「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

『倭の大乱』には第二幕が有りました。(崇神は玉依姫の子であった。と考えられます。)

2014-09-19 | 古代史

わたくしは、『下照比賣命』が出雲から大善寺(師木の県)に帰って来た経緯を、『崇神』は知っていたと想像しております。

 

春日市に居た『開花天皇』が、大善寺の『伊香賀色謎』(いかがしこめ)=玉依姫を妻に娶っていますが、この『伊香賀色謎』(いかがしこめ)は『孝元天皇』の妃(正妻である皇后は『鬱色謎命』=豊玉姫で、『開花』は『鬱色謎命』=豊玉姫の子)で有ったと記されており、義理の母を娶った事になり、『孝元』=日高彦彦穂穂出見尊と『開花』=ウガヤフキアエズ=住吉神の年の差は少ないものと考えられます。

 

久留米市御井町の高良大社第一鳥居右手に在ります『高良下宮社』は中央の殿に『玉垂命』、左の殿に『須佐之男命』、右の殿に『孝元天皇』を祀ってあり、

ひょっとしたら、『物部保連』が『孝元天皇』の事で有ったとも考えられます。

 

『孝元天皇』が『玉依姫』を娶る条件を満たすものか、考えてみましょう。

 

前回のブログにて、卑弥呼(宇那比姫)の生誕(西暦179年~180年)と死亡(247年~248年)から兄の建宇那比命(西暦175年頃の生誕)の生誕年齢とその子である建諸隅命(西暦192年頃の生誕)とその子である竹野姫(西暦209年頃の生誕)の生誕年齢を推察し、竹野姫の夫『開花天皇』の誕生年齢を西暦205年頃と仮定しました。

『孝元天皇』の生誕は『開花』(西暦205年前後)の17年程前と仮定しますと、西暦188年前後が考えられ、『建諸隅命』(西暦192年前後)より少し年上で、184年頃と考えられます『玉依姫』より少し年下であったと考える事が可能です。

 

記紀では、『倭の大乱、』が終わった後、『大己貴命』が治める出雲の國譲り条項では、『天之穂日命』が三年経っても音沙汰無しで、つぎの使者の『天若日子命』も八年経っても仕事をせず、最後には『下照姫命』と結婚して出雲に根付こうとして、『高木神』の刺客に殺されます。最後に出てくる使者は、阿蘇氏の『建御雷之男命=健磐龍男命=豊玉彦』で、『建御名方命』を追って長野県の諏訪まで足を延ばして時間が掛かっています

 

『倭の大乱』の終了が184年頃と仮定しますと、『下照比賣命』は西暦183~184年頃に生れたものと考えられ、『宇那比姫命』より年が4~5歳下であります。14~15歳にて『天若日子命』と結婚し、直ぐに夫と死別、16歳~20歳(西暦200年~205年位)に師木(城島玉垂宮)に帰って来ているものと考えられ、仮に、西暦204年に帰って来たとしますと、二十歳であります。

この頃の倭王は、『孝安』(木綿の院=秋津島宮)から『孝元』(香春=軽)に成っていたものと考えられます。(わたくしの説では第7代『孝霊』は『彦坐王』で有りますので存在時間軸が違います)この頃における『孝元』の年齢は16歳~18歳が考えられ、もう『欝色謎命』(豊玉姫=天鈿女命=阿蘇津姫)を皇后に迎えていると考えられ、(当時は夫の『通い婚』で有ったと思われます)子である『大彦命』や『開花』になる『若倭根子日子大毘毘命』は春日(須久岡本遺跡周辺)にて養育していたものと思われます。前の倭王である『大己貴命』と(、前々王『須佐之男命』と『天照大神』の子)『多祁里比賣命』が儲けた、美しい二十歳の『下照姫命』は眩しい輝きに満ちて視えたものと考えられます。

 

