「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

西暦667年迄王都は九州に在った。(蘇我氏は志賀氏の事であります。)

2016-06-04 | 古代史

わたくしの説では、葛木氏は大分市の葛木が本貫地と為っています。此の葛木氏の流れに志賀氏が居ます。志賀氏の本貫地は、大分県大野郡大野荘志賀邑であります。

滋賀県の名前の由来は、豊後直入豊肥地区から阿蘇にかけて居た『志賀氏』が、西暦258年10月の杵築市にての崇神天皇(自称で神武と名乗った人)退治以後に、景行天皇に依って直入物部氏・直入中臣氏(藤原氏)と伴に『犬猿』・『八田』・『國摩侶』として退治されています。この時に景行に助けられたり、協力した一部の人々が近江他に移動して名付けられたものと考えられます。

そして、豊後に残った志賀氏は欽明天皇(宣化天皇の時代とも謂われています。)の時代に、武内宿禰の末裔の『蘇我稲目』として登場しています。志賀氏が蘇我氏の事であります。蘇我氏(志賀氏)の本拠地は豊後になります。ですから、欽明天皇時代は、倭(九州)に天皇が居た事が認識されます。元興寺(法興寺)伽藍縁起にての記述は豊後~筑後~香春~阿蘇を中心に構図されている。と考えるべきです。

 

わたくしの考えでは、第26代継体天皇(袁本杼命)は、内倉武久さまの説通りに西暦527年5月26日朝倉で暗殺され、朝倉三嶋の藍に埋葬され、第27代安閑天皇(勾大兄皇子)は、同時期に福岡県田川郡香春町勾金ハシ宮で暗殺され、第28代宣化天皇(檜隈高田皇子)は、佐賀県神崎市日之隈宮に居て亡くなり(これも暗殺?)、熊本山出土の石棺に埋葬されたものと考えられ、次の第29代欽明天皇(天国排開広庭尊)は朝倉の広庭宮にて生まれ育ち、

斯帰嶋宮=斯帰シキは城島県シキノアガタ=久留米を意味して、嶋宮シマの宮とは、秋永氏=息長氏集落のある『唐島の宮』と考えられます。『金刺宮』とは、筑後川の向こう岸の『金島』を指しているものと考えられます。

シマの附く名を持った人物、仁賢天皇(嶋郎シマノイラツコ)・武寧王(嶋君シマノキミ・斯摩王シマオウ)・蘇我馬子(嶋大臣シマノオオオミ)は、『唐島』に関係を持った人物と考えられます。

 

にて天下を治めた事に解釈されます。

 

埋葬地は『檜隈坂、合の陵』と記紀で述べられており、この場所は、『川原寺』が在った。と考えられます場所の直ぐ傍の、うきは市吉井町に在ります『日の岡古墳』が考えられます。『月の岡古墳』が、『雄略天皇』陵と考えられます。

 

飛鳥の宮とは、福永晋三さまの説福岡県田川郡香春町から赤村架けての地域と考えられます。アマテルが、ゆふいん高天原から移動して附けた宮です。

 

崇仏廃仏争いを論じた元興寺(法興寺)伽藍縁起は斯帰嶋宮=久留米市田主丸町唐島に居られた第29代欽明天皇の時代の事を述べており、欽明天皇の妃になった蘇我稲目宿禰の女であります堅塩媛・小姉君や、その子等(穴穂部間人皇女・穴穂部皇子・泊瀬部皇子=後の第32代崇峻天皇等)及び、第30代敏達天皇(他田皇子)・第31代用明天皇(池辺皇子)・第33代推古天皇(大大王)は次のような解釈になります。

 

元興寺(法興寺)伽藍縁起では、欽明天皇が大大王(後の推古天皇)をお呼びになり、「汝の牟久原の後宮を、私は、他国の神(=仏教)の宮としたい」と仰られた。そのとき、大々王(後の推古天皇)は、「御心に従って、後宮を離れることにします」と申された。

また、蘇我稲目は百済から贈られた仏像を欽明天皇と相談して、自分の牟久原の寺に持って帰り、収めて祀ります。と述べて在り、牟久原とは由布市狭間町に在ります向原の事で、『後宮』とは、以前に宇奈岐日女命が避難して崇神(神武)から逃れたと考えられます、南大分の東院(トイ)の事であろう。と思っています。此処は葛城氏(志賀氏=蘇我氏)の拠点と想われます。

