「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

崇神天皇が豊鍬入姫命に天照大神を託した理由が明らかになりました。

2012-03-30 | 古代史

記紀を読んでいて、如何しても疑問をもってしまうのは、何故崇神天皇が豊鍬入姫命に天照大神の御魂を託したか、であります

わたくしが掲げています「欠史8代は九州に王朝があった。」と謂う考え方では、巧く筋道が徹り、説明が利きます。

 

国宝の「海部氏」系図では建田勢命の子として、大倭玖邇阿禮姫が建諸隅命の兄妹?として記入されています。大倭玖邇阿禮姫の父が建田勢命になっています。そして、建諸隅命の子の日本得魂命(やまとえたまのみこと)(川上眞若)の子として大海媛{葛城千名媛・八坂振天伊呂辺(やさかふりあまのいろべ)}として記入されています。

 

また、一方『おとくに』さまの尾張氏概略系図にては、建宇那比の子として、建諸隅と兄妹として大海姫(葛木高名姫)が記入されています。そして、尾張氏詳細系図では、大海姫は師木の瑞垣宮(=久留米市大善寺玉垂宮)に居たと考えられる崇神天皇との間に大入杵命・八坂之入日子命を儲けています。この八坂之入日子命は、岐阜県可児市大分県日田市美濃へ渡っており、其処で八坂入姫と弟姫を儲けています。

また、日本書紀にて、{崇神天皇は紀伊の国の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とほつあゆめまくはしめひめ)を妃(側室)として豊城入彦命、豊鍬入姫命を生んだ。あるいはこの妃は、大海姫の娘の八坂振天某辺とも謂う。}

となっており、豊鍬入姫命の母は八坂振天某辺であるとされています

大海姫(おおあまひめ)は系図上にて矛盾があり、この事をどのように考えれば善いのか一考を要します。

建諸隅命を父に持つ日本得魂命(やまとえたまのみこと)(川上眞若)は竹野姫(豊受姫)の兄で、由布院で生まれたと考えられます。そして、日本得魂命の子が大海姫です。

 

わたくしは、系図上の問題とは別に、大海媛(の娘)が八坂振天伊呂辺である。と記入されている事に注目しました。もしも此の事が本当であれば、大海媛は杵築市に居たと考える事が出来ます。杵築は海部氏・尾張氏・紀氏の拠点であり、八坂・宮司・大神・真那井の地名が見受けられます。おそらく、八坂の名前の発祥は此処から広まったものでしょう。八坂振天伊呂辺は九州での痕跡と捉え、八坂入彦命も岐阜県大分県日田市の美濃と捉えるべきです。

 

そして、豊鍬入姫命が父である崇神天皇から天照大神を祀るべき土地を探す命を受けた理由が紐解けました。

崇神天皇は近畿への遷都を考えていたものと考えられます。四道将軍の派遣もその布石でしょう。1世紀の間に数多く天孫族の同胞を九州から近畿方面へ送り出し、各地の国造りも進み、決断されたものと考えられます。

 

大海姫の出身地は天の安河(八坂川)のある杵築であります。此処杵築は、古くは天照大神が居られた地、高天原であり、建速須佐之男命との誓約の地でもあります。其処から娶った大海姫(八坂振天某辺)。その末裔である豊鍬入姫命が、新しい地近畿で天照大神を祀るべき。と(大善寺玉垂宮に居られたと考えられる。)崇神天皇は判断したものと想われます。疫病の流行もあり、崇神天皇自身も近畿に行く心算でした。ひょっとしたら(多分)、玉垂宮に垂仁を置いて近畿纏向へ行ったと想えます。もちろん、豊鍬入姫命も一緒に行ったと考えられます。まもなく崇神天皇が亡くなり、垂仁天皇は、垂仁2年10月纏向の珠城宮へ遷都されたものと考えられます。

これが、正しい歴史のように感じ取れます。

 

《その後の考察に拠る追補》

2014年9月19日の『倭の大乱』には第2幕がありました。を読んで頂きますと、理解をして戴けますが、崇神天皇は纏向へは渡っては居らず、杵築市に在ります小熊山古墳に埋葬されている。ものと考えられます。

亦、この杵築の地は、宇佐公康さまの『古伝が語る古代史』に拠ると、神武天皇が埋葬されている(安岐の市祁島奈多宮の傍にある弥山)場所と同一地点と認められ、神武天皇と崇神天皇は同一人物で有る。と考えられ、記紀は崇神天皇の業績を神武天皇の業績に捏造しているものと、考えられます。

 

 

 

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葛城の室の秋津島宮の行方。2  和知都美命が決め手でした。

