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「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

百嶋由一郎氏の神社考古学研究が齎した、猿田彦の正体。卑弥呼の正体。その2

2016-02-27 | 古代史

この百嶋さまの考えが正しければ、わたくしは、日子坐王は、孝霊=景行=長髄彦=草部カヤベ吉見(健磐龍命?)=猿田彦=風神=大年神=天児屋根命と同一人物で有った。と想われます。神八井耳命が、開花天皇と同一人物である謂う事になります。神代の初代が神倭伊波礼毘古命(本当の神武天皇)で、人代の初代が若倭日子大毘毘命(開花天皇=神八井耳命)の考えが成り立ちます。

 

神武天皇は、『古事記』では、神武天皇は即位した後、伊須気余理比売命と結婚して、 日子八井耳命、神八井耳命、神沼河耳命(のちの綏靖天皇)の三柱の御子を儲けた。とされ、

一方の『日本書紀』には、日子八井耳命は登場せず、媛蹈鞴五十鈴媛との間に、神八井耳命、神渟名川耳尊のみが生まれたとされ、『先代旧事本紀』には、日子八井耳命は弟・神八井耳命の御子とされています。

亦、『古事記』の、神八井耳命と神沼河耳命の兄弟が、腹違いの兄であります『多芸志美美命』を殺し、その時、神八井耳命は臆したため、弟の神沼河耳命が皇位を継いだ話になっており、日子八井命は登場しておらず、混乱を招いています。

 

百嶋系図では、草部吉見の父とされます神沼河耳命が日子八井耳は草部吉見=ニギハヤヒ=吾勝=安日(長髄彦?)=海幸彦と同一人物とされ、神俣姫との間にて國龍=大年神=天児屋根命=忍骨(天忍穂耳命)=支那津彦を儲けたことに為っています。

わたくしの考えでは、神八井耳命が開花天皇を意味し、日子八井耳が日子坐王の事で、神沼河耳が崇神天皇を暗示している様に思えます。

日子八井耳・草部吉見・健磐龍命・吾勝・安日(長髄彦?)・海幸彦・國龍・大年神・天児屋根命は総て同一人物と想われます。

そして、香春神社の辛国息長大姫大目命は、天宇受賣命=猿女=宇迦之御魂神=豊受姫=豊玉姫=罔象女=息長水依比賣命=市祁島姫=宇佐神宮や奈良の春日神社を含めての比咩神=龍神で有った。と謂う解釈になります。ひょっとしたら、由布院の『宇奈岐日女命』もイコールで有ったのかも知れません。考察をしてみましょう。

香春神社にて祀られています『辛国息長大姫大目命』の由緒に崇神天皇の御代に帰座された。と述べられており、魏志倭人伝で述べられています、記述を考察しますと、時間軸が合致し、『辛国息長大姫大目命』と『宇奈岐日女命』は同一人物と考える事ができます。何故ならば、勘注系図の『宇那比姫』(宇奈岐日女命)は尾張氏(建田氏)と考えられており、此の尾張氏は和邇氏(≒息長氏)と関係が深いと考えられています。『宇那比姫』は第6代孝安天皇の兄であります『天足彦国押人命(和邇氏の祖)』の妻とされており、

 

つまり、『宇那比姫』(宇奈岐日女命)の夫の『天足彦国押人命(和邇氏の祖)』は『日子坐王』の事である。と考えられます。根拠は『大足彦』の『大』の字の上に『一』を付け足して『天』の字に改竄が行なわれている、と考えられ、『天足彦』の実体は景行『大足彦忍代別命』と想われます。そして、『天足彦国押人命』(第6代孝安の兄とされています)を儲けたのは、尾張連祖『瀛津世襲』(私見では、=神大市姫=燕エンジ媛=袁媛=卑弥呼)の娘である『世襲足媛』(第5代孝昭天皇の皇后)とあり、『世襲足媛』とは、=『市来島姫』=『息長水依姫』と考える事が出来ます。此の『市来島姫』=『多祁理比賣命』の子であります『下照姫』=『伊香色謎命』=『玉依姫』(記紀では、豊玉姫と玉依姫は姉妹捏造されていますが、実態は『伯母と姪』と考えられます。)が『崇神』=『雷神』を生んでいると考えられます。

亦、記紀では、第7代とされます孝霊(大倭根子日子賦斗邇命)の皇后『細媛』は、磯城県主(または十市県主)大目(ウズメ)の娘。と述べてあり、大目とは香春神社の辛国息長大姫大目ウズメ命、即ち、高天原(ゆふいん)の天宇授賣ウズメ命=宇奈岐日女命が移動をして、香春町の方へ遣って来ている事が理解出来ます。理由は金属鉱山に有ったと考えられます。スサノオは金鑽大神とも、天之御影神とも考えられ、天之御影神の娘が息長水依比賣命とされています。わたくしの説では孝霊(大倭根子日子賦斗邇命)は(根子は開花天皇を意味する。)日子坐王の事で、日子坐王は記紀に於いては息長水依姫を娶っており、総ては香春町の辛国息長大姫大目ウズメ命に繋がってきます

わたくしの考えでは、『瀛津世襲』の娘である『世襲足媛』と、『細媛』は、磯城県主(または十市県主)大目(ウズメ)の娘の記述は、磯城県とは、久留米市城島シキ~大牟田地区を指し、十市県とは、北九州苅田市~行橋市~勝山黒田~豊津町~豊前市~香春町~赤村と想われ、『世襲足媛』が『細媛』と同一人物と想われ、『細媛』は辛国息長大姫大目ウズメ命=息長水依姫=天宇授賣ウズメ命=猿女=宇奈岐日女命=天豊津姫と、同一人物であると理解出来ます。(記紀で述べられています第四代懿徳天皇=大倭日子鉏友命の本質は日子坐王、即ち景行天皇であった。と考える事ができます。

わたくしが述べたい事は、記・紀編纂過程での歴史の積み増しが行われた痕跡が、認められる。と謂う事です。

 

《その後の考察に拠る訂正》

『瀛津世襲』は、百嶋系図と整合を考えますと、瀛津世襲姫=アカル姫=磐長姫=埴安姫=草野姫=櫛稲田姫=熊野牟須美神=神大市姫=天照大神(瀬織津姫)と同一人物であろう。と考えられます。世襲足媛が辛国息長大姫大目ウズメ命=息長水依姫=天宇授賣ウズメ命=市祁島姫=豊玉姫=細媛=阿蘇津姫=寒川姫=天豊津姫=罔象女=龍神姫=支那津姫=稲荷神(表に出ておられますのは、宇迦之御魂と謂う事になっていますが、一般的には猿田彦=景行天皇=風神=2代目支那津日子の事と考えられています。しかし、根本は豊受大神と、その一族を指しています。宇迦=大神氏オオガ氏→ウガ氏=葛木氏の御霊である。と考えられます。)(罔象女は、百嶋系図では神大市姫と同一人物とされています)

