「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

大水口宿禰から導かれます崇神天皇陵(小熊山古墳)

2014-12-08 | 古代史

豊後国東半島の『六郷満山』を旅したお方は、挙って「歴史の古さを体感した」とおっしゃいます。わたくしも同感で、日本の歴史の原点を感じ取れます。

杵築市・安岐町・国東町・豊後高田市には夥しい古墳や遺跡・遺構があり、宇佐市には宇佐八幡宮が鎮座しています。

わたくしの考えでは、崇神天皇が杵築市の『小熊山古墳』に、成務天皇が『御塔山古墳』に埋葬されて居るものと想われ、平成26年11月20日晴天の下、伺う事にしました。

山辺の道で案内標識が整備されていなくて困っていたところ、後から来た車を止め、小熊山古墳への道を尋ねました所、其のお方の家の前に小熊山古墳があるので、後について来る様との経緯で簡単に辿り着けました。

親切な20代と思しき青年に、手帳を渡してお名前を書いて頂きました。

小熊山古墳や御塔山古墳は未整備で、一般の来訪者には、わかり難いと思われます。杵築市の整備が望まれます。別府湾を眺めおろす小高い山に造られており、雑木林の向こうに穏やかな別府湾の海が見え、心の休まる良い場所でありました。

帰宅後、手帳を眺めますと、水口博貴さまと記入されていました。わたくしは驚きました。日本書紀の崇神紀7年8月7日条項に『大水口宿禰命』が登場していたからです。

 

ウィキペディアには、

系譜に関して『日本書紀』『古事記』に記載はない。

『新撰姓氏録』では、伊香賀色雄の子とも、神饒速日命の六世孫とも伝える。

一方、『先代旧事本紀』「天孫本紀」では出石心大臣命(いずしこころのおおおみのみこと、饒速日尊三世孫)の子と記され、系譜に異同がある。なお、同書では伊香色雄命(伊香賀色雄)は饒速日尊六世孫とされる。

記録条項には、

大水口宿禰は倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)とともに同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられた旨を天皇に奏上した。

また、同書垂仁天皇25年3月条では「一云」の中で、倭大神が大水口宿禰に神憑り、倭大神を祀ることを告げたことが記されている。

 

と述べられており、

如何も、大水口宿禰は『祭祀を司る行為』つまり神官を行なっていたものと感じられます。

 

大水口宿禰は、『崇神期』と『孝霊期』に存在が述べられており、二人の大水口宿禰が居た事になり、亦、新撰姓氏録には大水口宿禰を伊香色雄命の子としており、系譜上に関しては、研究者を悩ましていますが、仮に、わたくしの説であります「孝霊は彦坐王であり、景行天皇の事である。」を採用して考えれば、崇神と彦坐王は兄弟でもあり、『孝霊期』に登場するのも時間軸は合致し、納得が行きます。

わたくしは、※伊香賀色謎命が玉依姫命の事で有った。とも述べており、その子が崇神であり、伊香色雄命と伊香賀色謎命は兄妹とされており、新撰姓氏録の記述を信じれば、崇神と大水口宿禰は従兄弟(いとこ)であった。と考えられます。

(※その後の考察で、伊香賀色謎命は、八咫烏=賀茂建角身命=息長氏の娘の玉依姫の事で、孝元天皇との間で崇神天皇を儲け、その後に久留米市城島シキ『玉垂宮』に居た開化天皇=ウガヤフキアエズ=住吉神の下に崇神を連れ子にして嫁ぎます。)

 

わたくしは、百嶋由一郎様の神社研究の『確信』であります、『開花天皇(ウガヤフキアワセズ=住吉神の事)と神功皇后(息長帯姫命=秋永氏)は夫婦で在った。』を、支持しますと、玉依姫は神功皇后(秋永氏)を意味する。と、なります。

記紀では、崇神は開化の子とされていますが、実際は孝元天皇(彦穂穂出見尊)の子と考えられ、崇神は父であります彦火火出見尊=神武天皇を名乗ります。開化=ウガヤフキアエズ=住吉神の居たシキ城島『玉垂宮』には出雲から遣って来た下照比賣命、開化が早岐西宮=ヒロタ宮で育てた蛭児も居たものと考えられます。(2023年2月6日改記)

