「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

『対馬』から『倭』へ、大勢の『神官』等が遣って着た場所の行方。

2021-04-07 | 古代史

わたくしは、四川省三星堆、『蜀』の『太守』をしていた高躬・高幹親子等が、南方の海南島方面から遣って来たのか、朝鮮半島方面から遣って来たのか興味があり、調べてみる事にしました。

古来より『対馬』・『壱岐』は大陸との交通の要衝地で、神社が数多く有り、特に式内社の数の多さに驚かされます。『壱岐・対馬』の神社研究は、非常に重要で有ります。

もし、高躬・高幹親子等が、『対馬』~『壱岐』を通過していれば、『対馬・壱岐』の神社に痕跡を残している。と考えられます。

『玄松子』様の『神社記憶』では、『高皇産霊尊』(高躬・高幹)を祀る神社は、『対馬』では、厳原市『多久頭魂神社』境内の『式内社』『高御魂神社』に、『壱岐』では、芦辺町『高御祖神社』に祀られています。

つまり、『対馬』~『壱岐』経由で『倭』に着ている。ものと考える事が出来ます。

 

民俗学の巨星である柳田國男(1875年~1962年)は、

「人間の威力の根源は『魂』で、強い『魂』を附けると威力を生じ、精力を増す。南太平洋地域での、『マナ』と呼ばれる森羅万象には、超自然的な力があるとされている。

『マナ』なる外来『魂』を、日本では『稜威』イツと謂う古語で表している。」

と、述べています。

『稜威』イツとは、『霊的な畏れを感じる力』の事で、『神』や『天皇』を敬い、畏れる表現に使われて、古い言葉の使い方です。

『稜威』イツは、『斎』・『厳』と同義語であります。

 

神社宮司の祝詞ノリトには、『天津祝詞』『ひふみ祝詞』等があり、『ひふみ祝詞』は、『物部氏祝詞』と謂われ、対馬の神官が九州に齎した。と、一般には考えられているようですが、

『対馬』の古代文字である『阿比留氏草文字』の源元は、

 

わたくしの考察では、

BC600年頃に南インド・スリランカで使用していた『ブラーフミー文字』が、フィリピン『バイバイン文字』~琉球経由で、『倭』に齎され、熊本の白氏が韓半島への交易の途中の『対馬』へ伝えたものと考えています。

阿蘇『幣立神宮』ヘイタテジングウでは、『阿比留草文字』アヒルクサモンジで刻まれた『ひふみ祝詞』の『鑑石』カガミイシが幣立神宮の『御神体』で有ります。

 

此処、熊本県上益城郡山都町の『幣立神宮』(神紋は阿蘇氏の違い鷹羽)は、

 

わたくしの考えの説では、

景行天皇が山都町の『幣立神宮』で崩御(志賀氏の高穴穂部の宮)しており、その後に第20代『安康天皇』アンコウテンノウが、避暑に訪れて『眉輪王』マユワオウから殺された場所と推論しています。此の地区は『仏原』と呼ばれています。

 

『鑑石』は『景行天皇』に献上されたものとも考えられます。

 

その後、『対馬人』が倭に召喚され、『阿比留草文字』を齎している。と、考えています。

(根拠は、著書『海神と天神』を出版した『永留久恵』ナガトメヒサエ氏の研究で、古代に、『対馬』の『神官』の三分の一程が『倭』ヤマトに召された。と、述べられています。)

 

『倭』から、『対馬』への渡航の痕跡は、AD220数年頃『豊玉姫』とその夫の『日高彦穂穂出見尊』・『天日鉾命=須佐之男命=崇神の事』・『玉依姫=崇神の生母』を祭る神社の数の多さと、地元対馬の地名『豊玉町』や伝承から認められます。

わたくしは、この時期に『神官』等が、『倭』に連行されたもの。と考えています。肥後の二ノ宮『甲佐神社』に祀られています『八井耳玉命』(賀茂建角身命=八咫烏=速甕玉の異母弟、クマカブト阿羅舵彦アラカシヒコの事で、建御雷神の子)は、

 

『阿蘇神社』で祀られています『健磐龍命』(豊玉彦=八代竜王=古事記では建御雷神の事)が、朝鮮半島に渡って帰って来る時に『対馬』で、妻を娶られて産まれた。(甲佐明神)と述べられています。

