「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

NHKのテレビ番組を見て感じた事。

2014-04-13 | 日記

 

先日の夜(平成26年4月10日)NHKにて、『卑弥呼』の1時間番組があったので、見る事にしました。

NHKは中立を守る英国のBBCを手本にしている。と伺っていますが、

こと、古代史の編纂・監修に関しては中立ではなく、恣意的とも感じられます近畿説の論者を起用されている様で、恰も当時(西暦230~240年代)の話は近畿纏向遺跡に求められる様に映像を出されておられました。一般の視聴者には無意識に邪馬台国は近畿大和で在ったかのように印象つけられます。この様な映像は流さないようにお願いを申し上げます。

わたくしの研究では、近畿纏向は、九州福岡県田主丸出身の『彦坐王』が孝霊天皇として居を構えたのが最初で、其の後、第11代垂仁天皇を九州福岡県久留米市城島(しき)の瑞垣宮から養子として迎え容れたもの。との考えを示しています。

ですから、纏向遺跡の箸墓古墳はこの『彦坐王』・『垂仁天皇』の両人のどちらかであろうと考えていますが、『垂仁天皇陵』は奈良市尼辻に在る『宝来山古墳』とされています。一方の『彦坐王陵』は岐阜市岩田西に在ります清水山山麓とされ、『伊波乃西神社』に息子の八瓜入日子命と伴に祀られています。

『彦坐王』は孝霊天皇として纏向で『垂仁天皇』を迎え容れたと考えられますので『彦坐王』は岐阜県へは往ってはおらず、纏向で亡くなったと考える事ができ、『箸墓古墳』は『彦坐王陵』と想われます。

そもそも孝霊天皇は記紀の捏造で、存在しておらず、倭迹迹日百襲媛(やまとととびももそひめ)は古事記では一節も述べられて無く、その存在すら疑念が生じています。、卑弥呼とは全く関係がありません。

卑弥呼は由布院に居た天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)(和邇氏元祖と謂われます)の嫁である『宇奈岐日女命』(宇那比媛命)で間違い有りません。

 

番組の内容は、当時の国際情勢から卑弥呼の置かれた立場を通して、政治決断を読み解こう。とする要旨で、『倭の大乱』を当時の『気候変動』と『鉄の輸入』に求めており、後漢から三国(魏・呉・蜀)に分かれた当時の中国の状態を示して、卑弥呼が『魏』と『呉』を天秤にかけて、何故『魏』を選んだのかを議論する内容でした。

わたくしの頭では、幾つかの考察の不足が気になりました。

一つには、『魏』と『呉』と『倭』の関係を、遼東半島を支配していた『公孫淵氏』を介して解釈されていますが、難升米一行の『倭』の使節団は『公孫淵氏』との戦いの最中の238年に行っており、この事をどの様に解釈するかであります。

 

卑弥呼は、狗奴国との対立の関係で(例えば、狗奴国と呉が手を結んだ事による危機感で)『魏』の協力を求めたものとも考えられ、『魏』はその要請を受けて使節団を、『倭』に正始元年(西暦240年)には帯方郡(たいほうぐん)から建中校尉梯儁(ていしゅん)と謂う使者が派遣されて来て、卑弥呼と会い、魏の帝の詔勅・金印・財宝を授けています。さらに、正始4年(244年)にも卑弥呼は狗邪国との不和の問題で使者を魏に送っており、そして、西暦247年魏の張政一行の使節団が調整の為遣って来ます。

この様に2回も使節団を遣わしており『魏』の『倭』に対する並々ならぬ想いを感じざるを得ません。此れは『魏』と対立する『呉』を意識しているものと考えられ、番組の考えと同意です。

考察不足と思われますのは、西暦107年帥升王が後漢に献上した『生口(しょうくち)』106人の其の後の考察が論じられなかった事であります。

わたくしの『生口』の解釈は『役に立つ人間』を意味するので、奴隷とは違います。

『後漢』から『魏』へは禅譲され、国土は『魏』『呉』『蜀』に別れ、『後漢』の首都である『洛陽』も其の侭『魏』に受け継がれています。

帥升王からの106人は『洛陽』に『倭人町』を形成して居たと考えられ、末裔は『魏』の高官になった。とも考える必要があります。そして、その通訳を兼ねた高官は『倭』への使者として遣って来ている。とも考えられます。

