「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

記紀の捏造と『狭穂彦王の乱』を読み解く。

2012-04-27 | 古代史

時が経てば、名前(呼び名)が変化する事がありますが、

記紀には随所に捏造されたと考えられる細かな細工が見受けられます。この事を頭に置いて真実の歴史を読み解かなければなりません。例えれば、垂仁天皇条項の『狭穂彦王の叛乱』があります。

開花天皇と伊迦賀色許賣命(いかがしこめ)の間に崇神天皇と御眞津比賣が生まれ、崇神天皇と御眞津比賣が垂仁天皇を儲けております。

また、開花天皇と意祁都比賣命(おけつひめ)の間に日子座王(ひこいます)が生まれ、その子に狭穂彦王と狭穂姫が生まれています。

 

日本書紀によりますと、

垂仁天皇は即位2年2月狭穂姫を皇后にします。その年10月に久留米市大善寺玉垂宮{師木(城島)の瑞垣宮}を奈良県の纏向の珠城宮へ移したと、記入されています。

即位5年10月、皇后である狭穂姫の兄、狭穂彦が妹の狭穂姫を唆(そそのか)して暗殺未遂の叛乱を起こします。

以下は、その内容の全容です。

 

四年の秋九月。皇后の兄の狭穂彦王(さほびこ)(ともに垂仁天皇のいとこ)が謀反を企て、国を乗っ取ろうとした。そして皇后に、「おまえは兄と夫とどちらが大切か」と尋ねた。皇后はそれが重要なことだとは思わず、「兄の方が大切です」とすんなり答えた。すると兄は皇后に、「容姿だけを頼りにしていれば、やがては老いて相手にされなくなる。最近は美人も多く、天皇との縁組を求める豪族も多い。容姿だけではどうにもならないのだ。しかし、もし私が君主となれば、おまえと二人で、百年でも君臨することができる。どうだろう。私のために天皇を殺してくれないか」と言って、紐のついた小刀を渡し、「この小刀を衣服の中に隠し、天皇が寝ている時に首を刺して殺せ」と命じた。皇后はどうしていいかわからなかったが、兄を諫めることもできず、その小刀を衣服に隠した。

 五年の冬十月。天皇は久目(くめ)に出かけ、高床式の屋敷に滞在した。この時、天皇は皇后の膝枕で昼寝をしていた。しかし、皇后は兄の命令を実行できなかった。「兄の謀反のチャンスは今しかないのに」と思うと、涙がこぼれ、それが天皇の顔に落ちた。天皇は驚いて目を覚まし、皇后に、「夢を見た。小さな蛇が私の首にまとわりついた。また狭穂(さほ)狭穂彦王の地盤であろう)の方から大雨が降ってきて、顔を濡らした。これはなんの前触れだろうか」と語った。皇后は隠し切れないことを悟り、ひれ伏して兄の謀反を打ち明けた。そして、「私は兄の意志に逆らうこともできず、また天皇の御恩に背くこともできませんでした。打ち明ければ兄を亡くし、打ち明けなければ国を傾けます。それからは苦悩の日々でした。今日、天皇が昼寝をしたのを見て、兄のため、とも思いましたが、涙がこぼれてできませんでした。夢で見たという小さな蛇は、小刀の紐のことでしょう。大雨は私の涙のことでしょう」と申し上げた。天皇は皇后に、「これはおまえの罪ではない」と語った。
 そして近隣の兵士を集め、上毛野君(かみつけののきみ)関東北部の豪族)の一族の八綱田(やつなだ)に命じて狭穂彦(さほびこ)を討たせた。すると狭穂彦は軍勢を率いてこれを防ぎ、稲の束を積んで砦を作った。守りは堅く、破ることができなかった。これを稲城(いなき)という。翌月になっても降伏しなかった。すると、皇后が悲しみ、「私は皇后ですが、兄を失うことに堪えられません。私にも責任があります」と言って、子の誉津別命(ほむつわけ)を抱いて、兄のいる稲城に入ってしまった。天皇はさらに軍勢を集め、その砦を囲んだ。そして、すぐに皇后と皇子とを出すようにと伝えたが、出てこなかった。将軍(いくさのきみ)の八綱田(やつなだ)は火を放って砦を焼いた。それで皇后は皇子を抱いて外に出てきて、「私が兄の砦に逃げ入ったのは、私と子に免じて兄を許してもらえるかと思ったからです。でも許されなかったということは、私にも罪があったのでしょう。捕われるよりは自害します。ただ、天皇の御恩は忘れていません。私がしていたお側のことは、天皇の気に入った人に任せてください。丹波国(たにはのくに)(京都府北部・中部)には五人の姉妹がいます。みな貞潔な人たちで、丹波道主王(たにはにちぬし)の娘です。屋敷に迎え入れ、私の代わりとしてください」と申し上げた。道主王(ちぬしおう)は第9代開花天皇の孫にあたり、彦座王(ひこいますおう)の子である。あるいは、彦湯産隅王(ひこゆさすみおう)の子ともいう。
 天皇はこれを聴き入れた。その時、稲城が燃え崩れて、兵士たちが逃げ出した。狭穂彦と妹はともに稲城の中で死んだ。天皇は八綱田(やつなた)の功績を称え、倭日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなだ)(火に立ち向った勇敢な八綱田)と呼んだ。(日本神話の御殿より転写。)

 