 

この時、一緒に渡航したのが、

『日高彦穂穂出見尊=兵主神=孝元天皇=本来の神武天皇=豊受大神(高躬)の子』・『豊玉姫=健磐龍命=建御雷神の娘で、八咫烏の姉』・『玉依姫=八咫烏の娘=後に住吉神=開化天皇=ウガヤの妻になります。』・『天日鉾=スサノオ=崇神=記・紀に於いて神武天皇(父の名前)を名乗った人で、玉依姫の息子。』・『賀茂建角身命=八咫烏=琴平神=大山咋=松尾神=崇神・スサノオの祖父で、日田市~うきは市~田主丸町川会邑に居たものと考えられます。』等が、考えられます。

 

『高躬結び神』一行も、AD206年頃四川省成都から『倭』(日田市~うきは市)に遣って来る時に対馬・壱岐経由であった。ものと、対馬『多久頭魂神社』の境内式内社『高御魂神社』、壱岐の『高御祖神社』に痕跡から、推察されます。

 

『対馬』の神官が召された『倭』とは、邪馬台国が近畿に在った。と考えておられる学者の解釈であれば、奈良県の『倭』であらねばなりません。

 

近畿説を支持する学者は応えて下さい。

奈良県に『対馬』の形跡がありますでしょうか?

 

これまでの経験では、

近畿説を支持する学者は、『永留久恵』の研究に拠る、『神官の倭への移動』そのものを、『不確かなもの。』『推測に過ぎない』と否定して、事を収めて、終いにします。

 

都合の悪い事は、いつもこの様に、かわすか、解釈の固持付けを行い、亦はダンマリ無視をいたします。

 

こうした原因は、先代旧事本記(物部氏の伝記史書)を、江戸時代の学者が偽書として扱い、明治以後の学者が鵜吞みにして、重要視されなかった為に日本書紀・古事記に頼る事となり、古代の解明が遅れたのです。

 

先代旧事本紀の第3巻『天神本紀』の『饒速日命』の32名の随行者の中に、(『日本書紀』の記述を照合すると、)神武天皇時の『天道根命』・大己貴命の国譲り時の『少名毘古那』・瓊瓊杵尊の随行者の『天之児屋命』が這入っており、登場人物の時間軸が一致せず、史料として、全く信頼できない。後世の捏造であろうと、一蹴された。ものと考えられます。

 

しかし、わたくしの考えでは、『饒速日命=アマテル=火明り命』と、『瓊瓊杵尊』は、同一人物である。と感じられ、

先代旧事本記は、時間軸は合っており、間違いない事を記述している。と考えています。

 

 

ゆふいん『高天原』からの天孫降臨時の『天之児屋根命』の『瓊瓊杵尊』への随行については、ホツマツタエの記述(『天之児屋根命』はアマテルの右の羽根であった。)に依りますと、『瓊瓊杵尊』への随行は考えられず、記・紀の捏造と、考えられます。

『天之児屋根命』は『饒速日命』(アマテル・火明り命)に随行したものと考えるのが常識です。

しかし、もう一つの考え方では、

記・紀では、『天孫降臨』に登場した後の『日高彦瓊瓊杵尊』は、韓半島と向き合う笠沙岬=糸島で『木花之佐久夜毘賣』(大山津見の娘)を娶り、一夜の契りで『火照命』(海幸彦)・『火須勢理命』・『火遠理命』を産んだ。と述べて、『瓊瓊杵尊』と『日高彦穂穂出見尊』は『親と子』扱いにされていますが、

 

『高良玉垂宮神秘書』では、『天照大神』の御子は、『天忍穂耳尊』・『日高彦瓊瓊杵尊』・『日高彦穂穂出見尊』・『日高彦ソソリノ尊』は、四人の兄弟であった。と述べられています。(日高彦ソソリノ尊は、海の遠くに行って行方不明である。と、述べられています。)

 

記・紀では、『瓊瓊杵尊』の子が、『彦穂穂出見尊』とされていますので、『火照命』が『日高彦穂穂出見尊』であろう。と考えられ、『火遠理命』が、『日高彦ソソリノ尊』の事であろう。と、考えています。

 