 

小墾田オハリダ宮とは固有名詞ではなく、開墾地を意味しているものと考えられ、豊後国府と同一と想われ、場所は現在の『古国府』の事で、向原寺は隣の『国分寺』(現在大分市歴史資料館があります)の事であろう。と考えています。此処豊後古国府や向原寺(国分寺)にて、推古天皇・蘇我氏・聖徳太子らが話し合い17条憲法や冠位12階制・遣隋使派遣が決められたものと想われます。

此の時『海石榴市』や『桜井』の地名が出てきますが、『海石榴市』は景行天皇の直入での土蜘蛛退治のときに出て来ており、豊後にあったものと考えられ、『桜井』も当然豊後で有ったろう。と想われますが、此れは特定出来ていません。

 

《その後の調査での追補》

『海石榴つばき市』の場所は、『飛鳥宮』の近くに在らねば元興寺(法興寺)伽藍縁起の記述と整合せず、豊後ではなく田川香春町(飛鳥宮)近くに在ったと考えられ、ネット地図にて探しましたところ、勝山黒田の北に『椿市』の地名を発見しました。多分『桜井』の地名も近くに在ったのかもしれませんが、ひとつの考えでは、『桜井』の場所は福岡糸島半島に在ります志摩『桜井』の事かも知れません。皆様の調査をお願い致します。

 

泊瀬部皇子(=後の第32代崇峻天皇で、父が久留米斯帰嶋宮の欽明天皇と母は蘇我稲目(豊後)の娘の蘇我小姉)が居られた、泊瀬部とは福岡県を流れます筑後川の瀬が有ります、朝倉の原鶴温泉辺りを指しており、朝倉広庭宮を意味しているものと考えられます。

 

穴穂部間人皇女・穴穂部皇子が居られた場所は、景行天皇が後生を過ごした阿蘇高森町と想われ、穴穂部間人皇女は蘇我馬子の暗殺から逃れる為に京都府京丹後市丹後町間人タイザに暫く避難をしていたものと考えられ、京都府宮津湾には『阿蘇海』の名前を残しています。因みに穴穂部皇子は皇位を望んで物部守屋と結びますが、蘇我馬子から殺されています。

 

このように、此の時代(592年)までは九州(倭)で政治が行なわれており、近畿には未だ渡っていない事が理解出来ます。蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿四代は総て九州での行動である。と考えるべきです。

 

と謂うことは、第35代皇極(後の第37代斉明天皇となり、重祚した女帝で、第34代舒明天皇の皇后です。最後は福岡県朝倉の橘広庭宮にて661年7月24日亡くなり、暗殺されたとも考えられています。68歳)天皇4年(645年)6月12日の中大兄皇子(皇極と舒明の間の皇子で第38代天智天皇になります。)と藤原鎌足が組んで『乙巳イッシの変』を飛鳥板蓋宮アスカイタブキノミヤ(私見では、飛鳥の場所は福永晋三氏説である香春町~赤村周辺と考えています)にて起こして蘇我蝦夷(自殺)・入鹿親子を討ち、

 

皇極(後の斉明)天皇は、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが、辞退され、仕方なく弟の軽(カル=カハル=香春)皇子に譲位し、第36代孝徳天皇(軽皇子)が難波長柄豊碕宮(私見では、長柄は大分市鶴崎地区に鶴の首状に別府湾に突き出た丘に在ります葛木地区を意味しており、難波とは地名ではなく波際を意味しているに過ぎず、全国各地何処にでもに在ったと想っています)で政務を行ないます。

 

第36代孝徳天皇は中大兄皇子(翹岐=唐島秋永集落から百済王として、渡った武寧王=武烈天皇の末裔と、考えられます。)を皇太子にして、豊後国府にて大化の改新(初めて元号を創った)を行ない、遣唐使を派遣したり、佛教を奨励し、蘇我氏(志賀氏)を重用します。

 