 

 

振り返って、日本書紀の記述を思い出すと、景行天皇(猿田彦)の熊襲討伐の折、久留米市北野大城の『赤司八幡宮(当時は豊咩神社と呼ばれていた)』に水沼君『猿大海』を呼び寄せ、『比咩神』を祀るように述べた。とあり、此処田主丸一帯は日子坐王(猿田彦)の出身地であり、『赤司八幡宮』の赤司も『赤』を『司る』と考えれば、田川(鷹羽)の我鹿・吾勝アカツハヤヒの『赤村』が想像されます。

亦、『赤司八幡宮』の南に北野町大城地区が筑後川傍にあり、此処には『豊比咩命』の霊廟と言い伝えられます塚島古墳があり、豊比咩神社(赤司八幡宮)のある稲数邑内の『蚊田宮』で神功皇后(息長帯比賣命)が品陀和氣命(応神)を生んだと謂う伝承があり、潟(カタ)の天渟名井(アメノヌナイ)「益影井」で産湯を使った。とされています。

『大城村郷土読本』には「此所(蚊田宮)往古柳川海より連続而筑肥を隔当社之西而漫々而北背に廻り筑前国上座郡迄入海御座候」と記述があり、朝倉辺りまで船での往来があったものと思われます。天武・鸕野讚良・草壁皇子時代の筑後大地震(679年)で筑後平野が隆起したものと考えられます。

百嶋説では、福岡県宇美町の『宇美八幡神社』は、『神武天皇』の名を騙った『崇神』の嫁であります『久留米市荒木』の『しず』ちゃんが子供を産んだ場所と述べられています。

実は、この神功皇后(息長帯比賣命)が品陀和氣命(応神)を生んだと謂う潟(カタ)の天渟名井(アメノヌナイ)「益影井」から筑後川を挟んだ南向こう岸に、吾が(秋永氏)父の出身地田主丸町以真江があります。

此の傍に磐鹿六雁命の出身地と考えられます『鹿狩ロッカリ』地区が在り、以真江の由来は、『以』は今村氏『真』は馬渡氏『江』は江口氏から名付けられたと謂う事で、川向こうの太刀洗町高橋地区の『今村』(百嶋氏の先祖の出身地)と関係が考えられます。高橋区には弥生時代~古墳時代に架けての遺跡が残っており、漢人(大蔵氏)が平城を築いたとされ、多くの氏族が此処から派生して散らばったと考えられます。

『猿大海』とは、『襲武媛』(そのたけひめ)に生ませた、大善寺玉垂宮(水沼→水潴→三潴)に居た『國乳別之皇子』(くにちわけのみこと)を意味している事であり、『猿田彦』=景行天皇(彦坐王)の子が『猿大海』である事を暗示しています。息長氏には漢族『袁氏』の血が流れていると考えられます。

此れも編纂者が『國乳別之皇子』と明確に書けなかった時代背景があり、当時の権力者であります藤原氏に対しての精一杯の抵抗であった。と解釈されます。

『猿田彦』の別称は比良神(比良山神)と謂われ、朝倉市の長慶天皇の墓所(黒巖山)近くに『比良松』と謂う地名が残っており、近くに比良山と呼ばれた山が在ったと考えられます。ひょっとしたら、黒巖山が以前は比良山と呼ばれていたのかも知れません。

近くの高木邑の北に佐田地区があり、

百嶋説では、朝倉市把木(ハキ)町の『大山祇神社』では、(大國主命の父と謂われています)大山祇(=月読尊)の母?と考えられています、蒙古から遣って来た『王昭君』(中国四大美人の一人)を、『王昭君』の名前を隠して『白粉オシロイ祭り』行事として残されており、加藤清正が造った熊本城の大広間『王昭君の間』は、豊臣秀吉の妻『寧々』の木下家(家紋が桐)が『王昭君』の末裔との情報が、当時有ったものと考えられる由。

亦、豊前には『四公シコウ神社』(祭神は猿田彦)が数社残っており、此れは赤米研究の猿田彦が、四公六民の米の分配を行なった。と解釈されています。

わたくしの考えでは、猿田彦とは袁氏(漢民族)である処の妃(息長水依姫=辛国息長大姫大目命=天宇受賣アメノウズメ命=猿女)を娶った日子坐王(=猿田彦)を指し、四公六民は稲の分配を意味する。との解釈は正解と謂えます。

滋賀県高島市鵜川の琵琶湖近くの白髭神社の祭神は猿田彦も、日子坐王(稲荷神=息長水依比賣命の夫)と理解する事が出来ます。(以前のブログでは稲荷大明神は天御影神=息長水依比賣命の父、ではなかろうか。と述べていましたが、此れは正解で、

その後の考察にて、天御影神は『魏の大臣』の事と考えられ(京都、東寺。高野大師行幸図画に記入)、此れは、後漢の蜀の太守であった『高躬』が『曹操』の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を持って、大分県日田市田島のダンワラ遺跡に遣って来たと解釈されます。)傍に在ります琵琶湖竹生島の瀛イン神社で祀られています弁財尊天(息長水依比賣命=市祁島姫→固有名詞ではなく、『斎き奉る姫』と解釈するのが正しい。と考えられます。)との関係も納得できます。天御影神は、蜀の太守であった『高躬』と、考えられます。

滋賀県近江地方には筑紫(倭)から多くの人々が地名と伴に渡って往っていると考えられます。例えれば、朝倉の夜須→野洲市 久留米の高良→犬上郡甲良町 田主丸の鷹取山→甲良町の高取山 糸島の曽根→曽根 博多の高宮→高宮 糟屋郡須恵町→須恵 八女→八目 熊本県大津市→大津 志賀之島→志賀 朝倉の比良松→比良 高島市安曇川には田中・旭・古賀の地名があり、筑後地方にも多くあります。

苅田市の多賀清瀧窟(全国にあります清瀧の元と謂われています)が多賀町清瀧山 豊前の古(胡)表神社が多賀町胡宮神社 と、謂った具合に胡人(西域から遣って来た人)との関係が偲ばれます。

  

根拠の2として、宇佐公康氏の『古伝が語る古代史』には、景行天皇は阿蘇で亡くなった。と述べられている事です。ひょっとしたら、上益城郡山都町に在ります『猿丸太夫の墓』は通常は、猿丸太夫は山背大兄王(聖徳太子の子)の子である弓削王の事と考えられていますが、古代の『孝霊天皇』=『景行天皇』=『猿田彦』=『健磐龍命』の事かもしれません。

