「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

古事記にある『ひな振り』(不定型の歌)から読み解かれます、『玉垂命』の名前の由来。

2015-04-28 | 古代史

わたくしの、秋永氏が福岡県田主丸以真恵に代々居たのは、由布院(木綿の院)にルーツする和邇氏(天足日子国押人・宇那比媛・建田背・建諸隅)にあり、(古事記では)意祁都比売命(おけつひめのみこと)=(日本書紀では)姥津媛命(ははつひめのみこと)=竹野媛が田主丸(竹野に『善院』の地名と三明寺『井の丸井戸』が残っています』に棲んで居て、福岡県春日市(須久・岡本遺跡あり)から若倭根子日子大毘毘命(開花天皇)との間に彦坐王=彦湯産隅命が生まれ、田川(鷹羽)香春神社にルーツがあります、息長氏(秋永氏)の息長水依比賣命と結婚して、その後福岡県みやこ郡勝山黒田~苅田辺りに拠点を造り棲んだものが、秋永氏(息長氏)の初めと考えています。

彦坐王には義理の弟(母は伊迦賀色許売=玉依姫と考えられます)がおり、御間城入彦(みまきいりびこ)と謂って、久留米市大善寺城島(しき)=師木の瑞垣宮(玉垂宮)で育ったものと考えられます。(根拠に挙げていますのは玉垂宮傍の『天皇屋敷古墳』です)

 

此の二人を仮説として、倭の歴史を北部九州にて論を組み立てますと、記・紀に述べられています、高天原・須佐之男・天照大神・大國主・多祁理比賣は九州での存在が繋がり、欠史八代の王達も九州にて存在を考えられる事になります。

 

元々九州には、中国の『周』に繋がる三苗(狗呉)の人々が何度も大陸から沖縄~奄美~南九州~北部九州に渡って来て、棲んで居たと考えられ、当然リーダーであります『王』も存在をしていたと想われます。

古事記では、第二代綏靖天皇は師木県主の祖の河俣毘売(かわまたびめ)を娶ったとして、師木津日子玉手見命(第三代安寧天皇)を産んだとしています。その安寧も師木県主の波延(河俣毘売の兄)の娘の阿久斗比売(あくとひめ)を娶った事に述べられています。

わたくしの説での『師木』とは、久留米市の『城島(しき)』の事で、『波延(はえ)』は、福岡県みやま市高田町『飯江(はえ)』と考えられ、此処有明海沿岸は隈氏に代表されます狗呉豪族が各所に居て、紀元後に新羅経由で遣って来た天孫族は盛んに婚姻を通して、融和を図ったと想われます。

紀元107年頃に天孫族の帥升王が武力によって各地の狗呉のリーダー達を捕らえ、後漢へ106人もの生口を献上(ルーツである中国へ送り返したものと想われます)しております。

此の生口の中に、沖縄の『翁長氏』に繋がる『息長氏』が居たものと考えています。後漢の王は洛陽に日本人町を造り、居住させていたものと考えられます。その後、後漢は西暦220年『魏』に禅譲されます。

 

倭(北部九州)では、須佐之男と、取り巻き人の行為に対しての、狗呉族の反発(敵対行為)に天孫族は困り、須佐之男を倭(北部九州)から追放して狗呉との融和をして、治めようとします。

倭を追放された須佐之男は曽尸茂梨(ソシモリ)経由で島根県出雲に落ち着き、現地の豪族の『八岐の大蛇』を滅ぼし、天叢雲剣(あめのむらくもけん)を高天原(由布院塚原)の天照大神に献上します。

此の天叢雲剣は記・紀ではニニギ尊に天降り時、手渡された。と述べられていますが、ホツマ伝では、カンタチ(神産巣日神)の子、フキネが大穴持(大國主命)の事で、フキネの妻がサシクニワカヒメと述べられており、フキネが天叢雲剣を持って居て、ツクシ(筑紫)を治めており、弟の豊祇彦(とよつみひこ)=(少彦名日子命)が豊(とよ)を治めていたと述べられています。

サシクニワカヒメの刺國とは福間~宗像地方を意味している。と思われ、多祁理比賣命の事を指していると考えられます。

古事記では天之冬衣神(フキネ)と刺国若比賣命(さしくにわかひめ)の子が大國主になっており、母の刺国若比賣命が八十神からの迫害を逃れる為、大國主(大己貴命)を連れて高天原(由布院)の神産巣日神(少彦名日子命も一緒に居たのもと考えられます)を頼って行き、以前に須佐之男が居た地であります豊後杵築で豪族として居た、大屋毘古命(五十猛神)に匿って貰いますが、追ってきた大勢の八十神(和邇氏)が大屋毘古命に大國主の引渡しを求めますが、船にて逃がして、伊予を経て出雲の須佐之男の地へ辿り着きます。伊予國『風土記』逸文では、大國主命(大己貴命)が少彦名日子命を速見(別府)の湯を運んで生き返らせた。とあり、

 

此の大國主命(大己貴命)=高躬結び神派と須佐之男命(新羅人)の争いが『倭の大乱第1幕』であろう。と考えています。

須佐之男は、出雲にて櫛名田比売命と結ばれ、須勢理毘売命が生まれます。此の須勢理毘売命を『大己貴命』が娶り、出雲に居着こうと決意します。多祁理比賣命が(此のお方は、須佐之男と天照大神との間に高天原(由布院町塚原)にて生まれた後、安心院経由で宗像の沖の島にて巫女をした後、筑紫を治めていた大己貴命と結婚し、迦毛大神=阿遅鋤高日子根神と下照比賣=高比賣命=御井神=木俣比賣を産みます)、夫の大己貴命が家に寄り付かないので、失望して下照比賣命を木の俣に挟んで倭(北部九州)へ帰ったとの伝承があります。