2012-03-29 | 古代史

古事記にては、第3代安寧天皇の子の3番目の子、師木津日子命(しきつひこみこと)(=第4世代に相当)に二王が居て、その内の一人和知都美命(わちつみみこと)(=第5世代に相当)が淡道之御井宮にいた。とされています。そして、その和知都美命の子に蝿伊呂泥(はえいろね)=大倭玖邇阿禮姫(おほやまとくにあれひめ)(=第6世代に相当)と妹の蝿伊呂杼(はえいろど)が居て、どちらも第7代孝霊天皇の妃になっています。そして、大倭玖邇阿禮姫(おほやまとくにあれひめ)が倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)(=第7世代に相当)を儲けています。

実際の天皇譜系と一世代のずれが師木津日子命から和知都美命の処で生じています。これは、短命の天皇が4代・5代・6代の内に在ったと解釈できます。わたしの勘では、第4代懿徳(いとく)天皇が亡くなるのが早かったと感じられます。実際、古事記では45歳で崩御となっています。

(また、別の解釈では、「師木津日子命に二王が居て、その内の一人和知都美命」の件を、師木津日子と和知都美の間の縦系列にもう一人王が居ると解釈するのも不可能ではない。とも想われます。)

 

一方、宇那比姫の根拠となっている『海部氏勘注系図』を見ますと、建田勢命の子に建諸隅命(由碁理)の姉?妹?として、大倭久邇阿禮姫が記入されています。

 

先に述べた古事記と照合しますと御井宮(高良山麓付近)に居た和知都美命が、=建田勢命であると謂う事になります。古事記では何故、建田勢命と謂わなかったのでしょうか。和知都美とは、綿津見族の意味とも感じられます。建田勢命は海部氏(尾張氏)でありますので、間違いではありません。もし、建田勢命が御井宮に居たとすれば、天足彦国押人(天押帯日子命)の妻宇那比姫はこの近くに居たものとも考えられます。

久留米から八女にかけては、古くから卑弥呼伝説が言い伝えられています。

そして、第6代孝安天皇はこの近くに居たと考えられます。やはり、八女市から大川市に架けての室地区に居られたと考えるべきでしよう。

 

 

≪追補≫

その後の考察にて、葛城・葛木とは、豊後葛木の事で、

『室』の解釈は、「三方若しくは四方を壁に囲まれた状態」を表すものと思われ、是は『盆地』を意味しているものと考え、宇那比姫(宇奈岐日女)が居た『由布院盆地』との事であろうとしました。

亦、日本書紀に述べられています神武天皇のホホマの丘での言葉に内木綿(うつゆふ)(由布院盆地)を視て、此処を秋津(トンボ)が交尾をする様子に似ている事から『秋津洲』と呼ばれるようになった。とされており、ホホマは福万山(フクマ)の事と思われ、間違いの無いものと考えられます。

『葛城の室の秋津洲宮』は『由布院(木綿の院)=高天原=ハラ』で有った。と考えられます。      

 

 

 

 

 

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葛城の室の秋津島宮の行方。

2012-03-28 | 古代史

わたくしの、『欠史8代王は九州に居た。』との考えで比定した中で、ほぼ間違い無いものと皆様に自信をもって居ますのは、第4代懿徳(いとく)天皇の香春町鏡山~宮原、第5代孝昭天皇の博多早良区~西区、第7代孝霊天皇のみやこ市勝山町黒田、第8代孝元天皇の香春町鏡山にある勾金陵墓(河内王の墓)、第9代開花天皇が春日市須久・岡本遺跡→大善寺玉垂宮であります。そして、第10代崇神天皇が久留米市大善寺玉垂宮です。

実は、一番頭を悩ましていますのが第6代孝安天皇の、葛城の室の秋津島宮です。一応は、博多の室見川近辺か、八女市に在る室岡遺跡を挙げていますが、最近では大分の宇佐・国東・杵築あたりも考えられ、思考を廻らしています。

 

宇那比姫は第6代孝安天皇の兄である天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとみこと)と結婚して和邇日子押人命を儲けています。そして、その子が彦国姥津命(ひこくにうばつみこと)と意祁都比賣命(おきつひめみこと)(開花天皇の妃になり、日子座王を儲けます。)

  

宇那比姫が由布院に居たとすれば、幼少時と老後に考えられますが、結婚をしたのが第6代孝安天皇の兄、天足彦国押人(天押帯日子命)であると考えられますので、嫁入り先は由布院ではありません。何処に住んでいたのでしょうか?