『孝元』は4~5歳年上の『玉依姫』の居る師木(久留米市城島)へ通い、『彦太忍信命』(ひこふつおしのまことみこと)を儲けます。この『彦太忍信命』(ひこふつおしのまことみこと)が『屋主太忍男武雄心命』(やぬしふつおしおたけおごころのみこと)を生み、その子が『武内宿禰』であると日本書紀では述べています。

{古事記では、『彦太忍信命』が、由布院(木綿の院)に居たと考えられる(由布院には山下湖があり直ぐ傍の小田の池周辺から弥生~古墳時代の鏃が出土しています。)、木國造の祖、『宇豆比古命』の妹である『山下影姫』を娶り、『武内宿禰』を生んだと述べています。}

 

そうしますと、『彦太忍信命』は『崇神』の義兄で有った事になります。そして、『崇神』(西暦222年頃の誕生)より後に『屋主太忍男武雄心命』が誕生し、その後に『武内宿禰』が誕生している。と大雑把な捉え方が出来ます。

 

この様に『孝元』の妃の『伊香賀色謎』が『玉依姫』で有っても不可能ではない時間軸の環境が得られます

 

欝色謎命=天鈿女命=豊玉姫の居た場所は、『開花』が育ったと考えられる須久岡本遺跡(春日)周辺と想われます。香春(軽)に居た『孝元』は春日と師木(城島)を往来したものと窺い知れます。

『孝元』は早世したもの考えられ、『欝色謎命』の子である、『開花』が若くして即位したものと想像されます。

 

『伊香賀色謎』が『玉依姫』で有る。のであれば、『崇神』は『大己貴命』(耶蘇杵根命=瓊瓊杵尊の子)甥になり、師木(城島)の瑞垣宮(城島は当時クリークに囲まれて居たと想われます。)に、『倭大國魂神』(大己貴命)と『天照大神』を一緒に祀って居たが、疫病が流行って人民が大勢死に『天照大神』を『殿』の外に出した崇神5~7年条項は、大己貴命・高木神派と須佐之男命の取り巻き新羅人派が争い、高木神(和邇氏)派を『宮殿』から排除したとも解釈を考えられます。

 

此れは、『開花天皇』の跡目争いが、『崇神』と『彦坐王』(彦湯産隅命)=景行天皇との間にて起こったとも考えられ、権力争いに敗れた『彦坐王』(彦湯産隅命)=景行天皇は勝山黒田に暫く居た後、『大彦命』が先に渡った中国~近畿方面へ移動したものと考えられます。

 

日本書紀崇神紀8年10月に、國が治まったので崇神天皇は高橋邑の『活日』(いくひ)に酒を造らせて、大田田根子に『大神』(おおみわのかみ)(大己貴命)を祀らせて酒を献上させた後、宴を催し次のような歌を謡したとされています。

 

此の神酒は、我が神酒ならず、倭成す、大物主の、醸みし神酒、幾久、幾久。

 

此れは、『崇神天皇』と『大己貴命』の魂が一体化しており、甘木朝倉田主丸一帯の高木神(和邇氏)の地を制圧した後の感慨の表現で有った。と想わせます。

 

何故なら、この『活日』の高橋邑は三井郡大刀洗町の高橋地区のことであろうと考えられます。直ぐ傍が『赤司八幡宮』(景行天皇がお見えに為って、比咩大神を『道主の貴』として祀るように述べられた宮です)があり、後に、『景行天皇』以降の食事を宮中にて担当する膳部臣(かしわでのおみ)『高橋氏』の発祥地と考えられます。北には朝倉があり、南は筑後川の向こう岸に『鹿狩』(ろっかり)地区があり、此処は田主丸になり、和邇氏の本貫地であります。

「むつかり」が「ろっかり」に変化したと考えられ、『磐鹿六雁命』(いわかむつかりのみこと)(『日本料理の祖神』と呼ばれています。)が亡くなった時、景行天皇は、『武雄心命タケヲゴリ』を宣命使として遣わした。と『高橋氏文』にあり、『武雄心命』は佐賀県武雄市で祀られており、『磐鹿六雁命』の父は『大穂輿命』(おおほこしみこと)その父が『大彦命』(おおびこみこと)でその父が『高良下宮神社』で祀られています『孝元天皇』であります。