亦、『幣立神宮』は『健磐龍命』が遣って来て御幣を立てたことからの伝承があり、主祭神は神漏岐命(かむろぎ)・神漏美命(かむろみ)・大宇宙大和神(おおとのちやまと)・天御中主大神(あめのみなかぬし)・天照大神を祭り(わたくしの感では、元々の祭神では無いと想われます。百嶋さまも同意見です。)、『東の宮』は、天児屋根命風の宮大神、雨の宮大神、火の宮大神を祀っており、別に『水神宮』で龍神、『健磐龍宮』で健磐龍命を祀っており、景行天皇は此処、山都町で亡くなっているものと考えられなくも無いです。亦、、もう一箇所の候補地は高森町に在ります下がり宮で有名な『草部吉見神社』周辺です。

景行天皇は、『志賀高穴穂宮』で亡くなった。とされ、此の解釈は、以前に『志賀氏』が治めていた『高千穂』『穴穂の宮』と考えられます。高森町には御所・祭場の名称があり、如何も景行天皇の痕跡が漂っています。

亦、近くに在る祖母山の名前の由来はウガヤフキアエズ(私見では開花天皇の事と考えています。)を儲けた豊玉姫(神武天皇=崇神天皇の祖母)を意味している。と伝わっており、

豊後・豊前・日向ではウガヤフキアエズの痕跡(大神氏=緒方氏・春日氏・藤原氏ほか)が残っており、ウガヤフキアエズは宮崎日向の鵜戸神宮で、豊玉姫がお産小屋が間に合わず岩の上に橿の葉を敷き詰めて生まれたとの伝承があります。

宇佐公康氏の記述には此れまでは間違いが無く、信頼が持てます。

 

 

※ 高良玉垂宮神秘書では『龍神』は二人居た。とされ、崇神(自称、神武=孝元天皇=彦穂穂出見尊=崇神の実父を名乗った人)を産んだと考えられます伊迦賀色謎命が、記紀で述べられています『玉依姫』の事で、『豊玉姫』と『玉依姫』の関係は『伯母と姪』と考えるべきです。そして、この『玉依姫』も『龍神』・『比咩神』と呼ばれたものと考えられます。後に息子であります崇神に『十字剣=イスラエルのモリヤ山の神を守る大臣オトド=神武天皇の役割』を与えます。此れが崇神が神武天皇を名乗った理由と考えられます。(玉依姫は百嶋説では3名居た事になっており、この玉依姫は、豊玉姫の子の活イク玉依姫の事。と考えられます。)

 

この様な、多くの登場人物を作り出して、世代の建て増しと、神々の歴史と神脈の複雑化が行なわれて、改竄が行なわれており、記紀では卑弥呼を記入できない事になり、歴史学者を悩ましたものと考えられます。

 

 

※ 神大市姫とは、ウィキペディアでは以下のように説明されています。

日本神話では、『古事記』の須佐之男命の系図に登場する。大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、宇迦之御魂神(稲荷神=豊受大神と猿田彦と豊玉姫を指しています。)と大年神を産んだ。

2柱の御子神はどちらも農耕に関係のある神であり、神大市姫命もまた農耕神・食料神として信仰される。神名の「大市」は大和・伊勢・備中などにある地名に由来するものとみられるが、「神大市」を「神々しい立派な市」と解釈し、市場の守護神としても信仰される。

亦、大年神【ホツマ伝より大己貴命の事と解釈します。】は

  • 天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)との間の子に
    • 奥津日子神(おきつひこ)
    • 奥津比売命(おきつひめ) - 別名 奥津比売命神(おほへひめ)。(かまど)の女神。
    • 大山咋神(おほやまくひ) - 別名 山末之大主神(やますゑのおほぬし)。比叡山の山の神で日吉大社・松尾大社の祭神。
    • 庭津日神(にはつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
    • 阿須波神(あすは) - 屋敷の神。
    • 波比岐神(はひき)
    • 香山戸臣神(かぐやまとみ)
    • 羽山戸神(はやまと) - 山の麓を司る神。
    • 庭高津日神(にはたかつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
    • 大土神(おほつち) - 別名 土之御祖神(つちのみおやのかみ)、土の神。

の10柱神を儲けているとされ、大年神【=大己貴命】と天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)の子が大山咋神(おほやまくひ)=大國主命=山王(日吉)権現と奥津比売命(おきつひめ)=竈(かまど)の女神を儲けている事になります。竈門神社が大宰府に在り、玉依比賣命を祀っており、奥津の文字は当て字と考えれば瀛津比賣命、息長氏(袁氏)、即ち瀛(いん)氏=秦氏=稲荷神がイメージされます。亦、『美豆比売』の『美豆』を当て字と考えれば、本質は『水比賣』と考えられ、『息長水依比賣命』が重なります。

 

伊勢神宮外宮であります『豊受大神宮正宮』では、『玄松子の記憶』に拠りますと以下のように祭神を祀っています。

御祭神
豊受大御神(とようけのおおみかみ)(ゆふいんの『天の宮』=『日高見=日田かみ』にて、イザナミの子であります、つまり、豊受大神の孫のアマテラスと月読命に陰陽道を教えていた。と、『ホツマ伝』から解釈されます。ゆふいん塚原霧島神社では伊邪那岐命と伊邪那美命を祀っており、理解できます。天香具山と考えられます鶴見岳の山上ではカグツチを祀っています。)
相殿
御伴神三座 (東一座 西二座)
一説に
天津彦々火瓊々杵尊(ホツマ伝に拠りますと賀茂別雷命=天君とされています。) 天児屋根命私見では=彦座王=長髄彦=景行天皇=阿蘇津彦=草日部吉見=猿田彦=稲荷神=風神=孝霊天皇=大年神【元来の大歳神は大己貴命の事です】=春日大神であると想われます。因みに春日若宮=御歳神【元来の御歳神は蛭児】その後=春日神は、天児屋根命の子である天村雲命であると想われます。)太玉命

境内 式内社
伊勢國度會郡 高宮 大 月次新嘗
豊受大神宮別宮 多賀宮私見では=青瀧権現=息長水依比賣=市来島姫(斎奉る姫)=天宇受賣=辛国息長大姫大目うずめ命=猿女=八街比賣命=天知迦流美豆比売==豊玉姫=罔象女=稲荷神の妻=比咩神=龍神と同一人物と考えられます。)