孝安天皇が1、宇佐から杵築に居た。2、八女から大川辺りに居た。3、博多西区の室見川周辺に居た。が考えられます。

みなさんと一緒に検討して見ましょう。

 

古事記には、孝安天皇は「葛城室之秋津島宮」において天下を治めた。となっています。「葛城」は何処にも解釈できます。「秋津島」・「室」がキーワードです。わたくしは、以前に比定地とした博多室見川付近と有明海沿岸にある八女市室岡遺跡付近、そして、宇佐~杵築~安岐であると考え、ネット地図にて双方を検討して見ました。博多の方には、第5代孝昭天皇が住んで居られていますので、多分八女の室の方か、宇佐~杵築~安岐に棲んだと考えられます。(どうも、この時代は親子続けて同じ宮に住まわないようです。)

八女の室岡から西の大川市辺りが第6代孝安天皇の居た秋津島と想えば、周辺には木室の地名があり、孝安天皇に仕えた大木食命と関係があると感じられる大木町の地名もあります。

大川市に神功皇后が三韓征伐の帰りに安曇連磯良丸に少童命を祀ったと謂われている風浪宮(ふうろうのみや)がありますが、何故、神功皇后はこの様な内海の有明海まで廻り込んできたのでしょうか。此処は以前に孝安天皇の御所があったからだと、推察されます。

しかし、考慮に入れておかねば成らない事に第5代孝昭天皇の妃は尾張連(おわりのむらじ)の祖、奥津余曾(おきつよそ)の妹、余曾多本毘命(よそたほびめ)である事です。そうです、大分(豊国)から福岡(博多)に嫁に来ているのです。

豊国は母の里になります。孝安天皇が宇佐や杵築・安岐辺りに居を構えたとしても不思議ではありません。其処国東は豊秋津島古田武彦さまも比定されておられます。

しかし、古事記には、室之秋津島宮となっており、の字が載っていません。秋津島だけであれば何処でも考えられなくも無いです。確定までは行きません。

杵築は、宇那比姫(宇奈岐日女)の出身地と想われる由布院からも近く、判断に迷います。

さて、どちらでしょう。悩むところです。

 

 

 

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籠神社は豊後から遣ってきた建田背命から始まったものと捉える事が出来ます

2012-03-24 | 古代史

 

海部氏・尾張氏・紀伊氏の元が大分にあることは、解かりましたが、『海部氏勘注系図』にもあるように、何故、現在の京都府宮津の『籠神社』が、海部氏・尾張氏の根拠地と謂われているのでしょうか。考えてみる事にしました。

 

『おとくに』さまの『古代豪族』にて尾張氏系図(先代旧事本紀)を見ますと、建斗米の子に7人記入されています。一番上から順に建田背(たけだせ)建宇那比(たけうなび)建多乎利(たけたおり)建彌阿久良(たけみあくら)・建麻利尼(たけまりね)・建手和邇(たけたわに)・宇那比姫(うなびひめ)です。

そして、建田背の説明として丹波・但馬国造・海部氏、と記入されており、建彌阿久良の後に大分国造と記入があります。また、建宇那比命の子として建諸隅が産まれています。

わたしの考えでは、大分に居た一族の内、長男と想われる建田背は第6代孝安天皇・第7代孝霊天皇に仕え、には近畿丹波・但馬の国造として渡って往ったものと考えられます。

建彌阿久良(たけみあくら)大分の国造として残り、一族を束ねたものと考えられます。

建宇那比(たけうなび)と謂う人が居ますが、この人物は、大分県豊後大野市朝地町綿田の俵積神社(たわらつみじんしゃ)にて祀られています宇奈岐比古命のことであろうと、考えられます。俵積神社の由来は、『昔、二柱の神が天降り、草綿を植えた事により草綿発祥の地として伝えられ「綿田」の地名になり、綿俵を積み重ねた所が「俵積」と謂われる元になった。』とされています。

この二柱の神の一神が宇奈岐比古命であるとされており、もう一神は建彌阿久良宇奈岐日女命であろうと考えられます。

 

そして、その建宇那比の子が建諸隅で、建諸隅の子が竹野姫になります。

{しかし、国宝「海部氏」系図では建田勢命の子が建諸隅命と大倭久邇阿禮媛(第7代孝霊天皇の妃)とされており、先代旧事本紀と異なっています。}

 

ですから、竹野姫豊姫)が大分から福岡県春日市に居た第9代開花天皇に嫁に行ったと考える事が真実味を帯びて来ることになり、自然であります。

宇那比姫は由布院に宇奈岐日女命として痕跡を残しており、俵積神社の近くには、竹田市(たけだし)があり、この竹田市の由来も建多乎利(たけたおり)と関係を感じます。

祖母山近くにも健男霜凝日子神社(たけおしもごりひこ)・健男霜凝日子神社下宮もみ受けられ、「タケオ」とか「シモゴリ」とか尾張氏を特徴できます名称が見受けられます。此処、豊国尾張氏(海部氏・紀伊氏)の本貫地があったとする考え方を補足する事にもなり、正しい考察と思えます。

 

 

と謂うわけで、京都府宮津市にある「籠神社」は第7代孝霊天皇の時代、豊後から遣って来た建田背から始まったものと捉える事が出来ます。

建田背は兄妹の一番最初に記入されており、長男とも想われ、尾張氏(海部氏)系図を記録していた?とも考えられます。

桂川光和さまの研究では、『海部氏勘注系図』を最初に編纂したのは、止羅宿禰(とらのすくね)で、豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)(554~628年)の時代で、系譜をまとめたのは592~628年であろうと述べられておられます。

