「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

息長氏元祖の天之御影神で推察される、その後の邪馬台国。

2012-06-14 | 古代史

こうして、欠史8代は九州王朝であった。と謂うことで論を述べて来ましたが、姓氏系図を辿って気が付く事に、九州から近畿に渡って往った人の数の多さです。当時の社会を考えても異常に感じられます。その上、地名迄もが移動して往っております。関西にある殆んどの地名は九州から移ったものと感じられます。(京都・大阪・三重・西宮・八坂・祇園・熊野・吉野)

之は何を意味しているのでしょうか。考えてみる事にしました。

 

記紀の中で移動が始まったと感じられるのは、大体、第7代孝霊天皇の頃からであります。(日本神話の御殿でご覧ください。)第5代孝昭天皇の欄でも幾分姓氏が挙げられていますが、これは移動とは関係しないものです。第8代孝元~第9代開花~第10代崇神~第11代垂仁と多くの人が九州から近畿方面へ渡っています。

特に、第8代孝元天皇と第9代開花天皇の時代に移住が多く見られ、人口の分散化が政策として行われている様に感じられます。

 

之までの考察の結果、第6代孝安天皇は有明海沿岸の八女~大川・山門郡辺りに居られたと考えられ、この頃建田背(=和知都美)は久留米の御井宮から京都府宮津市へ渡っています。また、『ヤマタイコク』の問題は、『倭(やまと)』と述べたつもりが、方言訛りで『倭(やまと)タイ』と述べ、『邪馬台国』と記入されたものと考えられ、そして今、卑弥呼が宇那比姫で間違いないと考えられ、孝霊天皇の勝山黒田と天之御影神の苅田町の居住位置を結び、考察を深めますと、

 

わたくしには、魏から遣って来ました張政一行は、邪馬台国(倭ヤマト)と狗奴国との調整に関係があるように感じられます。そして、天之御影神の『倭に対する大目の役割』が是に関係しているものと考えられます。特に、勝山黒田に居られた第7代孝霊天皇と(魏の)大目の娘『細媛』との結婚が大きな意味が隠されているものと考えられます。

 

元々、第6代孝安天皇(天族の王)の居られた『倭ヤマト国』(倭の範囲は加羅と北部九州・瀬戸内海から近畿辺りと考えられます。)は福岡県の筑後平野の山門郡にあって、其処に卑弥呼(宇那比姫=宇奈岐日女命)も居たものと考えられます。此処は、狗奴国(熊本県菊池市)との争いの前線近くで、双方に負担を強いる問題を抱え、卑弥呼は、何とか魏を挟んで平和を齎したかったもの、と思われます。『張政』は双方の言い分を聴き、争いの元である膨張する人口と耕地・食料の不足の問題を、比較的人口の少ない近畿方面移住を促す事を提案し、解決しょうとしたものと想像されます。そうして考え出されたのが、近畿大和へ漸次移住構想であったと考えられます。この『邪馬台国と狗奴国との間の平和』を監督し、移住が計画通り行われる事を見張る『大目』が魏から来た張政一行の一員であった天之御影神であったものと考えられます。

天之御影神は、倭国九州から倭国近畿方面への出発地である北九州の瀬戸内海に面した苅田町辺りに居て、船に乗り込む人々を、計画どおり行われているか移住計画を監督していたものと考えられます。

当然近くの場所に『国造』の任官を命じる大王(天皇)・神官も居らねばなりません。第7代孝霊天皇は行橋の勝山黒田に居られたのも腑に落ちます。移住計画は第8代孝元天皇(香春町に墳墓があると考えられます。)・第9代開花へと受け継がれ、大分からも、西暦247年以降、別府・杵築辺りに居た海部氏・尾張氏・紀伊氏・大伴氏・藤原氏・葛城氏・津守氏の殆んどが、近畿に渡って往ったものと考えられます。

 

そして、遷都の準備が整った第10代崇神天皇の御代(西暦250年以降)に、初めて近畿大和王権(垂仁天皇)が誕生したものと想像されます。

第11代垂仁天皇も久留米の玉垂宮から纏向に出向きます。そして、九州の勝山黒田を饒速日(アマテル)の流れである登美国の長髄彦命(景行天皇=大帯日子淤斯呂和気命)が占拠し、是を討とうと崇神一行が、糸島の纏向・博多湾から船で北九州の朽網~苅田辺りに上陸し、陸路を南下。近衛の丘(孔舎衛坂)で戦闘になり、長男の五瀬命が矢傷を負い退却して海部氏・尾張氏・豊後紀氏の本貫地であった豊後大分の別府湾まで船で南下、別府の血の池地獄(血沼海ちぬまのうみ)で治療をしますが、大分坂ノ市の王ノ瀬{紀国の男之水門(おのみなと)}で亡くなります。近くの亀塚古墳(竈山)に埋葬を済ませ、崇神=須佐之男命は以前の豊後紀氏の本貫地であった杵築市熊野方面から上陸。