高橋氏』は奈良や若狭(近畿)が発祥では無く、此処、筑後の御原郡(みいはらごおり)と当時呼ばれていたと考えられます『赤司八幡宮』近くが本貫地で在ったものと思われます。

高橋氏』は『垂仁』か『景行』と伴に近畿へ渡ったと考えるべきです。

 

ですから、『崇神』時、祀りと宴を執り行った場所は、一般的には甘木に在ります『大己貴神社』周辺とも考慮されますが、『赤司八幡宮』周辺は弥生時代の遺跡が多くあり、後に『景行天皇』も此処を訪れており、可能性があります。因みに、『赤司八幡宮』の神紋は『三つ巴』であり、此れは『須佐之男命派』(西アジアにルーツを持つ『鮮卑族拓跋氏』=物部氏)のルーツを意味していると考えられ『宇佐神宮』・『高良大社』・『大善寺玉垂宮』・『大己貴神社』・『志賀海神社』・『住吉神社』と同じであります。

 

と謂うことで、『大己貴命』の甥である『崇神天皇』が、出雲の神宝を視てみたいと考えるのは自然であり、老練で交渉術に長けた『建諸隅命』を派遣したものと思えます。

 

そして、『倭』を追い出した近畿の『彦坐王』=の居る近畿纏向へは行くことが出来なかった事情が有った事になり、杵築に居た頃の『崇神』は、『句呉』(隈氏)との戦いで追い詰められていたとも勘繰られます。しかし、近畿纏向に行った『垂仁』は崇神が亡くなった後、身重妻の『狭穂姫』を伴って久留米(久目)に里帰りを行なっており、『句呉』との争いは無かったものとも考えられます。

 

考えさせられますのは、『彦坐王』(景行天皇)は何故、崇神の子である『活眼入彦命』を近畿纏向に受け入れたのでしょうか?

此れは、『彦坐王』(景行天皇)が感情的に為らずに見識を持っていた証でしょう。

『崇神』との権力争いの時も、大きな争いを避け自分から身を引き、弟に譲り、大勢の人々が移動して新天地を目指したものと考えられます。

『倭』の土地の数倍の広大な中国~北陸~近畿~中部の土地を『孝霊天皇(景行天皇)』として治める事で、見識が広がり、國を平和に長く治める為には、自分の息子では無く、『狭穂比賣命』と結婚させ次の世を継がせたかったのかが、漸く理解が出来ました。

『倭』の正統な大王である『大己貴命』南九州曾於郡の太耳の血を受け継いだ『垂仁』の血が、平和維持の為に欲しかったので有りましょう。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出雲『神原神社』古墳から出た、景初三年の鏡は『建諸隅命』が『飯入根命』に渡したものと思われます。

2014-09-12 | 古代史

今日は『建諸隅命』(建日方命)を考えてみたいと思います。

建諸隅命』は『鐃速日』ルーツがあり、先代旧事本紀や勘注系図では八代目に記入されています。(世代を重ねる一世代を16~17年で考えますと『鐃速日』が居たのは『建諸隅命』より128~135年前になります。)

 

建諸隅命』(武諸隅命)は『建田背命』の子とも、『建宇那比命』(先代旧事本紀)の子とも述べられ、系図上にて混乱を生じていますが、この『建田背命』『建宇那比命』の妹が由布院(木綿の院)に居た『宇奈岐日女命』(宇那比媛命)=卑弥呼と考えられます。

建諸隅命』の母は、国宝の『勘注系図』では『葛木の高田姫』とされており、此れは大分市に在る『高尾葛木』に居た『高田姫』を娶った。と謂う事になります。此の葛木には『金の手』『高田橋』『鉾神社』があり、間違い無いものと考えられます。

