「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

秋永氏探求から紐解く息長古代史19

2011-11-25 | 古代史

益城町の『秋永の石棺』は、はじめは、卑弥弓呼の墓かもしれないと考え、次に、御井津比売命が高良大社から移動して来たとも考えられ、現地に赴き、五感を砥ぎ、匂いを嗅ぎ分ける事にしました。

10月12日熊本県益城町大字小池字秋永に行きました。

 

熊本平野の東側に在し、熊本空港の南に位置した、東が、飯田山を主峰とした山々に近い処で、山からの湧水の多い地形のようです。

 

役場で石棺の情報を得るため立ち寄りましたが、担当者がお休みで、後日電話で済ますことにしました。

 

秋永姓が1軒あることを確認して、大字小池(おいけ)字秋永へ行きました。

 

秋永さん(昭和8年生)のお宅に伺って由来や地区の話をして頂こうとしましたが、14~15年前に脳梗塞で病に倒れられて、詳しいお話は伺えませんでしたが、裏山に秋永神社があると言われたので行ってみました。

 

小高い丘の上にあり、階段を30段ほど上ると鳥居があり、鳥居には熊埜宮と書かれていました。(通称秋永神社と地域の方は呼ぶそうです。)

 

相当古い神社の佇まいがあり、社殿は向かいの飯田山に向けられていました。

 

社殿に向かって左の石碑に宮司名が井王と書かれ横には秋永の字がありました。

 

鳥居下の民家の畑で仕事をされていた方に伺うと、祀りの時の宮司は近くの浮島神社から来られる由。

 

と謂うことで、2~3キロ程はなれた浮島神社を訪ねました。

 

阿蘇山系からの湧水池の中に建てられた神社で、此処の宮司さんが井王さんとおっしゃる方で、京都から1100年前に来られた由。祭神は熊埜坐都命で遠方の白髪岳方向に建てられています。

 

後日、役場の担当者に、電話で『秋永の石棺』の事を伺いました。

 

秋永地区から昭和42年に7墓の弥生時代後期の石棺が出土して、5号石棺の中から鉄剣が1振出てきた由。棺の中は丹で四面を塗られ底に炭が敷かれていたそうです。そのほか鉄矢じり・鉄片・壺・高杯等が側から出土されている由。

 

帰宅途中の車の中で、益城町の秋永の主は、息長の誰であるかを色々考えました。

 

そして導かれた結論は、此処に来たのは多分、御井津比売命ではなく、息長水依比売命と日子坐王の長女?である水穂五百依比売命(みずほいおよりひめみこと)となりました。

理由は、宮司である『井王(いお)』さんと、水穂『五百(いお)』が一緒(本家の一族)と想われる関係が認められます。

 

また、九州では古くより熊本平野の事を『みずほの国』と称していて、以前、東京―熊本間を寝台特急『みずほ』が運行されていました。水穂五百依比売命は熊本の『みずほのくに』と関連が認められます。

 

そう謂う訳で、『秋永の石棺』の一部は水穂五百依比売命の墓と考えられます。

 

と謂う事であれば、その後狗奴国は邪馬台国と友好関係を結んだ事でしょう。

 

しかし、息長水依比売命と日子坐王の間に水穂之真若王(みずほのまわかのみこ)が居ました。古事記には、近淡海の安(やす)の直(あたい)の祖と書かれていますが、『近淡海の安』とは近江の野洲と考えていいのでしょうか。

この人も益城町(狗奴国)へ来ているとも考えられます。如何なる理由からでしょうか?この方が秋永5号石棺の鉄剣の主とも考えられなくもありません。

 

そして、卑弥弓呼とも、同一人物であるとも考えられなくもありません。

が、しかし、邪馬台国の勢力範囲が、熊本平野まで在ったとも考えられ、狗奴国はそれより南の八代平野付近に在ったとも考えられます。

 

常識的に考えるのであれば、筑後平野と熊本平野の間には南関・山鹿と謂う山並みの関があり、国境に丁度よい地形を成しております。ので、南関より南が狗奴国と視るのが自然です。

今後のみなさんの検討と研究が必要と思われます。

 

 

 

 

 

 


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