と、記述されております。

わたくしが、赤で染めた字が現在の呼び名と異なっていて、捏造亦は、時代による変化の疑いが持たれる処です。最初の「久目」は現在の「久留米」の事で在りましょう。これは、久目(くめ)の呼び名が自然に久留米(くるめ)に変化したものと考えられます。次の、「狭穂」(さほ)「嘉穂」(かほ)と考えられ、之は、間違いなく捏造されたと想われます。「稲城」(いなき)「稲築町」(いなつき)の事だと解ります。これも捏造と想われ、そして、「上毛野君(こうげのきみ)の八綱田(やつなだ)」は築上郡「上毛町(こうげちょう)」の「八ツ並(やつなみ)」の地であろう。と想われます。これは、明らかに故意に替えたと感じられます。豊木入日子命は上毛野君・下毛野君になっており、本来ならば、はっきりと豊木入日子命と記入出来るのに、「八綱田」と個人名とも地域名とも解らぬ表現にして、『ぼかし』をしており、編纂時の政治状況を察することができます。豊木入日子命は崇神天皇の子であり、息長氏の血が流れており、秋永氏集落がある傍の田主丸町に豊城トヨキの地名があり、現在、上毛町から中津市にかけて秋永氏が数軒あるのも頷けます。

 

此の、嘉穂郡や稲築町は、現在は嘉麻市となっており、近くの飯塚市穂波町には天道と謂う地があり、近くに大将陣山と謂う標高112mの山があり、山頂の脇には湧水もあり、大将神社が祀られており、伝によると、天慶4年(941年)源道仲が藤原純友の叛乱の討伐の勅命を受け{天慶(てんぎょう)の乱}、当山に陣を置き、天道の加護により亡ぼそうと、日天子を勧請して祈った事から大将陣山と謂われている。と考えられていますが、この地は、稲築町とも近く、古くは狭穂彦の乱とも関係がある山なのかも知れません。

 

と、謂うことで、記紀にて記述されています、狭穂彦王の乱は、垂仁天皇が福岡県久留米市の玉垂宮に身重の狭穂姫を連れての里帰りの時、福岡県嘉穂郡稲築町で起こった事件であった。と読み解く事ができます。

 

 

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神武天皇を再考する。3

2012-04-24 | 古代史

開花天皇の妃は、4人、子は5人(男4人女1人)

崇神天皇の妃は、3人、子は12人(男7人女5人)

垂仁天皇の妃は、7人あり、子は16人(男13人女3人)もあります。

妃の出自(しゅつじ)をたどって可能性を絞り込んでみました。春日市須久・岡本に棲んでいたと考えられる開花天皇の妃は、4人で、皇后である竹野比賣は丹波(大分県)の由碁理で除外。伊迦賀色許賣命は可能性あり、意祁都比賣もあり、鷲比賣の父は葛城の垂見宿禰で産まれた子の名前が建豊波豆羅和気命でありますので、大分県の尾張氏の出身と考えられ、除外。

久留米市大善寺の玉垂宮に棲んでいたと想われる崇神天皇の妃は3人で、遠津年魚目目微比賣(とおつあゆめめくはしひめ)と意富阿麻比賣(おおあまひめ)は大分県杵築市で除外。御眞津比賣は崇神の妹で可能性あり。

 

崇神天皇に同じく、人生の前半を久留米市大善寺の玉垂宮に棲んでいたと想われる垂仁は7人の妃があります。その内、九州で娶っている(間違いの無い)と考えられるのは、日子座王(ひこいますのみこと)の娘である沙本毘賣命(さほびめのみこと)です。沙本毘賣命亡きあと日子座王の子である丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばのひこたたすみちのうしのみこ)の娘である、比婆須比賣命(ひばすひめのみこと)を娶って5人を、3人目として比婆須比賣命の妹である沼羽田之入毘比賣命(ぬばたのいりびめのみこと)を娶って、沼帯別命(ぬたらしわけのみこと)と伊賀帯日子命(いがたらしひこのみこと)の2人を、4人目に沼羽田之入毘比賣命の妹の阿邪美能伊理毘賣命(あざみのいりびめのみこと)を娶り、伊許婆夜和気命(いこばやわけのみこと)と阿邪美都比賣命(あざみつひめのみこと)の2人を儲けています。5人目には、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこと)(=由碁理の子の彦湯産隅命の子であります。)の娘である迦具夜比賣命(かぐやひめのみこと)を娶って、袁邪弁王(おざべのみこと)1人を儲けています。6人目と7人目は山代の苅羽田刀弁(かりはたとべ)と弟苅羽田刀弁(おとかりばたとべ)で、この2人は苅田の豪族の娘と想われます。ので、息長氏である可能性があります。しかし、「山代の」と謂う前訂が在りますので、山代に渡った息長氏と捉えるべきでしょう。

7人の妃を考察しますと、この時間軸では日子座王は近畿で生活をしておられ、2番目の妃である比婆須比賣命以降の妃は近畿に居られたと考えられます。沙本毘賣命の産んだ品牟都和気命のみ考えられます。しかし、このお方は大人に成っても言葉が出ない様な記述があり、まず、考えられません。

 

垂仁天皇の16柱の子に博多で生活されて居て、神武天皇と思しき人物縁者は見当たりません。

 

父である崇神天皇の子12人の博多での生活の可能性を考察しましょう。

遠津年魚目目微比賣は豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)と豊鍬入比賣命(とよすきいりひめのみこと)の2人を儲けています。豊木入日子命は上毛野の君・下毛野の君になっており、之の上毛野は、福岡県築上郡「上毛町」の事と考えられ、豊木入日子命は、後に、沙本毘古命と沙本毘賣命の乱を鎮める「八綱田」の事だと考えられます。豊鍬入比賣命は伊勢大神宮の祭主となられた方です。次に娶られたのが、意富阿麻比賣命(おおあまひめみこと)で、杵築市から久留米市大善寺に笈出ておられます。子は大入杵命(おおいりきのみこと)この方は能登臣の祖となり、次に生まれた、八坂之入日子命(やさかのいりひこのみこと)は岐阜県可児市へ渡っており、其処で八坂入姫と弟姫を儲けています。

その後の、沼名木之入比賣命(ぬなきのいりひめのみこと)は不明。十市之入比賣命(といちのいりひめのみこと)は苅田~行橋・みやこ町・豊津町辺りと考えられます。

 

