「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

天照大神は二人居た。やっと解明したニギハヤヒの正体。

2017-07-10 | 古代史

ホツマ伝の伝承を信じますと、アマテル(天照大神 斎名ワカヒト)は男性である。と考えられます。わたくしを含めて(古事記)『天照大御神』・(日本書紀)『天照大神』を、別名、『大日孁貴おおひるめむち神』『大日女おおひるめ尊』と呼ばれ、女性をイメージしていましたので驚きました。今日は、この事を皆様と一緒に考察してみたいと思います。

捏造の認めらる処の記・紀も、多くの真実が語られ、現代人である我々の誤った解釈で理解をしているものとも考えられ、此れを修正しなければ為りません。

考察(洞察)のポイントは、記紀での天照大神の『岩戸隠れ』の解釈。とニニギの兄とされています火明命(ホツマ伝では、斎名テルヒコ)の行方不明の件と、百嶋神社考古学研究におけます、『高良玉垂宮 神秘書』の解釈であります。そして、根本となる信頼の源はホツマ伝の伝承であります。

ホツマに拠りますと、アマテル(天照)=男性は、内宮にイザナギ・イザナミ(ハラミ宮=ゆふいんに居たと考えられます)の二尊に仕えたサクラウチ(ウチ氏?私見では国東半島に居たと考えています。)大老翁=大山祇の祖=橘氏の祖を右大臣として、その娘ホノコ(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ、亦は、桜谷・滾つ背の姫サクラタニニギタツセノヒメ 亦は、向津ムカツ姫と呼ばれた)を迎えて、天忍穂耳命(第8子で末子)を儲けたとされ、

根国(島根)北局の典侍クラキネ(イザナギの弟)の娘マス姫モチ子から天穂日命(第1子)、妹のコマス姫ハヤ子(北局内侍)から3つ子のタケコ(奥津島姫第2子)・タキコ(江島姫第3子)・タナコ(市杵島姫第4子)宗像3女神を儲けます。

第5子として、筑紫西局(佐世保早岐)の金崎(金折)=住吉神の娘であります、ハヤアキツ姫アキ子(西局の典侍)との間に天津日子根命(天御影神の父と述べています。)を儲けています。金崎(金折)の先代は志賀とされ、志賀氏の先代はオキ津彦、オキ津彦の先代がシマ津彦と述べられています。

第6子として、ヒタカミ国ヤソキネ(イザナミの兄で、6代目タカミムスヒ神、神皇産霊尊、シラヤマ神)の娘オオミヤ姫ミチコ(日田市大宮町で誕生して、東局=大分市と考えられます。の典侍になります。)との間にて活津彦根命(滋賀県の彦根の由来に繋がります)を儲けます。

第7子は宗像のトヨ姫アヤコ(西局下侍で後に内侍)との間にて熊野久須毘命を儲けています。この熊野久須毘命は後に熊野神(イザナミ)を守る役を仰せつかります。

このように、ホツマ伝ではアマテル(斎名ワカヒト)の子は八人居り、第1子が天穂日命とされ、此れは、百嶋氏では豊玉彦=天穂日命と述べられています。

 

記・紀では、アマテラスとスサノオの間にて誓約を、天安河(私見では、豊後杵築市の八坂川)を挟んで行ないます。近くに真那井の地名もあります。

アマテラスはスサノオの十拳剣を噛み砕き、吹き出した息の霧から三柱の女神を、順に多紀理毘売命・多岐都比売命・市寸島比売命を(宗像三女神)を儲けます。

次にスサノオはアマテラスの首に掛けた勾珠を受け取り、噛み砕き、吐き出した息の霧から、順に、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(第1子)天穂日命(第2子)天津日子根命(第3子)活津日子命(第4子)熊野久須毘命(第5子)を儲けます。以上はアマテラスとスサノオとが生んだ合計八人の子です。

ホツマ伝と記・紀で比べますと、誕生順は異なりますが、人物は全く一致しており、ホツマ伝では母親・父親・祖父母の親族関係と生存位置(宮)まで詳細に述べており、その信頼性は『記・紀』より優れている。と考えざるを得ません。

 

しかし、天照大神は『記・紀』では女性とされ、ホツマ伝では男性であります。

 