 たかのみや 豊受大御神荒御魂  伊勢國度會郡 度會國御神社
豊受大神宮摂社 度會國御神社 わたらいくにみ 彦国見賀岐建與束命

その他の境内社
豊受大神宮別宮 風宮 かぜのみや 級長津彦命 級長戸辺命→(級長津日子命はスサノオ=周に繋がる熊本県玉名の白王家の将軍=太白太子で、鉄を求めて出先国を創った白=新羅シラから、娘の級長戸辺命=天知迦流美豆比売=息長水依比賣と伴にアカル姫=博多の大幡主命系大山祇の娘である神大市姫=天照大神=卑弥呼を追って倭に帰って来た天日鉾命と考えられます。)
豊受大神宮別宮 土宮 つちのみや 大土御祖神=(大年神=日子坐王=猿田彦か、大己貴命と天知迦流美豆比売=息長水依姫=猿女=多祁理比賣命が儲けた大土神)
豊受大神末社 大津神社 おおつ 葦原神
豊受大神所管社 上御井神社 かみのみいの 上御井鎮守神 一般不可→(私見では、日子坐王=猿田彦と息長水依比賣との間に生れた御井津比賣命を指します
豊受大神所管社 下御井神社 しものみいの 下御井鎮守神
豊受大神所管社 御酒殿 みさかどの 御酒殿神 一般不可→(私見では、大年神【大己貴命】と天知迦流美豆比売が儲けた『大山咋神』を意味しています。)
豊受大神所管社 四至神 みやのめぐりのかみ(私見では、、古事記における日子坐王=猿田彦と息長水依比賣=猿女=豊受姫との間に生れた比婆須比賣・弟比賣・歌凝比賣・円野比賣の四人の娘を意味しているものとも?と考えています。) 

 

 

百嶋さまは、酒造蔵の玄関先に吊るす『杉玉』のルーツ研究に、我が由布院(木綿の院)に秘密が隠されていると考えられて、ゆふいんの神社研究をされておられたようですが、亡くなられた現在は伺い訊ねる事ができません。

わたくしが棲んでいます由布院では、『宇奈岐日女命(宇那比姫)』神社(通称『六所宮』と呼ばれ、第十二代景行天皇の御宇十二年冬十月に創祀された。(西暦258年と考えられます)と記され、景行天皇は速津媛(宇奈岐日女命の後裔と考えられます)に迎えられ、土蜘蛛(崇神天皇のことと考えられます)を討伐した時、当地の「二株一幹之霊杉」を見て、皇祖霊と崇め天神地祇皇祖を祀った社であるという。とされ、神紋は十六葉重菊と五七の桐です。國常立尊 國狹槌尊彦火火出見尊 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 神倭磐余彦尊 神渟名川耳尊を祀っています。

宇奈岐日女命神社には、『蹴破り権現伝説』があります。

(古代のゆふいん盆地は湖であったのを、宇奈岐日女命が権現に命じて山を蹴破らせ、湖の水を抜いた。との伝承です。)

わたくしの頭の中では、『六所宮』(宇奈岐日女命神社)は表面上の神を祀っており、本当に祀っていますのは『宇奈岐日女命』であり、歴史上の都合で『幣立神宮』同様に隠されたものと想われます。

※ 『幣立神宮』は第20代安康天皇(穴穂天皇)が、安康3年8月9日、皇后と連れ子の『眉輪王』を連れて避暑の為に来ていて、『眉輪王』から殺された場所と考えられます。

 

此の宇奈岐日女命神社は慶長元年(西暦1596年)の豊後大地震後の大雨に於いて、『椿山』の崩壊が起こり、当時の『』(使者が馬を乗り継ぐ為に、全国の要地に造られていた)の在った馬場浅間ばばせんげん部落が埋まり、『宇奈岐日女神社』も被害をうけ少し移動したものと、研究者に考えられています。

わたくしの考えでは、由布院の『椿山』『椿』の名が、後に、三重県鈴鹿市山本町の『椿大神社』『猿田彦』に繋がっているものと思っています。鈴鹿市には能煩野『王塚古墳』『日本武尊』息長氏が考えられ、秋永町があります。『宇奈岐日女命』の夫は『天足彦国押人命』=『景行(大足彦)』=『日子坐王』=『猿田彦』=『八街毘古命』・・・等々とイメージされます。

『宇奈岐日女命』は『息長水依比賣命』『辛國息長大姫大目うずめ命』『天宇受賣命』『猿女=袁氏の女=漢族』『八街比賣命』『比咩神』『市来島姫』『豊玉姫』・・・等々と同一人物であり、『天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)』とも同一人物である仮定すれば、

 

宇奈岐日女命が命じた権現さんは『大山咋=八咫烏=賀茂建角身命』と『大土神』を意味しており、西暦234年(甲寅)~241年(辛酉)当時、神武=崇神東征頃は倭の大乱第2幕の時期でもあり、多くの人々が近畿に移住したものと考えられますので、それ以前に土木工事を行なったものと考えられます。

この『大山咋=八咫烏=賀茂建角身命です。』は『酒の神』と謂われ、京都の『松尾大社』で『市杵島姫』=『息長水依比賣命』と伴に祀られています。『大山咋』と『大土神』は、『宇奈岐日女命』から命じられ、騒乱を避け『建田氏』と伴に近畿天橋立の籠神社に渡ったものと想われます。

『杉玉』の発祥は『ゆふいん』かも知れません。百嶋推理は正しかった。と考えられます。

 

《その後の調査での補追》

ゆふいん町川北の石武に『石光天満神社』が在ります。由緒沿革には、祭神は、菅原神・高オ神・天照皇大神・天御中主命とされ、天照皇大神は字『大久保』、天御中主命は字『谷』に鎮座の處、明治12年本社に合併。菅原神は、川北字『松尾に鎮座の處、大正5年9月29日許可を得て、同年12月28日合祀する。とされ、元『松尾天満神社』の傍では鉢山(八山)=亀山石棺が文化財として出土しており、当時、別府大学の教授であった故、賀川光夫さまが調査に当たられたと謂われています。

わたくしは、この『松尾』が佐賀の『松尾』に『武内宿禰』の父の『彦太忍信命』に繋がり、『山下影姫=宇豆比古の妹』がゆふいん(木綿院)に居たと謂う根拠でもあります。ゆふいんには『山下湖』があり、傍の『小田の池』周辺では鏃が数多く発見されています。

 

根拠の2としては、ゆふいん町石松に在ります『大杵社』(木へんではなく禾へんです。)オオゴシャでは、椎根津比古命=宇豆比古命を主祭祀しています。この椎根津比古命は崇神(=勝手に神武と名乗った人)を舵取りとして長髄彦の処へ道案内した。とされています。因みに鳥居の脇に鎮座していますのは、狛犬ではなく狛猿で、ゆふいんに猿田比古命=宇奈岐日女命の夫が居たと考えられる根拠でもあります。このゆふいんの『松尾』は京都の『松尾大社』『日吉大社』にまで繋がり、ゆふいんが『松尾』の根源で在ったと考えられます。亦、丹後半島の元伊勢宮と謂われる『籠神社』でも、海部氏先祖として椎根津比古を祀っており、ゆふいんから『建田背』(宇那比姫=宇奈岐日女の長兄)が移動したものと考えられます。

 

