「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

地名から紐解く古代史。

2013-05-28 | 古代史

今日は地名について考えて見たいと思います。

以前のブログ(2012年12月28日)で、神武天皇が媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)と出逢った『高佐士野(たかさじの)』は高天原の『佐士野』の意味で、『佐士野』が『佐土原』に転訛ものと考えられます。と述べ、宮崎県に在る佐土原町は高天原(由布院)にある『佐土原』から宮崎方面へ移動した人が名付けたものと考えられます。

 

と記入していますが、高天原と考えられる由布院には、『川上』『佐土原』の地名の外に『川南』の地区名もあります。

 

実は、宮崎県に在る佐土原町の北隣は川南町で、此処には川南古墳群(4世紀頃~6世紀・約60基)があります。

宮崎県には九州最大規模の西都原古墳群(3世紀末~7世紀前半331基)があり、邇邇芸命の天孫降臨や高千穂の名称・神武天皇の東征等、多くの神話・伝説に彩られていますが、わたくしの考えでは、由布院から移動して来た人々は、佐土原・川南からその後西都原へ移動していったものと考えられます。

その根拠は、考古学者により、西都原古墳群より川南古墳群の方が、相対的に繁栄時代が古いことが解明されております。

由布院(高天原)での先人の伝承は川南・西都原に受け継がれ、当地の高天原や霧島神社(霧島神社は由布院塚原に在ります。)・邇邇芸命・木花開耶姫命・神武天皇の説話になったものと、考えられます。

 

また、神武天皇の東征の折、八咫烏が吉野を案内して往く途中に幾人かの国神に出会いますが、最後に出会う石押分之子(いわおしわくのこ)は吉野国巣(よしのくす)の祖と記されております。この条項の解釈では、近畿説では吉野河は奈良県を流れる吉野川で、吉野国巣(よしのくす)は奈良県吉野郡吉野町国栖(くず)と比定し、大方の研究者も納得され、疑念を持って居られない様でありますが、わたくしの考えでは、神武天皇の東征は九州での出来事を指していると考えられ、

神武天皇(若木入日子命)は五瀬命(印色之入日子命)を大分市坂ノ市の「王ノ瀬」{男之水門(おのみなと)}の紀国之竈山(亀塚古墳)で埋葬した後、別府湾の杵築市熊野に上陸、熊野邑に着き、熊を見た後、病に臥せりますが、高天原(由布院)に居られた天照大神と高木神の御魂{建御雷神(たけみかづちじん)}が高倉下(たかくらじ)を動かし須佐之男命が退治した、八俣の大蛇が持っていた「布都御魂」の剣を翳し、復活させます。この出来事が起こった場所が日出町大神愛宕神社であると考えられます。

その後、高木神は「天神御子をこれより奥の方へ入り進ませてはならない。荒々しい神がとても多い。今、天(由布院)より八咫烏(鴨建角身命)を遣わすのでその後ろを進みなさい。」(杵築市鴨川地区に棲んでいた建角身命に、由布院の高木神からの使い人か狼煙にて知らされたものと考えられます。)と述べて、八咫烏(鴨建角身命)を遣わします。

(杵築は元々、高天原を追放される以前に須佐之男一族が棲んでいた場所と考えられ、後に出雲の地に杵築の名前を冠けたと窺われます。この豊後杵築の地には、鴨川の他、祇園社や八坂川が在ります。大内の地名もあり、戦国時代中国地方で名を成し、九州進出を試みた大内氏の発祥地とも考えられます。)

建角身命は元々英彦山の修験者で、英彦山周辺の事情に詳しく、当時吉野川と呼ばれていた、山国川沿いに北上して山国町吉野地区(現在の猿飛千壷峡)を通り、英彦山の南を抜け、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)の居る大和(勝山黒田)を目指したものと思われます。

大和(勝山黒田)は父(垂仁天皇)の叔父であり、義父でもある彦坐王(孝霊天皇)が以前に治めていた場所でもあり、北九州の登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)に渡すわけにはいかなかった、と考えられます。

 

この山国町吉野にて登場したのが吉野国巣(よしのくす)の祖であります石押分之子(いわおしわくのこ)です

國巣(くす)とは現在の玖珠町の「玖珠」の事と考えられます。山国町(吉野)の隣が玖珠町(國巣)です。神武天皇は五瀬命を葬った後、名草の戸畔(玖珠町森、名草台遺跡あり)を退治したと有り、玖珠に居た石押分之子はその後神武天皇に従ったものと想われます。

建角身命の時間軸は当然若木入日子命の時代と謂うことになり、この時代には修験者が存在していたことになり、時代考証を変えねば為らない事になります。

 

亦、日本書紀では、神武天皇がヤマトに移住した後の『移住者への敵意』の条項で、

移住者たちに快く思っていない者たちが記されています。

層富県(そほのあがた)の波多丘岬(はたのおかさき)の新城戸畔(にひきとべ・にいきとべ)。

この場所の解釈は、近畿説では奈良県大和郡山市新木町周辺に居た女族長であろう。とされています。わたくしには、層富は「堆積物の富んだ」と、波多丘岬は「波の多い丘の岬」と解釈され、川・海のイメージが付き纏い、如何しても海から遠い奈良県大和盆地の事とは思えません。

