「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

正解。邪馬台国の場所と宇佐神宮の比咩大神の正体。

2012-11-19 | 古代史

『三国志』は晋の時代に陳寿(233~297)が編纂したものでありますが、現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬國」と書かれています。この版本は12世紀宋代の紹興年間(1131~1162年)と紹熙年間(1190~1194年)に拠っています。同じく宋代の類書『太平御覧』では『三国志』を引用した箇所では「邪馬国」の表記になっていて、『』(いち・い)と読むか、『』(たい)と読むかで論争が起きています。研究者によっては「邪馬國」と「邪馬国」の表記のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではなかろうか、と謂う説もあるそうです。

「邪馬國」の表記からは、「やまいこく」と読み、山を囲んで拠点として成り立つ国と謂う意味があるそうです。

「邪馬国」の表記からは、「やまたいこく」と発音し、中国での『』の意味は「宮城」の事を意味するそうであり、日本での『』の意味とは少し異なる様であります。

大分県には耶馬溪があり、その並びに院内~安心院~由布院があります。わたくしには、この院内~安心院~由布院~別府~大分こそ「邪馬国」・「邪馬國」であろうと考えられます。

由布院が『高天原』であったと認められ、『室の秋津島宮』の事でもあった。と考えられます。安心院には妻垣神社(共鑰神社)があり、此処では神武天皇の母である玉依比咩命を祀っています。宇佐神宮の元宮とされており、古事記「足一騰宮」や日本書紀「一柱騰宮」として記述されています古社です。宇佐神宮には天皇家と関係があるものと思われ、明治に成るまでは、代々参詣をされているようです。之は妻垣神社が重要な意味を持っていると考えられ、此処、妻垣神社が天皇家の出発地との解釈も成り立ちます。

そうです!!!「院内~安心院~由布院」は『天の中心』だったのです。安心院安曇氏の本貫地であり、玉依比咩命は安心院で生まれ、ニニギ命の天孫降臨の後に糸島に行ったものと考えられ、其処で神武天皇を産んだものと思えます。

そうしますと、福岡県の糸島の日向から東に向けて出発した神武天皇が何故宇佐に立ち寄り、宇佐津比古命と宇佐津比賣命の歓迎を受け、饗宴を受けたのか。と謂う疑問が解けます。多分、従兄妹か親族であったと考えられます。

と謂うことであれば、宇佐神宮の『弐の殿』に祀られているお方は『玉依比咩命である事になり、以前わたくしが述べた息長大姫大目命では無い事になり、訂正を致す事になります。

 

 

《追補》

2014年3月15日のブログ(『多祁理比賣命』に涙する。)の考察にて、宇佐神宮の元宮と謂われます安心院妻垣神社『比咩大神』は、高天原(由布院)より天降りした『多祁理比賣命』が『大己貴命』と結婚して子宝を得て、朝倉甘木にて幸せを得ますが、高御産巣日神に対しての須佐之男命派=新羅系渡来人の反乱(倭の大乱)で、出雲へ逃げる事に為ってしまいますが、『多祁理比賣命』は再び出雲より帰って来たものと考えられ、宇佐神宮『比咩大神』の正体は『多祁理比賣命』であった。訂正いたします。

 

《その後の考察での訂正。追補》

本来の『比咩大神』は、(彦穂穂出見尊の皇后『豊玉姫』の事で、後に天之児屋根命=景行天皇の妃になります。『水波能女命』とも、謂います。)と、『多祁理比賣命』(大己貴命の妃)は、別人です。

 

《その後の考察での追補2》

ヤマト邪馬台国の首都の場所は、ホツマ伝の解読によりますと、

大分県日田市(ヤマテの宮=ケタ臺ツボ)に豊受大神=高躬=倭ゐ族=チベット族と、考えられます人々が紀元205年頃遣って来ます。

曹操の鉄鏡(金銀錯巖珠龍紋鉄鏡)を携えて大山祇命=橘氏等と共に、阿蘇から阿蘇津姫=豊玉姫を、息子(日高彦穂穂出見尊=孝元天皇の事)の嫁に娶り、亦、熊本玉名の白氏の『白山姫』を久留米市大石町から、長男の『耶蘇杵』の嫁に娶り、鹿児島県曾於郡大崎町の『太耳の娘』も『耶蘇杵』が娶ります。『耶蘇杵』の子、大己貴命が朝倉市林田余名持で、生まれている。と考えられます。