百嶋さまの研究の凄さは、平成12年考の百嶋系図には大足彦(景行天皇)の横に彦坐王と朱字で書かれており、その先の息長水依姫と線で結ばれており、つまり彦坐王と大足彦(景行天皇)は同一人物で在る事を神社研究にて解っておられたのであります。わたくしがこの事を、記・紀と宇佐公康氏伝承を元に解明したのは昨年(平成27年)でした。

亦、熊本県『山鹿灯篭まつり』で歌われます、『ヨーヘホ』『ヨーヘホ』の合いの手は、景行天皇(わたくしの解釈では景行天皇=猿田彦)を褒め称える意味である。相だそうです。

百嶋神社考古研究は、記・紀や先代旧事本紀の不足分を埋める大きなヒントを与えてくれました。先人(研究資料)に感謝であります。生前お会いし、語り合いたかった想いで、残念です

 

考古研究には、フィールドワークが大切であり、其の事に気が付かれました久留米地名研究会の『古川清久』さまは、全国の神社を車中宿泊で調査中であります。鬼気迫る迫力を感じます。古川さまに感謝至極。)

 

《追補2》

宇奈岐日女命の正体は、その後の考察にて、伊弉冉で在ったと考えられます。

 

 

 

 

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百嶋由一郎氏の神社考古学研究が齎した、猿田彦の正体。卑弥呼の正体。その1

2016-02-25 | 古代史

わたくしの説では、崇神天皇(神武天皇)が、久留米市大善寺玉垂宮にて『下照比賣命』と福岡県春日市須久近くに居られた『開花天皇』(若倭根子日子大毘毘命)の間で生まれた事になっておりますが、記・紀・日本神話との整合を考えますと此の時期は倭国大乱(大國主命=神産巣日神派と高木神派の権力争い)の真っ最中でもあり、此の時期の登場人(神)物(大國主命・市来嶋比賣命・ニニギ・木之花開耶姫・火照命(海幸彦)・彦火火出見尊(山幸彦)・豊玉姫・玉依姫・ウガヤフキアエズ・等)がどの様な関係を持っていたのかが、気に為りますが、記・紀では神話的に表現され、如何も真実が伏せられています様に感じ、記・紀には頼れません。高良神社下宮で祀られています『孝元天皇』は早世したと考えられ、記・紀ではスサノオ・天照大神・月読命がイザナギ(男神)の目と鼻から生じた事になっていますが、月読命の事跡は殆んど述べられていません。『大善寺玉垂宮』近くの『月読神社』(貝塚古墳)でひっそりと祀られています。

孝元・開花の時期は激動の部族間の政権争いが続いていた。と考えられます。わたくしの説の考えでは『宇那比媛=卑弥呼』や其の甥であります『建諸隅命』とその子であります『竹野姫』・『開花』の誕生年を推察、編年して、大國主命は西暦140年頃に生まれた事になっています。

『多祁里比賣命=市来嶋比賣命』が『豊玉比賣命』・『龍神比賣命』と同一人物であり、『下照比賣命』が『玉依姫』・『水神=水波能女命』と同一人物に想え、『開花天皇』が『彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)=住吉大神』で、同一人物ではなかろうか?。「苅田市に在ります石塚山古墳(3世紀後半造築)が春日市から苅田に移動した鸕鷀草葺不合尊=開花(若倭根子日子大毘毘命)の墳墓であろう。」との自分勝手な思いの念が以前よりありましたが、記・紀ではそれ以上の情報は得られませんでした。

久留米地名研究会の編集員を為さっておられます古川清久さまよりの紹介で、平成27年10月の百嶋由一郎神社古代史研究勉強会に参加させて貰い、神社古代史研究の第一人者で有られました故百嶋由一郎さまの講演資料とCDを別けて戴き、検討させて頂きました。

講演資料からは、並外れた直感力と洞察で世界史・中国史・中国語の豊富な知識を以ってして日本古代史の解明に生涯をかけられたお方と感じられました。

神社史伝承研究の内容は驚くほど正確で間違いが少ないと思われ、わたくしの知識を超えた、豊富な六十数年のフィールドワークの経験と聡明な頭脳を駆使され、世界史観から大局的に日本史を捉えられ、首を促されます事だらけで大変勉強になりました。

百嶋さま(熊本県玉名市出身で黒木氏の末裔の一之瀬氏=今村氏=元は福岡県太刀洗町高橋区今邑の出身と考えられる由。)の最大の功績は、

記・紀には述べていない天之御中主命以後の五柱の神、高御産巣日(タカミムスヒ)神・神産巣日(カムムスヒ)神・宇摩志阿斯訶備比古遅(ウマシアシカビヒコヂ)神・天之常立(アメノトコタチ)神の人的関係と、それ以前の神々の人(神)的関係を含めて系図作成に挑まれた事に尽きるでしょう。

神社考古伝承調査と神紋研究、海外を含めての六十数年に亘ってフィールドワークの観察・考察を行い、1万数千回以上の系図変更をして、記・紀とは全く違った系図を完成されておられ、縄文時代の紀元前3千年頃には中国~朝鮮半島経由のヘブライ人が日本に遣って来ており、『神農さま』や青森県に在ります『八戸市』(第一ヘブライから第九ヘブライが)その痕跡であろう。また、人(イスラエル人・アーリア人・フェニキア人)と文化(鉄・赤砂・青銅・楽器・面・薬・機織・染色・発酵食の技術・言葉や祀り等の風習)の渡来の経路は1、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国南部雲南省~海南島周辺から黒潮に乗って台湾~沖縄~九州。2、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国上海周辺から沖縄・九州へ直接。3、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国~朝鮮半島~九州の、幾つかのルートと考えられておられ、(中国・朝鮮・ミャンマー・ベトナムにも、数多く遣って来ている由。)

九州にて最初の国家的な組織形成が為されたと考えておられ、記・紀が述べています人(神)的・系図的内容は、自分の足と目と頭を使って神社研究考察をしますと実際の古代の流れは大きく違っていると考えられるとの事。

記・紀を始めとする当時の書物は以前の伝承を基にしての記述になっており、当時の権力者である藤原氏(春日氏=多氏=太安万侶)により、歪曲・改竄・捏造が行なわれており、『阿蘇氏の暦』で神武紀元2600年(昭和15年)を勝手に創り、積み上げられた歴史は、間違いだらけで信頼が出来ない。と謂う想いがあるようです。

わたくしも、記・紀に置いては『彦座王』の痕跡が『景行天皇』や『孝霊天皇』として、摺りかえられて消されており、スサノオ~大國主命~崇神時代の考察に於いての、拠り所が無くて困っていましたが、百嶋氏さまの神社研究資料は大変な意味をもっており、古代史研究に大きな前進を齎すものと考えられます。

 