この問題は、わたくしには、『天照大神は二人いた。』ものと考えられます。

 

記紀に述べられていますアマテラスの岩戸隠れは、スサノオの乱行が原因とされ、スサノオは倭を追放されます。

このスサノオの乱行は、(ホツマ伝では)アマテルの北局『大内宮』の典侍で第1子天穂日命を産んだモチ子及び、北局内侍で、モチ子の妹ハヤ子(宗像三女神を生んだ)は、スサノオとの関係を結び、アマテルの内宮のホノコ(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ)が此れに気付き不倫が発覚、モチ子とハヤ子は子を置いて、父クラキネ(イザナギの弟)の居た島根に逃走、残された三女神は宗像氏の豊姫アヤコが宇佐宮(安心院)にて乳母養育した。と述べられています。

『大内宮』の『大内』は杵築市に地名があり、アマテルの北局(島根)は杵築市に設けられて居た。と考えられます。

 

事実と想われ、わたくしの見解では、兄のアマテルは弟スサノオの乱行に嫌気を覚え、ゆふいんから海部氏・尾張氏と伴に田川(多賀)へ移動したものと考えられます。(もうひとつの理由と考えられますのは、鉄・銅の金属生産の増産の為であった。と考えられます。)突然高天原(ゆふいん塚原)から天照が居なくなり、トヨケ(豊受大神)以来の『ハラの央君』が出奔され、ヤソキネ(イザナミの兄で、6代目タカミムスヒ神神皇産霊尊・白山姫と結婚して白山神と呼ばれます)と、耶蘇キネの子・タカキネ=高木神の事、等にスサノオは責任を執らされます。死罪の判決が出ますが、アマテル内宮のホノコ(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ=向津姫)の嘆願で、爪剥ぎ刑と追放に減刑になります。

ヤソキネ(耶蘇キネ)は6代目タカミムスビ神と呼ばれますが、此のタカミはヒタカミ国を表しムスビ統括する人の意味と解釈されます。トヨケ(豊受大神)が居た秀真国(ホツマ国=東國)は、九重町・湯布院町と安心院町と院内町・宇佐市を指し、ヒタカミ国とは、ホツマ周辺の玖珠町・日田市・耶馬溪・山国町・東峰村・添田・田川郡赤村・香春町・大任町辺り全部と考えられます。ヤソキネは神皇産霊尊の事とされ、此の方は百嶋神社考古学では、博多の大幡主命と同一人物にされています。

 

ホツマ伝には書かれていませんが、倭の各地の宮の君がゆふいんに集り、新しい天照を選出します。此れが天之岩戸から出てきた女性のアマテラスと考えられます。

つまり、ホノコ(アマテルの内宮)(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ)がアマテルの後の天照大神に就任したものと想われます。天照大神の別名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と、神詞で謂います。

 

わたくしの故郷の久留米市大石町に『伊勢天照御祖神社』が在りますが、祭神は天照國照彦天火明尊と為っていますが、天照の御親はイザナギ(根国の守)とイザナミ(豊後東の宮)の二尊でありますが、この場合は、御祖ミオヤとは祖父豊受大御神を指すものと考えられます。イザナミは早逝し、アマテルを教育したのは祖父の豊受大御神であります。祭神間違いか、故意捏造と考えられます。それとも天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の子ではなく、まさか!!!真か!!!真か!!!

高天原(ゆふいん塚原)から出奔して田川(多賀)に渡ったアマテルその人で有ったのかも!!!

ニギハヤヒは北九州に伝承が数多くあります。

『記・紀』は天火明命(ホツマ伝では斎名テルヒコ=照彦)の記述を避けています。

『高良玉垂宮 神秘書』には、地神五代として、

第一 天照大神(ホツマ伝では斎名ワカヒト)  第二 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(ホツマ伝では斎名オシヒト)   第三 天津彦彦火瓊瓊杵尊(ホツマ伝では斎名キヨヒト)  第四 彦火々出見尊(ホツマ伝では斎名ウツキネ)  第五 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ホツマ伝では斎名カモヒト

が記入され、天照大神ノ御子、四人ヲハシマス、三人ハ、天照大神ヨリ、四代マデ次タモウ 云々と述べられ、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の事は出てきません。