『高良玉垂宮神秘書』を信じて、歴史を考えれば、

『天之児屋命』が、『饒速日命』の降臨と、『瓊瓊杵尊』の天孫降臨に登場しても、時間軸は合い、納得出来ます。

 

わたくしは、『記・紀』『先代旧事本記』『ホツマ伝』『魏志倭人伝』の記述を総合的に考察しますと、糸島の(一)大卒の長官、爾支(ニキ)とは、瓊瓊杵尊と考えています。そして、瓊瓊杵尊と饒速日命(=アマテル=火明り)は、同一人物であろう。と、考えられます。

どちらも『天之児屋根命』が、同行しています。

そして、瓊瓊杵尊は、右の羽根『天之児屋根命』(猿田彦=景行天皇)を率いて八洲巡りをした。と、ホツマツタエでは、述べられています。

基山町史には、瓊瓊杵尊が伝承に有りますが、アマテルの伝承は全く残っていません。ホツマツタエの解釈では、基山町の『伊勢宮』が、源の宮で、アマテル=瓊瓊杵尊と瀬織津姫(向津姫)、猿田彦(景行天皇)が居た。と考えられます。

基山町には、ホツマツタエの猿田彦伝承に有ります『高島』の地名が残っています。

 

 

『対馬』の形跡を留めています処の『倭』ヤマトは、本州にはないと想われます。

 

 

わたくしの探究に拠る、

倭ヤマト『対馬』の形跡を残している場所は、

アマテルが瓊瓊杵尊の面倒を見たと考えられる『伊勢=妹背』基山町から鳥栖市田代町~山都町で有ります。

(基山の『伊勢山神社』は、天暦9年(955年)第62代村上天皇時代に伊勢神宮の分霊を勧請した。と伝わり、その後、代々『対馬』島主『宗氏=宗像氏』の所領となっています。)

 

此処は、江戸~明治になる迄、宗氏=宗像氏『対馬』藩の飛地でありました。墳墓も、赤坂古墳・梅ヶ坂~柚比古墳群・田代太田古墳等数多く在ります。対馬の神官等が使用したと考えられます、『稜威』イツの文字も石碑に認められます。

代官所跡地も田代本町に有ります。

 

此処には、古くはアマテル=瓊瓊杵尊の右の羽根の天之児屋根命=猿田彦=景行天皇=長髄彦・三炊屋姫ミカシキヤヒメも一緒に居たものと考えられます。ホツマツタエに依りますと、アマテルと瀬織津姫が一緒に『伊勢=妹背』に居た時に戦が起きて、『お前はワカの処に逃げなさい。私は、トヨケ(豊受大神)と背(脊振の事)を守る。』と表現されています。

 

『倭』ヤマトに遣って来た『対馬』宗像氏の神官等は、此処鳥栖~基山から対馬にある『厳』『斎』『稜威』イツの地名を持って筑後・筑豊の九州各地へ散らばり、瀬戸内~山陰~能登~伊豆半島方面まで進出し、活躍をしたものと考えられます。『忌部氏』とは、『祭祀をする氏族』の事で、『対馬にルーツを持った人達である。』と、解釈するべきです。

(大分県に多い『首藤』姓は別府~阿蘇の『藤原氏』と繋がり、『対馬』からのルーツを持った人達。と考えられます。亦、鎌倉時代の対馬にて、『元寇』で活躍した『宗氏』は『宗像氏(筑紫の君)』の末裔と考えられます。)

 

ですから、『稜威』の本質は、対馬に『日高彦穂穂出見尊』と共に遣って来て、対馬市豊玉町や厳原の名前を残しています『斎祁奉る姫』→本来の『市杵嶋姫命』であります処の『豊玉姫』(弁財天・天鈿女・水波能女・秋永氏の先祖)を指しています。

 

その後に、アマテルの妃にスサノオ=崇神が手を附けて生まれた『三女神』の長女の事で、宗像氏の『アヤコ』が育てました。故に『宗像三女神』と呼ばれた。とホツマが述べています。

大己貴命の妃に為った『多祁理比賣命』が、『市杵嶋姫命』と呼ばれるようになり、現在の認識であります。

伊豆半島の『伊豆』も『厳』・『斎』・『稜威』イツの意味を持っている。と考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-06-12 12:17:51
どこが?と聞かれたら全部と答える他ない程に滑稽で間違いだらけの「日本史」観だなw

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