北上し、途中、日出町大神で病気に罹りますが、愛宕神社(高倉下)の剣にて目を覚まし、崇神=神武の祖父であります八咫烏(賀茂建角身命)に案内されて耶馬溪山国町吉野経由でヤマト(鳥栖~基山町)に這入り、饒速日(アマテル=瓊瓊杵尊)と長髄彦命の妹『登美夜毘賣』(別名ミカシキヤ姫)の子である『宇摩志麻遅』が、長髄彦命(景行天皇)との間を取り持ったものと考えられます。

※ ヤマトについては、1、鳥栖市山都町(アマテル・景行天皇が居たと考えられる、『伊勢』と『ミカシキ』・『高島』の地名が認められます。) 2、福岡県山都町(景行天皇が討伐遠征した地と考えられます。) 3、熊本県山都町(景行天皇の晩年の地。『志賀』氏の『高穴穂部』の宮) があり、何れも景行天皇=猿田彦=天之児屋根命の存在が推察されます。

その後、長髄彦命(景行天皇=天之児屋根命=猿田彦)は一旦兵庫県丹波市~播磨へ兵を引き、物部氏を集め。軍備を整えて、行橋市登美勝山黒田へ遠征して来ます。

初代神武天皇は存在したかも知れませんが、東征の事実はなく、崇神=須佐之男の行幸を、記紀は神武天皇条項に置き換えて捏造していると考えられます。

その後の景行天皇は、瓊瓊杵尊が創った日田市『新治宮ニハリノミヤ』に行宮(かりのみや)を設け、八坂姫・ミズハノメを娶り、成務天皇や久須姫等を、儲けています。七年間も此処を拠点に九州をうろついています。

 

 

このように、神武天皇と欠史8代は九州王朝で考えを進めますと、古代の姿が解かり易く全体像が掴め、人的関連も地理的にも納得出来、腑に落ちます。

近畿に出来た大和の街(纏向遺跡墳墓)は西暦250年頃から以降であると捉える事が出来、考古学者の推考とわたくしの推考が合致いたします。また、九州の地名が近畿に其の儘使われた理由が納得出来ます。

本格的な大和政権は第15代応神天皇からでありましょう。

 

これまでの記紀一辺倒の『初代神武天皇以来ずっと近畿大和王朝であった。』と信じて疑わない研究者は、荒唐無稽な考え方で、欠史8代を導き出し、史書の捏造である。として、考古学との整合を固持しようと図りましたが、神武天皇と欠史8代は九州で存在を考えられ、古代史の新しい扉を開く事になり、今後の研究に大きな前進を齎すものと考えられます。

 

大分(豊後紀氏)が海部氏・尾張氏・紀伊氏・大伴氏・藤原氏・佐伯氏・葛城氏・津守氏の本貫地であった事で、これまでの近畿王朝説は崩壊したと考えられます。

 

大分県ゆふいん温泉在住  秋永祥治

 

 

 

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卑弥呼は宇那比姫命(宇奈岐日女命)で間違いない。と思われます。

2012-06-09 | 古代史

最近、天之御影神の事を考えています。

天之御影神は息長氏の元祖で、日本には最初には、大目(おおめ)として福岡県苅田町や香春町・英彦山に来ている渡来人と考えられ、其処で、娘(細媛)を第7代孝霊天皇の皇后にした後、近畿近江に渡り、近畿息長氏の元祖となったと考えられます。

 

このお方は、天目一箇神(あめのまひとつめのかみ)とも呼ばれ金工鍛冶の神とされています。また、農業に関わる稲荷神、笠法稲荷大明神のモデルとも考えられ、八幡社とは対を為すとされ、京都の東寺では、八幡社を内鎮守、稲荷社を外鎮守として祀っています。そして、一般にも白髭神社(現在の祭神は猿田彦命)としても祀られています。

また、日子座王の妃となった息長水依比賣命は、天之御影神または一族の娘と謂われており、琵琶湖の竹生島の弁財尊天として祀られており、双方を護法善神として現在も信仰の対象とされています。

しかし、詳しくは解っておらず、謎の人物とされています。

わたくしは、何故、孝霊天皇が、細媛を正妻(皇后)として、娶ったのかの理由を知りたくて、天之御影神を考えてみる事にしました。

 

天之御影神は、優れた農業・鉱山技術者としての能力を持っていた者達の集団を、纏める能力が在った。と考えられます。そして、自然への崇拝があり、山岳信仰を開いた元祖と想われます。人徳を持ち、天皇(大王)もこの者の娘なら娶ろうと思われるものを持っていたものと考えられます。

 

熊野権現御垂迹縁起(くまのごんげんごすいじゃくえんぎ)には、中国の天台山の守護神、「王子信」が九州の彦山に飛来し、四国の石槌山(いしづちやま)、淡路の諭鶴羽山(ゆづるはやま)を経て、熊野本宮(和歌山県)にある檪(くぬぎ)の木に三つの月の姿として天降ったものを「三所権現」と言う。とされています。