 

 《その後の考察による追補》

第7代孝霊天皇は彦坐王(彦湯産隅命)と同一人物と考えられ、崇神時代に建田背は『彦坐王』と一緒に近畿(丹後~丹波~播磨)に渡ったもの。と考えられます。

 

《追補2》

豊後大分は、『豊後紀氏』と謂って全国各地に人々が拡散しました。『葛木氏』の本貫地と解釈をしています豊後明野『葛木』地区には、『高尾山』が在り、以前は『海部郡アマベグン』が在りました。和歌山県も奈良県も若狭湾も『豊後紀氏』が遣って来たものと考えられます。

 

 

 

 

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天之安河(天八十河)は杵築市の八坂川と考えられる。

2012-03-21 | 古代史

古事記にて、

『天照大神と須佐之男が天安河(あまのやすかわ)を挟んで宇氣布(うけふ)=誓約をされた時、天照大神が建速須佐之男命の十拳劔を三つに打ち折り、玉の緒をゆらゆらと揺らしながら天之眞名井の水で振り濯いで、噛みに噛んで、吹き出した息の霧から成り出でた神の名は、多紀理毘賣命(たぎりひめ)。亦の名は奥津嶋比賣命(おきつしまひめ)と謂う。云々・・・』と謂う、誓約の場面がありますが、

この宇氣布を行った地が日出町と杵築市の間にある眞那井であると考えられます。そして、宇佐・山香方面から杵築市を流れて別府湾に流れ込んでいます八坂川(やさかかわ)は古来は安河(やすかわ)・八十河(やそかわ)と呼ばれていたものと想われます。

(あま)は海部(あま)と理解して、豊国(大分に本貫地があった。)の事と考えられます。

 

この様に考えますと、天照大神の天石屋戸隠れが善く理解できます。

 

『このようなわけで八百萬神(やほよろづのかみ)が天安之河原(あめのやすのかはら)に集(あつ)まり集(つど)って、高御産巣日(タカミムスヒ)神の子の思金(オモヒカネ)神に考えさせ、常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて鳴かせ、天安河(あめのやすのかは)の川上の天の堅い石を取り、天の鉱山(こうざん)の鉄を取り、鍛冶(かじ)の天津麻羅(アマツマラ)を探し、伊斯許理度賣(イシコリドメ)命に命じて鏡を作らせ、玉祖(タマノオヤ)命に命じて八尺勾瓊(やさかのまがたま)の五百津之御須麻流之珠(いほつのみすまるのたま)を作らせ、天児屋(アメノコヤネ)命と布刀玉(フトタマ)命を呼び、天香山(あめのかぐやま)の雄鹿(おじか)の肩の骨を抜き、天香山(あめのかぐやま)の天之波波迦(あめのははか)を取り、占(うらな)いをさせ、天香山(あめのかぐやま)のよく繁(しげ)った榊(さかき)を根ごと掘り出し、上の枝には八尺勾瓊(やさかのまがたま)の五百津之御須麻流之玉(いほつのみすまるのたま)を取りつけ、中の枝には八尺鏡(やあたのかがみ)を取り飾り、下の枝には白い布帛(ふはく)と青い布帛(ふはく)を取り垂らし、この種々の物は布刀玉(フトタマ)命が見事な供(そな)え物として取り持ち、天児屋(アメノコヤネ)命が見事な詔戸言(のりとごと)を唱え、天手力男(アメノタヂカラヲ)神が戸の脇に隠れて立ち、天宇受賣(アメノウズメ)命が天香山(あめのかぐやま)の天之日影(あめのひかげ)を襷(たすき)にかけ、天之真拆(あめのまさき)を縵(かづら)として、天香山(あめのかぐやま)の笹の葉を束(たば)ねて持ち、天之石屋戸(あめのいはやと)に桶(おけ)を伏(ふ)せて踏み轟(とどろ)かし、神懸(かむがかり)をして、胸乳をさらけ出し、衣装の紐(ひも)を陰部まで押し下げた。
 すると高天原(たかまのはら)がどよめき、八百萬神(やほよろづのかみ)がともに笑った。

 このようなわけで天照(アマテラス)大御神は奇妙に思い、天之石屋戸(あめのいはやと)を細めに開けて、中から、「私が籠(こも)っているので天原(あめのはら)は自(おの)づと闇(やみ)になり、また葦原中國(あしはらのなかつくに)も全て闇(やみ)であるはずなのに、どうして天宇受賣(アメノウズメ)命が踊っていて、また八百萬神(やほよろづのかみ)が皆笑っているのか」と告げた。すると天宇受賣(アメノウズメ)命が、「あなた様にも勝(まさ)る貴(とうと)い神がおいでになるので、喜び笑って踊っています」と申し上げた。このように申し上げる間に、天児屋(アメノコヤネ)命と布刀玉(フトタマ)命がその鏡を差し出して天照(アマテラス)大御神にお見せすると、天照(アマテラス)大御神はいよいよ奇妙に思って、ゆっくりと戸から出て覗(のぞ)きこんだ。その時、その隠れて立っていた天手力男(アメノタヂカラヲ)神がその手を取って引きずり出し、布刀玉(フトタマ)命がしめ縄(なわ)をその後ろに引き渡して、「これより中に入り戻ってはなりません」と申し上げた。そこで天照(アマテラス)大御神が出てくると、高天原(たかまのはら)も葦原中國(あしはらのなかつくに)も自(おの)づと照って明るくなった。

 このようなわけで八百萬神(やほよろづのかみ)は相談し、速須佐之男(ハヤスサノヲ)命に多くの贖罪(しょくざい)の品物を負わせ、また鬚(ひげ)を切らせ手足の爪(つめ)を抜かせて、追放して追い払った。』

(『日本神話の御殿』の現代口語文章訳を引用させて頂きました。)

 

と謂うことで、数多くの天香山が出てきますが、鶴見岳と杵築周辺(国東半島)での出来事と捉えて、八坂川安河(八十河)であるとすれば、天照大神はこの近くに居られた事に考えられます。

 

この事を、知っていた舒明天皇は、宇佐神宮息長氏の聖地)からわざわざ足を延ばされ、鶴見岳で国見をされたものと考えられます。

また、西暦713年頃の(元明天皇)「丹後風土記残欠」に出てきた天道日女命についても、もし宇奈岐日女命が日出町付近にて、活動をしていたとすれば、第6代孝安天皇の秋津島宮は国東半島近辺、例えば宇佐神宮。若しくは杵築の八坂川から奈多宮辺りも考えられます。この辺りは安岐町(あき)の名称もあり、古田武彦さまの説と再び重なる事になります。

 

 《追補》

宇佐神宮は息長氏である八幡神(応神天皇)と神功皇后と比咩大神を祀っていますが、『主神は比咩大神である。』と考えられ、この比咩大神はその後の考察にて『多祁理比賣命』で有った事が判明しました。比咩大神が多祁理比賣命であれば、息長氏の聖地では有りません。

亦、『室の秋津島宮』もその後の考察にて『木綿の院(由布院)=ホツマ伝ではハラと述べられています。』盆地であったと判明しました。

訂正を致します。

 

 《追補2》2021年12月8日

比咩大神は、『多祁理比賣命』ではなく、阿蘇氏であります『豊玉彦=健磐龍命=建御雷之男命=八大竜王=息長氏(秋永氏)の源元』の娘、『豊玉姫=阿蘇津姫=天鈿女命=水波能女命=息長氏=秋永氏の源元』であった。と、ホツマ伝の叙述から理解できました。再度訂正をします。

 

 

 

 

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二つの鶴見岳=天の香具山説。

2012-03-20 | 古代史

 

別府にある鶴見岳が天香久山であった。と考えられる。と謂う説は、古田武彦さまの以前からの有名な説と謂う事を聞いてびっくり、古田さまの名前は九州王朝説で存じ上げていましたが、どの様な考察にて導かれたのか、早速ネットにて拝読させて頂きました。

氏は万葉集巻一第二歌 息長足日廣額天皇(舒明天皇)が詠んだ歌。

『大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島大和の国は』

に歌われる「天の香具山」に疑念を持たれ、この歌は、近畿大和盆地にある「天の香具山」の事では無くて他の地域の事であろうと推考を重ねられて、和歌を読み解く事で、別府湾と鶴見岳を論理的に導かれておられます。実に、学者としての幅広い知識と真実に向かっての本質への探求は尊敬に値する研究者であり、その、鋭い考察力は、別府の地獄や、わたしの述べた神楽女湖まで言及されており、頭の下がる思いを致しました。

 

お互いのアプローチと時間軸の違いは有りますが、結果は同じでした。

 

わたし也に、古田武彦説に補完をさせて戴ければ、舒明天皇が何故別府のような処においでになったのか?の答えは、彼は「息長氏」であった事を付け加えます。

 つづく

 

 

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別府鶴見岳は天香久山である。と考えられます。

2012-03-18 | 古代史

大分県日出町大神に愛宕神社が在ります。ここは真那井の傍で、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と火軻具土命(ひのかぐつちみこと)を祭神としています。

伊弉冉尊(いざなみのみこと)は軻具土命(かぐつちみこと)を産んで苦悩をし、タグリ(吐く)して生まれたのが金山彦です。

 

大山元さまの研究ブログにて、『高倉下(たかくらじ)の名前について』を拝読させて頂きますと、

{先代旧事本紀p106に天香久山、天香語山、天香山などと書かれる、この人は別名を「手栗彦」とも「高倉下」とも謂う。とあり、カグヤマには手栗彦という異名がある(先代旧事本紀&籠神社文書)とされ、「手栗」は「タグリ」とも読める。方言でも吐くことを「オタキ(八丈島)、オタク(静岡・長野・岐阜)、オダク(茨城稲敷郡)、オタキ(静岡)、エタク(山形・長野・岐阜・富山・福井)」などと謂う(村山七郎著『アイヌ語の研究』)云々・・・とあり、諸点を関連付けると、出雲の愛宕神社がオタキ神社に比定されるように、アタゴとオタキは同根の語であろう。

オタキは吐くこと/吐いたもの伊弉冉尊のタグリタグリ彦=手栗彦=天香久山という連鎖が見られる。}

そして、結論で、{愛宕の本尊(?)は天香久山ではないか。}

ということを考えておられます。

わたくしの意見も同感で、素晴らしい考察だと感心します。

 

実は、前回出て来た伊佐奈子嶽(いさなこだけ)の本来の名前(由来)は天香久山(あまのかぐやま)と考えられます。

伊佐奈子伊弉諾尊・伊弉冉尊の子と解せば、

古事記にては、伊弉諾尊が「愛しい我が妹(伊弉冉のこと)の命よ。たった一人の子(迦具土神)に替えてしまうとは」と謂って、枕元に這い伏し、足元に這い伏して泣いた。その時、涙から成り出た神は、香山(かぐやま)の畝尾木本(うねをのこのもと)に鎮座する、名は泣澤女神(なきさはめしん。・・・その後、伊弉諾尊は十拳劔(とつかのつるぎ)で迦具土神の首を斬ります。そして、その刀についた血が、湯津(ゆつ)岩々に飛び散って三神を生むのですが、

 

此処に出てくる泣澤女神(なきさはめしん)は、別府から由布院へ行く途中にある鶴見岳の流れ尾根にある、菖蒲で名高い神楽女(湖)の事であると想われます。

神楽女とは、神楽を舞って神霊を招きおろす巫女のことを謂いますが、古代は泣澤女(なきさはめ)と表現していたものと考えられます。「湖」泣澤女の涙の後と想われます。

また、湯津の解釈は「斎(ゆ)つ」とされ、清浄とか神聖の意を持った修飾語と捉えられていますが、湯しぶきの多い様を表しているとも解釈でき、別府温泉の事を意味していると捉えることも出来ます。

 

と謂うことで、別府にある鶴見岳は天香久山の事であると考えられます。

 

 

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丹波・旦波の解釈の仕方。

2012-03-16 | 古代史

 

西暦713年頃の(元明天皇)「丹後風土記残欠」と謂うのが在るそうです。全体の多くの部分が失われて一部だけが残っているので残欠と呼ばれているそうです。

次のような記述がありました。

 

『丹波という名前をつけた訳は、豊宇気大神伊佐奈子嶽に天降された時、天道日女命たちは、この大神に五穀と蚕などの種をお願いした。その嶽に真名井を掘り、それで灌漑して水田陸田を定めて植えた。秋には「垂穂八握莫々然甚快也。」大神はそれをご覧になって、大喜びされて曰く、「阿那而恵志(あなゑえし)、面植弥志与田庭。」そして大神は再び高天原に登られた。それで田庭(たにわ)と謂うのである。丹波・旦波・但波、など全て、多爾波(たにわ)とよむ。』

 

とあります。

、」とあるのは、「海部氏」や「尾張氏」が九州大分豊国に居た頃と捉えると善く理解できます。

天道日女命は、ニギハヤヒが天に居た時に娶った女性とされていますが、卑弥呼の事と想像されます。(宇奈岐日女が由布院に居ました。)そして、大分県別府湾にある日出町の真那井での出来事と考える事ができます。

 

伊佐奈子嶽(いさなこたけ)は別府に在ります鶴見岳と考えられます。鶴見岳山頂に火男火賣神社(ほのおほのめじんしゃ)の上宮が、中腹に中宮、別府市火売町に下宮があり、現在の祭神は伊邪那伎・伊邪那美・火迦具土神の三柱となっていますが、『式内社調査報告』では、伊弉冉尊・火軻具土命・豊受姫命・大山積命の四柱とされています。

伊弉冉尊(いざなみのみこと)は火軻具土命(ひのかぐつちみこと)を産んで陰部に火傷を負い、病になり、苦しみ、尿から成り出たのが和久産巣日神(わくむすひしん)で、その子が豊宇気毘賣命(とようけびめみこと)とされ、穀物の神・御食津の神と謂われています。

 

と謂うことで、「田庭」が「丹波」や「旦波」・「但波」の元であり、丹波・旦波と謂う言葉は古来には、大分豊国で使われていた言葉と理解すべきであります。

丹波・旦波の単語で、「近畿である。」と、捉える発想は時間軸が第11代垂仁天皇以降でなければ無ければなりません。昔」と謂う記述には、気をつけねば為りません。

 

《その後の研究に拠る追補》

丹波の源元は、豊受大神=高躬結び神と息子の高幹(後漢の官吏。四川省成都の太守→蜀の太守)が、AD206年頃に『対馬』経由で、阿蘇氏の健磐龍命=豊玉彦の娘の豊玉姫=阿蘇津姫を、息子の『日高彦穂穂出見命』と婚姻を結び、北部九州を治める事となり、

日田市田島ダンワラ遺跡(日高)に住み着き、大卒を糸島に置きました。

 

日田市の『田島』が、『但馬』→『丹波』の元と考えられます。

 

豊受大神は、その後『隠居國』として、『ホツマ國』(九重・玖珠~由布院~安心院・院内)を分割します。

 

 

 

 

 

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卑弥呼(宇那比媛命)は由布院に居たと思われる。

2012-03-08 | 古代史

 

古代史研究家に、桂川光和さまがおられます。氏は系図を使って魏志倭人伝の卑弥呼に迫っておられ、説得力のある独自の論理と、見識を持っておられ、また数多くのサイトを立ち上げられて注目を集めています、立派な研究家です。

この方は、京都府宮津市の籠神社に伝わる国宝になっています『勘注系図』にて、「海部氏」「尾張氏」の系図から卑弥呼は第6代孝安天皇時代の宇那比媛(うなびひめ)であると導かれ、甥である建諸隅命(由碁理)の娘竹野媛が()として第9代開花天皇に嫁いでいる。とされています。現在は卑弥呼の墓と想われる墳墓を探し出され、発掘を計画なさっておられるようです。

 

わたくしの考えでは、この時代の出来事はすべて北部九州での出来事と為らねばなりません。

「尾張氏」「海部氏」「紀伊氏」は大分(豊後国)が本貫地であれば、籠神社の前身は大分に在ったことになり、卑弥呼は、わたしが今住んでいます大分県由布市湯布院町に棲んでいた事に為ります。由布院には宇奈岐日女神社(うなぎひめじんしゃ)があります。

文字に「那」と「奈」・「比」と「岐」の違いが在りますが私には同一人物と感じられます。

宇那比媛の甥である建諸隅命(碁理)の子には、3人{日本得魂命(川上眞若)・竹野媛川上麻須郎女}の子がいますが、由布院には川上の地域名(ゆふいん盆地の半分位の地域を占めています。)が残っています。

垢離(みずごり)と謂う言葉がありますが、「由碁理」は温泉を使った垢離(ゆごり)とも感じ取れます。そして、竹野姫と開花天皇との間に儲けた子の名前が、彦湯産隅命(ひこゆさすみみこと)と命名していますのも偶然でしょうか。

わたくしは、竹野媛は、此処由布院から福岡県春日市に居た開花天皇へ嫁いだものと考えます。

おまけに、由布院の屯倉を指し、余社郡(多分、現在の宇佐郡の事だと想われます。)を分けて屯倉を造ったとする史誌に沿っています。

由布院の様な山の中の盆地に、何故か、豪族の古墳と想われる墳墓も在ります。

この墳墓は調査の必要を感じます。

九州には宇奈岐日女らしき神を祀る神社は由布院以外に見当たりません。おそらく近畿にも宇那比媛を祀る神社は殆ど無いものと想われます。何故ならば、宇那比媛(宇奈岐日女)の痕跡は近畿には無いと想われるからです。

 

『灯台下暗し。』とは。何と謂う驚き。何と謂う顚末でしょう。

 

桂川光和さま、全国の古代史ファンのみなさま、ゆふいん温泉においでて卑弥呼の時代を偲んでください。歓迎します。

 

 

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遥かなる痕跡。

2012-03-06 | 古代史

 

大分県別府湾岸の日出町(ひじまち)から杵築市にかけて熊野(くまの)と謂う地域名があります。熊野と謂う地名は各地に見受けられ、珍しい事も無いのですが、この地に真那井(まない)と謂う地名もあります。この「真那井」は京都府宮津にある籠神社奥宮真名井神社を思い浮かべます。また、大神(おおが)の名前も見受けられます。(大神比義と関係がある由。)

これは、2~3世紀頃の「尾張氏」「海部氏」の痕跡と想われます。

 

ネットにて籠神社関係で検索しました所、ブログにて次のように出ていました。

 

{江戸時代に編纂された『丹哥府志』(たんごふし)に、次のような興味深い記述がある。
『神服連海部直(人皇七代孝霊天皇の御宇に熊野郡川上の庄に国府を造る)の子笛連王、母を節媛(ふしひめ)といふ、人皇八代孝元天皇に仕へ奉り、丹波与謝郡比治の里、笛原に国府を造る、比治は今丹波郡比治山の麓、五箇の庄なり。
笛の浦(一に府江原と記す)笛連の府跡なりとて山中に海部の名あり、海部は其父直の姓なり。』}