わたくしの特に気に留まったのは次の事項であります。

神武天皇と呼んだ人は二人居て、本当(統)の神武天皇(大白太子)は倭の大乱の時、奴の國(福岡)から南九州(宮崎・鹿児島)へ避難され、その後全国各地へ御巡幸をなされている。もう一人の、後の神武天皇は崇神天皇の事で、勝手に神武天皇を名乗っておられる。記・紀での神武天皇の記述(宮崎神話・奈良県橿原神宮)は、殆んどが嘘であり、混乱を生んでおり、信じてはいけない由。

また、人代最初の天皇と成られたのは開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)であり、大宰府の四皇寺山に降臨され、久留米の高羅山で即位された。九州王朝の本体は高羅大社(もう一箇所は佐賀県の久保和泉に在る由)で、大善寺玉垂宮は出張所であろう。神功皇后は最初の夫は仲衷で在ったが、後は開花天皇と夫婦になっていると考えられる。開花はウガヤフキアエズ(=大矢口宿禰)の後を受けて住吉大神に為ったものと考えられる。

と、述べられておられます。

わたくしの考えとは少し違っており(わたくしの説は大善寺玉垂宮が九州王朝の本体で高羅大社が出張所であり、住吉大神はウガヤフキアエズ=開花天皇であろう。四皇寺山に立ったのは神功皇后と思っていました。佐賀県の久保和泉地区から神崎市日隈地区は和邇氏≒秦氏の拠点と考えられ、古代史の秘密が隠されているものと考えられます。)ますが、

『開花天皇は春日四皇寺山(大宰府市北谷)に顕現された』とされ、開花天皇の存在位置がわたくしの春日市須久岡本地区とほぼ一致しており、『崇神天皇(=ツヌガアラシトとされています)が神武天皇を騙っている』も一致し、神社史研究と神紋だけで歴史の本質を看破されており、其の研究考察力に驚きました。

わたくしは、『本当(統)の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)が居られた』と述べられている事に注目しました。わたくしの頭の中では、二人のハツクニシラスの問題は西暦220~258年頃の時間軸で、神武=崇神で決着が付いていたので、別にもう一人の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)の存在に驚きました。

 

もう一つの驚きは、系図上にスサノオ(=天日槍とされています)の子として『辛国息長大姫大目命』と『市来嶋比賣命』が腹違いの姉妹として記入されて居た事であります。

『辛国息長大姫大目命』が神大市姫=罔象女ミズハノメとスサノオの間の子で記入され、『市来嶋比賣命』がアカル姫=磐(石)長姫イワナガ姫から生れたと記入されていました。

 

{記紀に於いては、大山祇(百嶋説では、=大國主命の父と考えられています)が糸島に居たと考えられますニニギ尊に磐(石)長姫(姉)と木之花開耶姫(妹)の姉妹を差し出しますが、ニニギ尊は石長姫を娶らなかったので、父であります大山祇はニニギ尊(=高木神)の天下が長くは続かないと予想し祈願します。}

 

百嶋系図に於いては、

大山祇(父はウマシアシカビヒコチ、母は天御中主=白山姫=天常立命=小河大神)と、妻であります草野(カヤノ)姫=埴安(ハニヤス)姫との間に、神大市姫=罔象女(ミズハノメ)(=長女)(西暦136年生)、次に大國主命(後に関東にて『武蔵大國魂』と称されます)(西暦142年誕生)と、妹の木之花開耶(コノハナサクヤ)姫(西暦150年生)が記入され、『木之花開耶姫』と『辛国息長大姫大目命』の関係は叔母(木之花)と姪(息長)の関係と謂う事になります。

 

もう一人の神武天皇と、『辛国息長大姫大目命』と『市来嶋比賣命』の関係を調べる事が必要に為りました。

 

 

百嶋さまの神社史研究に影響を与えた書物に、高良玉垂宮神秘書(高良大社発行)がある事に気付き、購入することにしました。

2015年10月20日(火)快晴の下、標高300m程の筑後平野を見下ろす、眺めの良い『高良大社』へ出向き購入(¥10000円)し、耳納スカイラインを通り、発心山~鷹取山から田主丸へ降り、平原古墳・大塚古墳・石垣神社を見学して帰って来ました。石垣神社の楼門の屋根の棟瓦には、ダビデの星(ユダヤの六星マーク)が認められ、此処田主丸はイスラエル系の人々(和邇氏=秦氏)が集落を形成していたものと考えられます。

 

高良玉垂宮神秘書は、元は13世紀頃の巻物(1巻34章551か条)で、当時の祭祀儀礼の作法を片仮名で、図混じりに克明に記した典籍であります。

高良記之初に天神七代の第一に 國常立尊 男神 とされています。此の 國常立尊 男神 をウィキペディアで見ますと

『日本書紀』本文では、国常立尊を最初に現れた神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている。『古事記』においては神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。

『日本書紀』では最初、『古事記』でも神代七代の最初に現れた神とされることから、始源神、根源神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。

と記入されており、

百嶋由一郎さまも久留米市水天宮(全国水天宮総本宮)に祀られています天御中主命(白山比賣命)は伊勢神宮外宮の豊受大神と同一神(天御中主命の子が大山祇=月読命で、その子が罔象女ミズハノメ)と考えるべきである。久留米市より伊勢に移動された。と考えられる。根拠は神紋である、葵と橘と木瓜=門光は関係があり、伊勢神宮外宮と高良大社の神紋は木瓜=門光で、同じである事)と述べられており、宇摩志阿斯訶備日古遅神(金越智=高麗白山経由?のトルコ系人=匈奴で、現在は出雲大社の客人(マロウド)部屋で祀られているのみで、隠された神である)が天之御中主神の夫である由。

 

わたくしには、日本書紀の記述には、藤原氏の捏造の影が付き纏い、余り信頼できないと考えており、天之御中主神、国之常立神、は同一神(女神)と考えています。

と、謂うことは久留米市瀬の下にあります(白山町の傍に水天宮があります)天之御中主神(白山姫)を祀る水天宮と高良大社の高良玉垂宮神秘書に述べられています国之常立神は同一神と考えられ、此処久留米市が古代史上大きな意味を持った地である事が理解できます。

 

記紀に置いては、高天原から天降りされたニニギ尊は、(わたくしの説では木綿の院=由布院から安心院経由で佐田彦=猿田彦が途中まで案内して福岡県糸島市曽根遺跡まで陸路で行った事になっています)笠狭埼(糸島半島)で大山祇の娘である木花之開耶姫と結婚して、火照命(ホデリ)=(海幸彦)・火闌降命(火須勢理命)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)=(山幸彦)が生れた事に為っていますが、糸島市三雲(曽根遺跡の傍)には『細石サザレイシ神社』が在り、其処では磐長(イワナガ)姫と木花之開耶(コノハナサクヤ)姫を祀っています。

 