「彦山縁起」には、第26代継体天皇の御代に北魏の僧「善正」が「彦山霊仙寺」を開山したとあります。神武天皇の熊野から吉野を通って大和に到る案内をしました、八咫烏は修験者のことであり、神武天皇(景行天皇)の時代には山岳信仰は行われていると考える事が出来ます。山岳信仰は中国にルーツがあり、彦山から全国に広がったものと思われます。

そして、この「彦山霊仙寺」の「善正」は、滋賀県近江にある霊仙山山頂で修行をして唐に渡り、霊仙三蔵法師になった「息長丹生真人長人(759年~827年)」と関係を感じられます。『多分「善正」も息長氏で有ったのでは?』と勘ぐられます。

 

そして、京都東寺の「高野大師行状図画」・「稲荷記」に、稲荷大明神は『魏の大臣』と記されています。

この『稲荷大明神「魏の大臣」である。』こそ、天之御影神の事ではないでしょうか。

 

ウィキペディアに拠りますと、魏は三国時代に華北を支配した王朝で、西暦220~265年とされています。時間軸も合い納得がいきます。

天之御影神の以前の正体は「魏の大臣」であった可能性が考えられる事になります。そして、この時代「魏」から幾らかの人達が倭へ来ていると考えられます。と、推考すれば、農業・工業・鉱山技術の導入や宗教・医術といった中国の最新の文化を取り入れる事になり、倭に大きな変化をもたらしたものと考えられます。

彦山を開いた北魏の僧「善正」も天之御影神の随行員の末裔とも考えられます。熊野権現御垂迹縁起には、「王子信」が彦山に初めて降り立ったと書かれていますが、ひょっとしたら、王「子信」と読むのかも知れません。天之御影神は魏の王子「信」亦は王「子信」であった可能性も考えられます。

 

そう謂うことであれば、家柄としても、皇妃として申し分がなく、孝霊天皇が細媛を娶った理由が納得できます。また、細媛(辛国息長大姫大目命)が孝元天皇を産んだ後、文化(考え方)の違いで、加羅に渡ったのも頷けます。

 

「大目」の解釈でありますが、以前わたくしは、加羅に対する「倭の大目」と思いましたが、好く、考えてみますと、倭に対する「魏の大目」として来ていたもの。とも想われます。

その根拠は、「香春」は「加倭羅」とも解釈され、加羅と加倭羅は一つの国で「倭」を形成していて、魏から見ますと、『属国』とみなされていたものとも考えられます。そうであれば、天之御影神が「倭の大目」であったとしても肯けます。

この理由は、遼東半島を支配していた公孫淵氏が、魏への訪朝廷を拒み西暦238年魏国の司馬懿(劉夏)に亡ぼされます。内政外圧に危機感を持った倭の卑弥呼が西暦238年に難升米を使節大夫として魏に親書を出します。この親書の内情は、魏から公孫淵の居る遼東半島へ加羅国(朝鮮)からの出陣要請を上手に断る口実だったのかも知れません。正始元年(西暦240年)には魏(帯方郡)から建中校尉梯儁と謂う使者が派遣されて来て、卑弥呼と会い、魏の帝の詔勅・金印・財宝を授けています。さらに、正始4年(244年)にも卑弥呼は狗邪国との不和の問題で使者を魏に送っており、そして、西暦247年魏の張政一行の使節団が調整の為遣って来ます。そのどちらかの中に居た天之御影神を「倭に対する大目」として残したものとも考えられます。その後、249年魏にクーデターが起こり、魏の始祖、曹操に繋がる曹氏一族が司馬懿に排除されます。張政は暫く倭に留まり西暦266年に帯方郡に帰還したとも謂われています。この出来事が、天之御影神が其の儘、倭に留まった理由とも思われます。

 

西暦107年、倭は、後漢に対して帥升等が160人もの生口(奴隷)を献上していますが、その後、後漢は魏へ禅譲となり、生口の末裔(洛陽に倭人村が存在していた。と考えられます。)の中から『魏の大臣』に成り上がったのが天之御影神とも考えられ無くもありません。

 

もし、この考え方が正しいと仮定すれば、倭迹迹日百襲姫天之御影神と細媛の時間軸の関係上、卑弥呼には考えられません。卑弥呼宇那比姫命(宇奈岐日女命)か、天照大神である。と絞り込めます。

そして、このどちらが、可能性が高いかと考えますと、西暦107年の帥升等は須佐之男命の事であると考えられ、天照大神は西暦100年頃のお方と想われます。

時間軸では宇那比姫命に軍配が上がり、桂川光和さまの文献史学研究が実る事になります。

魏志倭人伝東夷伝の『卑弥呼』は宇那比姫命(宇奈岐日女命)に間違い無いものと感じられます。

我田引水に見られますが、わたくしが現在住んでいます此処、大分県由布市湯布院町に『卑弥呼』は居た事になります。大分県は海部氏・尾張氏・紀伊氏の本貫地です。当地には、宇奈岐日女命神社があり充分納得がいきます。

 

 

 

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