 

わたくしは、水口博貴さまと『大水口宿禰』は関係があるのでは???と考えられ、もしも水口氏が古来より杵築の小熊山古墳近くで棲んで居たのであれば、崇神天皇の存在の可能性が一段と増すことが考えられ調査を行なう事にしました。

平成26年11月25日午後0時由布院を出発。1時間程で小熊山古墳前の水口博貴さま宅に着きました。

父親の水口士郎さまが居られ、何時頃から此処に御住いかを訊ねました処、小熊山に入植して登って来たのは第二次大戦の終戦後でありますが、其れまではすぐ下の海辺の位置に代々棲んでいた。現在親族を含めて水口姓は4~5軒ありますが、水口本家の若者は都会へ出て老人は亡くなり、現在は誰も居ない由。水口士郎さまの親族の『水口博継』さまを紹介され、話を伺いに行きました。

『水口博継』さまのお宅は八幡奈多宮から1キロ程離れた狩宿海岸に在りました。明治時代から棲んで居たのは間違い無いが、江戸時代以前の事は解らないので、菩提寺である安岐町の最広寺の過去帳で調べてくださいとの言。家紋は両家とも『橘紋』でありました。

八幡奈多宮前を通って塩屋交差点先の隣の安岐町まで足を延ばしました。最広寺に着くころから雨が落ち始め、最広寺に着いて生憎の外出中?

 住職とも遭えず残念な想いで帰り始めました。せっかく来たので、途中に在った市杵嶋岩礁で有名な八幡奈多宮に参って帰ることにしました。

 

此の八幡奈多宮宇佐八幡宮とも関係が深く、古来は宇佐八幡宮の八月の薦枕『行幸会』の最終地にされていました格式の高い宮であり、キリシタン大名で有名な大友宗麟も、奈多宮の大宮司である奈多鑑基(なたあきもと)の娘を正妻にしています。

 

シトシトと雨が落ちる中、海岸の松を中心とした林の砂道を300m程歩き、社殿前に着きました。社殿の先瓦は菊の紋でありました。参拝を終えて社殿周辺を散策。社殿に向かって左手側に田道間守命(多遅麻毛理)の碑が在りました。

此の田道間守命は、崇神の子である垂仁天皇に命じられ、常世の国(海外)に渡って10年かかって『非時香菓』の実(ときじくのかぐのこのみ)=『』(たちばな)の枝を持って帰りますが、垂仁天皇はすでに亡くなっており、悲しみのあまり『橘』の枝を皇后垂仁に捧げて亡くなったお方で、戦前の唱歌にも成っていて、天日槍の子孫とされて※但馬國のお方と考えられています。

 

※その後の考察で、当時の但馬國は、豊後日田の田島金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡=魏の曹操の墓から出土した鏡と同一の鉄鏡が、ダンワラ遺跡から発掘されています。)を指しています。

 

天日槍はアカル姫を追って倭に遣って来たお方で、(アカル姫は豊後国東半島の姫島に隠れた。と考えられています)田川(鷹羽)の息長大姫大目命とも関係がある。とも考えられ、後に但馬國(豊後日田)に居ついたとされています。多分但馬國(当時は豊後日田の田島を指しています。)田道間守命の出身地と考えられます。

 

此の但馬國は、実は古事記に於いては、『彦坐王』と田主丸~日田の『袁祁都比売命』(おけつひめ)との間に生れた『山代之大筒木真若王 』( やましろのおおつつきのまわかのみこ)の子、『大多牟坂王』(おおむさかのみこ)が『多遅摩國造の祖』と記されており、如何も此の息長氏の『大多牟坂王』が『田道間守命』の事かも知れません。多分その様に考えられます。

 

垂仁は、嘉穂出身の狭穂姫を失った後、彦坐王の子である丹波道主命(田主丸か田川郡大任町の出身で後に近畿に渡ります)と由布院(木綿の院)川上出身の川上麻須女の間の女子四人を娶り、その『日葉酢姫』から大足彦忍代別天皇(景行天皇)が誕生した事に為っています。⁇