多分、初代天照大神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ワカヒト=テルヒコ=クニテル)であり天照=国照彦テルヒコ=天火明命=櫛玉饒速日尊は同一人物と、先代旧事本記は述べている。ものと感じられます。歴史から消された天火明命は天忍穂耳尊の子として記録され、天照(ホツマ伝の斎名ワカヒト)=国照彦クニテルヒコ=天火明命(ホツマ伝の斎名テルヒコ)=饒速日尊(ホツマ伝の斎名クニテル)の妻である次代天照大神が、天疎向津媛命アマサカルムカツヒメ=瀬織津姫(初代卑弥呼)であった。ものと考えられます。

 

 

 《追補》

ホツマ伝に拠りますと、アマテル(ホアカリ)はヒタカミの『サカオリ宮』(浅間宮=ゆふいん)からヤマトアスカ宮へ移動して初代アスカ央君と為りますが、此れは福永晋三氏が解明された福岡県田川郡赤村~香春町周辺がヤマトアスカ宮と想われます。その後、倭の大乱(二人のアマテラスになった元因のスサノオの乱)が始まり、田川(多賀)に行ったと考えられます。

香春町には、天照アマテル大神(大君さん=央君=ハラ央君・万葉集)の痕跡が残っております。柳井秀清様たちが守っている墳墓は、大いにアマテル大神(饒速日命・天火明命)の可能性があると考えられます。

 

 

 

 

 

 

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ゆふいんに豊受大神は居た。ハイキ神の本質は蛭児である。と考えられます。

2017-07-01 | 古代史

 

平成29年6月11日(日)に古川清久さんより、杵築・豊後高田の神社めぐりを誘われました。関東の『ホツマ伝』の研究者のお方も御出でになる。との事で、パソコンで『ホツマ伝』を開いてみました。

この『ホツマ伝』は、オオタタネコ(別名オオカシマ)が景行天皇(大足彦忍代別)に奉じたと述べられ、記・紀ではオオタタネコは崇神天皇記で登場された人物であります。わたくしの説では、景行(猿田彦)と崇神は同時期に活躍したお方なので、納得できます。

景行は崇神を西暦258年10月に討伐していると考えられ、それ以後に書かれたものと認識出来ます。

このホツマ伝の記述を参考にして、古事記・日本書紀は7世紀後半に作成されたと一部の研究者では囁かれ、記・紀の不述の真実を得る手懸かりと考えられ、最近重要視されています。今日はこのホツマ伝の記述を信じて、記・紀と百嶋神社考古研究と比較考察してみる事にします。

序では、

オオタタネコの祖父のオホミケヌシは、「開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)(春日・須久・岡本、→行橋・苅田・豊前、後に久留米大善寺玉垂宮)の禁忌に触れる后選びを諫めた。」が、断行されたので、オホミケヌシは職を辞して隠居をした。と記述されています。

わたくしの考えでは、

『禁忌に触れる后選び』とは、伊香色謎命=玉依姫(久留米市大善寺玉垂宮)を娶った事で有りましょう。

玉依姫は、孝元天皇=日高彦穂穂出見尊の『妃』に為って天日鉾命=崇神天皇=スサノオを儲けており、孝元天皇の正妻である皇后、『豊玉姫』(内色許賣命と伏せられています。『玉依姫』と『豊玉姫』の関係は、『姪』と『伯母』になります。)は、後継者のウガヤフキアエズ=開花=住吉神を儲けており、

天日鉾命の処遇に困った、孝元と豊玉姫は、新羅王にするべく、対馬経由(対馬の大勢の神官を連れて帰って、基山の伊勢~筑後~筑豊に住まわせています。)で『新羅』に渡り、『天日鉾』を置いて帰ってきますが、天日鉾は、その後、豊後杵築に大勢の新羅人と共に遣って着ます。

豊後杵築に留め置かれた『天日鉾=スサノオ=崇神天皇』は、高幹(高木神)に依ってゆふいん『高天原』の『アマテル』の弟とされ、待遇に怒った新羅人が暴れて混乱が生じます。『天日鉾』は新羅経由で出雲へ流されますが、出雲から、『アマテル』へ『天叢雲の剣』を献上して許されます。