此れまで、わたくしの考えを展開して来ました場所近くに在らねばなりません。

わたくしの天孫族の発祥は別府湾岸であります。ネット地図にて調べてみますと、大分市のJR大分駅近くに「錦町」があり、大分川を挟んで斜め対岸に「羽田」の地名があり、此処は高尾張・葛城・下郡と繋がる天孫族の岬のイメージであり、「にひき・にいき」が「にしき」に転訛したものと考えられ、大分市錦町周辺に居た女族長であった。と解釈されます。亦、此処で出てくる波多丘岬の波多は神功皇后時代に出てきます武内宿禰とも関係が考えられ、湾の対岸にある杵築との関係が偲ばれます。

次に出てくる、巨勢祝(こせのほふり)は和珥(わに)の坂下(さかもと・さかした)に棲んでいるとされ、此の地の解釈は「天理市和珥」とされております。

しかし、わたくしの説の解釈では、和邇氏の本貫地は福岡県の吉井~田主丸であります

此の地には、筑後川の支流である巨瀬川(こせかわ)が流れており、巨勢祝(こせのほふり)とは、吉井~田主丸に棲んで居た酋長と考えられます。

 

最後が、臍見(ほそみ)の長柄丘岬(ながらのおかさき)の猪祝(いのほふり)が記入され、此の解釈は奈良県御所市長柄とされています。

此れも、先ほど出てきました大分市高尾・葛木に「猪野」の地名が在り此処高尾の場所の地形は幅3キロ程の細長い標高70m位の台地が「鶴の首」状態に別府湾に突き出ており(先端を鶴崎と謂う)、此の地の酋長であったと考える事が出来ます。

 

この様に、記紀から読み解きますと神武天皇は近畿では存在を考えられず、豊前~豊後周辺にて活躍をされたお方と認められます。

九州から近畿に最初に渡った大王は彦坐王が孝霊天皇として福岡県勝山町黒田から息長水依比賣命と伴に行き、久留米市大善寺玉垂宮{城島(しき)の瑞垣宮}に居られた崇神天皇が四道将軍派遣後、その子、垂仁天皇を彦坐王が養子として近畿纏向に迎え、初めて近畿王都を開きます。

その後、第38代天智天皇が668年近江で即位。弘文天皇(大友皇子)の後、第40代天武天皇は、ずっと筑紫で過ごして筑紫で亡くなります。

近畿王朝が落ち着くのは、第41代持統天皇が、筑紫で『草壁皇子』を失い、藤原氏の招聘で奈良藤原京へ遷都した。からであったと想像されます。

 

                      大分県ゆふいん温泉在住     秋永 祥治

 

 

 

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筑前朝倉に認められる第98代長慶天皇の墓所。

2013-05-18 | 古代史

現在の天皇系図上では、

第96代後醍醐天皇が足利尊氏と対立して奈良県吉野に移り、足利尊氏は京都に残った公家から光厳天皇・光明天皇(北朝)を立て、建武式目を制定して政務を司ります。

吉野を南朝と呼び、後醍醐天皇は自分の第7皇子、義良親王に譲位して第97代後村上天皇として即位させます。

後村上天皇の第1皇子が第98代長慶天皇で、長慶天皇は弟である第99代後亀山天皇に譲位し南朝勢への協力を求めて全国を行脚したとされ、全国各地に長慶天皇の痕跡があります。

南朝は後亀山天皇で途切れ、以後は第100代後小松天皇から今上天皇まで北朝が続いている事となっています。

 

この南北朝の時代の第98代長慶天皇朝倉に認められます。

 

実は、朝倉市には第37代斎明天皇の行宮が置かれた場所の傍の須川の高木神社裏に『天皇山』(黒巖山くろいわやま)と呼ばれる山が在ります。此の『天皇山』(黒巖山)には第98代長慶天皇を祀っていると謂われています。

長慶天皇が此処須川に御出でになられた時、一夜川と呼ばれていた筑後川を帆掛け舟が行く風景を気に入られ、自分が死んだら此処に葬るようにと述べられ、その後亡くなり『天皇山』に葬られた由。

 

この長慶天皇の存在は全国に73ヶ所もの伝説があって、墓所がはっきりせず、宮内大臣は昭和10年6月に国会臨時陵墓調査委員会を設置。

諮問された四人の小委員会メンバー5年7ヶ月掛けて調査をしますが、遺骸の眠る場所の特定をする事が出来ず、一応、都であった京都右京区嵯峨野にある慶寿院に戻ってきたのではなかろうか。と推察し長慶天皇の陵墓と決めますが、現在まで墳墓の場所は判っておりません

 

此の朝倉須川の陵墓も候補には揚げられますが、最初の段階にて篩いにかけられ、最終調査地の12箇所にも入らず、埋もれてしまっています。

此れは、確たる資料が無い状況で、伝承を基に、四人の話し合い。と謂う主観にて選考が進められた結果だと感じられます。

当時、朝倉が天孫族の本貫地との安本美典説の認識があれば、結果は考えるまでもありません

此処は、高木神、天之忍穂耳命、猿田比古命、第7代孝霊天皇(彦坐王)、第12代景行天皇、神功皇后(息長帯比賣命)、第37代斎明天皇に繋がる天孫族の中心地でありました。