多祁理比賣命は、国東半島の奈多宮(市来島)に上陸の後、安曇族宇佐氏により、安心院の妻垣神社に匿われ、高木神と和邇氏の眼から逃れたものと考えられます。

 

母から出雲に置き去りにされた下照比賣命は、大己貴命の国譲りの二番目使者であります『天若日子命』と結婚をしましたが、高木神(和邇氏)の刺客に依って、就寝中に殺されます。下照比賣命の悲しみの泣き声は風に乗って高天原(由布院)まで届いたと記されています。葬儀の喪中に下照比賣命の兄の味鋤高彦根命が遣って来て、死人である『天若日子命』が生き返った。と間違われた事に腹を立て、十掬(とつか)の剣にて喪屋を壊すのでありますが、古事記では、高媛=下照比賣命(妹)と味鋤高彦根命(兄)の登場の条項に『ひな振り』(不定型の歌)が挿入され、次のように述べられています。

 

(稗田阿礼の誦習)「そして、アヂシキタカヒコネが怒って飛び去った時に、同じ母をもつ妹ごのタカヒメは、その名を明らかにしなくてはと思うたのじゃろうの、こう歌うた。」

 

あめなるや おとたなばたの

うながせる 玉のみすまる

みすまるに あなだまはや

みたに ふた渡らす

あじしきたかひこねの神ぞ

(訳)

高天の原にいます 若い織り姫が

首にかけたる 玉の首飾り

その首飾りの 穴玉よ、輝くごと

深い谷を 二つまたいで輝きわたらせる

アジシキタカヒコネの神にいますぞ

 

(三浦佑之訳 口語訳 古事記より)

 

わたくしには、『玉垂命』の名前の由来は古事記に述べられています、「首に掛け垂らしたる 玉の首飾り」から引用されたものと考えられ、下照比賣命を指している証拠と考えられます。

 

、『伊迦賀色許売』(いかがしこめ)については、固有名詞の名前とは考えられず、伊迦賀(いかが)と(しこめ)に分けて解釈しますと、伊迦賀(いかが)は『如何』と謂う疑問形を表し、色許売(色謎命)は『謎の美女』と思われ、『謎の美女』とは誰の事でしょう。の意味に解釈されます。

 

下照比賣命はその後、母(多祁理比賣命)を慕って倭(北部九州)へ帰還したものと考えられ、師木(城島)の玉垂宮にて玉垂命として祀られる事になったものと察せられます。

大善寺玉垂宮(水沼君=水潴=三潴郡)から久留米市北野大城の赤司八幡宮(道主の貴=豊比咩=多祁理比賣命と想われます)を通って安心院の三女神社・宇佐の大善寺・宇佐神宮への往還が長く執り行われていたのは、親子の愛の証拠と考えられます。

 

 

 

 

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神武天皇は崇神天皇と同一人物であり、東征の本質が解明されました。

2015-04-11 | 古代史

宇佐公康氏『伝が語る古代史』に依ると、神武天皇の墓所は『安芸(国東安岐)の市来島宮(八幡奈多宮)の傍の弥山(みせん)に埋葬した』の伝承と、わたくしの考察での崇神天皇の墓所(小熊山古墳)の位置が合致しており、此れは神武天皇と崇神天皇が『同一人物』である証拠と考える事ができます。

と、謂う事であれば、『神武東征』は『崇神東征』である考える事が出来ます。

崇神天皇は、博多湾から安曇族と伴に北九州苅田市富久町(とみひさまち)(3世紀造営の石塚山古墳あり)に居た登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)と戦った。と考える事が出来ます。

(崇神時代の)当時、此処苅田から勝山黒田に居た那賀須泥毘古(長髄彦)とは、わたくしの説での考察では、崇神天皇の兄弟であります『彦坐王』(彦湯産隅命)=孝霊天皇であります。

記・紀で述べられています『東征』とは、『彦坐王』(彦湯産隅命)(=景行天皇)の事を倭(九州)から近畿へ追い遣る戦いであった。と捉える事が出来ます。

神武は戦いでは長髄彦には勝てず、古事記では宇摩志麻遅が長髄彦を殺して終決した事になっていますが、長髄彦は安日長髄彦(あびながずねひこ)とも考えられており、生き延びた。との伝承があるようです。

『彦坐王』(彦湯産隅命)=長髄彦(=景行天皇)は近畿纏向に渡り、景行天皇として大彦命の後の大王になったものと想われます。

 

わたくしは、神武東征は『彦坐王』(彦湯産隅命)(=景行天皇)が以前に棲んで居た勝山黒田の地『やまと』を日葉酢姫が産んだ兄弟四人で、長髄彦から奪還した第12代景行天皇の時代の熊襲退治の事跡であろう。と述べて、神武は四男の若木入日子命の事と考えていましたが、之は間違いで、記・紀の神武東征の記述の本質は、崇神時代(3世紀中頃)の『彦坐王』(=景行天皇)との戦(倭の大乱第2幕)である。と結論着ける事に訂正致します。

 

 

 

 

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