西暦206年頃と思われます。

※(記・紀では、『彦穂穂出見尊=孝元天皇』は、瓊瓊杵尊と木之花開耶姫の子とされています。が、ホツマツタエの記述に依りますと、『高躬の子』、と述べられています。姉にイサ子=伊弉冉が述べられています。

ゆふいんを『イサ宮』と述べられて、伊弉冉が居た事に為ります。ひょっとしたら『宇奈岐日女命』は『伊弉冉』かも知れません。

ホツマツタエの記述では、ゆふいん『アサマの宮』で、伊弉冉が『アマテル』を1月1日に産んだ。と述べられています。

瓊瓊杵尊が後に『サカオリの宮』と呼び名を替えています。

景行天皇の息子、日本武尊が愛知県熱田の『ミヤズ姫』宅で滞在中、ハラアサマの『サカオリの宮』を懐かしみ、「絵図を見てみたい」と述べ、『ミヤズ姫』の父親であります『乎止与命』が遥々『ゆふいん』迄来て、絵図を送った。と述べています。

 

 

 

 

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『東院』から導かれる推察。

2012-11-16 | 古代史

古代史において、「院」とは上皇・法皇・女院の御所であると謂う事になっていますが、九州には幾つかの「院」が見受けられます。福岡市には「薬院」、田主丸町には「善院」、大分県には内町・安心町・由布町があります。

「薬院」は春日市に居られたと考えられる第9代開花天皇で説明が出来、田主丸町の「善院」竹野姫とその子である彦湯産隅命(崇道天皇)で説明が出来ます。院内町・安心院町・由布院町は『高天原』にて納得できます。

しかし、大分市にもう一つ「東院(とい)」と謂う「院」があります。位置は南大分に大分大学医学部病院が在りますがその北側です。千代丸古墳・庄の原遺跡・蓬莱山古墳・丑殿古墳が近くにあり、荏隈(えのくま)地区の名前もあり、句呉の豪族の残影を想い起させます。今日はこの「東院」から導かれるものを考えてみたいと思います。

大分市には第2代綏靖天皇高尾・葛木地区に存在を考えられますが、この高尾・葛木地区から南大分の「東院」への方角は「西」になり、「西院」で在らねばなりませんので、このお方ではありません。

後、考えられる天皇は第6代孝安天皇であります。このお方は『室の秋津島宮』におられ、此処は由布院と考えられます。『室』とは固有名称ではなく、四方、若しくは三方を山に囲まれた状態を謂うものと思われ、『盆地』の事を指していると考えます。

此処由布院には義姉である宇奈岐日女命も存在を考えられ、この孝安天皇が由布院から見ると東に当たる位置に「東院」を造ったものとも考えられます。

 

この様に考えますと、やはり、第6代孝安天皇は由布院に存在されたものと考えられ、玉手岡(たまでのおか)の御陵も由布院南大分に在ると考えられます。

 

《追補》2024年3月4日

その後の考察で、

『東院』トイとは、欽明天皇の子第33代『推古天皇』(額田部皇女豊御食炊屋姫尊)が、幼少期に第31代用明天皇(橘豊日天皇・池辺皇子)と一緒に暮らしていた『後宮』の事とも、考えられます。

此処の直ぐ傍に『小墾田宮』オハリダノミヤと考えられます『古国府』フルゴウが『高良神社』と一緒に在ります。

女優の『賀来千香子』さんの先祖が居られた『賀来』の地区が、間に在ります。

『古國府』の傍を流れている『大分川』の向こう岸に『牧』地区が有りますが、北条時政の妻『牧』の方の父親『牧宗親』の出身地は、駿河國ですが、古くは豊後紀氏の『牧氏』と考えています。

藤原不比等の後妻に為ります『県犬養橘三千代』とは、大分『犬飼』地区の『橘氏』の『三千代』と、謂う解釈で、豊後紀氏です。勿論、藤原氏も豊後紀氏(日出町藤原)出身です。

家康に協力した秀吉の正妻の『高台院』(北政所)は、日出藩(木下家)を授かっています。

 