この大足彦忍代別天皇(景行天皇)は景行12年の熊襲平定の折、祖母川上麻須女の出身地である由布院を訪れて、速津媛命(兎狭津媛=媛蹈鞴五十鈴比賣命)に天御中主命を祀るように命じています。

景行天皇の弟である若木入日子命彦狭島命の事であります。豊城入日子命(久留米市田主丸町豊城=川会國=八咫烏が瓊瓊杵尊から賜った場所と、考えられます。豊城入日子命は崇神の子とされ、垂仁の兄とされています。八咫烏の子が玉依姫で、玉依姫の子が崇神になります。いずれも秋永氏集落の近くです。)の子である八綱田の子。との記紀の記述は間違いか捏造と考えられ、記紀では神武天皇の東征の業績も捏造されており、研究者を悩ましています。

 

杵築市の産物は『杵築みかん』で有名です。『橘』とはみかんを指している。とも考えられ、菓とは当時は果物の事を指していたようです。

みかんは『キシュウみかん』が最初とされ、此れは和歌山県の紀州の事である。と考えられていますが、国東半島の杵築(紀州)から福岡県立花町(山川みかん)へ安曇族が齎したものとも考えられます。その後、熊本・佐賀・山口・愛媛・和歌山・静岡等へ広まっていったと考えられます。

しかし、みかんの前は『』とされ、日本には在来の橘があり、魏志倭人伝によると酸味が強く食用にはされておらず、不老長寿の薬草を求めて田道間守命は常世の國へ渡った事になっていますが、垂仁は、食用に出来る外来種を求めて、田道間守命に託したものとも考えられます。

 

わたくしは田道間守命の像を見て、先ほど訪れた水口家の家紋『』を思い出し、関係があるのでは?と感じられ、一段と期待感が増して来ました。何とか水口氏が古代より国東に棲んでいた事を証明したい願望が湧き出て来ました。

 

辺りを、皿を嘗め回すように注意深く観察していきました。社殿の外に、造営寄付金の石碑があり、大勢の方のお名前が刻字されており、わたくしは、水口氏が気に為り水口の名前を探しました。すると、高額寄付の初めの方に『水口忠宏』さまが目に留まりました。上には何んと『宮司』と刻印されています。わたくしは驚き、一刻も早くお会いしてお話を伺おうと、1キロ位杵築寄りの『水口博継』さまのお宅へ再度伺い、成り行きを話しました。

親族ではないが、奈多宮の先の安岐町塩屋地区にお住いの方で、この間まで奈多宮の『宮司』を為さっておられた由。電話番号を教えていただき、電話を掛けました処、言葉使いに上品な奥様が御出でになられ、夜に帰られるとの事。一旦自宅に帰って電話を掛ける事に致しました。

 

受話器の先に聞こえる『水口忠宏』(みなくちただひろ)さまの声は、上品な穏やかさがあり、見識を持たれた人柄の良さを感じうけました。

水口家は、自分で43代目に当り、鳥羽天皇の時代に神官として仕えて、奈多宮の宮司は4代前の忠吉―忠次―忠公―忠宏と続いて来た由。父の忠公(ただたか)は宇佐神宮の神官も兼ねて居た由。現在棲んで居ます塩屋地区から少し離れた処に小字に山口と下山口が付いた地があり、元は其方で棲んで居たものと考えられるとの言。

亦、昔は国東~安岐~杵築地区は安岐郷(あきのごうり)と呼んでいたと教えて頂きました。家紋は『双葉葵』との事。

 

わたくしは、受話器を置いた後、古墳マップを開き安岐町~国東町の古墳を調べました。下原古墳・心月寺古墳・熊野社古墳・塚山古墳・北浜古墳・塩屋条里遺跡・荒巻古墳・・・等々数多くの遺跡を確認し、年代の古さを確認しました。

大矢口宿禰命と大水口宿禰は兄弟とされ、『矢口』と『山口』の地名は何か関係があるとも勘繰られます。

 

わたくしは、『大水口宿禰』の本貫地は(滋賀県水口町では無くて、)豊後國国東安岐郷山口であったと確信しました。そして、天孫族の本隊は此の国東半島に最初に上陸したものと考えられます。

やはり、小熊山古墳は崇神天皇が眠って居られる可能性が高いようです。

 

 

 

 

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