そして、母違いの兄であります『開化天皇=住吉神=ウガヤフキアエズ』が、玉垂宮で『天日鉾』の母である『玉依姫』を娶った。と謂う事です。

 

系図を眺めますと、

イザナミの父はトヨケ(豊受大神)とされ、『ホツマの君』『東の君』『大物忌大神』とも呼ばれ、贈り名は『アサヒ神』。斎名は『タマキネ』で、ヒタカミ国の『天の宮』とも『アマツ宮』とも『ヤマテ宮』と呼ばれます場所(=日田)に居て、現在は伊勢神宮外宮で主祭神として祀られています。如何も、このお方がホツマの中心人物で在りましょう。

 

トヨケ(豊受大神)の子イザナミは、イザナギ(父はアワナギで兄弟にクラキネとココリ姫=白山姫がいます)との間にヒルコ・アマテル・ツキヨミ・ソサノオを儲けています。ヒルコは父が42歳母が33歳で生まれ、忌み嫌われて斎奇イワクス船に乗せて流され、金崎(金折)夫妻がヒルコを助けて、育てた。と述べられています。

 

ツキヨミとアマテルはトヨケの下(ヒタカミ国の『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』)で『陰陽の教え』を受け、16歳から87歳まで『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』に居たとされています。

系図順に、アマテル(男性であります。海人=天照る 斎名ワカヒト)━オシホミミ(斎名オシヒト)━ニニギネ(斎名キヨヒト=賀茂別雷命=天君とされ、八島廻りをされたお方で、記・紀に於いては、ニニギはゆふいんの『高天原』から天孫降臨して、糸島の笠狭岬へ行った。と解釈されて、異なっています。)

 

この人物が百嶋さまの述べられる所の豊玉彦=八咫烏=賀茂建角身命=記・紀では天穂日命=大國主命への使者として出雲へ派遣された、スサノオと天照大神の間で生れた?お方。と感じられます。ホツマの賀茂別雷命と記・紀の賀茂建角身命の関係が勘繰られます。

賀茂氏の本貫地は豊後国東半島杵築=スサノオが居た場所と考えています。

 

オシホミミ(斎名オシヒト)は彦山~田川香春神社(忍骨神)で存在が考えられ、傍の苅田町には多賀宮青龍窟があり、百嶋説では『後に滋賀県近江に移動した。』とされています。ホツマの『多賀宮』は苅田市~香春町に在ったと考えられます。この苅田と香春町の間の山並みを『山背』と呼んでいたものと考えられます。亦、『美濃』の地名も日田市上野に『美濃』があり、ホツマでの場所は一部を除いて殆んどが九州(倭)での記述であり、例えれば、アマテルが『伊勢』に行っていた。と述べられ、此れを三重県の『伊勢』と解釈されますお方が殆んど。でありますが、此れは間違いで、佐賀県基山町の『伊勢』の解釈が正しいと思われます。亦、『高島』が地24文に多く出てきますが、此れも基山町に『高島』地区が在り、滋賀県の『高島』と、勘違いをなさらぬよう注意しなければ為りません。『西宮』は蛭児が居た早岐の事で、『神崎』は尼崎の神崎では無く、佐賀の『神崎』です。

 

如何もホツマの『ヒタカミ国』(日高見→日田かみ)とは、日田~耶馬渓~豊後~豊前(田川)周辺を指していると考えられます。

『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』とは、高天原、即ち『ゆふいん』を意味しており、此処『ゆふいん』にトヨケ(豊受大神)がいて、イザナミを儲けた事を想像できます。

鶴見岳頂上では、軻具土命カグツチを祀っており、カグツチはイザナミが生んだ子であり、それが元でイザナミが亡くなります。

塚原(高天原)に在る創立後1900年以上の古社である『霧島神社』では、イザナギとイザナミを祀っています。日田市日高町東寺 ダンワラ古墳 (竪穴式古式古墳)では金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)が出土。弥生時代中期の後漢鏡と考えられて、重要文化財になっています。倭王に匹敵する豪族が棲んでいたと考えられています。ホツマで述べられていますヒタカヒコ(日高彦)とも考えられます。日田市日高町には『伊勢神宮』や『法恩寺山古墳群』があり、現在は日田市田島町に在ります『大原八幡宮』の『元大原八幡宮』は日高町傍の『求来里クグリ邑』であり、伊勢(妹背)は此処かも知れません。