神社伝承史研究の大家でありました百嶋由一郎さまの説では、『大山祇』は大國主命の父であり月読命・三夜さんとも呼ばれていて、親は金官伽耶系の金越智(キムオチ)=宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)で在った由。『大山祇』(月読命)の姉に大市(オオチ)の姫・燕脂(エンジ=オシロイの事)姫(後に奈良県御所市柏原の燕神社として勧請された)がいる由。

『大山祇』(月読命)は、白川伯王(西暦90年頃生){元々は中国雲南省昆明に起因して北鮮経由で倭(熊本)に遣って来た白(ペイ)族で、福岡県糸島の正統の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)(西暦122年頃生)(その後には、勝手に神武を名乗った崇神=ツヌガアラシトも居た由)の招聘で『奴』の国王になり、姉に白山姫(西暦88年頃生)=天御中主命=天之常立神=小河大神が居た。}の子である草野姫(カヤノヒメ=伽耶のヒメ)=埴安姫と結婚をして、神大市姫(カムオチヒメ)=罔象女(ミズハノメ)=姉と、大國主命、妹に木花之開耶姫が居たとの事。

 

木花之開耶姫はニニギ尊=向山土本毘古王(ムコウヤマトノホヒコオウ)との間でコケムス姫(西暦173年頃)を儲けた後、別れます。その後に、前(埼)玉(サキタマ)比賣命に変名して、鹿児島県溝辺町から関東へ渡ったと考えられる人である。ニニギ尊はその後行方不明なので、金海(韓国)に渡ったのかも知れない。

ニニギを追放したのはウガヤフキアエズ=大矢口宿禰と考えられる由。このウガヤフキアエズ=大矢口宿禰は博多湾~豊前苅田~豊後杵築~豊肥祖母山地区で活躍し、老いて開花に『君長=九州王朝王位=十字剣』を譲った。ウガヤと開花の間を取り持ったのが鴨玉依姫(櫛稲田姫と、大幡主=神皇産霊神の子であります処の豊玉彦=鴨建角身=豊國主=秩父大神との間に儲けた子)である由。

 

(『大山祇』=『月読命』は久留米市大善寺玉垂宮近くの『月読神社』や田主丸町の『三夜さん』にて祀られており、草野カヤノ=伽耶の姫?は久留米市草野(田主丸の西側)に地名が在り、関係が頷かれます。)

 

『倭』の『奴国王』である『白川伯王(西暦90年頃生)=刺国大神』の2歳上の姉である白山姫=天御中主命=天之常立神は、金越智(キムオチ)(西暦85年頃生)=宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)=金官伽耶系新羅金氏=渡来人と結婚をして『大市(オオチ=越智?)の姫』と『大山祇=大土御祖神』=『月読命』を儲けたと謂う事であり、久留米市の水天宮で祀られ、後に三重県伊勢皇大神宮外宮『豊受大神』であるが、隠された本質神は天御中主命と考えられる由。

 

夫であります『宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)(西暦85年頃生)』は群馬県前橋市富士見町に在ります『赤城神社』で祭られています『赤城大明神』の事であり、金槐和歌集647にあります、源実朝(1192年~1219年)の和歌

『上毛(カミツケ=コウズケ)の勢多(セタ)の赤城のから社(ヤシロ)=加羅=韓、大和(ヤマト)にいかで足(アト)を跡(タ)れけむ』

が、13世紀当時は『宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)』を、上毛国でも大っぴらに祀って居たと考えられ、その後に加羅国の王を祀るのは都合が悪い。と謂う事で

『赤城大明神』に変更された。と述べられており、事情により消された神であり、現在は東京日本橋の『水天宮』の男千木に名残があり、後は大國主命を奉る『出雲大社』の客人(マロウド)部屋にてコッソリと祀ってある。可哀想な相(スガタ)の神と謂う事であります。

 

九州倭、伯方(博多)には、白川伯王(西暦90年頃生れの白族)(西暦88年生れの天御中主命=白山姫=天常立=小河大神の2歳下の弟になります)の子であります、大幡主命(西暦110年頃生)=神皇産霊神=クマノ速玉=大若子と、姉が神玉依姫(西暦107年生)、妹に埴安姫=草野姫(西暦113年頃生)が居て、

大幡主命(白氏)は、金鑚大神(カナサ)(西暦106年頃生れの※モーゼ系嬴イン氏)=金山彦=面足尊(オモタラシ)の4歳妹でありますイザナミ=熊野フスミ(西暦110年頃生れのモーゼ系嬴イン氏)との間に豊玉彦命(西暦132年頃生れの白氏+嬴イン氏)=賀茂建角身命=八咫烏=秩父大神=思兼神=豊国主=天太玉=小若子=豊日別=大耶(弥)彦=弥五郎どん(総べて同一人物で、一般に『山幸彦』と呼ぶ)と、2歳姉に新羅から帰ってきたアカル姫(西暦130年頃生れの白氏+嬴イン氏)=磐長イワナガ姫がいます。

 

※モーゼ系嬴イン氏とは、アレキサンダー王に追われて中国に遣って来たイスラエルのモーゼの親族と、秦国の王嬴イン氏(始皇帝)が姻戚を結び、嬴イン氏を名乗るようになり、秦の滅亡後に、韓国~済州島(瀛洲ヨンジュ)経由で豊前~豊後に遣って来た『秦氏』で、漢族『袁氏』の血が混じっていたものも居た。と考えられます。後に琵琶湖の竹生島の瀛イン神社で弁天様として、天宇受賣命(芸能の神)=猿女=辛(秦?韓?)国息長大姫大目ウズメ命=斎奉る姫(市来島姫)が祀られます。

 

古事記ではニニギが結婚を断った事になっています大山祇の娘となっていますが、木花之開耶姫(西暦150年頃生)とアカル姫=磐長イワナガ姫(西暦130年頃生)の関係は、正確には20歳違いの義理姉妹となります

 

アカル姫=磐長(イワナガ)姫(父は博多の大幡主命)を新羅から追って来た(昔氏の)天日槍(アメノヒボコ)は、スサノオ(西暦127年頃生れ)の事であり(スサノオの父はイザナギ=西暦105年頃生れの新羅系昔氏=脱解王系・母はイザナミ=西暦110年頃生まれのモーゼ系嬴イン氏、イザナミの4歳上の兄が金鑚大神カナサ西暦106年頃生=金山彦=モーゼ系嬴イン氏の元祖)、

天日槍(アメノヒボコ)=スサノオは、兵庫県(丹波)から瀬戸内海を通って豊後国東の姫島に来た後、安心院にてアカル姫=磐長(イワナガ)姫(西暦130年頃生)との間で市杵島姫(西暦147年頃生)を儲けていて、その後中津市の古(胡)要神社・古(胡)表宮に来た。と考えられる由。