御眞津比賣命は伊玖米入日子伊沙知命=垂仁天皇、伊邪能眞若命(いざのまわかのみこと)、国片比賣命(くにかたひめのみこと)、千千都久和比賣命(ちちつくわひめのみこと)、伊賀比賣命(いがひめのみこと)、倭日子命(やまとひこのみこと)の6人を儲けております。この中で、博多で暮されたと思しき方は、千千都久和比賣命が感じ取れます。伊邪能眞若命・国片比賣命・伊賀比賣命は不明です。また、一番末の倭日子命(やまとひこのみこと)は久留米市御井町にある祇園山古墳に埋葬されている。と想われます。

と、謂うことで、此処でも余り神武天皇に関係を認める人は見出せませんでしたが、千千都久和比賣命は気になります。

 

開花天皇はどうでしょう。

皇后の竹野比賣命は比古由牟須美命(彦湯産隅命)(ひこゆさすみのみこと)1柱。

次の妃、伊迦賀色許賣命(いかがしこめみこと)(元、孝元天皇の妃であり、饒速日命に繋がる内色許男命の娘であります。孝元天皇との間に比古布都押之信命(ひこふとおしのまことみこと)があります。孝元天皇が早逝去されたと考えられます。)は御眞木入日子印恵命(みまきいりびこいにえのみこと)=崇神天皇と、御眞津比賣命(みまつひめのみこと)の2柱があります。この御眞津比賣命は崇神天皇と結ばれ、垂仁が生まれています。

3人目に、和邇臣の祖、日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹である意祁都比賣命(おけつひめのみこと)を娶って日子座王(ひこいますのみこ)を儲けていますが、この日子座王は後に、近畿に渡って往きます。

4人目の鷲比賣命は建豊波豆羅和気命を産んでいますが、前述のように、尾張氏と考えられ大分県方面が考えられます。

以上、開花天皇の御子に、神武天皇に繋がる縁者は見出せませんでした。

 

では、神武天皇景行天皇の関係をどの様に解釈すればよいのでしょうか。

 

神武天皇は博多(日向)に居た時に阿比良比賣(あひらひめ)を娶って多芸志美美命(たぎしみみみこと)、次に岐須美美命(きすみみみこと)を儲けていますが、倭を平定した後、大后として、狭井河(さいがわ)=(みやこ市豊津町犀川と想われます。)の傍に棲んでいた伊須気余里比賣(いすけよりひめ)を娶って、日子八井命(ひこやゐみこと)、次に神八井耳命(かむやゐみみみこと)、次に神沼河耳命(かむぬなかはみみみこと)の三人、都合五人を儲けている事になっています。

多芸志美美命は、後に綏靖天皇になる神沼河耳命に殺されます。その時、一緒にいた兄である神八井耳命は、忌部(祭祀を司る役)になって神沼河耳命に天皇を譲ります。そして此の兄である神八井耳命は、古事記には19もの姓氏の祖と書かれており異常であります。これは何を意味するのでしょうか。

ひょっとしたら、此のお方が、沖津宮に渡ったお方ではないかとも感じられます。

沖ノ島は島全体が、夥しい遺跡の宝庫と謂われる祭祀の痕が残っており、此処に、天孫族の、各地の力をつけた豪族がお参りをして、姓氏を頂いたものとも考えられます。通常は天皇が姓氏を与える事になっていますので、此処に宇佐公康氏の記述した神武天皇が居られたとも考えられます。しかし、こうして考察をしますと、神武天皇の子の神八井耳命(かむやゐみみみこと)であれば、考えられる事になります。

(こうして考えますと、当時は祭祀と国務が両輪であった事がよく理解できます。)

宇佐公康氏伝承は神武天皇の子である神八井耳命が沖ノ島の沖津宮(多祁理宮)に居たと考えられます。

 

また、神沼河耳命(かむぬなかはみみみこと)は本当に存在をしたのでしょうか?

(わたくしの頭の中では、神武天皇の実存は垂仁天皇の後にあり、7世紀後半~8世紀初頭の時期に神武天皇を初代天皇に持って来たものと考えられ、古事記の記述にも猜疑が持たれています。)

神沼河耳命が架空のものであれば、綏靖天皇とは繋がらない事になります。

わたくしの考えでは、神沼河耳命は、神武天皇を初代に持って来て、綏靖天皇と繋ぐ為に必要な人物と感じられ、神沼河耳命は存在しなかったものと想われます。

この、記紀の捏造の理由は、智導世津翁さまのブログ『古代史の謎を解く旅Ⅱ』の「真実の神武東征」で述べられていますように、中国に対して、近畿大和に「日本国」が、古来より存在していたことを、証明するためのカムフラージュとして、「倭国筑紫・豊王朝」の「帝紀・旧辞」を元にして、天武天皇の681年編纂の詔により、早急に、日本国列島史を、「古事記」・「日本書紀」として出さざるを得なくなり、712年古事記、720年日本書紀が献上されたものと考えられます。

 

垂仁天皇の筑紫の血縁者である神武天皇が、黒田を平定した戦の知らせを聴かれた、(近畿纏向居られた)垂仁天皇は、倭の様子が気になり、体躯の大きかった景行を倭国の天皇として派遣したものと考えられます。直ぐに、神武は親族の本家である景行天皇に譲り、博多の香椎に戻ったものと考えられます。景行天皇は黒田の地に御所(行宮)を置き、七年間も九州の地をうろついて平定に勤めたものと考えられます。景行の後を成務が継ぎますが子が無くて、亡くなり、成務の兄弟である倭武命の子である仲哀が天皇になられます。

以上の考察が、神武天皇の東征の実態ではないかと、考えられます。

 

《補追》

景行天皇に勝山黒田を渡した後、若木入日子命(神武天皇)は秋津嶋宮(木綿の院)を授かり、久米将軍と由布院(高天原)に遣ってきて、出雲に渡った『神の末裔』である姫蹈鞴五十鈴比賣命(速津比賣命・宇佐津比賣命)と出会い、結婚しています。

 

 

 

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神武天皇を再考する。2

2012-04-22 | 古代史

(古事記を読んで、)わたくしの感じる神武天皇は、余りにも詳細に描写されており、他の欠史8代の天皇の描写との落差にどうも腑に落ちないものが有りました。稗田阿礼の誦習を、712年太安万侶によって献上された事を考えると神武天皇条項は信じる事が出来ません。何か捏造を感じるものがありました。そんな中、智導世津翁(大芝英雄)さまの説を拝見させて頂き大いに肯けるものであり、東征は倭国(北部九州)内での出来事と確信を感じました。

そして、もう一つ。

おとくにさまの研究ブログ『古代豪族』にて驚く事を述べてありました。『宇佐氏考』を読んで行きますと宇佐公康著『古代が語る古代史』の系図をおとくにさまは、看過出来ないものとして、参考系図として載せてあり、そこには、神武天皇は景行天皇の弟とされており、以下はおとくにさまの解説・論考から転写させて頂きました。

 

神武天皇の東遷の時、記紀に記述通り、神武一行は宇佐国に寄った。この時宇佐津彦・宇佐津姫夫婦は一行を歓待した。

この時宇佐津彦は自分の妻を神武天皇に服従と忠節の証として差し出した。

宇佐の地で神武と宇佐津姫の間に産まれたのが記紀で宇佐津姫と中臣氏祖天種子命の間に産まれたと記されている「宇佐都臣命」である。これは宇佐家系図では「稚屋」と記されている人物である。

この稚屋は伊予国の越智宿禰の娘「常世織姫」を略奪し妻とした。この間に産まれたのが宇佐家系図で「押人」と記された人物である。この人物こそ後の真の応神天皇である。

稚屋は越智氏の恨みをかい、次の越智氏との戦で戦死。この墳墓が宇佐八幡宮のある小倉山(亀山)である。

神武天皇はその後、宇佐津姫を連れて安芸国の多祁理宮(宮島の近く)に行った。この地で二人の間に「御諸別命」が産まれた。記紀では御諸別は崇神天皇の曾孫彦狭嶋の子供で東国で活躍し毛野氏の祖となっている人物である。

神武天皇夫婦は共にこの地で亡くなりその墓は宮島の弥山にある。

神武天皇の兄が景行天皇で、神武の遺志を継ぎ、九州各地瀬戸内で活躍し阿蘇国で没す。その子供の成務天皇は、長門国・筑前国を本拠地として活躍したが子供がなく景行天皇の子供である「倭武」の子供の仲哀天皇が後を嗣ぎ、神功皇后と九州の従わない部族(熊襲)の征伐を試みるが半ばで忠臣である武内宿禰に暗殺された。

神功皇后と武内宿禰は不義の間柄となり、その間に誉田別皇子が産まれた。記紀ではこの皇子を応神天皇にしている。

御諸別は神功皇后・武内宿禰・誉田天皇勢力を打ち破って誅した。自分の甥であり神武にとっては孫である「押人」を応神天皇として大和国高市郡白橿村の軽島豊明宮で即位させた。ここにはじめて天下国家を統一した。

神功皇后と誉田天皇は豊前国田川郡香原岳勾金に幽閉されこの地で亡くなった。誉田天皇は4才で早世した。武内宿禰は落ち延びたが行方不明。

宇佐氏との関係は神武天皇の日向時代に産まれた子供「常津彦命」を宇佐津彦の養子として宇佐国造を嗣がせ、その養子として神武の子供「稚屋」を跡継ぎとし、その子「押人」がその後を嗣ぎその子供の「珠敷」が宇佐の首長として宇佐氏が嗣がれていくことになる。(一部明記されていないが前後の関係から筆者判断)

概略以上のように古伝は伝えていると筆者は理解した。

宇佐公康は記紀編纂時に宇佐氏はことさら上記事実を公表することをはばかり、事実を捏造して現在記紀に記されている宇佐家系図を公表したのであると記している。

 

とされています。何んと、謂うことでしょう。

神武天皇は、東征の時、記紀にある通り宇佐に行き、宇佐津彦・宇佐津姫夫妻の歓待を受け、恭順の印として、宇佐津姫を差し出されます。この宇佐津姫との間に出来た子が宇佐都臣命(稚屋命)で、稚屋命がその後、四国の越智氏の常世織姫を略奪して押人を儲けます。この押人が後の応神天皇に成った。とされています。

 

北九州市小倉南区(不弥国=富美国=登美国)曽根から朽網(当時は難波と呼ばれていたと想われる。)で上陸した神武天皇は、垂仁天皇が近畿に行き、居なくなった後の勝山黒田の地で、饒速日系(不彌国)長髄彦と、移住地として先駆け獲得競争をしたものと考えられます。先に着いて土地を確保していた長髄彦は、博多の地から遣って来た神武四人兄弟一族(多分、春日に居られた開花天皇に係る、春日建国勝戸賣一族と関係がある一族と考えられます。)と苅田町近衛ヶ丘(孔舎衛の坂)辺りで交戦したものと想われます。此処で神武の長兄の五瀬命が負傷して、

「私は日神之御子(ひのかみのみこ)として日に向かって戦ったのが良くなかった。そのため賤しい奴から痛手を負った。今から廻り進んで、背に日を負って討とう」と誓って、南の方より廻り進んだ時、血沼海(ちぬのうみ)に着いてその手の血を洗った。そこで血沼海(ちぬのうみ)と言うのである。(日本神話の御殿より)

 

と古事記にありますが、血沼海は別府の血の池地獄が想像され、傷の手当の為に別府温泉に来たものと考えられます。五瀬命は紀国男水門(きのくにおのみなと)で亡くなり、紀国の竈山(かまどやま)に葬られますが、大分・別府から杵築にかけては紀氏・海部氏・尾張氏の本貫地であります。此処別府には、内竈(うちかまど)と謂う地名も残っております。此の男水門(おのみなと)とは、大分市坂ノ市に丹生・尾田川があり、其処の河口は『王ノ瀬』と謂い、直ぐ近くの『里』地区に4世紀末~5世紀前半と考えられています大分県最大級の前方後円墳『亀塚古墳』があり、此処が五瀬命の埋葬地と考えられます。盗掘によって大半の副葬品が失われておりますが、記紀の行動記述とも合っており、この考察は間違い無いものと考えられます。

 

神武天皇は、熊野経由で大和(邪馬投=邪馬壹国+投馬国)を目指しますが、此の熊野は別府湾日出~杵築にある熊野と想われます。そして、神武が気を失って高倉下が横刀(たち)を持って目覚めさせますが、此の地は日出町大神の愛宕神社(高倉下)と考えられます。また、吉野の地名は耶馬溪にあります山国町にあり、英彦山・耶馬溪一帯を古代は吉野と呼んでいたものと考えられます。神武天皇は耶馬溪から北上して勝山黒田の地(大和)を目指したものと想われます。この時、神武天皇一行を案内する八咫烏(やたがらす)が登場しますが、この八咫烏と謂われる人建角身命(たけつみみのみこと)の事と謂われており、この「建」の付く名前を持つお方は総べて大分県の出身の由来と考えられ、京都にある賀茂神社も豊後に由来があると謂えます。

そもそも八咫烏とは彦山で修行をする修験者の出で立ちの事で、顔(鼻)に烏(カラス)の嘴(くちばし)をして山中を徘徊するところから名付けられたものと考えられます。

日出~杵築の場所も理に適っていまして、これが歴史の真実であると考えられます

 

 

神武天皇は、垂仁後の倭を平定し、安芸国の多祁理宮(大分県国東半島安岐にあります宇佐神宮別宮である奈多宮の事であろうと考えられます。当時は多祁理宮と呼ばれていたものと考えられます。300m沖には市杵島と呼ばれる岩礁があり、比売大神の発祥の地とされています。亦、葬られた弥山(みせん)は奈多宮のすぐ近くに在る見立山の事であろうと想われます。)にて、亡くなるまで此処に居られた。とされ、統一後は兄とされている景行天皇が九州の倭国を治め、後に阿蘇にて亡くなったとされています。景行天皇の子である成務天皇に子が無くて亡くなり、成務の兄弟の倭武命の子である仲衷天皇が後を継ぎます。仲衷天皇は武内宿禰から殺され、神功皇后と武内宿禰の間に誉田別命が産まれます。

神武天皇と宇佐津姫が、奈多宮で産んだ御諸別命が兵を挙げ神功皇后と武内宿禰の軍を破ります。武内宿禰は行方不明となり、神功皇后と誉田別命が香春町勾金に幽閉され、誉田別命は4歳で亡くなった。とされています。

 

全く驚くべき記述であり、一般の研究者の方からは理解が得られ難いかとも想われますが、わたくしには、之は大方歴史の真実である。とも考える事ができます。

 

その根拠は、古事記において、神武天皇及び景行天皇の記述条項に、久米直(くめのあたい)が、どちらにも将軍として出て来ています。これは、神武と景行が兄弟であったか、それに近い関係で在った証拠と考えられる事になります。

しかし、兄弟であるとすると、五瀬命(いつせみこと)・稲氷命(いなひみこと)・御毛沼命(みけぬみこと)・若御毛沼命(わかみけぬみこと)=神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこみこと)=神武天皇 の4人兄弟は垂仁天皇の子、若しくは関係者であらねばなりません。

あるいは、景行天皇と神武天皇は垂仁天皇の子では無い事も考慮しなければなりません。

また、稲氷命か御毛沼命が景行天皇であらねばなりません。色々と考えが錯綜し、この時代の人的整合の考察が問われる事になります。

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神武天皇を再考する。1

2012-04-20 | 古代史

こうして欠史8代は九州に居られたと謂う考えで、次々にブログを書いていますと、次第に考え方が変化して、書き直して置き換えたいと思えるブログが数多く出てきます。その中の一つが「神武天皇はいなかった。」であります。

神武天皇の近畿への東征は無く、九州にずっと居られたのではないかと謂う考えがいつも頭の片隅にあり、再度神武天皇への取り組みをしなければならないと考えておりましたが、ネットを覘いていましたら、『古代史の謎を解く旅Ⅱ』と謂う、ブログを発見しました。

智導世津翁さまと謂われる方で、この方の考えの軸は大芝英雄さまと、古田武彦さまの考え方に影響を受けられ、豊富な知識と鋭い観察力を駆使して古代史の解明に挑まれておられる方であります。

この方の神武天皇への考察は、ある程度、的を得ており、神武の東征は大和を制圧したように見えるが、近畿の大和ではなくて、実は「豊国」(元祖大和)であったとされ、神武天皇の創った都(橿原)は香春であった。魏志倭人伝中の「倭国大乱」こそ、神武東征である。とされています。

全国の神武天皇を祀る神社の数の比較でも近畿とは考えられず、納得できる考察であります。皆様もこのブログをご覧ください。九州王朝が在った事が善く理解できます。

 

わたくしが比定地として揚げていた第3代安寧天皇の苅田町・第4代懿徳(いとく)天皇の香春町宮原・第7代孝霊天皇のみやこ市勝山町黒田~豊津周辺・第8代孝元天皇の香春町鏡山の勾金陵墓が古代の中心地であったことが頷けます。

特に、第7代孝霊天皇の居られたと想われる、みやこ市勝山町黒田辺りを魏志倭人伝の卑弥呼の居られた地と比定されており、わたくしの研究でも此処に倭迹迹日百襲姫が棲んでいた事になっていまして考えが一致します。

そして、此の地が天照大神の居られた場所でもあると看破されておられます。この点でも考えが一致しており、正に的を得ております。今後は実名での研究、ご活躍を楽しみにさせていただきたいものです。

 

 

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竹野姫(豊姫)命と彦湯産隅命の住んで居られた場所。

2012-04-13 | 古代史

古事記に置いては

由布院から、久留米市荒木磯城玉垂宮に居られたと想われる第9代開花天皇(開花は孝元の子ですから息長氏の血が這入っています。)に皇后として嫁がれた由碁理(建諸隅命)の娘である竹野姫は、その後、彦湯産隅命一柱を儲けています。

福岡の春日市に居られ、その後は久留米市荒木磯城玉垂宮に居たと考えられる開花天皇は伊迦賀色許賣命(玉依姫=八咫烏の娘)を妃として娶り、御眞木入日子印恵命(崇神天皇の事で、連れ子です。)と御眞津比賣命の二柱を、意祁都比賣命を妃として、日子座王(後に近畿に渡ります。)を一柱、また、鷲比賣命を妃として、建豊波豆羅和気命の一柱儲けている事になっています。

彦湯産隅命崇神天皇の義兄である事になっています。

崇神天皇は久留米大善寺の玉垂宮に居られたと考えられますが、彦湯産隅命は何処に居られたのでしょうか。考えて見る事にしました。

 

開花天皇は、4人の妃を娶りますが、自分の館に全員を住まわして居たのでしょうか。わたくしは、どうも、婦人毎に館を設けて、自分が通い夫として、転居しながら暮していたのではないだろうか。と考えています。そうすれば、女性同士の諍いを避ける事が出来、子育ての問題も母親に委ねる事が出来、好都合であったと考えられます。また、姓氏一族を背負って嫁に来る訳でありますので、姓氏間の諍いを避け、王から居住地を拝領し、一族の館を建てて王を迎えたものと考えられます。

と謂うことであれば、崇神天皇は大善寺玉垂宮にて、母である伊迦賀色許賣命(玉依姫)と、妹の御眞津比賣命と一緒に暮して居たとも考えられます。

 

わたくしの父の実家である田主丸町「竹野」と謂う地があります。元々竹野郡から田主丸町は命名されており、この「竹野」には、古来、正院正倉院が在ったとされており、天皇に匹敵する人物が住んでいたと考えられています。この天皇に匹敵する方こそ竹野姫とその子である彦湯産隅命であると考えられます。此処には、禊や奉祭祀に必要な卑弥呼の最も神聖大事な井戸と想われる古い井戸があり(三明寺・井の丸井戸、)、由来では西暦755年、初代国司「道君首名(みちのきみおびとな)」公の末子が筑後国竹野郡タカノゴオリの郡長になり、此の地に「郡衙」を造った事から始まった。と謂う事になっていますが、はっきりとは解って居らず、通称、長者の井戸と呼ばれています。

以前は竹野媛彦湯産隅命が棲んで居た。ものと想われます。近くには墳墓も多くあり、弥生時代から古墳時代に架けての形跡が多く残っています。

御眞木入日子印恵命(後で、崇神天皇)は兄である彦湯産隅命に遠慮して、日子座王と伴に近畿に出たとも想われます。

此の地の近くの北野町には、豊比賣(竹野姫)を祀っています神社が幾つも見受けられ、間違い無いものと感じられます。

此処が、2代目卑弥呼が居た場所である。とも考える事ができます。(ひょっとしたら、竹野姫と甕依姫は関係があるのかも知れません。しかし、此処付近には宇奈岐日女命や倭迹迹日百襲姫命  御井津媛命も来ているとも考えられますので、考察には慎重にならねばならないでしょう。)

彦湯産隅命には息長氏の血が流れていますので、此の地に秋永氏が居る事が自然であります。わたくしの血にもひょっとしたら彦湯産隅命の血が混じっているのかも知れません。

 

《追補》

その後の2014年7月1日のブログ、(『小熊山古墳』は『崇神天皇陵』と考えられます。)の考察により、彦湯産隅命彦坐王は同一人物であったものと考えられます。

亦、2代目卑弥呼は竹野姫(トヨ壹与=豊玉姫=龍神姫)であった。と、考えられます。

壹与=豊玉姫の姪の玉依姫(八咫烏=賀茂建角身命=秋永氏とイカコヤ姫の間に儲けた子)が、

竹野姫として、久留米市荒木の玉垂宮(磯城=城島)に居た、(豊玉姫が彦穂穂出見尊=孝元天皇との間で儲けた) ウガヤフキアエズ=住吉神=開化天皇に、後に崇神に為る天之日鉾を連れ子して、嫁いだものと考えられます。

天之日鉾=崇神は、彦穂穂出見尊と玉依姫との間で儲けています。

イカコヤ姫は、瓊瓊杵尊の妃でしたが、八咫烏=賀茂建角身命に下賜されます。その時に『カワイの國』を貰い受けます。わたくし(秋永)の父親の邑は、川会邑唐島と申します。

欽明天皇も、蘇我稲目(欽明天皇の跡、敏達天皇として歴史に留められていますが、実態は新羅國第23代法興王で有ったろう。と考えています。)、馬子=シマ嶋大臣=押坂彦人大兄皇子は、唐島~うきは市・朝倉市に居たものと考えています。

蘇我蝦夷・入鹿は、行橋勝山黒田の馬ケ岳の『甘樫丘』(福永晋三氏の説)で、暮らしていたものと考えられます。従って、『乙已の変』は九州物部氏の本貫地鷹羽=田川郡赤村辺りで行われたものと考えられます。

 

後に『竹野タカノの新笠(豊玉姫・玉依姫の血脈を引く秋永氏と考えられます。)』が第49代光仁天皇に嫁いで第50代桓武天皇を儲けます。竹野の新笠の出身地であります耳納連山が平たく連なっています。

『桓武平氏』とは、

日田から久留米磯城城島迄の、すそ野に、大山祇命=葛城氏=橘氏が代々暮らしており、厩戸皇子も、うきは市『大生寺』で穴穂部間人皇后から産まれた、ものと考えられます。

此の日田の美濃を発祥の、耳納連山のすそ野に暮らす大山祇一族を、平群氏と呼ばれたものと考えられます。

平群氏が京に上り、天皇の親族関係の『平群氏=平氏』が増大し、『臣籍降下』が藤原氏によって行われます。

依って桓武天皇の子、嵯峨天皇(秋永氏)の子から『源氏(秋永氏)』が誕生する事に為ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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息長氏の血は孝元天皇から始まったと考えられます。

2012-04-09 | 古代史

息長氏の古代の様子が大分解けて参りました。孝安・孝霊天皇の時代息長氏の本貫地は苅田町にあり、天之御影神が大目として、加羅国を統治していたものと考えられ、中国大陸からの最新の情報や技術をもたらしていたもの、と考えられます。

天之御影神は娘の細媛命を、福岡県みやこ市勝山町黒田に居られたと考えられる第7代孝霊天皇の皇后として息長の血を初めて皇族に入れたものと想われます。その後息長氏の血は、第8代孝元と鬱色謎命(うつしめみこと)(=豊玉姫・天鈿女命・猿女)皇后の間に出来た、第9代開花天皇(住吉神・ウガヤフキアエズ)と大彦命に繋がり、御間城媛にとなり、第10代崇神天皇と彦座命に繋がるのが善く理解できます。崇神天皇は天照大神の末裔(天孫族の総本家)とされていたと想われる荒河刀弁(あらかわとべ)の娘、遠津年魚目目微比賣(とほつあゆめまくはしひめ)を皇后とされ、豊鋤入日賣命が生まれます。この遠津年魚目目微比賣は八坂振天伊呂辺(やさかふりあまのいろべ)とも考えられています。

 

細媛命は孝元を産んだその後、孝霊が妃を三人娶ったのに嫌気をさし?加羅国に渡り、向こうで采配を揮われたものと想われます。息子の孝元天皇が病に倒れ、亡くなった後に帰国され、孝元天皇が埋葬されていました香春町鏡山の傍の香春神社に住み息子を弔ったものと考えられます。其れが香春神社の由緒、「辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給う」隠れた意味であったと理解されます。

天之日矛は細媛命(息長大姫大目命)の加羅国での彼氏か息子であった可能性も考えられます。

天之御影神は細媛命を孝霊天皇に嫁がせた後、滋賀県近江の地を授かり、家族で渡って往ったものと想われます。そして、一族の一部は苅田に残り、沖永氏として現在に至って居るものと考えられます。

 

《追補》2024年3月6日

その後の考察にて、孝霊天皇は積み増しされた人物と考えられます。

孝元天皇は、『高躬結び神』の下の息子の兵主神=日高彦彦穂穂出見尊です。

阿蘇氏の娘『阿蘇津姫』=『豊玉姫』(秋永氏の源元)を娶り、『開化天皇』(ウガヤフキアエズ=住吉神)を儲けます。

開化天皇は、後年は、久留米市荒木磯城(城島)の『玉垂宮』に居たものと考えられます。

そこで、開化天皇は、伯母である『玉依姫』(秋永氏)と連れ子の『崇神天皇』(秋永氏)を娶り、ホツマ伝を景行天皇に献上したオオカシマ=大田田根子の祖父になりますオオミケヌシが、忌避になる婚礼を行おうとした『開化』に職を辞した。と、叙述しています。

ホツマ伝を読みますと『崇神天皇』と『景行天皇』は、同時代の人物と考えられ、記紀の捏造が考えられます。

 

 

 

 

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息長大姫大目命と倭迹迹日百襲姫の関係を検討する。2

2012-04-03 | 古代史

第7代孝霊天皇は、皇后として十市県主の祖である大目の娘、細比賣命(くはしひめ)を娶り、第8代孝元天皇を儲けます。つぎに、春日之千千速眞若比賣命を娶り(一柱)、そして、先程の大倭久邇阿禮姫(四柱)と妹の蠅伊呂杼(二柱)を妃として迎えています。大倭久邇阿禮姫が倭迹迹日百襲姫を生んでいます。

 

此処に出てくる、十市県の十市とは、何処の事でしょう。

 

京都郡苅田町光国に清地(すがち)神社があります。祭神は 少彦名命・素盞命・大己貴で、由緒に、「古伝に曰く、往古悪疫流行し、死者殊更に多かりしために、苅田庄十ヶ村の重たつ人々愛謀りて、提の山中に少彦名命・素盞命・大己貴を勧請し、悪疫退散の祭をなせしところ霊験たちどころに現れ、此の悪疫にかかりし者平癒し、流行止まりしによりて、提村字鉢ヶ久保四千五十八番地に社を建て三神を奉斎し、年々相撲を執行し、苅田庄内の疫除の社たり。」

とあり、古来の苅田庄は十ヶ村に分かれていた考えられます。多分、十市とは苅田庄、即ち、現在の苅田町と、考えられます。

と、謂うことで、苅田庄を統治して居た大目の娘である、細姫(くはしひめ)を皇后として、迎えて居る事になります。

しかし、日本書紀では磯城県主の大目の娘である。とされています。

(此の大目とは一体何の事でしょうか。わたくしは、江戸時代幕府の老中が大目付を設けていた事を思いました。大目とは何かを取り締まる役職の事であると考えられます。)

 

磯城・十市のどちらにしても、此の二つの地域は姻戚関係が認められます。

実は、苅田町に住んでいますわたくしの知人に拠りますと、苅田には、「沖永姓」が数多く有ると伺いました。此処が「息長氏」本拠地と思われます。苅田町には、「近衛ヶ丘」・「殿川」の地名も残っており、近くには、以前に述べました浮殿神社を擁する3世紀中頃と謂われる石塚山古墳もあります。多分此処が、第3代安寧天皇が居られた片塩であろうと推察しています。(浮殿は宇佐の和間にも見受けられます。)

香春神社の「辛国息長大姫大目命」を併せて考えますと、細媛命(くはしひめ)が息長大姫大目命で有るとも大いに考えられます。そして、自分の息子である第8代孝元天皇が香春町鏡山に眠って居られる事になり、早逝去した息子の慰霊を弔う為。と謂う、都合の善い考えになります。

しかし、『辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給う』と、由緒にあります。「唐土の経営に渡らせ給比、」「崇神天皇の御代に帰座」の時間軸の整合をどの様に解釈するかの問題があります。

孝元天皇を産んだ後、細媛命が加羅国(伽耶国)に渡って崇神天皇の時代に帰って来る事が、考えられるのでしょうか。(細媛命は孝元天皇一柱のみ儲けています。)もし、それが可能とすれば、孝霊天皇は加羅国(伽耶国)に出向いたとも考えられます。

しかし、孝霊天皇はその後七柱子を儲けていますので出向いたとは思えません。やはり、皇后を倭国「長」として、派遣したものと考えるべきでしょう。

天之御影神は孝安~孝霊天皇の頃、加羅から鉱山技術を持って苅田(十市)にやって来たものと考えられます。その後、近江に渡り、腰を落ち着けますが、この天之御影神と十市県主大目(息長氏)の娘である細媛命は姻戚関係を感じます。わたくしの想像ですが、天之御影神が十市県主の「大目」であり、細媛命が息長大姫大目命であろうと考えられます。

 

そして、孝元・開花の二人は、早逝去された事と考えなければなりません。古事記によりますと、孝霊106歳・孝元57歳・開花63歳になっています。崇神が168歳でありますので、比較しますとかなり短命と撮られます。香春神社に帰ってきた時は、相当な高齢であったと推察されます。そして、苅田に居た大目(息長氏)一族は、加羅国(伽耶国)を治めて居た事が考えられ、注目に値する事になります。天之御影神を「長」とする息長氏は加羅国の王に任命されていた。とも解釈されます。

そして、倭王朝が当時の加羅国を支配して居た事を意味します。

と謂うことで、現在のところ息長大姫大目命倭迹迹日百襲姫の関係は認める事が出来ません。

 

その後、倭迹迹日百襲姫は甘木市にある大己貴神社とその傍にある御諸山(三輪山)付近にて亡くなったものとも考えられます。例えば、朝倉郡筑前町四三嶋にある焼ノ峠古墳は4世紀頃の築墓(前方後方墳)と謂われていますが、此処が箸墓古墳とも考えられます。

しかし、此の箸墓の記述は、日本書紀での記述であり、古事記には、崇神天皇の大物主条項では倭迹迹日百襲姫の件は全く書かれていませんので、日本書紀での倭迹迹日百襲姫の件は、編纂での捏造を感じ、あまり信用はできません。

 

また、倭迹迹日百襲姫は、崇神天皇の居られたと考えられる久留米市大善寺玉垂宮に行かれ、崇神天皇に付いて、近畿纏向に行ったとも考えられますが、さて如何でしょう?

 

《追補》2024年3月6日

孝霊天皇は、積み増しされた人物と考えられます。

倭の歴史は、蜀の太守をしていた『高躬』が西暦205年頃に韓半島経由で遣って来て、北部九州を割譲されます。

以前からの熊本玉名~八代の白氏(葛城氏)の領地であります山陰・北陸迄拡大し、高躬結び神の孫の瓊瓊杵尊=アマテルが『八州巡り』(全国一周に景行天皇が右の羽として、同行しています。)して、全国の各地の豪族の王を従わせようとしたものと、想われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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息長大姫大目命と倭迹迹日百襲姫の関係を検討する。1

2012-04-01 | 古代史

現在の古代学界を見ていますと、邪馬台国論争による、九州説と神武以来ずっと近畿であらねばならないと考える近畿説がぶつかりあったままの状況で、国(文部省)の方も模様眺めのように映ります。

しかし、大方の古代史を研究されておられる方々は、邪馬台国と呼ばれる地域は九州に違いないと想われております。(私もその一人ですが。)

 

邪馬台国を見つける論争の中で、一番ユニークで説得力を感じますのは、福嶋雅彦さまの「方言説」です。

{一般には『やまと、です。』と共通語で述べますが、筑後地方の方言では『やまと、タイ。』になり、それを普通に喋ると『やまッタイ』との表現になり、それを聴いた中国の筆記者が『邪馬台国』と認識したのだ。}と謂う説です。一般の方からは「そんな馬鹿な。」と思われるでしょうが、わたくしは、久留米市で生まれたので、幼少の頃からこの『・・・タイ。』と謂う表現を限りなく聞いて育ちましたので、此れが正解だと感じます。

日本の一切の書物に邪馬台国なる文字が無い事もあり、『やまと』と述べたつもりが、『やまたい』に録られたと想われます。

また、福嶋雅彦さま・古田武彦さまご両人も邪馬薹国(邪馬壱国)と謂う国は無かったと述べられています。(福嶋雅彦さまは、魏志倭人伝の卑弥呼は浮羽に居たとされておられます。)

方言説が本当ならば、邪馬台国の都は久留米市から八女市・大川市に架けてに存在したとも考えられます。

此処には、第6代孝安天皇とその兄の天足彦国押人(天押帯日子命)・宇那比姫命(宇奈岐日女命)・建田背・大倭久邇阿禮姫・倭迹迹日百襲姫の登場を考える事ができます。

 

邪馬台国畿内説の方々が挙って揚げておられるのが、倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)であります。しかし、このお方は久留米市に在った御井宮に居られたと考えられる大倭久邇阿禮姫が福岡県みやこ市勝山町黒田に居られたと考えられる第7代孝霊天皇に嫁いで生まれた方であります。近畿とは縁の少ない方と考えられます。

この倭迹迹日百襲姫は、西側の山向こうに在る香春神社に祀られています、辛国息長大姫大目命と関係があるのでは。とも考えられ、検討してみる事にしました。

 

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