亦、久留米市にも『伊勢』と繋がる『伊勢天照御祖神社』が『水天宮』(天御中主命=白山姫=クグリ姫)傍に鎮座しています。久留米は筑後川の真水と有明海の海水が交じる『淡い海→淡海→近江の元)とも考えられます。

 

亦、ホツマでは『ハラ』と謂う場所が出てきますが、此れは『高天(ゆふいん)』を指している。と考えるべきであります。例えばオオモノヌシのコモリが副オオモノヌシに任命して三島(内倉武久氏説の甘木朝倉の三島と考えられます。)の溝咋ミゾクイをハラアサマ(浅間)宮の守りをさせた。と述べられていますが、『ゆふいん』にはアサマ(浅間)と考えられます『馬場浅間』ババセンゲンの地名が伝承で在り、高天原(ゆふいん)の『浅間宮』の事と理解できます。

ホオデミ(彦火火出見尊)の時、オシクモ(天忍雲根命)ヒタカヒコ(日高彦=日田市に日高町が在ります。)が、ハラアサマ宮(ゆふいんの浅間宮※)でホツマ国の政をとる。と述べられています。

 

※    ゆふいんには、以前に『驛』が造られており、一般には、『驛』では常時100頭の馬が飼育されていたと謂われ、此の場所は、ゆふいんの『椿山』の麓に在り、『馬場浅間』部落と呼ばれ、慶長の大地震の後の大雨で『椿山』が崩壊して、埋没した場所であります。

『ハラミ山』とは、『高天見る山』か『妊娠山』と解釈すべきで、形状から天香具山(別府鶴見岳)を指し、『サカヲリ宮』(坂下りる宮)とは、鶴見岳(天香具山)の坂下の塚原(高天原)地区か、ゆふいん地区を意味しており、塚原かゆふいんに『サカヲリ宮』が造られたものと考えられます。その後はニニキネが『ハラ浅間宮』に改装した。と述べられていますので、此れは、ゆふいんの『浅間宮』を意味している。と、解釈されます。

アマテル(天照大神)は、ハラミ山の『サカヲリ宮』にて、一月一日(若日)に生まれたので斎名をワカヒトと呼ばれます。

此れは『天照大神』は『ゆふいん』で生れた事になります。

亦、トヨケ(豊受大神)と孫のアマテル(天照大神)はアサヒハラの洞に入り、神上る。と述べられ、アサヒハラ(アサヒバル)とは、真名井原の事とされ、『真名井』とは、聖井戸、即ち水源地を意味され、

第一候補には、ゆふいん塚原の霧島神社の清水『真名井』が浮かびます。塚原高原は朝日原とも考えられます。

 

しかし、『アサヒ』の名前の伝承は九重町飯田高原(朝日)長者原に有り、『アサヒ』の場所とも考えられ、此処には『真名井』と想われます、龍神伝説の『男池』があります。

最後は、『日出ひじ町』の『真那井』です。『日出町』は『朝日』を意味している。とも採られ、場所もスサノオ・大屋毘古命・賀茂建角身命・崇神天皇の居た杵築「紀氏」熊野の本貫地であります。大いに考えられます。

 

トヨケ(豊受大神)は『ホツマの君』とも『東の君』とも呼ばれており、倭(九州)に『西の君』が居た事を意味しており、『西殿』は『ヒロタの宮』とされて金崎(金折=住吉神)夫妻が捨てられたヒルコを拾って育てた場所とされています。

金崎(金折)は住吉神と述べられ、此れは底筒男の『ウガヤフキアワセズ』や『開花=若倭根子日子大毘毘命』中筒男『崇神』表筒男『安曇磯良』が想像されます。『西の君』が誰かが気に為ります。亦、『西殿』の場所も気になります。検討してみる事とします。

 