653年に中大兄皇子は、近江=淡海田川大津宮への遷都を提言して、孝徳天皇に迫りますが、拒否され多くの重臣・臣下と伴に近江=淡海大津宮=田川に遷都します。孝徳は翌年豊後で亡くなり、654年皇極が第37代斉明天皇として田川飛鳥板蓋宮にて即位しますが、幾度も宮を変え661年福岡朝倉宮に来て亡くなります。先祖(天照大神)への戦勝祈願と、娘であります穴穂部間人皇女(厩戸皇子を儲けた穴穂部間人皇女と、同一人物と、思われます。)がうきは市の尼寺大聖寺(橘氏の寺)に居たから、と考えられます。厩戸皇子と、孝徳天皇を弔って居たものと、考えられます。故に聖武天皇の命を承けた行基が、創建した。とされ、桓武天皇(延暦元年782年)『五臺山大聖寺』と号し、勅願寺と為っています。

 

中大兄皇子は直ぐには即位せず、孝徳天皇の皇后であります穴穂部間人皇女が、中宮天皇として、うきは市に在ります大生寺(大聖寺=尼寺)で、白羽の御璽を預かります。白村江の戦(663年)の4年後の667年田川近江大津宮にて、668年に即位します。弟の大海人皇子(後の天武天皇=日田~うきは・杷木の葛木氏、所謂大山祇一族=上宮王家)は※浄御原宮の造営を進めます。

 

※《その後の考察により、訂正》2020年10月1日

大海人皇子(後の天武天皇)は、『白村江の戦』の、戦後処理交渉を『唐』と行う為に、福岡県小郡市松崎の高橋官衙遺跡=浄御原宮を、妻の鸕野讃良(後の持統天皇)と伴に造営を行ったものと考えられます。『唐軍』の宿営地は、小郡官衙であったろう。と、考えています。

 

その証拠に、子であります草壁皇子は筑紫で生まれた。と日本書紀で述べられています。

 

ですから、663年の白村江の戦で捕虜になった、倭の筑紫君『薩夜麻』は、671年香春町に帰ってきて、河内の地名は香春町に在り、『河内王の墓』として残っています。西暦667年まで王都は九州に在った事が理解されます。

 

《その後の調査による訂正》

佐賀県の熊本山出土の石棺の中の二人の遺体は一人は第28代宣化天皇で、もう一人は久留米城島(斯帰の嶋宮=唐島宮の事)の欽明天皇であろう。と述べていますが、此の根拠は、欽明の陵所が『檜隈坂合陵』とされている事で導いていますが、実は、宣化の皇后であります『橘仲皇女』が宣化と合葬された。と述べられており、棺の中の遺体は、『宣化』と、その妻で有る『橘仲皇女』と考えられます。訂正を致します。

 

欽明(天国排開広庭天皇)陵所とされています『檜隈坂合陵』は、『檜隈坂』と『合陵』と分けて考察しますと、『合陵』は『あいのみさざぎ』、即ち『合あい』の『陵みさざぎ』と考える事が出来、第26代継体天皇の墓所朝倉三島の『藍あい野』と一致し、場所は朝倉広庭宮から近くの『長田大塚古墳』とも考えられますが、継体陵とも、崇峻陵とも雄略陵とも考えられます。

 

わたくしの知人で、以前(2013年5月10日)にブログで紹介しました、高木邑黒川出身の『町田和明』氏に依りますと、高木邑の山奥の原野に『王墓』伝承の石が在るとの由。此処が『継体』の陵墓と想われます。第32代崇峻天皇(泊瀬部皇子天皇と呼ばれ、欽明の子)は6世紀末(592年)に、『蘇我馬子』の命を受けた『東漢駒=坂上駒子』から殺害され、『倉梯岡陵』に葬られた。とされ、『倉梯』とは太刀洗町の『高橋』地区(『高橋は『高に架けた『子』から名付けられたとされています。亦、此処は漢人が数多く遣って来ており、『東漢駒』も此処に居たものと考えられます。)が連想され、『小田茶臼塚古墳』が浮かびます。治世地の『柴垣宮』とは朝倉の『志波シバ宮』(本陣・政所の地名が残っています。)か、『柴刈宮』(唐島地区)と考えられます。

 

その後の考察で、山田に在ります『長田大塚古墳』は、第2代天照大神である瀬織津日女命の墳墓と考えられます。

 

 

 

 

 