由布院で生れた『建諸隅命』は、妹?(妹)に『大海姫』が居り、後に杵築へ移動して崇神天皇との間に能登國造祖になる大入杵命・八坂入彦命・渟名城入媛命・十市瓊入媛命を儲けています。

杵築は当時、紀伊(杵)国と以前は呼ばれていた様で、紀伊國荒河戸畔の女、遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)とも契りを結び、『豊城入彦命』と、『豊鍬入比賣命』を儲けています。崇神天皇は病に臥せっていたものと考えられ、『豊鍬入比賣命』に『天照大神の移動を託された』と記しています。

崇神は、此処杵築で亡くなった後、杵築の人々は『小熊山古墳』を築き、葬ったのでしょう。

 

活眼入日子命(垂仁天皇)との関係を考えますと、杵築で崇神が病に臥せって居た時は、久留米大善寺玉垂宮に居たものと考えられます。その後、嘉穂にルーツ(春日建国勝戸米命)を持つ、沙本之大闇見戸賣命と彦坐王の子である狭穂彦(日下部の祖)の妹、狭穂姫(嘉穂姫)を娶り、近畿纏向に居た伯父、彦坐王(彦湯産隅命・孝霊天皇・景行天皇)の元へ往ったものと考えられます。

亦、伯父である『彦坐王』(景行天皇)は生れ故郷の田主丸から行橋勝山黒田を経て『孝霊天皇』(景行天皇)として中国~近畿北陸を制して、息子(吉備津日子命)を岡山に配し、『彦坐王』(景行天皇)の伯父である『大彦命』が棲んで居た奈良纏向に居を構えたものと考えられます。

『彦坐王』(景行天皇)は日本の国家としての体裁を整えた『最初の大王』であったと思われます。

 

 

わたくしは、城島(師木)に居た『崇神天皇』が、『建日照命』(たけひなてる)が天から持ち出した出雲の『神宝』を見てみたいと『建諸隅命』を出雲に派遣した理由を考えてみました。

 

崇神天皇が『建諸隅命』に出雲の神宝を召し出す様に使者として遣わした経緯と顚末を日本書紀では次のように述べています。

六十年の秋七月の丙申(ひのえさる)の朔己酉(ついたち つとのとりのひ)に、群臣詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「武日照命(たけひなてる)の、天より将(も)ち来れる神宝(かむたから)を、出雲大神の宮に蔵(おさ)む、是を見欲(みまほ)し」とのたまふ。則ち矢田部造の遠祖諸隅(もろずみ)を遣して献(たてまつ)らしむ。是の時に當りて、出雲臣の遠祖出雲振根(ふるね)、神宝を主(つかさど)れり。・・・(『日本書紀』崇神紀より)

出雲臣の遠祖の出雲の『振根命』(ふるね)が、『建日照命』(たけひなてる)が天から持ってきた神宝を管理していたのですが、振根命が筑紫国に行っていた時に、振根命の弟の飯入根命(いひいりね)が崇神天皇の命に従って、神宝を建諸隅に渡してしまいます。振根命が筑紫から帰って来ると、すでに献上した後であり、弟の飯入根命に「数日待つべきであった。何を恐れて、軽卒に神宝を渡したのか」と謂って責めた。この事があって、幾年月を経ても振根は弟に恨を懐き、やがて弟を殺そうと思うに至り、弟を欺いて木刀を真刀に似せて取り換えさせ、殺したのである。

以上が事の成り行きであります。

 

 

先ずは、『建諸隅命』の生存時期の検討をしてみたいと思います。

当時は15歳から17歳位で世代を重ねていたと考えれば『建諸隅命』(湯垢離・由碁里)の子が、若倭根子日子大毘毘命(開花天皇)の皇后となった竹野姫で、その子が彦湯産隅命(彦坐王・景行天皇)と謂うのであれば、崇神や彦坐王とは30~35歳の年の差が有ったと考えられます。