 

と、京都丹波の事として書かれていますが、之を読みまして、やはり遥か昔の豊後国の痕跡を残している事が感じられました。

 

ちなみに、わたしの孝霊天皇の比定地は福岡県みやこ市勝山町黒田、孝元天皇は福岡県田川郡香春町鏡山(現在、河内王墓と見做されています。)です。ので、地域間の整合は在るものと考えられます。

 

 

 

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尾張氏の本貫地に挑む。その2。 大分に在った本貫地。

2012-03-04 | 古代史

息長氏末裔秋永氏の霊感に、「絶対に間違いなく九州に居た。」とあり、気を取り直して、挑むことにしました。

 

まず、ネットにて尾張氏の情報を探るため、私が尊敬しています海棠槙人(かいどうまきと)さまの研究ブログ「津守氏」「尾張氏」「海部氏」「伊福部氏」「掃部氏」で今回も勉強させて戴きました。人名・神社名・謂れ・地名等のキーワードを頭に入れ、興味を示されたのは、京都府宮津市にある、籠神社(かご・こもり・この・こも・こ?)と大分県中津市にある薦神社(こもじんしゃ)の名前が似ていました。そしてこの神社が丹後国一の宮になっています。宮司さんのお名前が「海部」さん。とおっしゃる方です。

どうも、「尾張氏」から別れたのが「海部氏」とされ、表裏一体の関係のようです。

尾張氏は大和の葛城を本拠地にしていて、「高尾張」「高鴨」の様にと謂う字を付けたりする由。

 

参考になりました。

まず、海部氏と尾張氏は近くに棲んでいると考えられます。次には、葛城・葛木・高尾張・といった地名です。そして、「」と謂う字です。

 

 

私の知識に浮かぶのは、海部・高尾・葛木です。この三つが在るのは、私が住んでいます大分にあります。

 

 

海部」は皆さんにも知れています、関さば・関あじで有名な、現在大分市に為っています佐賀関町は、以前は海部郡佐賀関町(あまべぐんさがのせきちょう)と呼んでいました。以前は北海部郡と南海部郡がありました。

此処に海部氏が居たと仮定しますと、近くには尾張氏が居る筈です。

 

 

大分市を見下ろす高台に、高尾(たかお)があります。高尾山・高城(たかじょう)・横尾もあります。JR大分駅前から東に大分川を渡り、下郡(しもごおり)を抜け明野(あけの)―猪野(いの)葛木(かづらぎ)―森町―大野川―鶴崎に至る県道21号線の明野から南の地区です。現在の大分ドーム競技場(ビッグアイ)辺りです。ネット地図にて、周辺を探ってみますと、葛木地区(かづらぎ)に鶴崎工業高校があり、その傍に何んと、鉾神社がありました。また、の台と謂う地名が下郡の傍にあり、之は正しく籠神社の項に海棠槙人さまが記入されていた、祭礼で行う「鉾立て行事」や「藤祭り」と関係が認められます。

 

しかし、尾張氏は何故この地に居たのでしょうか?

 

 

考えられますのは、鉄器の製造の為だと想われます。

当時の鉄の製造の仕方は、海に近い川の端の砂地の、葦を抜きとり、葦の根に付いている砂鉄と土を分ける時に、の木の(かずら)を使って(かご)(今で言うざる)を作り、その中で篩(ふるい)を掛け、その下で鹿の一枚皮にて(猪野の地名から猪の皮を使っていたのかも知れません。)蹉跌を受けて原料を集めていました。

 

 

此処は、別府湾に潅ぐ大分川と大野川に挟まれており、砂鉄や葦・藤・木炭・鹿(猪)に恵まれていたと考えられます。現在はこの地を明野台と呼んでいますが、この下に新日本製鉄大分が今在るのも何かの縁とも感じます。

 

 

また、「海部氏」「尾張氏」と出て来たならば、「紀伊氏」も近くに居なければなりません。私の想像ですが、臼杵市(うすき)が「紀伊氏」の在所だと考えられます。キーワードは、「醤油」です。紀州和歌山も、臼杵もどちらも醤油が昔から盛んです。また、杵築市も「紀伊氏」の在所と考えられます。

 

何と、あっけなく紐解けた事でしょう。今回も海棠槙人さまのおかげです。有難うございました。

 

 

 みなさまの、日本の古代史の考え方を根本から変えて戴く事に為りました。

 

やはり、欠史8代は九州王朝で考えを進めるのが自然のようです。

 

「尾張氏」「紀伊氏」は「海部氏」と伴に大分(豊の国)に居たものと考えられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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