地図上でゆふいんの西に目を遣りますと、佐賀県鳥栖市があります。

わたくしの妻の知人に、鳥栖市にお住いの金崎さまが居られます。鳥栖市弥生ヶ丘~三ヶ敷地区が『ヒロタの宮』であったのかも。と推察されますが、鳥栖市には『ヒロタ』の地名は在りません。如何も此処ではないようです。

 

倭(九州)にて『ヒロタ』の地名は長崎県佐世保市早岐ハイキに広田が在ります。『ゆふいん』からは地図上で真西にあたります。

 

わたくしには、此処『早岐のヒロタ』が、豊受大神の時代(オオタタネコの時代?)に『西殿のヒロタ宮』と考えられ、金崎夫妻(本貫地は、宮崎県出身と考えられます)がヒルコを育てた場所と想われます。

と謂うことであれば、ホツマの『西殿の君』とは、金崎(金折=住吉神)夫妻か、『早岐ハイキ神』を措いて考えられません。もっと考えれば、『ヒルコ』が成長して『早岐神』と同一人物として隠された。とも想われます。

記・紀では『ハイキ神』と謂う名前のみしか出ておらず、『ハイキ神』の正体が不明で研究者を悩ましていました。

佐世保市早岐に在ります『早岐神社』は須佐之男を祀っていますが、此れは意図的に隠されたものと考えられ、『早岐ハイキ神』の本質は、須佐之男の姉の『蛭児ヒルコ』である。と考える事ができます。

ホツマに拠ると、『蛭児ヒルコ=ワカ姫=稚日女尊=たか姫=シタテル姫=御歳神=ニフの守』はその後、思兼命=阿智彦アチヒコと結婚して手力男命タジカラヲを儲けた。事に為っていて、「ヤマトヤス宮(筑前夜須) 引き移し アメヤスカワの ヒルコ姫 御子オシヒト(天忍穂耳命=アマテルの子)を 養します 根(島根)とサホコ国(場所不明) 兼ね治む」6文。と述べられ、如何も甘木朝倉に居たと考えられます、病弱の幼い天忍穂耳命の面倒をみた。とされています。亦、思兼命はアマテルの左大臣として仕えた。と述べられ、

アマテル(斎名ワカヒト)の出生地は、トヨケ(豊受大神=アマテルの祖父)の居た『ゆふいんハラ浅間宮』で、月読命と伴に修行をして、16歳まで育ち、その後は基山町の『伊勢』にも居たものと考える事ができます。現在『伊勢山神社』が残っており、西暦955年(天暦9年)第62代村上天皇時の県主が、伊勢神宮の別霊を勧請して出来たもの。と由緒にあり、『伊勢山』の地名が残っており、以前はこの地区は『伊勢』と呼ばれていたと考える事ができます。

近くには、『西島』『新島』『御勢大霊石神社=神功皇后と仲哀天皇が羽白熊鷲と戦い、陣を構えた場所で、仲哀と天照大神を祀っています』の地名があり、この傍には宝満川が有明海方面へ流れており、伊勢と呼ばれていたものと考えられます。

基山町の古社、『荒穂神社』では瓊瓊杵尊(斎名キヨヒト)を祀っており、キヨヒト(瓊瓊杵尊)は祖父アマテル(斎名ワカヒト)が居た基山伊勢で育った。様です。

亦、井上悦文氏の説(甘木朝倉の『麻低良山マデラヤマ』に在る『麻低良布神社マデラフジンシャ』は書道の草書体で書けばアマテラスを意味している。ので此の朝倉の地に天照大神が居た。と謂う説)どおりに朝倉の地区でも存在が考えられます。アマテルの御子(斎名)オシヒト(天忍穂耳命=アマテルとホノコの子 )は此処朝倉地区(ヤマト夜須宮)からタガ若宮(鷹羽宮=多賀宮=香春古宮八幡神社周辺)へ移動した。と解釈されます。

ホツマ本の触りを端折って解釈しましたが、

このように、ホツマの記述は信頼性が認められ、歴史の解明に役に立ちそうで、ホツマ伝の研究を皆様にもお勧めできそうです。

ホツマでの倭の領域は、九州~出雲(根)~気比(北陸)~瀬戸内~愛媛と考えられます。富士山や浅間山の関東以北の領域の解釈は無理があるようです。

 

 

 

 

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