当然、長慶天皇が来られて滞在されたと考えられます。そして、此処で亡くなりになったと大いに考える事が出来ます。

 

その根拠は須川の隣に烏集院(うすのいん)・宮野(みやのの地名があります。長慶天皇は全国行脚の後、烏集院(うすのいん)にて生活をされて居たと考えられ、地元の人々は埋葬地も知っていて案内してくれます。

須川の高木神社の傍にお住いの星野耕一さまに拠りますと、誰かが大正時代に黒巖山に在った墳墓を掘った処、内側を朱に塗った棺が出て、中の遺物は持ち去り、朱に塗られた棺は壊され、元の場所に埋められて土を盛り、目印としていたそうですが、戦後、柿園の造成にてブルドーザーにて壊され、現在は場所の特定が成らなく為った由。

星野耕一さまは代々此処に棲んでおられ、長慶天皇を埋葬したと由緒に書かれています星野胤忠(ほしのたねただ)は、星野家第8代に当るそうです。

須川地区には星野姓が殆んどだそうで、35軒ほどあり、恐らく、新潟県・長野県を始め、全国の星野姓のルーツは此処と思われ、対岸の耳納連山の南にある星野村も此処の星野氏が関係して名付けられたものと考えられます。

宮内庁は再調査をする必要を感じます。

 

 

 

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朝倉はやはり天孫族の本貫地。

2013-05-10 | 日記

わたくしのオーディオアンプは大宰府の町田和明氏から作って頂いております。

音を研究しますと、電気にてアンプ増幅してスピーカを鳴らす音と、針の振動からカンチレバーを介し直接振動盤を震わし、ホーンロードを架けて音を増幅する蓄音機の音は、明らかに違います。実体感は蓄音機に軍配が揚がります。しかし、周波数帯域が狭いのと大音量がでないのが欠点であります。電気増幅の方は、周波数帯域は広いのですが、いかにもステレオ装置のスピーカから聴こえる音と誰にでも判ります。此の電気臭さを失くすのが今までは出来ませんでしたが、夢を叶えられたのが町田和明氏であります。

 

創世期の日本のオーディオ界を牽引された日系フランス人で、現在パリ在住のジャン平賀氏も絶賛し、東のK氏、と西の町田和明氏を挙げられ、パリでのオーディオショーへの参加を依頼されているようです。

この町田和明氏は北九州小倉にある菅野製作所の創業者でカンノアンプを生み出した菅野省三氏の流れを受け継ぐ方で、工業高校出身ながら天才的な頭脳をもっておられ、渦電流での特許も取っておられ、世界中誰も成し得なかった偉業を果たされています。

出てくる音を聴けば判ります。電気臭さが無く蓄音機の音の延長で、一つ一つの楽器とパートが明瞭に聞き分けられ、余分な音が無く、演奏者の表現の幅が広く、諧調のニュアンスが多く、深く聞こえ音楽に浸れます。人類が成し得た最高の技術的成果と感心します。

町田氏のアンプは、音楽の友社『STEREO』誌、平成25年5月号(今月号)の中で青森県のクリーニング店を経営されて居られる方(松浦洋三さま)が紹介されていまして、カンノアンプと紹介されていますが、此れは、町田和明氏が作られたアンプです。全国では、ほんの少しの方しかその音を知って居られません

 

実は、この町田氏の出身は朝倉高木邑であります。町田氏によりますと、氏は子供の頃黒川小学校に通っておられ、近年の同窓会にて、招待した担任の先生が、在任期間の卒業児童の最終学歴追跡調査をした所、旧帝大(九州大・京大・東大等)に進んだ児童の比率が異常に高く他の学校の二倍以上であった由。不思議がっておられたとの事。

また、高木邑に在ります高木神社の祀り(宮座)『黒川くんち』は日本でも最も古い形式で執り行われていると謂われていて、神主の周りに地区代表の長が8人集り、榊の葉を口に含み黙して行うと謂う、現在では宮中でしか行っていない祭祀の方法(毎年10月29日に行われる)で、春分の日と秋分の日には高御産巣日神の娘婿、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命を祀る彦山神社から毎回使者が来られるそうであります。

また、朝倉は、以前は、上座郡・下座郡・夜須郡の三つに分かれて居たそうで、高木邑は上座郡(じょうざぐん)であった由。

 

高木邑は町田氏・薙野氏(なぎの)・杷野氏(はの)の三氏が昔からの名士だそうで、町田氏は、以前は藤原を名乗っていたそうで、京都から来たとの事。前回のブログにて出た、『西家』は入地地区に多くあり、其処には、烏集院(うすのいん)『院』名の付いた地名や近くには久喜宮(くぐみや)の地名もあり、また、猿田比古神・大己貴命を表す佐田の地もあり、此処高木邑一帯は、『倭の大乱』前後の天孫族の本貫地であったと考えるべきでしょう。

 

 

 

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