「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

倭イと、俀タイの違いを考察しました。

2020-06-01 | 古代史

『倭の五王』については、『宋書』にて、讃・珍・済・興・武と、記述を成され、西暦421年(宋)から502年(梁)迄、倭王の記述が為されており、古事記・日本書紀での倭王との整合が出来なくて、研究者の頭を悩ましています。

 

宋書に於いては、

讃と珍は兄弟で、珍と済の関係は述べられておらず、済の子が、興と武の兄弟である。

とされ、『宋書』孝武帝紀 倭国伝では、大明6年(462年)3月、『済』の世次子『興』を『安東将軍倭国王』に任じた。

(477年)『興』が没して弟の『武』が自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」(宋書・夷蛮伝)と称した。

と、記入されています。

『讃・珍・済・興・武』とは、中国的な名前の表記であり、わたくしは、中国の歴史を勉強してみる事にしました。

 

 

中国では、魏・呉・蜀の三国時代は、

『魏』に於いては、220年から265年の45年間で終わり、265年に司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて、『晋』を興します。

280年に『呉』を滅して、三国時代は終わります。

 

『晋』は420年迄(155年間)続くのですが、317年に、『東晋』と、『五胡十六國』に分かれます。317年以前を『西晋』と呼びます。

 

『東晋』時代の華北(中原)は、『五胡十六國時代』と、称されています。

 

『五胡』とは、五種類の胡人(西アジアにルーツを持つ遊牧民)の事で、

キョウド『匈奴』・ケツ『羯』・センピ『鮮卑』(北アジア系)・キョウ『羌』(西アジア系)・テイ『氐』を謂います。

言語・生活習慣・風俗で、アルタイ系・トルコ系・ペルシャ系・モンゴル系で、呼び名が異なったものと考えられます。ヨーロッパ人の総称では、スキタイとも呼ばれます。

 

前燕・後燕・南燕・西秦・南涼を『鮮卑族』が、夏・前趙・北涼を『匈奴族』が、『羯族』は後趙を、『羌族』は後秦を、『氐族』は、後涼・前秦・成漢を、※『漢族』が前涼・西涼・北燕を起てます。

 

つまり、黄河中~下流域の華北(河北・山西・山東・河南・北京・天津)の洛陽を含む広大な漢族の『中原』一帯は、多くの遊牧民族の『胡人で溢れていた』と謂うことです。

 

※『漢族=漢人=華夏族』とは、遊牧民族が遊牧を止めて、中原に定着した人達を指しています。人種が違う訳ではありません。現在では、民族意識の高まりで、『炎帝・黄帝』の子孫が、漢民族の元である。と、歴史を遡りの拡大解釈をされています。

 

『東晋』は、420年に劉裕に禅譲され、『宋』が建てられます。

 

一方の『五胡十六國』は、439年北魏(386年~534年)鮮卑族の拓跋氏に依って、最後の『北涼』が滅ぼされ、『北魏』に統一されます。

 

わたくしは、此の鮮卑族の拓跋タクバツ氏(漢風姓では『元氏』であるので、『北魏』は『元魏』とも呼ばれます。→『源氏』の最初?)が、応神天皇期に倭に遣って来ている。と、考えています。

 

『源氏ゲンジ』の語源は、

一般には、414年南涼が西秦に滅ぼされ、北魏に亡命したトクハツ禿髪ハキョウ破羌が、北魏第3代太武帝(拓跋氏)から、

「卿興朕源同」(拓跋タクバツ氏と、禿髪トクハツ氏は元=源を同じくする)

と謂うので、『源ミナモト』氏の姓を賜り、名を『賀』と、改めさせられた。と、謂う事になっています。此れが、『源氏ゲンジ』の由来とされています。

 

此の禿髪破羌トクハツハキョウ(源賀ゲンガ)の息子が、トクハツアマイ『禿髪阿毎』で、『随書』に書かれています、『俀王姓阿毎』の事であろう。と考えられるのです。

つまり、応神期に遣って来た『禿髪阿毎』又は、『阿毎』の息子達が、「倭王になっている。」と、考えられる事です。

 

わたくしは、応神期~仁徳期で、可能性が有ります人物を考察致しました。可能性があります人物は、『稚野毛二派ワカノケノフタマタノ皇子』(記紀では、父は応神、母は息長真若中比賣とされています)です。ヲホド袁本抒(継体天皇)の4代前の高祖父に為ります。

 

応神天皇については、

本当の応神は、神功皇后の息子の品陀和気命ではなく、崇神(神武)の孫の宇佐押人が、豊前の田川(当時は多賀=鷹羽=西アジア系渡来人=北魏からの渡来者が居たと考えられます。継体期に彦山を開山した僧『善正』も北魏から遣って来ています。)で即位。と、考えています。

田川の帝階八幡神社で、『応神』が即位した。との伝承が在ります。亦、香春町宮園の畑から出土の石棺は、子供用の石棺と『後漢鏡』を有して出土した大人用の石棺が、香春町役場の敷地に展示されており、神功皇后と品陀和気命の墳墓とも、考えられます。(宇佐公康氏の伝承本に拠ります)

 

応神天皇期(宇佐押人)は、中国(東晋・北魏・宋)からの、文化(漢字・儒教・施薬・農業土木・養蚕・機織り技術)の導入を進め、弓月君(後漢の『蜀』の太守でありました、高躬タカミ結び神の一族の倭=井=井真成が有名。の末裔を意味します。南方系渡来の西アジア系月氏です。大山祇・橘氏・日野氏一族は、日田~うきは市~朝倉に展開しています。120県の民を朝鮮半島経由で受け入れています。)・阿知使主(ヤマトノアヤ東漢の祖で、東漢駒子=坂上駒子が朝倉で崇峻天皇=泊瀬部若雀天皇を殺害します。泊瀬部とは、朝倉の山田・長田に在る筑後川の急流瀬の事で、恵蘇の宿が在ります。)・ワニキシ和邇吉師(ワニ王仁の事で、佐賀県神埼の鰐神社で祀られています)・アチキ阿直岐(田川の菟道稚郎子の師となった人)等々を招聘しています。

亦、任那府を通じての百済王への働きかけは、第17代アカオウ阿華王に息子のテンシ腆支=別名は、トキオウ直支王を397年~405年迄、倭で預かります。戦国時代、岐阜の美濃の守護であります土岐氏はトキ直支王の末裔であろう。と、考えています。

美濃の名も、鵜飼も日田が源で有ります。

 

日本書紀では、応神(宇佐押人は、スサノオ=崇神の孫です。)は神功皇后摂政即位13年に武内宿禰命に連れられて、角鹿(敦賀)のケヒ笥飯大神に挨拶に行った事にされています。(ケヒ笥飯神社で祀られているイザサワケ去来紗別大神とは、新羅皇子の天日鉾=スサノオ=崇神が持っていた、イササノタチ『胆狭浅の太刀』から、スサノオ=崇神の後に、若狭地方を支配している人を意味しています。)

 

応神(宇佐押人)を角鹿へ連れて行ったのは、武内宿禰ではなく、御諸別命(宇佐公康氏の本を信じると、スサノオ=崇神の子です。)で有ったものと、考えられます。日本書紀の改竄か、伝承の混乱と想われます。

 

西暦420年頃に若狭地方に遣って来て、

日田~浮羽から、本州に渡って、近江息長氏となって居た処の息長氏と、

婚姻を結んで権力者と為っていたのが、北魏から遣って来た、トルコ系鮮卑族『禿髪破羌=源賀』と其の息子の『禿髪阿毎』です。

『禿髪阿毎』の息子が『稚野毛二派皇子』です。

 

ワカノ『稚野』とは、『若狭の野』を表します。

ケ『毛』は、『髪の毛の異なる渡来人』を意味します。

フタマタ『二派』の解釈は、『二つの系統=一つ目の系統の『倭イ』は、香春町飛鳥宮の近くには、河内と犀川大坂の地名が在り、『河内宮』と呼ばれていたものと想われます。二つ目の系統『俀タイ』は、敦賀の笥飯宮の去来紗別イザサワケ大神。即ち、スサノオ=崇神の神魂の太刀を持って、若狭を治めていた禿髪破羌=源賀であろう。と、思われます。』を意味します。

 

『禿髪阿毎』には、『禿髪稚野毛二派』・『禿髪ヲホホド意富々抒』・『禿髪ウヒ宇非』・『禿髪ウシ汙斯・亦の名を(毘古)彦主人』の4人の男子を儲けています。

 

『禿髪ウシ汙斯・亦の名は(毘古)彦主人』の子が、『禿髪袁本抒=継体天皇』です。

わたくしには、『禿髪阿毎』が、倭王のオオサザキ大鷦鷯天皇(仁徳)の事であろう。菟道稚郎子(宇佐押人の子)は、自殺に追い込まれた。

『禿髪稚野毛二派皇子』が倭の多賀飛鳥宮に居たリチュウ履中天皇(イザホワケ去来穂別天皇と名付けられ、明らかにトクハツ禿髪氏に入れ替わっている。と考えられます。)の事であろう。と、考えています。

 

近江三国(若狭)に居た『彦主人』の子が『袁本抒エンホンジョ』です。日田の『袁氏=倭氏=豊受大神=阿蘇の息長氏(健磐龍命=豊玉彦)の娘(豊玉姫=欝色謎命)を息子(日高日子火火出見尊=兵主神=孝元天皇の事=崇神の実父で、豊玉姫の姪の玉依姫に産ませた崇神が、神武=彦火火出見尊を名乗る事となった原因です。)の嫁にして、北部九州から若狭~新潟迄を治めた大山祇命一族。』の血が混じったものと思われます。『禿髪稚野毛二派』(履中天皇)の子である、忍坂大中姫オシサカオオナカツヒメを義?弟である允恭インギョウ(雄朝津間稚子宿禰、朝妻は久留米御井町に在り、『曲水宴』の遺跡が出ています。)に嫁がせて、安康(穴穂天皇)・雄略天皇(大泊瀬幼武尊、泊瀬は、筑前朝倉を指しています。)を儲けています。

 

『俀タイ』は、『倭イ』から分かれた若狭地方を治めた豪族と、思われますが、継体時以後は、俀タイが兄貴分で、倭イが弟分。と謂う力関係が、600年の随書から覗えます。(507年から、福井=俀タイの、阿毎氏で有ります処の袁本抒=継体天皇=息長氏の血統があり、武烈王=武寧王から、倭イ王に指名されたものと想われます。

銅鏡が、武寧王から袁本抒(阿毎アマイ氏)に送られています。

随書に書かれています処の、「俀タイ王は『天』を持って兄とし、『日』を弟とする。」の件は、『天』は阿毎アマイ氏の比喩で、『日』は豊受大神一族の比喩表現とも、解釈できます。

 

去来紗別大神(禿髪破羌 拓跋賀)が応神(宇佐押人)の元に現れ、名前の交換を迫ります説話伝承が有りますが、去来紗別イザサワケ大神と応神(宇佐押人)が入れ替わったか、入れ替わらなかったか、如何は不明ですが、当時は数多くの渡来人が各地に移動している途中での混乱状態にあり、伝承にも混乱があります。わたくしは、『禿髪破羌 拓跋賀』が、『応神』(譽田天皇)に為り、入れ替わった。御諸別命は関東に行った。と考えています。

履中天皇(イザホワケ去来穂別天皇=禿髪稚野毛二派皇子と想われます。)の子の『イチベノオシハワケオウ市辺忍歯別王・別名は加須利の君』が、百済國21代『ガイロオウ蓋鹵王(即位455年~475年)』に為ったものと推察される。のです。

 

《その後の考察による訂正》2020年9月14日

420年頃に倭に遣って来た『禿髪破羌=源賀』が応神(3世紀後半~4世紀初め頃)の存在と入れ替わる。と謂う事は、一世紀程の時間軸に無理があり、わたくしの頭を悩ましていました。そこで、もう一度禿髪氏・拓跋氏・慕容氏・乞伏氏の所謂、鮮卑族系図を眺めて、考えてみる事にしました。

『禿髪破羌=源賀』は北朝北魏の第3代太武帝より、拓跋氏と禿髪氏は元は一緒である。と謂う事で、『源賀』を414年頃に拝名しますが、『北魏』を造った初代の拓跋珪(道武帝珪386年~409年)の3世代前の『拓跋賀』(321~325年迄拓跋氏の長)が、325年頃に、俀に遣って着ていた。ものと思われます。

『拓跋賀』が『応神(宇佐押人)』と入れ替わって、福岡県田川郡川崎町『帝階正八幡神社』で即位したもの。と想われます。(応神が即位した。との伝承があります。)その後に禿髪破羌が、若狭に遣って着て、田川へ来た。と、考えられます。『大賀』さんは、『拓跋賀』の末裔と、想われます。『大神オオガ』さんは、阿蘇氏です。『大賀』と『大神』は、ルーツが全く違います。

亦、太武帝長男の拓跋晃(タクバツコウ)と恭皇后(郁久閭イクキュウリョ)の間に生まれた拓跋濬(シュン)=文成帝(440~465年の26歳没とされています。)が、仏教を日本に齎した。と、考えています。

文成帝は、雲崗石窟を造らせた、仏教に熱心な教徒で、英彦山に最初に佛教を齎した、北魏の王子『シン→シュン』とは、拓跋濬=文成帝か、その子と、想われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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