胡は、胡人=西アジア系ペルシャ人(胡=瀛=秦)を意味しており、後には滋賀県犬上郡多賀町に『胡宮神社』として移動している。近くに在ります『清瀧山』の清瀧も同様に苅田市『清瀧窟』から移動した由。

スサノオはその後に『金鑚大神(カナサ)=金山彦(西暦106年頃生)』と『埴安姫=草野姫(西暦113年頃生)』との間に出来た『櫛稲田姫(西暦134年頃生)』(熊本県山鹿で生れたと考えられています。スサノオの母の兄の子=姪にあたる)を娶り、『瀛津世襲足オキツヨソタラシ姫(西暦152年頃生)=建内足尼=武内足尼』と、『彦國瀛津ヒコクニオキツ(西暦150年頃生)』を儲けている。と考えられるとの事。

 

 

瀛津世襲足オキツヨソタラシ姫は、日本書紀では磯城県=城島県の葉江ハエ=飯江ハエ出身で、尾張連の祖とされ、第5代孝昭天皇の皇后に成り、天足彦国押人と第6代孝安天皇を生み、天足彦国押人の妻に為ったのが、木綿の院=由布院に居た宇奈岐日女=宇那比姫であります。

 

その後の天日槍(アメノヒボコ)=スサノオは、『大國主命(西暦142年頃生れの金官伽耶系金氏+白氏)』の6歳上の姉『神大市姫(カムオチ)=罔象女(ミズハノメ)?(西暦136年頃生)』との間に『辛国息長大姫大目命(西暦154年頃生れ昔氏+金氏+白氏)』を、儲けた事になっており、

 

つまり、スサノオは『アカル姫=磐長イワナガ姫(西暦130年頃生)』と『櫛稲田姫(クシイナダヒメ)(西暦134年頃生)』・『神大市姫(カムオオチヒメ)=罔象女(ミズハノメ)?(西暦136年頃生)』の三人の女性を娶ったと述べられています。

 

わたくしは、神代は古事記・日本書紀に依って考察をしており、スサノオは西暦80年頃生まれの帥升王年代の登場人物と考えて、帥升王=スサノオと推察をしていましたが、百嶋系図ではスサノオ(西暦127年生)は大国主命(西暦142年生)より15歳年上の年代とされており、『帥升王』はスサノオでは無い事になります。

『帥升王』は、周王朝末裔であります姫氏『委奴の國王』で合ったと考えられます、『委奴』とは(いど・いと)と発音され、『怡土の国王』と解釈されます。西暦90年生まれの(百嶋説では、博多湾を治めていたと考えられます=根拠は博多大博通り=大伯通り=大白通りです。)『白川伯王は、帥升王の依頼で熊本から博多に移動して太政大臣として倭を治めて居て、刺国大神と呼ばれた人』の事と考えられています。

大國主命の母とされています、『刺国若姫』とは白川伯王の子と考えられています。

 

この『白川伯王』の子が大幡主=地禄神=神皇産霊神=クマノ速玉=大若子(西暦110年生)で、姉が神カム玉依姫(西暦107年生)、妹に西暦113年生まれの埴安姫=草野カヤノ姫(伽耶の姫とも、とれます。)が居た事に為っています。

埴安姫=草野カヤノ姫は、最初は金鑚大神(西暦106年生)との間に櫛稲田姫(西暦134年)を儲け、次に大山祇=月読命=三夜さん(西暦111年生)の間に神大市姫(=罔象女?)(西暦136年生)大國主命(西暦142年生)木花サクヤ姫=前玉サキタマ姫(西暦150年生)を儲けた事に為っています。

 

『白川伯王』の痕跡は博多で(大博通り=太伯=大白)認められ、大幡主=地禄神=神皇産霊神の痕跡は大野城市白木原周辺から博多湾一帯にて残されており、大山祇=月読命=三夜さんの痕跡は、久留米大善寺城島の『月読命神社内の貝塚古墳』や、田主丸の祭り『三夜さん』にて、埴安姫=草野カヤノ姫は田主丸と久留米の間の『草野地区』にて認められます。天御中主命=白山姫=天常立=小河大神の姿は久留米市の『水天宮』にて、大山祇=月読命=三夜さんの子であります神大市姫(=罔象女?)は久留米市御井町の『御井味水神社』にて認められ、此処では孝霊期(彦坐王)に登場する『朝妻姫』の『朝妻』の地名もあります。彦坐王は田主丸町竹野(草野の隣)で儲けられており、筑後川を挟んで、北側の朝倉市には高木邑があります。高木神やその子であります栲幡千千姫・萬幡豊秋津姫・ニニギ尊が考えられます。高木神=高御産巣日神の正式の名前は『高見』と謂われ、朝倉杷木~千足に『高見』の地名があります。

朝倉甘木には『大己貴神社』にて大國主命の存在が考えられます。

そして、百嶋系図には大國主命を生んだのは、草野姫(=埴安姫)とされ、

日本神話では、神大市姫とスサノオとの間にて、宇迦之御魂神=稲荷神と大年神が儲けられた。と述べられており、宇迦之御魂神=稲荷神は、わたくしの考えでは息長氏(息長水依比賣命?)の事で有り、

(百嶋さまは、宇迦の『ウ』とは熊本弁では『多い』とか『大きい』事を言う。と述べられており、此処では『多氏=阿蘇氏=シナツヒコの御魂神』と解釈を考えられ、『龍神』で有ります息長水依比賣命かその子とされます御井津姫を指す事に為ります。亦、別の解釈としては、宇迦之御魂とはウガヤフキアエズの御魂とも解釈されます。わたくしは、ウガヤは開花天皇と同一神と考えていますので、彦坐王やその妃息長水依姫に繋がり、可能性は有ります)、しかし、『烏ガヤ』と『葺き合えず』で解釈するべきでしょう。

 

百嶋系図でも、神大市姫とスサノオとの間にて、田川(鷹羽)郡香春町の辛(秦?韓?)国息長大姫大目命が儲けられた事になっています。

 

百嶋さまは、辛国息長大姫大目命の『大目』は『ウズメ』と解釈して、天宇受賣命アメノウズメ(古事記)天鈿女(日本書紀)の事であろう。とされています。

天宇受賣命は、『猿女命』とも謂い、古事記では、天照大神の岩戸隠れの場面と、ニニギ尊の天孫降臨の時に登場しています。

 

伊勢神宮外宮の『豊受大神』と、京都伏見稲荷の『宇迦之御魂神』と三重県鈴鹿市の椿大神社の『猿田彦命』の妻『猿女』は豊受姫=豊玉姫=罔象女と、同一人物である。とされ、和歌山県日前神社の鏡は、伊勢神宮外宮の『豊受大神』=『罔象女』が造った。と考えられる。と関連性を述べられています。

 

つづく。

 

 

 

 

 

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