わたくしの考えでは、天之御影神が『魏』の『倭』に対する大目として来たものと解釈しています。その娘が辛國息長大姫大目命であり、息長水依比賣命の事であり、田主丸で生れた『彦坐王』が田川の『息長水依比賣命』を娶り、勝山黒田より近畿滋賀県へ『孝霊天皇』として移動して中国(吉備~出雲~兵庫)地方や越前に痕跡を残し、其の後『纏向』に棲んだものと捉えております。

此処勝山黒田は、後の第12代景行天皇が7年間行宮を置いた地でもあります。

わたくしの考察では登美(北九州)の長髄彦が占拠した『大和』は『勝山黒田』の事であり、其れを奪還したのが景行天皇の弟である若木入日子命であります。その若木入日子命の業績が神武天皇の東征の業績の事に置き換えられており、若木入日子命(神武天皇)は功労で由布院盆地(室の秋津嶋宮=第6代孝安天皇と宇奈岐日女命=卑弥呼が居られた場所)を頂いた事に為っています。

若木入日子命(神武天皇)の其の後は、『媛踏鞴五十鈴媛命』と由布院にて結婚、『神渟名川耳命』(宇佐稚屋命)と『神八井耳命』(御諸別命)を儲けているものと考えられます。そして、記紀は若木入日子命→神武天皇→彦狭嶋命に捏造していると考えられます。

『彦狭嶋命』の子である『宇佐稚屋命』(神渟名川耳命)が愛媛県の越智氏の娘との間に儲けた子が本当の第15代応神天皇(宇佐押人)で、神功皇后(息長帯比売命)の生んだ子では無かったと考えられ、応神天皇(宇佐押人)は直ぐに息長氏(秋永氏)から妻を娶り、身の安泰を図っています。

 

余談でありますが、『黒田官兵衛』の本貫地は兵庫県では無く、福岡県勝山黒田で在ったろう。と考えております。

秀吉から授領した豊前12万石は大名の間では余りにも冷遇であるのが指摘され、後に、筑前52万石を拝領しますが、これは、『官兵衛』は『黒田氏』の本貫地は勝山黒田である事を知っており、当時『宇都宮氏』が権勢を持って居た豊前の地を敢て望み、拝領したものと考えられます。

その根拠には、何故か『官兵衛』は、勝山黒田の『馬ヶ岳』216mに20万人の豊臣軍を配置し、九州の豪族大名に圧力をかけて、島津氏を追い詰めています。

 

話を戻して、番組での、卑弥呼が『魏』と『呉』を天秤に掛ける考え方の論は、『呉』と『狗奴国』の間には友好関係が既にあった。との推論が為されておらず、洞察に欠けており、もし、それが本当であれば卑弥呼の選択は『魏』のみであり、必然であった事になります。

 

日本人の祖は『三苗(さんみょう)の民』の末裔とも謂われ、『三苗』とは揚子江中流域に棲んで居た『苗族(ミャオ族)』が『呉』・『越』・『楚』の3つに分かれて『三苗』と呼ばれるようになり、現在の上海近くの地から紀元前473年以後『呉人』が稲作と伴に多く這入って来ているとされ、『呉』を創った『太伯』の号が『狗呉』『句呉』(くご・こうご)で有った為、『呉人』は『狗呉』『句呉』(くご・こうご)と呼ばれていました。その経路は沖縄~奄美~南九州鹿児島(熊曾)・熊本(狗奴国)で有ったろうと想像されています。その後、『越』『楚』『秦』も遣って来たと考えられております。

魏史の東夷伝にも、『倭』の王が「自分は太伯の末裔である」と述べた。と記されており、『倭』と『呉』は天孫族以前から深い関係があった。と思われます。

熊本県に在ったと考えられます狗奴国の『狗古智卑狗』は『狗呉』の末裔の『王』とも考えられ、熊本県山鹿市出身の現在政治家として活躍されておられます松野頼久(まつのよりひさ)さまの先祖は『呉』の王の末裔である。とも謂われており、『狗奴国』は三国志時代の『呉』とも友好関係を結んでいた。との推察は番組で論じられるべきであった。と感じました。

 

 

 