次に卑弥呼(宇那比姫命)です。

『倭の大乱』が起きたと考えられていますのが、後漢の霊帝の光和年間(西暦178~184年)とされ、宇那比姫命(卑弥呼)の即位は幼少(4~5歳)で有ったと考えられ、大乱の終了した時期の西暦184年頃となり、逆算しますと、生誕は西暦179~180年前後と想像されます。卑弥呼は247年か248年に亡くなったとされていますので、68~70歳程の人生で有ったと考えられます。

『宇那比姫命』(卑弥呼)の兄である『建宇那比命』(西暦175年頃の生誕と考えられます)の子が『建諸隅命』であります。(『建田背』の子とも記されていますが、『建田背』と『建宇那比命』は同一人物とも考えられており、わたくしも、その説を支持致します。)『建諸隅命』が生誕したのは西暦192年前後と想像されます。

 

そうしますと、『建諸隅命』の子である『竹野姫』が生れたのは西暦209年頃と考えられます。開花が『竹野姫』より幾分年長と仮定して西暦205年前後に生れたと考えれば、梁書通典(266年)に述べて在ります『倭女王』と伴に爵位を受けた『男王』とは、の開花天皇であった。と主張されておられます『桂川光和』さまの説が正解でありましょう。(開花61歳位

崇神・彦坐王の生誕は西暦222年頃となり、共に卑弥呼に遭う機会が有った事になります。崇神が開花の後を受け継いだ時期は不明ですが、仮に、開花が62歳頃に亡くなったと考えれば、崇神が45歳頃に即位した事になります。そして、出雲の神宝を視たいと述べた頃の『建諸隅命』の年齢は76歳位が考えられ、相当の老人の使者であった。と想像出来ます。

其れとも、皇太子の時から『建諸隅命』は崇神に使えて居て、もっと若いときに出雲へ出向いたとも考えられます。しかし、『建諸隅命』は開花天皇の時代(西暦239年頃・景初3年)卑弥呼の使者『都市牛利』として魏に遣わされたと考えられており、この時分の『建諸隅命』の年代は44~45歳と考えられ、油の乗った時期は開花天皇に仕えて居たと考えられ、崇神に使えたのは、『老後の最後の奉仕』であったと想われます。

逆に考えますと、この仕事は『建諸隅命』でなければ出来ないものであったと思われます。

 

実は、ホツマ伝では先代旧事本紀や勘注系図とは異なり、『ニギハヤヒ』と『建日照命』は兄弟と記入され、その『建日照命』(たけひなてる)の子が『建登米命』(たけとめ)とされ、『建登米命』の子が『建宇那比命』で、『建諸隅命』の父であります。

建諸隅命』から遡れば三世代前が『建日照命』になり、一世代を17年で計算をしますと51年程以前に生れたのが、『ニギハヤヒ』と『建日照命』(少名日子命?)で有った事になっており(西暦140年頃)、『倭』から神宝を持ち出した『建日照命』は曾祖父に当る事に成ります。

曾祖父の出雲へ持ち出したものを曾孫である『建諸隅命』には受け取る権利を有している。との『論』を張れる事になります。

建諸隅命』は手土産として魏から卑弥呼(宇那比姫)宛に頂いた景初三年銘の三角縁神獣鏡を『飯入根命』に渡して、代わりに『神宝』を受け取って城島(しき)玉垂宮(瑞垣宮)の『崇神』の元へ帰って来た。と考えられます。

其れが、以前は高良玉垂宮に『三種の神宝』(神璽・宝剣・鏡)が在ったとして記録に残っていますが、此れらの書物は、本来は大善寺玉垂宮に収められていたのを、江戸時代初期に有馬藩が高良山玉垂宮本殿造営時に大善寺玉垂宮から移動したと考えられます。{高良山玉垂宮の創建は履中元年(西暦400年)とされています。}

 

と、謂うことで、島根県の雲南市加茂町に在ります『神原神社』古墳から昭和47年出土発見されました景初三年銘(鋳出)の三角縁神獣鏡(通称、卑弥呼の鏡)は『建諸隅命』が『飯入根命』に渡したものと考える事が出来ます。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする