「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

秋永氏探求から紐解く息長古代史9

2011-11-15 | 古代史

大胆な想像ですが、スサノオとツヌガアラシトは同人物とも考えられます。

 

スサノオが神話の中の神でツヌガアラシトが実体のある神のように感じてしまいます。

 

宇佐神宮の由来にあるスサノオの子、五十猛命の末裔の辛嶋氏が比売大神(天照大神)を持ち込んだのも合点がいきます。

 

香春神社の近くに須佐神社が幾つか在るのも怪しく感じます。

 

ただ、スサノオの子である五十猛命神(いそたけるみことかみ)が天照大神の子であるかは不明ですが、天照大神は結婚していないと言われています。天照大神の後を継ぐ天之忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)はスサノオが天照大神の子を創った事になっています。

 

(出雲の伝承では、五十猛命は父であるスサノオと一緒に出雲にやってきた事になっています。五十猛命はアカルヒメが新羅で産んだ子。とも考えられなくも無いです。)

 

ウィキペディアで崇神天皇を調べてみますと、紀元前148年から紀元前29年までの生涯となっています。

 

私の感じでは、当時はどう解釈しても120年も長生き出来たとは考え難いです。

 

別の説として3~4世紀に実在した王と捉える人達も少なくないとの由。当時は1年に2歳年をとるので、紀元258年とか318年に没した説を唱える人もあるそうです。

驚くべきに、神武天皇が崇神天皇のことで、第2代~第9代は実在しない説が有力である由。

 

そうなると、歴史の時間軸が大きく変わります。確かに、アカルヒメが天照大神にスサノオがツヌガアラシトに思えない事もない様にも感じます。

 

香春の地に立ってみると、ツヌガアラシトの匂いがプンプン感じたのを思い出します。

 

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史8

2011-11-15 | 古代史

わたくしの息長氏への想いは、心中で崇神天皇を基準軸に展開をしてきたのですが、よくよく考えると崇神天皇とは、どのような人でしょう。

 

1、古事記では奈良県桜井市金屋の『師木(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)』に住んでいた。と為っています。

 

2、アカルヒメを守ってツヌガアラシト(天之日矛)に渡さなかった。

 

3、ツヌガアラシトを気に入って兄弟分の契りを結び?彦坐命(日子坐命)の日本名を与え自由にさせた。

 

4、息長水依比売をツヌガアラシト(天之日矛)=日子坐命の嫁にした。

 

5、ツヌガアラシトがアカルヒメを諦めた。

 

この5つのヒントから導き出せるのは、アカルヒメは、崇神天皇の妃になっていたかもしれない。とも考えられます。

しかし、崇神天皇はアカルヒメを守っただけで、結婚はしていないでしょう。

では、何故守ったのでしょう。

ひとつの考えは、新羅神の霊力で大和を統治めたかった。

もうひとつの考えは、阿加流比咩は崇神天皇の親族であった。と考えられます。

 

崇神天皇の時代で歴史に出て来る巫女は倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめみこと)が居ます。この人は系図上では、崇神天皇の親族にあたります。

この倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめみこと)は崇神天皇の依頼で紀元前92年と紀元前88年に巫女として占って当てています。

後、可能性があるのが息長大姫大目命(アカルヒメ)です。彼女は紀元前40年頃(朴赫居世~天之日矛~崇神天皇を時間軸整合した結果)に日本へ帰ってきています。

倭迹迹日百襲媛命とアカルヒメを重ねる事は今のところ時間軸に無理がありますが、崇神天皇の伯父と謂われている大彦命神の存在時間軸が、最新の研究(稲荷山鉄剣の研究)では後世(手前)の方へ移動され架かっています。そうなると、倭迹迹日百襲媛命とアカルヒメの時間軸が重なる事にも繋がる可能性が生じ、倭迹迹日百襲媛命とアカルヒメは同じ人物とも考えられます。

ということに為れば、倭迹迹日百襲媛命(やまとととももそひめみこと)は天照大神に考えられなくもなり、息長氏という事にもなる可能性が高まります。

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史7

2011-11-13 | 古代史

その頃の新羅はどうなっていたのでしょうか。

 

初代新羅王は(生まれは紀元前69年)紀元前57年~紀元4年の朴 赫居世(パクヒョクコセ)で、次が紀元4年~24年の南解次次雄(ナンカイジジユウ)・24年~57年10月が儒理尼師今(ジュリニシキン)・第4代に57年~80年に脱解尼師今(タレニシキン)とされています

この4代目の脱解王(タレ王)は日本人多婆那国(たばなのくに)の出身と書かれています。紀元前19年に流れ着いて紀元8年に南解次次雄の娘を娶り、紀元10年には大輔の位に就いて軍事・国政を委任されています。そして紀元57年に王に就いて紀元80年に亡くなっています。

 

また、日本では天之日矛(ツヌガアラシト)は初代王(朴パク 赫居世ヒョクコセ)の長男として伝わっています。

 

韓国の『三国史記』の中には脱解(タレ)王の生い立ちを、

 

倭の東北一千里のところにある多婆那国で、その国の王が、女人国の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠して7年後に大きな卵を産んだ。王は、人でありながら卵を産むのは不吉であるので、卵を捨て去るように王妃に言います。王妃は卵を捨て去る事に忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流しました。それが流れ着いたのが、韓国、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)である。それを老婆が拾って育て、成長するにしたがって、風格がすぐれ、知識も人並みはずれた立派な人格者になった。云々とあり、その後 南解次次雄の娘を娶ります。

 

倭の東北一千里のところにある多婆那国とは『丹波国』を指すと思われます。

 

女人国の王女を娶りとは何を意味しているのでしょうか。

 

この多婆那国の王とは彦坐命・日子坐命(ツヌガアラシト)であり、王妃とは、息長水依比売命の事だと考えられます。

女人国とは卑弥呼が居る国。即ち、彦山川の中域・香春岳の在る処と思われます。この時代、此処に息長大姫大目命(アカルヒメ祭祀女王)が居たのでしょう。

『宝物』とは、ツヌガアラシト(彦坐命)が新羅から持参した王家の標し(証拠)の這入った宝物の一部を、母である息長水依比売が涙して入れ、従者に托したと考えられます。

証拠がなければ、南解次次雄(なんかいじじゆう)の目に留まらないでしょう。

 

海に流した本当の理由は、多分双子だったからでしょう。か?

 

多分、従者が新羅、辰韓の阿珍浦まで船で運び、老婆が拾うのを確認していたと考えられます。

 

と謂う事であれば、脱解(タレ)王は息長氏の血縁者である事も考えられます。

 

新羅国では『昔』の姓が付けられたそうです。

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史6

2011-11-12 | 古代史

ここまでで解った事。亦は、考えられる事として、

 

想像1、息長氏の出身地(聖地)は福岡県田川郡大任町大行事秋永(息長)である。

 

想像2、息長氏は天之日矛より前から存在していた。と考えられる。

 

想像3、息長氏はアカルヒメ(阿加流比売命)を創め息長帯比売命等、祀り事を行う『卑弥呼』(日巫女)を多く輩出した祝(ほふり)一族である。

 

想像4、アカルヒメは彦山(日子山)で修行して培った霊力に加え新羅の神を持って帰って来て霊力をパワーアップしたと考えられます。そして、宗像三女神を祀ったと思われます。そういう風に考えれば、アカル(照る)ヒメが天照大神とも考えられなくもありません。『古事記』や『日本書紀』には天照大神がスサノオの子である宗像三女神を創ったと記入されています。為らば、宇佐神宮の真ん中に鎮座されている比売()大神とは天照大神の事に理解すべきでしょう。となれば、天照大神は息長氏という事に解釈出来ます。(天皇家系図の頂点に天照大神が御座されている理由が諮らずも証明されることになります。)

 

想像5、『魏』から贈られた100枚より後の三角縁神獣鏡は『勾金』でも造られた可能性が大きいと思われます。

 

想像6、現在の鏡山は、山ではなく巨大墳墓であるかも知れず、その中に埋葬されているのは、息長氏の重要人物、息長大姫大目命=(アカルヒメ)≒(天照大神)の可能性もあります。

 

 

天皇家の系図で息長氏を神功皇后から上へ辿っていくと、息長宿禰王(おきながすくねおう)があり、その上が迦邇米雷王(かにめいかずちおう)になっており、その上が山代之大筒木真若王(やましろのおおずつきまわかおう)で最後が崇神天皇(すじんてんのう)の異母弟として彦坐命・日子坐命(ひこいますのみこと)になっています。

第10代崇神天皇の父は第9代開花天皇で、母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)です。彦坐命は、父は開花天皇で母は日本書紀では和珥姥津媛(わにははつひめ)・古事記では意祁都比売命(おけつひめみこと)となっています。

 

彦坐命は4名の妃を娶っています。その内の一人が息長水依比売(おきながみずよりひめ父が天之御影神)となっています。もう一人の妃が、母である和珥姥津媛の妹で、意祁都比売命です。この人が山代之大筒木真若王を生んだ事になっています。

 

その他、山代荏名津比売・沙本大闇見戸売(春日建国勝戸)の4人です。

 

ここに出てくる息長水依比売(父が天之御影神)が気になります。

 

息長氏末裔の秋永氏として、霊感を生じました。

 

この近江に居た息長水依比売はアカルヒメ(息長大姫大目命)の親族(妹?)と考えられます。

 

天之日矛(ツヌガアラシト)は阿加流比咩の出身地である英彦山(当時は、天照大神の御子=日の御子である天之忍穂耳尊を祀ることから日子山と呼ばれていたらしい。)の大任町大行事息長(秋永)にやって来てアカルヒメを血眼で捜したと思われます。

 

何故ならば、アカルヒメの霊力と魅力は、人々を従わせる桁外れの力を持っていたからでしょう。{日子山は山岳修験者の聖地=継体時代だったのです。此処で霊力を培った息長氏は此処から近江の太郎坊宮 阿賀神社(たろうぼうのみや あがじんしゃ)に派生して行ったと思われます。

 

この阿賀神社も山岳信仰の聖地で、一応は欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に開山とされていますが、もっともっと古くから修験者が居たものと考えるのが自然です。此処も彦山(日子山)と同じ天之忍穂耳尊を祀って居ます。}どうしても新羅に連れて帰りたかったと思われます。それが彼の父、朴赫居世(パク ヒョクコセ)に残してきた言葉だったのでしょう。

 

ひょっとしたら、彦山(日子山)で、立派な大王に成る為に、修行を行うのも目的であったのかも知れません。しかし、アカルヒメは難波の比売許曾神社(ひめこそ神社)に逃げて神の巫女となり、崇神天皇から守られて会う事が出来ません。

 

天之日矛(ツヌガアラシト)は、崇神天皇に事情を述べ交渉して、アカルヒメの代わりに、霊力を受け継ぐ息長氏の水依比売を娶った。とも考えられます。そして、崇神天皇から、気に入られて兄弟分の契りを貰い、日本名が彦坐命(日子坐命)として系図に出てきたものと考えられます。

 

日子坐命は余程、崇神天皇と相性が好かったのでしょう。沙本之大闇見戸売命(さもとのおおやみとめのみこと)との間に出来た沙本毘売命(さほびめのみこと)を、崇神天皇の息子である垂仁天皇の后にしています。

 

彦坐命(日子坐命)は崇神天皇に命じられ、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を退治の為に丹波へ派遣された事になっています。

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史5

2011-11-11 | 古代史

再び田川へ行ってきました。

 

目的は、

1、何度も足を運び五感を働かせて新しい感じ取るものを得たかったから。

2、確認のため写真を撮っておきたい。

 

ルートは、往きは前回と一緒で、帰りは香春町から仲哀トンネルでみやこ町へ出て中津~宇佐を通るコースでした。

 

大行事秋永では少し発見がありました。

 

バス停のすぐ傍に古墳がありました。樹木に覆われ円墳と思われます。中には近隣の方の墓所が建てられており、傍に住んでおられる方に伺って訊ねても由来は分からない由。

 

日曜のため役場も休みのため、次回の調査とする事にしました。秋永附近の写真と彦山川を撮り、香春神社へ行きました。鳥居傍にある由来書の辛国息長大姫大目命をジッと眺めていますと、『大目』に注目しました。

 

『大目』とは目でありますから、世の中を見る~視透すことになります。

 

これは、『韓国から帰って来た、霊力の大きな力で世の中を透視する息長氏の偉大な姫。』という解釈が成り立ちます。

 

即ち、大きな霊力を持った巫女という事になります。

 

思い浮かぶのは、世間を賑わせている邪馬台国の『卑弥呼』(ひみか・ひみこ)です。由緒書が正しければ、おそらく間違いないでしょう。卑弥呼(日巫女)の館は此処にあったと思われます。そして、その頃の卑弥呼(日巫女)は阿加流比咩(アカルヒメ)という事になります。ふる里の大行事息長(秋永)は目と鼻先です。

 

階段を上がり、本殿を参拝し、宮司と思われる宅の『赤染』という表札を写真に収めさせて頂きました。帰り際、入り口の鳥居横の表札に『鶴我』と書かれた宅があり、ちょうどご主人と思しき方が居られて、声がけして話し込んだ所、以前は宮司をした事があった家柄だそうで、奥様からよく冷えたアイスコーヒーを戴きました。おまけに、家系図まで見せて頂きました。『鶴我』の名前の由来は『ツヌガアラシト』になっていました親切にも系図を写真に収めさせていただきました。

 

最後に『河内王の墳墓』を撮影しようと鏡山へ行きまして、宮下の草刈をされておられる方に声掛けをしました所、この地の歴史を詳しく説明を頂き、あんまり詳しいのでお尋ねしますと、香春町郷土史研究会の会長さんでした。柳井秀清さんと言われます。

 

河内王の事と勾金(まがりかね)の意味を伺うと、河内の王は大宰府に来た後、河内に帰らず香春に残った由。多分此処(香春)で銅が産出されていたのでそれを監督していたのではと推察される。との言。『勾金(まがりかね)』とは『銅』の事だそうです。

 

鏡山と地元の方が呼ぶのは山並みに連なったもっと高い山の方で、此方の鏡山は山自体が古墳かもしれない。また、河内王の墳墓も此処ではなく、古くから地元の人々が御祀りしていた王の墓は2キロくらい離れたところにある由。

 

古田何某(古田武彦先生の事と想われます。)と呼ばれる有名な歴史研究家を案内したら、河内王墳墓を一瞥して、『小さな円墳の上に大石を置いてあるので河内王の存在した7世紀より、もっと以前の古墳である』と告げられた由。

 

また、この鏡山神社の宮司は『鶴我』と言われ、ツヌガアラシトは此処に来てそれから敦賀の方へ行った様に思われるとの事。

鏡山と思しき50m位の山自体が古墳かもしれない。以前山頂にある社務所を建てかえる時地盤が陥没したと先輩からきいた。と柳井秀清さんから聞いて驚きました。もしこの事が真実であるならば、この巨大な鏡山の埋葬者は誰でしょう。

かなりの力を持った方に違いありません。

 

想像が及ぶのは、現在の鏡山こそ卑弥呼=アカルヒメ(日巫女)の墓か、その先祖の墓とも考えられます。勾金(まがりかね)の銅を用いて銅鏡を作り、3世紀中期以降は、各地に散らばった息長氏と繋がりを持った豪族に与えていたとも考えられます。

鏡を使って万物の元である太陽(宇宙)神を霊界から呼び出し、霊力によって人々を従え、各地の豪族は卑弥呼からの『鏡』を有難く拝受して随っていたものと想像されます。

と言うことであれば、三角縁神獣鏡が近畿地方を中心に数多く発掘されることは自然です。

『魏』から倭の卑弥呼(ひみか・ひみこ)に授けられた100枚の鏡には景初3年(西暦239年)の刻印がありますので、それ以降に、日本の各地にばら撒かれた事となります。

 

日本史でその時代に該当するのは神功皇后(息長帯比売命)になりますので、当時(3世紀頃)の卑弥呼(日巫女)は息長帯比売命だった(?)とも窺えます。

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長古代史4

2011-11-10 | 古代史

『いつ息長氏が秋永氏に変わったのでしょう。』との疑問が頭を過ぎります。第40代天武天皇から息長は『真人』の位を授かっておりますのでそれ以降の律令国家形成の過程で改名が行われたと想われます。

 

律令国家の本質は、皇族だけによる国家運営を目指したものでしたので、地方の豪族の血縁や血統をなるべく弱体化させる為に、改姓・改名を行う必要が生じたと想われます。

 

新羅神系の物部氏は百済仏教系の蘇我氏・中臣氏に排除され、その蘇我氏も、中臣(藤原)氏が天皇の妃として姻戚を結ぶ事で、押出されました。

 

天武天皇の妃である41代持統天皇の後を受けて42代文武天皇の妃は藤原宮子です。その子が聖武天皇(第45代)でその妃が藤原安宿媛(光明皇后)です。聖武と光明の間に生まれたのが女性の第46代孝謙天皇(第48代称徳天皇)です。

 

この孝謙天皇は贔屓の僧、道鏡を天皇にすべく画策しますが和気清麻呂の働きで野望は阻まれます。その後、孝謙天皇は和気清麻呂を恨んで、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隈国へ左遷しています。

 

藤原氏(朝臣)の台頭により、天皇家の元である息長氏も例外扱いを受けず秋永に改姓させられたと考えられます。当然『真人』で無くなる事になりました。

 

孝謙(称徳)天皇は道鏡のアドバイスのもとで様々な姓氏改名を行っていると謂われています。

 

 

 

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長日本史3

2011-11-09 | 古代史

私の家から、車で1時間程に宇佐八幡神宮があります。明治以前は、天皇家は伊勢神宮には一度も参拝はされておらず、宇佐八幡神宮のみに何回も参拝をされていたとの事。驚きました。興味を持ちネットで調べてみました。

 

宇佐神宮の主祭神は八幡三神で、順に応神天皇・比売大神・神功皇后とされていました。真ん中に祀ってある比咩大神は宗像三女神のことである。が、しかし諸説在って良く判らないとの事。

 

宇佐神宮の由来と歴史の中に、

 

『スサノオの子と言われている五十猛の末裔である辛嶋氏が、以前香春岳山麓に住んでいた。その後中津の大貞の薦神社(こもじんしゃ)で神官もしくは巫女を努めていた。そして、比売大神信仰を持ち込んだといわれている。』と述べられていました。

 

わたしは、息長大姫大目命(阿加流比咩アカルヒメ)こそ『比咩ヒメ大神』であると感じとりました。何故ならば、宇佐神宮には息長氏が三つ並ぶのが自然であるからです。

 

その根拠は、

1、天皇家はずっと息長氏の宗家であるから、都から遥々宇佐神宮まで参拝をする理由があるのです。和気清麻呂が遥々、先祖神の御宣託を伺いに来たのもこの為と思われます。

2、辛嶋氏が香春岳山麓に住んでいたからです。香春岳山麓には息長大姫大目命が住んでいたのです。多分辛嶋氏は息長大姫大目命の家臣か、血族だったのでしょう。

 

3、宗像三女神も加えても善いのですが、この方々は、スサノオの子であるので、相応しくないと思われます。

 

天照大神とスサノオの誓約で口から生まれた神が居ます。

天照大神が5神、スサノオが3神を儲けています。この8神はどうも、当時謂い伝えられていた外来の神や自分が知っている神を日本化して命名しているように感じます。知識と謂う、素裸(そら)で神を創ったもので、実際に生存した神ではないようにも感じますが、実存した可能性があります。

 

この様に推考して来ますと、『磐井の乱』(石井の乱)の裏の姿が見えてきます。継体天皇が朝鮮に兵を派遣しょうとした際、新羅と手を結んだとされている磐井氏が北部九州を制圧して妨害をした事になっています。この理由で継体天皇が九州へ兵を出して、筑後で磐井氏を滅ぼした事になっておりますが、継体天皇にしてみれば、蹂躙された息長の聖地である豊前の地をどうしても奪還・開放しなければいけない息長一族の大王としての使命が有ったのも一因と考えられます。

 

磐井の乱(石井の乱)の後の535年、大和王権は九州8箇所に直轄地である屯倉(みやけ)を置く事にしましたが、香春の傍の赤村に我鹿(あか)屯倉を置いています。この事も、大和王権がこの辺り(息長氏の聖地)に拘りがあったからと思えます。

 

九州と近畿の関係も、豊前を含めた北部九州の人々が瀬戸内海をわたり近畿に大和国をつくり、地名も九州と同じ名称を付けたものと考えられます。例えれば、京都・大和朝倉・豊前などです。兄弟国のような関係があり、近畿の方で執務を行う天皇もいれば、景行天皇や仲哀天皇のように九州で大半を過ごしている人もあります。これは安心できる一族の支えが無いと出来ないでしょう。

 

 

 

 

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秋永氏探求から紐解く息長日本史2

2011-11-08 | 古代史

私は、秋永勝彦さんとはDNAの共有を感じる自分の感性を大切にしたいと思っています。

 

海○○人さまからの回答を雲八幡神社の秋永勝彦さんに報告をしましたところ、大変に喜ばれまして兄弟分の契りを戴きました。そして、ぽつりと『我々を豊前に連れてきてくれた武田氏は何処へ行った?』と呟かれました。一瞬刹那、霧がはれました。私の妻の母方の里は『武田』の姓です。場所は福岡県小郡市鰺坂です。若しかしたら、と思って自宅に帰って妻に家紋を尋ねると、菱形が4つと答えが返ってきました。武田菱です。以前は見渡す限りの大地主だった由。間違いありません。ならば、田主丸に秋永が居るのが納得いきます。(筑後川を挟んで向こう岸です。)武田についてきた秋永のうちの一人は雲八幡神社で生き(系図をもっておられるので長男と思われる)、そのまま武田について行った他の秋永は田主丸近郊で農民として生きていた。と想われます。

この世の大勢の中で武田と秋永の末裔が再び一緒になるとは、なんという因縁でしょう。

 

これ等のことから想像されますことは、息長氏一族は、古墳時代から飛鳥・奈良時代にかけて近畿一帯(三国・近江・鈴鹿・山城・大阪)に栄え、神功皇后・応神天皇・継体天皇等を輩出させ、奈良時代には日本人で唯一の三蔵法師の称号を戴いた息長丹生真人長人(霊仙三蔵法師)を輩出します。天武天皇の律令制度の確立の一環の『八色の姓』(身分制度で、上から順に真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置)では最高位の真人を戴きます。藤原氏(朝臣)が台頭して来て暫らくすると息長の名前は消えてしまいます。そして雲八幡神社に伝わる秋永家景図では秋永弾正国重として現れます。(平安時代と思われます。)このことは、当時の権力者藤原氏が息長氏は秋永氏に改名したことを(若しくは、秋永氏は息長氏の一族であることを)知っていたからに他なりません。『真人』とは、真の道を極め完全な道徳を身に修めた人。完全無欠の人格を持った人。の事を言います。貴族をも取り締まることが出来る検察官兼裁判官である弾正職は、真人の家柄である秋永氏を弾正に任じるにあたって、他の権力者をも納得させることが出来る選択だと頷けます。

 

秋永氏の一部は1467年の応仁の乱の頃には若狭武田氏に仕え(親族関係があった?)九州豊前へ(武田氏の血脈を絶やさぬ為?)下向したものと考えられます。応仁の乱は東軍 細川勝元(総大将)・武田信賢・畠山政長・斯波義敏等 161500騎、西軍 山名宗全(総大将)・畠山義就・一色義直・斯波義廉・大内政弘等 116000騎で京都を中心に11年に及ぶ、双方に大きな犠牲を払う大きな戦でした。副将格だった武田信賢は苦難な戦を強いられ途中で病死し、弟の国信が武田を継いでいます。また別の弟の武田元綱は西軍へ寝返り安芸武田氏を継いでいます。

 

 

先日、妻と一緒に田川郡大任町大行事秋永に行ってきました。初めて行く地方なので、前日にネットで地図を検索して下調べをしました。秋永の地名は英彦山から田川を抜けて響灘にそそぐ、彦山川(遠賀川)を挟んで西にあり、東には『赤』という村があります。附近には数多くの神社があります。直線で6km位の北側には香春神社と、そのすぐ近くに鏡山神社や貴船神社・風治八幡神社・須佐神社等があります。船とか風とか出てくるので何か航海や貿易をしていた地域と思われます。また、須佐神社の須佐とはスサノオ神に関連があるのでしょうか。それにしても、田川は響灘よりかなり内陸になりますので其処まで船で往来していたのでしょうか。(香春神社近くの)田川市の彦山川の西傍には『伊加利』という地名もあります。

大行事秋永と香春神社の間には中津原の地名もあります。これは遠賀川(彦山川)の中ほどに位置している平地だからでしょうか。何となくスサノオ神の『葦原の中つ国』をイメージします。『勾金』(まがりかね)と言う地名もあります。いったい『勾金』とは何のことでしょうか。

香春神社は別名で辛国息長大姫大目命神社と呼ばれているそうです。秋永氏のルーツと言われている『豊前国田川郡秋永邑発祥。』(福岡県田川郡大任町大行事秋永)から直線で6km位北にありますので、三重県鈴鹿市秋永町と酒井神社の時のように、やはり息長と秋永は同族関係があると六感を擽ります。

 

 

当日は玖珠から立羽田の景―山国町―猿飛三壺峡を通り、英彦山を廻りこみ添田町を抜け大任町へ這入りました。

大任町での彦山川は、水量はあまり多くないですが、とても清らかで、たおやかな流れをしていました。底の浅い船であればここから下流へは充分航行できます。秋永地区は彦山川の西、数百メートルの田園地帯と、そのもうひとつ西側の丘陵地の間にありました。秋永のバス亭と秋永公民館があり、近隣の家々は皆、数百坪の屋敷に塀をめぐらしてあり、通常見かける農村風景とは違う歴史的・上品格を感じます。考えたことは1、盗賊から身を守る為。2、昔から裕福な人々であった。

役場が近くにありましたので訪ね、秋永と名乗る住民は何人居られるか聞きましたところ、現在は1軒だそうでした。日本姓氏語源辞典によりますと秋永(息長)のルーツは此処ですから、此処から全国に散っていったのでしょう。しかし、何を根拠に日本姓氏語源辞典は秋永の発祥地を田川郡秋永邑と決めたのでしょう。また、奈良にあった柳本藩が関係しているのでしょうか。

香春神社を訪れました。香春神社は南の大任町大行事秋永の方角に向けて建てられており、その先には英彦山(日子山)があります。以前は門前町風の賑わいをしていた通りから鳥居をくぐり、階段を距離的に数百メートル上った高台にありました。辛国息長大姫大目命を祭る御神体である一の岳は無残にも半分ほどが削り取られて現在は寂しい佇まいの感があり、昔は相当賑わっていた筈です。鳥居のすぐ右横に宮司さんか信徒と思われる宅があり、表札を見ると『鶴我』と書かれていました。丹後の『敦賀』とイメージが重なります。

 

ひとつ大きな発見がありました。由緒に『辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給う』と書いてあるではありませんか。このことはどの様に考えれば善いのでしょうか。『唐土』とは中国の『トウ』と考えるべきか、『韓国』の『カラ』と考えるべきか迷います。また、『神代』とはいつ頃のことでしょうか。『経営』とはどう謂うことか考えました。

後に崇神天皇のときに此処へ帰って来たと書いてあります。

息長氏の元は天之日矛(アマノヒボコ)で、初代新羅王(朴 赫居世)の王子(長男)と謂われております。朴赫居世(パク ヒョクコセ)は紀元前69年から紀元4年まで生きた人です。此処に書かれている『神代』とは(崇神天皇より以前のことで、天皇が居なくて神代(かみよ)になります。と謂うことは、神武天皇が崇神天皇とも解釈でき無くもありません。)朴赫居世(パク ヒョクコセ)より以前の事と理解すれば、『唐土』とは当然中国大陸のこととなります。(由緒書が書かれた時代が唐の時代だったと思われます。)何故ならば紀元前210年頃に始まる徐福等の秦国からの流れの渡来人が新羅国を造ったと言われているからです。

という事であれば、朴赫居世は秦氏でも有る事になります。そういう事では『辛国』はシンコクと呼称しても好いと思われます。

韓国の『カラ』と考えれば、自分の出身地である新羅の事を指します。また、由緒書には、『カラ』と振り仮名をつけてありますので新羅の事と理解した方が自然です。

崇神天皇の一生は『日本書紀』では紀元前148年から紀元前29年とされて居ますので、朴赫居世が15~16歳ごろ子供をつくったとしても天之日矛の来日時期と大体合致いたします。

息長のルーツ『天之日矛』は、香春岳に来て住みついたと思われます。

しかし、天之日矛はアカルヒメを追ってきましたが、出来なくて播磨の国に上陸して近江や丹後の若狭・三国近辺を転々として最後は但馬に住んだことになっています。また、大姫大目命は女性の神です。矛盾が生じます。

考察の末、何と謂う事でしょう。わたしは天之日矛が息長氏と錯覚しておりました。此処に来たのは『阿加流比(アカルヒメ)』と思われます。

とすれば、辛国息長大姫大目命はアカルヒメであると考えられます。この時期に大行事秋永(当時は息長と呼ばれていたと思われる。)から息長氏として新羅へ嫁にいって、(天之日矛から逃げて?)帰ってきたという事になります。ということは、息長氏は天之日矛より以前から存在していた事になります。歴史では、大阪に逃げ帰った事に為っていますが、ほとぼりが冷めた頃出身地である香春にやって来たのでしょうか。香春に来てから巫女になったのでしょうか。それともそれ以前になっていたのでしょうか。多分此方から新羅へ霊力を持ち込んで、向こうで祀り事をしたのでしょう。

それであれば『経営』という言葉も合点がいきます。

 

香春神社の神紋が『丸に違い鷹羽』で、父の実家の家紋と同じでした。偶然でしょうか。ちなみに熊本の阿蘇神社も神紋は同じです。

 

香春神社を後にして23キロ程東側の鏡山神社へ向かいました。鏡山は標高が50m位の小高い丘で、神功皇后は三韓征伐の前に香春岳神社で霊力を授かり、この地に来て必勝祈願をしたと考えられています。其の時に鏡を使ったから、鏡山と呼ばれるようになったのでしょうか。それとも、以前から(アカルヒメが何時も)此処で祈祷占いをしていたのでしょうか。

驚きましたのは、鏡山の麓に宮内庁が管理する『河内王の墳墓』がありました。第一印象は『何で大阪の王が九州で亡くなったの?』と言う疑問が湧きました。九州に来なければいけない理由は何だったんでしょう。戦の為?河内王はどんな想いでこんな片田舎で臨終を迎えたのでしょう。さぞや、家族が居る大阪の河内で死にたかったのではと同情をしました。

自宅に帰り、ネットで河内王を調べていて2度びっくり。河内息長氏が出てきました。(大阪に息長氏が居たのは頭にあった筈ですが)大阪の河内に息長氏がいたとは驚きです。しかも、継体天皇を出した近江息長氏の方が分家で河内息長氏が本家とされています。想像されますことは、豊前田川郡息長(秋永)邑に居た息長氏の一部(多く?)は大阪に渡り河内の王となった(近畿を任された?)が、年をとるに遵って、生まれ育った出身地の豊前で死にたいとの想いで帰って来たとも考えられます。そうすれば、鏡山での河内王の『墳墓』が存在する理由も納得がいきます。きっと、満足に安らかに眠っておられることでしょう。

同様に近江や鈴鹿や山城に移動してその地の豪族と血縁を結んだ息長氏もいたと考えられます。そして連携して畿内を治めていた事でしょう。

また、秋永でネットを検索しておりましたら、熊本県益城郡益城町に『秋永の石棺』をヒットしました。ここも古墳群の中にあり、息長氏が親族を送り込んだものと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

2011-11-07 | 古代史

本日(2011.11.7)からブログをはじめました。

よろしくお願いします。

海○○人さま、初めまして、わたくしは大分県由布市湯布院町に住む秋永祥治(あきながしょうじ)と申します。S23年福岡県久留米市篠山町生まれの62歳です。父・祖父等の実家は福岡県浮羽郡田主丸町以真恵という所で農家でした。久留米地域には秋永の姓は数が少なく学校でも珍しがられていました。父はH2年に亡くなりましたが、生前秋永家の由来を訊ねたことがあります。海軍将校だった父も青年のころ興味を抱いたらしく、菩提寺の過去帳等でいろいろ調べたところ、詳しいことは解らなかったが、『以前は柳川?の藩士であったが、お家騒動で脱藩して田主丸で農民として住むことになった。と想われる。』由。一緒に脱藩時、他の秋永姓のものは、大分県の耶馬溪の方に逃げたらしい。と父から聴いていました。それ以前のことは不明でした。
九州では秋永の姓は、福岡県は田川郡大任町大行事、豊前市、久留米市田主丸町近郊、大分県の中津市近郊に少しの方が住んで居られる事は風聞で知っておりました。
時が経ち、
最近知人から戴いた冊子をめくっていましたところ、あるページの写真に釘付けになりました。『これは!!!親父や叔父の顔にそっくりではないか。』見詰めれば見詰めるほど額眉目鼻唇頬といった顔の全体が『あきながのDNAを持っている。』と感じました。その人の名前を見て二度びっくり秋永勝彦(あきなが かつひこ)さんと言われるではありませんか。中津の耶馬溪の雲八幡神社の宮司さんでした。もしや『ずっと以前に分かれた親族ではなかろうか。』との想いで、この方に是非お会いして由来を伺いたいと思いました。親族の法事の折に、この冊子の写真を見せると一同似ていると賛同してくれまして自分だけの一人よがりでないと確信しました。今年2月に私の叔父の写真をもって伺いました。冊子で拝見したとおりの印象で何かの繋がりを感じました。冊子での経緯を説明し『秋永勝彦家の由来を訊ねたい。』とお話をすると、「自分の家系は武田氏の家臣で、戦いに疲れて豊前の地に流れてきて雲八幡神社の近くの山城に居候をしていた所、そこの殿さまから雲八幡神社の宮司を命じられて以来今日に至っている由。」と亡父(秋永十勝氏)より聞いたとのことでした。当時の社会情勢を考えると私にはとても信じる事は出来ませんでした。神官に為るには余程の家柄でないと絶対為れるものではありません。神主になれる資格(皆が納得できる裏づけ)が在った筈ですので「家系図を拝見させて下されば有りがたい。」とお願いをしました所、とても好意的で系図を拝見させて頂きました。天津小屋根命―天国摩大鹿島命―藤原鎌足―藤原不比等―藤原房前と続き房前の系に秋永山と書かれ秋永弾正国重の文字がありました。秋永房国(信濃上)が次に記入されていました。また、藤原不比等の下には淡海公と記入されていました。―重房(従五位秋永民部大輔)-高康(秋永左近将監、弓馬達人博学多才)―繁康(秋永出羽守)―康政(秋永日向守)―隆康(秋永但馬守)のところに《応仁6年、武田○○家、子5人引具豊前に下向》とも記入されていました。系図の最後の前は天正13年の文字がありました。最後の秋永康元の左横に『義功』と書かれて、その下に羅漢寺大和尚と記入されていました。私は、此の事が本当であると仮定すれば、秋永家は大変な高貴な家柄ではなかろうかと考えました。(織田信長の織田家も弾正だった由。)《律令制のなか藤原一族が秋永をなぜ弾正という要職に重用したのだろうか。の疑問が残りました。》
秋永勝彦さんへ秋永の分家の数等を質問しました所、親族は一軒もないとの由。(不思議?)雲八幡神社の近くにある羅漢寺に、戦国時代に一人養子にやったがその人は細川家と一緒に行って羅漢寺を出てしまった由。この羅漢寺の奥に秋永という姓を名乗る方が二軒居られる事と、中津市もしくは豊前にも7軒~8軒居られることを教えていただきましたが、どちらも親戚ではない由。
雲八幡社の由来も訊ねました。

神功皇后が三韓征伐の帰り、腰を下ろし休憩をした岩が、後に雲が湧き立ち、神が現れたり、不思議なことが多く起こり、地域の住民が毎年まつりを行っていた処、京で醍醐天皇の孫である小松院隆子と禁断の恋愛をして豊後の地へ流された清少納言の兄と言われている正三位、清原正高が天延元年(西暦973年)に通りがかり何事かと訊ねると、上記・・・の由。ならばしっかりとした御社を建ててお参りをしなさい。ということで建てられた由。

私は、系図をじっと見て感じ取ったのは『もしかしたら、九州にいる秋永姓及び武田姓の一部は応仁6年豊前へ下向の5人の末裔ではなかろうか。』と推察しました。

雲八幡神社をお暇し、自宅に帰りパソコンで雲八幡神社を開きました。ついでに神功皇后も開きました。彼女の姓は息長(おきなが)・気長(きなが)と呼ばれるでは有りませんか。奈良の神功皇后陵を検索しますと、秋篠町の傍にあります。どうも『息』と『秋』は何か関連を感じます。

私は、『ひょっとしたら息長は秋永と一緒ではなかろうか?』閃きました。『お』と『あ』の音の違いですが、繰り返して発音しますと、韻を踏んでいますので同じように思えました。ある時に(例えば、壬申の乱の折)、『おきなが』から『あきなが』に変化したのではないでしょうか。古代中国では姓名革命があったそうですので、可能性はあります。

日本でも中臣鎌足が天智天皇から藤原姓を拝命しています。

と、いう事であれば、秋永勝彦氏の先祖が神官になるのも地域の人々が納得できることになります。しかし、彼ら5人は生活の約束されない豊前の地に行ったのでしょうか。ひとつ考えが及ぶのは、応仁の乱で疲弊した飢餓の中、自分達一族の出発点である豊前の地を目指した人達かもしれません。豊前には彼らを受け入れる人達が存在していたと想われます。

秋永姓がある場所は主に大分県の中津市周辺(宇佐神宮附近)・福岡県田川市大任町大行事(香春神社・鏡山神社・風治八幡神社)附近であります。後は福岡県の田主丸近郊です。

『では、5人が出発した場所はどこだろうか。』もしも、息長氏の生息地と秋永氏のルーツである出発点が重なるのであれば、可能性は大きくなります。秋永勝彦さんによりますと、武田家に繋がるので甲斐、若しくは信州・信濃になりますが秋永に繋がる地名や山・川が出てきません。方針を変えて全国で調べる事とし、検索の結果三重県の鈴鹿市に秋永町の地名を発見しました。近江息長氏の活動の地からも直線60km位でさほど遠くありません。早速、三重県の郷土史編纂室に電話を入れて、秋永町の由来の資料を送ってもらいました。昔は安芸郡秋永町と呼ばれていたそうです。最初の部分に秋永は秋長とも書く。と述べられていました。周辺には古墳も多く、三角縁神獣鏡が真宗秋永山真昌寺に納められているとの事。『ひょっとしたら、・・・』と私の胸が高鳴りました。しかし、息長と秋永を結びつける決定的なものではありませんでした。しかし、わたしの心の中では『(おきなが)=(あきなが)であって欲しい』との個人的な想いが募ってきました。

 暫らくネットで手懸りを求めて足掻いていました。そして遂に、秋永町のすぐ西隣の郡山町に酒井神社(郡山町1759番地)が存在していることを発見しました。《酒井という言葉は坂君・酒君・三国君に繋がる息長氏一族にとっては重要な意味を持っている由。『三国は坂井郡と言ったそうだが、どうも坂は酒らしい。』と海○○人さまは述べられています。》

酒井神社の主祭神を調べてみますと、丹後地方に多い豊宇賀賣命・保食神ですが、祭神の中に品陀和気命・天児屋根命がありました。

秋永町の5~6kmには、主祭神が息長帯比賣命の竹野八幡社(鈴鹿市竹野2-15-43)がありました。また秋永町の西3kmには(祭神が天之菩卑能命・天之忍穂耳命・天津日子根命)別の酒井神社が存在しています。

また、郡山町の酒井神社の1.5km位の西北に服織神社(はとりじんしゃ)(御薗町2019番地)があります。此処の祭神は息長帯姫命・天児屋根命、と三重県の神社一覧に書かれていました。

服織神社をネットで調べましたところ、大正5年に郡山町の酒井神社に合祀されていました。

鈴鹿市の隣の亀山市の南宮大神社(亀山市太森町1308-1)の祭神は金山毘古命・息長帯比賣命・天眞名鶴命となっています。

亀山八幡神社(亀山市江ヶ室2-6-19)は祭神、品陀和気命・帯中津比古命・息長帯比賣命.とあります。

神社一覧で三重県内の息長帯比賣命を主祭神にしている神社の分布を眺めて見ますと、亀山市と鈴鹿市が主でありました。他の地域にはあまり見当たりません。

これ等の位置を図面上に表すと鈴鹿市にある王塚古墳を囲むようになりました。

この王塚古墳は息長氏(あきなが氏)と関係がありそうな気がします。

やっと、おきながとあきながが重なりました。

秋永町のあきなが氏一族は息長氏と関連のある酒井神社を祭り、敬って暮らしていたと想われます。

1、            息長一族が何らかの理由で近江周辺から移り住んだ。

2、            元々息長一族は山城・大阪や三国・近江周辺と考えられていたが、亀山・鈴鹿あたりまで勢力(姻戚関係)があったと修正すべきである。

3、            元々息長は此処が大きな拠点(古墳群等にて)であった。

4、            元々秋永は息長とは関係がなく偶然である。

これ等のことを総合的に考えますと、1と2と3は,可能性は有りそうですが4は低いと考えられます。わたくしには、秋永一族は息長一族と関わりのある者たちのように想われます。そういう事であれば秋永弾正も肯けます。

 

わたくしは古代史の研究家ではありませんので、学問的知識も乏しく、多面的な捉え方ができません。云々・・・

 

息長氏の時代(古代史)を研究しておられる専門家の海○○人さまに伺ったところの回答は以下の通りでした。

 

 

 

「日本姓氏語源辞典」によりますと、「アキナガ」または「アキナカ」と読む姓氏は、「穐永」「穐長」「秋永」「秋中」「秋長」があり、その内、発祥地が明記してあるのは、「秋長」さんの「香川県小豆郡小豆島町」と、「秋永」さんの「福岡県。豊前国田川郡秋永邑発祥。柳本藩に存す。」と記入されています。

雲神社の由緒によれば「応仁三年(1469年)には城主・大蔵太夫が現宮司家の「秋永氏」を社司(宮司)に任じている。江戸時代になると細川忠興公、次いで小笠原氏歴代藩主、また元禄十一年(1698年)以後は幕府の天領なる。」とあり、応仁3年といえば、応仁元年に始まった応仁の乱の真最中であり、応仁年間に九州に来られたのは間違いないと思います。

耶馬溪の秋永氏は武田家に仕えていたと言うことですが、応仁の乱に参加しているのは、武田は武田でも、甲斐ではなく「若狭」武田氏です。若狭武田氏四代目当主、武田信賢(たけだ のぶかた)が一番有名ですね。現在、小浜市に隣接した滋賀県高島市の市会議員には、「秋永やすじ」さんという方もおられます。

耶馬溪のご先祖は、応仁年間に若狭からいらした秋永氏ではないでしょうか。

若狭はもちろん神功皇后とは非常にゆかりの深い土地ですし、高島市の琵琶湖を挟んだ対岸の米原市に流れる天野川は、別名「息長川」といい、若狭の秋永氏であれば息長氏の転訛したものと考えて良いと思います。

また、面白いところでは、応仁の乱で武田氏の味方であった細川氏(肥後細川藩・忠興公が耶馬溪の雲八幡神社の庇護もしてますね。)の重臣で、松井佐渡守康之の子・長岡興長の家臣に、関が原~島原の乱で活躍した、秋永十郎左衛門という方がいます。この方、当主・長岡佐渡守興長が没した時、殉死した9人の家臣の一人でした。

長岡興長は丹後国久美浜の生まれなので、この秋永十郎左衛門さんも、その頃からの家臣とすれば、息長氏に縁が深い、丹後の出身かもしれません。が、ご存知の通り、細川氏は江戸時代初頭に豊前・豊後から肥後熊本藩に国替えになりました。豊前時代に長岡佐渡守興長に仕官したとも考えられます。

祥治さまの秋永氏は「柳」は「柳」でも柳河藩(立花氏)ということで、お顔が似ていらっしゃるという、耶馬溪の秋永氏とは別系統ということかもしれません。また、ご存命かは分かりませんが、歴史家の秋永政孝氏の著書には、「柳本郷土史論」や「柳本織田家記録」、「中世多武峰の盛衰」、「中世郡山の展開」などがあり、この郡山は奈良県大和郡山市です。三重県鈴鹿市の郡山町が秋永町のとなりにあるのと無関係ではないと思います。柳本藩は現在の奈良県天理市柳本町で、秋永政孝氏は、この辺りのご出身だと思います。

で、「日本姓氏語源辞典」に戻って頂きたい。

「豊前国田川郡秋永邑発祥。柳本藩に存す。」です。柳本藩は大和国にあるのに、豊前国とは?柳本藩の説明に「大和柳本藩」とあったので、豊前にも柳本藩があったのか?と思いましたが、豊前国には小倉藩と小倉新田藩しかありませんでした。

この解釈には、二通りあると思います。秋永氏は大和から来たのか、それとも豊前に発祥し、織田家に仕えて大和へ行ったのか。

いずれにせよ、こちらは田川市の秋永さん系と考えていいと思いますので、若狭武田氏系の貴・秋永氏とは別系統でしょう。

 

弊サイトでは息長氏の同族に秋永氏を加えるだけに止めたいと思います。

 

とのことでした。

 

と言うことで、秋永氏は息長氏の同族ということに賛同を頂きました。

 

 

鈴鹿秋永氏までは踏み込んで戴けませんでしたが、現状では致し方ないと考えます。(息長氏が鈴鹿まで勢力があった事は初説?になるので研究者として慎重にならざるを得ないでしょう。)しかしこれからは、鈴鹿古墳群の研究には息長氏を頭に抱かなくてはいけないものと思われます。また、奈良県郡山町の秋永氏も近江の秋永氏も鈴鹿の秋永氏も福岡田川の秋永氏も根はひとつと思われます。これからは、近江と鈴鹿の関係そして奈良の柳本町近辺(附近には崇神天皇稜や景行天皇稜とか古墳も多くあり、纏向遺跡も近くです。地名も大和朝倉豊前といった九州にもある地名が存在しているのも不可思議です。どうも朝廷が九州から近畿へ移動したとも想われます。)との関係を調べて往こうと考えています。

また、私が父から聞いたルーツの件も父自身も自信が在る様には感じられませんでしたので、若しかしたら、天理市に居られる?歴史家の秋永政孝氏の柳本藩のお家騒動の書物を以前に読んでいて(1953年刊行)そう答えたのかもしれません。今となっては亡くなった父に確かめたい想いです。

 

 《追補》

その後の調査にて、田主丸町以真恵には13軒の秋永家があり、家紋は全ての家が『丸に違い鷹羽』でありました。以真恵地区には、馬渡家も数軒あり、此処もすべて『丸に違い鷹羽』であります。この地区は以前から『馬渡』と呼んでおり、『馬渡氏』の本貫地とも考えられます。

3キロ程久留米寄りの大橋地区集落に15軒程の秋永家がありますが、この地区の秋永家の家紋は『丸に木瓜』・『吉』・『重ね升に一文字』の3種類でありました。此れは以前に九州(倭)を離れて本州に渡った人達がその後(戦乱時)に戻って来たものと考えられます。『丸に木瓜』は高良神社や宇佐神宮の神輿の紋や織田家が想い浮かび、奈良柳本藩の飛び地が香春町~大任町に在ったのも、気になります。

草野山本地区にお住まいの秋永 清さま兄弟の家紋は『三階松』で、此れは『倭の大乱第2幕』にて崇神側に味方した方。と考えられます。

現在東京に居られます、秋永好晴さまの出身地、佐賀県多久市東多久町納所地区には、約10軒の秋永家がありますが、家紋は全て『丸に花剣菱』であり、此れは耶馬溪の『雲神社』宮司の秋永勝彦さまの家紋と同じであります。此れは1467年の『応仁の乱』時に、豊前に下向した5人の別れた末裔とも想われます。

投稿されます全国の秋永さま・馬渡さまは、家紋と出身地住所を記入して頂きますと参考になります。宜しくお願いします。

 

 

 

 

 

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