磯城(久留米)斯麻シマ(唐島秋永地区)には、継体と手白香皇女から生まれた『欽明天皇』が、居たと、考えられます。

『欽明天皇』以前は、『武烈天皇』(501年、百済に渡って武寧王に為ったお方)や、百済に渡り『東城王』に為った『牟多』には、衛士500人を付けて送り出しています。此処唐島秋永地区には、他に、蘇我稲目・蘇我馬子(嶋大臣)も居た。と想われます。(蘇我氏の本貫地は奈良県では無く、豊後大分です。お間違えの無いよう注意しておきます。)

蘇我入鹿が殺された場所は、田川(鷹羽)~赤村辺りに在った飛鳥『板葺宮』(浦松遺跡が考慮されます。)です。

第50代『桓武天皇』の生母『高野』の『新笠』の出身地、『高野』タカノとは、『竹野郡』タカノゴオリと、呼ばれていた『唐島秋永地区』を意味しています。

古くは、賀茂建角身命(=八咫烏=玉依姫の父親で崇神の祖父になります。)が、瓊瓊杵尊から賜った『カワイの國』と考えられ、『川会邑』と呼ばれています。(ホツマツタエの叙述に依ります。)

唐島秋永地区から、車で3分位田主丸町へ向かい走らせますと、崇神(八咫烏の孫)の長男の『豊城入彦命』を意味しています『豊城』地区が在ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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古田武彦さまの『九州王朝説』は基本的に正しかった。と考えられる。

2012-11-08 | 古代史

垂仁天皇が近畿「纏向」に往った後の「倭」はどの様な展開を成したのでしょうか。考えて見たいと思います。

 

天孫族は、狗奴国との戦いの後(西暦250年頃以後)、魏の調停の下、数十年かけて近畿・中国・四国・北陸・中部・関東への移住が始まり、各地への分散を行ったものと想われます。秦氏・尾張氏・海部氏等の本体は、先住民(越の末裔)である出雲勢力の少なく、天孫族であるニギハヤヒの領地であった山代(京都)・奈良・近江に移り、尾張氏の建田背は初期に京都の宮津市へ、後期には纏向に崇神天皇を、近くの周りに葛城氏や息長氏・藤原氏・蘇我氏・物部氏等を、配して、近畿王朝を形成したものと考えられます。

多くの天孫族を残して本体が去った九州は、「句(狗)呉」と「天孫族(秦)」が入り混じった状態のまま、再び太伯末裔である狗奴国の王が支配する「倭」と成り、首都を菊池~玉名~山鹿辺りから豊前の行橋・黒田に変えて、新羅・近畿との交易にて栄えたものと考えられます。

 

狗奴国王の血を受け継ぐと推察される御真津比賣命(みまつひめ)と、天孫族と狗奴国の王の血を受け継いでいると考えられる崇神天皇の間に出来た伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)は崇神の後に「纏向」に佐波遅比賣命(狭穂姫)と一緒に出向き、第11代垂仁天皇と為っています。

ところが、第12代景行天皇の時代には九州の「倭」は纏向の謂う事を聞かなくなり、「熊襲の叛乱」として九州王朝(狗呉の王)は討伐をうける事になります。(その様が記紀では、神武天皇の東征業績として捏造されていると考えられます。)その後、倭建命、第14代仲哀天皇にも「熊襲」征伐を受けますが、「モグラ叩き」と一緒で九州王朝(狗奴国王家)は天孫族との争いを重ね、独自の外交と、経済で近畿纏向王朝を軽視します。

討伐を受ける度に天孫族の九州での残存勢力が増大したものと考えられます。527年には第26代継体天皇から、「磐井の乱」として討伐を受けますが、663年の「白村江の戦い」まで独自の路線を貫いたものと想われます。

 

《わたくしの述べる「九州王朝」は、天孫族の王が第11代垂仁天皇まで九州に居たと謂う事であり、古田武彦さまの狗奴国を含めた九州王朝とは時代的に重なる部分と重ならない部分があって、少し違う事になりますが、古田武彦さまの「九州王朝説」は基本的に正しい解釈と想われ、九州王朝(句呉王朝)は「白村江の戦い」まで在った。と考えられます。》

 

 

 

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