるのも、応神天皇(宇佐押人=崇神の孫)の出身地が豊後『宇佐』で有ったからでありましょう。

 

『応神天皇=入れ替わった拓跋氏』は古事記では『甲午』(きのえうま)に亡くなったとされていますので394年頃崩御したものと想われます。

 

杵築に居た、『八坂入彦命』(『大海媛』と『崇神』の間の子)は岐阜県可児市に渡り日田市美濃で『八坂入媛命』を生み、この八坂入媛が景行天皇の皇后に為って『成務天皇』を儲けます。

此の『成務天皇』は(乙卯)年3月15日に崩御したと古事記にあり、『沙紀(さき)の多他那美(たたなみ)』に御陵を造ったと述べております。

これは海辺の近くが想像され、由布院塚原に在ります『霧島神社』には『成務天皇』が来訪の伝が残っており、(『大海媛』・『崇神』・『八坂入彦命』と、『縁』が有ります)杵築市に在ります御塔山古墳』は『成務天皇』の墳墓かも知れません。考慮の必要を感じます。

西暦295年頃に(12歳位)亡くなったものと考えられます。

 

中国の史書(晋書・宋書)に表された西暦413年から502年の『倭の五王』(讃・珍・済・興・武)は、九州王朝(狗呉王朝)の王と考えるべきでしょう。

 

 

 

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