「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

秋永氏探求から紐解く息長古代史21

2011-11-27 | 古代史

わたしのルーツ『秋永氏』の古代の姿が解明出来たようです。(但し、崇神天皇の生存時間軸を現在のウィキペディアの情報を基準に考えていますので、時間軸が変わればもっと明解に為るものと考えられます。)

 

纏めますと、

アカルヒメは、崇神天皇か天之御影神(斎=祝=ホフリの祖で稲荷大明神のモデルと想われる。)の命を受けて、新羅の王子である天之日矛(あまのひほこ)の元へ田川郡大任町大行事秋永(当時は息長)より、妬ついで行き、祈祷・霊験をもって祀り事を執り行ったと想われます。しかし、夫である天之日矛が協力的で無い為、愛想を尽かして日本に帰って来ました。

 

アカルヒメは河内息長氏の居る大阪の比売碁曾神社へ隠れ、後を追ってきた天之日矛は、始めはアカルヒメの出身地である彦山の大任町大行事息長(秋永)へ直行したものと思えます。

しかし、アカルヒメを見つける事が出来ず、暫らくして、調査の結果近畿に居る可能性を嗅ぎ付け、難波への出航の願いを出しますが穴戸に住んでいた倭国の一国の王から『この地より移動してはいけない。』と、関門海峡を通過する許可が出ず、仕方なく、

 

想像1、強行突破して淡路を経て播磨に上陸、その後息長氏の本拠地(天之御影神が居られる処)近江へ赴き、暫らく三国・若狭・丹波辺りで過ごし、息長水依比売を娶ったと考えられます。その後但馬の地へ向かったと想われます。

想像2、博多の志賀島(角鹿つのが)に着いた。天之日矛が角鹿に着いて暫らくすると、崇神天皇に新羅の王子と名乗るものが居る。と報告が来て、様子を探りに家臣を派遣します。そうして、逸れや之やで崇神天皇と面会し、気に入られ、但馬の国や淡路の国を遣るといわれますが、天之日矛は此れを断り、自由にさせて下さるだけで善いと述べ、益々気に入られ、兄弟分の契りと日子坐王(彦坐王)の日本名を戴き、近江や三国近辺を移動し但馬地方に落ち着きます。

 

その後息長大姫大目命(アカルヒメ)の代わりに近江に居た妹の息長水依比売命を娶る事が出来ました。

また、二女の御井津比売命(みいつひめみこと)を久留米の高良大社に日巫女として遣わせているものと思われます。そして、長女?の水穂五百依比売命は狗奴国(益城町)へ遣わせたと思われます。

その後、1、垂仁天皇に3年仕え意富加羅国(おおからくに)に帰った。2、日本で一生を終えた。とも謂われています。

 

一方、アカルヒメは難波から生まれ故郷の大行事息長(秋永)へ戻り、香春神社で祭祀日巫女として、亦、倭国の女王として祀り事を執り行っていたと考えられます。

 

この噂を伝聞した但馬地方にいた天之日矛は、ツヌガアラシトとして一度は香春神社にやって来たと想われます。

 

しかし、神の巫女になったアカルヒメの生き様を見て、アカルヒメを助けて守っていくよう自分の子供や家臣を幾人か置いて、但馬または意富加羅国(おおからくに)へ帰って行ったと想われます。

 

この人達の子孫が、『辛嶋氏』や『鶴我氏』『赤染氏』として現在に在しておられるのだと想われます。息長大姫大目命はやがて亡くなったものと想われます。

 

後世の『宇佐氏』はその後、『大神氏』『辛嶋氏』と共に宇佐神宮を造営にかかわり、左の一の神殿に八幡大神(応神天皇)を祀り、真ん中の二の神殿に比売大神を祀り(息長大姫大目命=阿加流比咩=天照大神と息長水依比売命=稚日女尊(ワカルヒメ)=丹生都比命)、右端の三の神殿に息長帯比売命を祀り天皇家の宗家神社として後世の明治まで天皇家が近畿から何度も参拝することになり、

 

伊勢神宮には一度も参拝は無い理由が理解されます。

 

神話の世界で息長大姫大目命が天照大神のモデルとなり、息長水依比売命が稚日女尊(わかるひめ)のモデルとなったと考えられます。ツヌガアラシト(天之日矛)がスサノオのモデルとも考えられます。

 

第一部おわり。

 

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