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2 コメント

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はじめまして。 (kunorikunori)
2016-06-04 22:32:16
はじめまして。
読者登録をさせていただいておりますkunoriと申します。
記事が更新されていなかったので、震災の影響があったのでは・・と心配しておりました。ご無事で安堵いたしました。

さて、
古代のクリ・クノリもそうかもしれませんが、九州から鳥取県・京都府に入り、滋賀に来たのではないでしょうか?
九州にも鳥取(丹後・丹波国)にも、滋賀にある地名と同じ地名があるのではと思うのです。

私は勉強不足で息長氏と朝妻氏の関係は良くはわかりませんが、丹後国?に朝妻村というところがあります。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/asazumav.html

これからもどうかよろしくお願いいたします。kunorikunori
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「蘇我一族」の本貫の地、その頭は「櫻」の地形である。 (塩筒爺)
2022-10-03 00:01:41
 初めまして、札幌市在住です。今月中旬から福岡県と大分県を廻ろうと予定しています。よろしくお願いします

>高木邑黒川出身の『町田和明』氏に依りますと、高木邑の山奥の原野に『王墓』伝承の石が在るとの由。此処が『継体』の陵墓と想われます。

☆ その場所は、『岩山』(彦山)の『集石墓群』でしょうか?
それとも、その東隣の『広蔵山』(703M)の方でしょうか?
岩山:「黒川のシンボルのような山です。山頂部はバケモンデーラ(化け物平)とも呼ばれ、…」

黒川院歴史散策マップ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~rikaen/kurokawain/kurokawain.htm

24:集石墓群
http://amagimoyai.web.fc2.com/files/160901_kurokawain.pdf

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>勝山黒田の北に『椿市』の地名を発見しました。多分『桜井』の地名も近くに在ったのかもしれませんが、…。

椿市廃寺跡 (つばきいち はいじ あと)椿市廃寺跡 (つばきいち はいじ あと) 行橋市ホームページ (city.yukuhashi.fukuoka.jp)

桜井神社:行橋市津積(住吉池の北西側)
千女房のヤマザクラ:勝山宮原123(樹齢300年)
味見峠桜公園
八又の山桜:田川郡香春町中津原 八又の山桜 (香春町中津原 観光名所) - グルコミ (funse.net)

櫻井王、のち大原眞人櫻井:『親王・諸王略傳』 櫻[櫻井④] (oo7.jp)
桜井王 さくらいのおおきみ:奈良時代1-3 和歌 | 覚書き (ameblo.jp)

矛・盾 の e-Note (hokototate.blogspot.com)
矛・盾 の e-Note: 櫻井の検索結果 (hokototate.blogspot.com)

古事記の『櫻』:櫻井臣・櫻井田部・若櫻宮

櫻(二つの谷間に田を並べる)|井(井:池)
歴史に名を刻んだ「蘇我一族」の本貫の地、その頭は「櫻」の地形である。実に直截的な表現ではなかろうか。

櫻井田

若(少しばかり)|櫻(二つの谷間に田を並べたところ)

櫻井頓宮

● 櫻井王 矛・盾 の e-Note: 櫻井王の検索結果 (hokototate.blogspot.com)

前年の正月に無位から従五位下に叙位された高安王の兄弟と知られていて、前記では百濟王の子、竹田王が父親では?…と推察した(こちら参照)。

と言うことで、高安王の近辺で櫻井王、併せてもう一人の兄弟である門部王の出自の場所を求めることになる。現地名は田川市夏吉である。

それなりの頻度で登場する櫻=木+貝+貝+女=二つの谷間が合わさってできる谷間の様と読み解いて来た。古事記の伊邪本和氣命(履中天皇)の宮、伊波禮之若櫻宮などに用いられた文字である。

山稜の端で些か見辛くはなっているが、高安王の西側の谷間が合わさるようになっている場所が見出せる。その窪んだところが櫻井王の出自の場所と推定される。更に西側の高台になった山稜が門のように並んでいる場所の近隣(部)が門部王の出自と思われる。

百濟王自身の出自の場所が不詳される中で、百濟宮の近隣に竹田王、高安王・櫻井王・門部王の後裔達を配置することができることが解った。どうやらこの系譜に記載される人物の出自は確かなように推測される。

※ 吉田公民館(田川市夏吉825−2)辺りか。
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