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同一人物を考える。

2014-04-05 | 古代史

古代史ブロガーに『綾杉るな』さま。と仰るお方が居られます。九州を中心とした『神社』に足を運び、研究を重ねて古代史に迫っておられて、『ひもろぎ逍遥』の名前にて全国に多くのファンをお持ちの方です。わたくしも、そのチャーミングなお名前に魅せられファンに成った一人です。笑。

先日、わたくしの故郷久留米にて『綾杉るな』さまの、神功皇后(息長帯比賣命)の九州での足取りを『神社伝承』をもって検証した講演が有ったので、興味が湧き聴講。初めてお顔を拝見致しました。

わたくしが想像していた40歳代より、少し年を重ねておられますが、想っていた通りのチャーミングな美人で、思わず、傍で発売されていた『神功皇后伝承を歩く』の本を手に取りサインをおねだり、年甲斐もなく浮き浮きして帰って来ました。(古代に興味の無い妻には内緒です。)

講演から受けた印象は、積極的で旺盛な仕事ぶりと慎重にじっくりと積み上げていく研究者としての意欲・熱意が伝わって来ました。

『るな』さま、ポチッポチッポチッと応援しています!!!

 

この『るな』さまのブログ『宇佐・安心院トレッキング』を拝見させて頂いていた所、『姫神の謎を追って3 二女神とは』にて、

前回にわたくしが述べた宇佐の『二女神社』の解釈{市杵嶋比賣命=瀛津嶋姫(おきつしまひめ)と多祁理比賣命は同一人物である。と考えられるので二女になっている}に対して、多祁理比賣命と田湍津比賣命が同一人物かも。と解釈されて、楯崎神社縁起のチャートを示されいるのに驚きました。

『るな』さまの考察は正しいと思われ、わたくしの考察を重ねますと、三女神{多祁理比賣命=田心姫・田湍津比賣命=高津姫・市杵嶋比賣命=瀛津嶋姫}は一女神であった。と考えられます。

多分、多祁理比賣命お一人で宗像から『沖の島』に渡り祭祀をしたものと考えられます。

そうしますと、思い浮かびますのが、『天道日女命』とその夫と謂われます『天火明命』であります。この『天火明命』は、本来の名前は(先代旧事本紀では)『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊』と記入されており、研究者からは、『天火明命』と『饒速日尊』は同一人物であろう。と謂われております。

記紀では、『天火明命』は『邇邇芸命』の兄とされ、大物主命の国譲りにて平定された葦原中国に天降すべきは、長男の『天火明命』の筈なのに、何故か二男の『邇邇芸命』が天降して糸島に行っていると考えられます。

そして、『天火明命』についての其の後の行動には何も触れていません。

此れは怪しく、記紀の捏造と考えられ、『天火明命』と『邇邇芸命』は兄弟では無いものと考えられます。

如何も、わたくしには『天火明命』と『瓊瓊杵尊』と『アマテル』と『饒速日命』は、同一人物と考えられます。

ホツマ伝には『大物主命』と『少彦名命(豊祇彦命)』は筑紫(北部九州)を治めていたとされ、此れを信じれば『大己貴命』『大物主命』同一人物と考えられます。

 

『天道日女命』は『瀬織津姫=向津姫』の事になり、『天道日女命』『饒速日尊』の間に生れた『天香山命(尾張氏の祖神)』・『宇摩志摩治命(物部氏の祖神)』は『迦毛大御神』(味鋤高彦根神・阿遅須枳高日子命)と同一人物である事となります。

しかし、『先代旧事本紀』では『天香山命』と『宇摩志摩治命』は母神を異にする兄弟神となっており、『宇摩志摩治命』の母神は『長髄彦』の妹と述べられています『三炊屋媛(みかしきやひめ)』であります。

しかし、わたくしの思考では『長髄彦』と『神武天皇』の実像は第12代景行天皇時代のお方であり、『長髄彦』は時間軸の捏造が考えられ、『三炊屋媛(みかしきやひめ)』『天道日女命』と、同一人物。若しくは捏造と考えられます。

そして、『天香語山命』と『宇摩志摩治命』と『迦毛大御神』同一人物と考える事が出来ます。

ですから、新潟県の『弥彦神社』の『天香語山命』は『宇摩志摩治命』であり、『迦毛大御神』でもある。と考えられます。

その根拠は、出雲・宇佐と同じ『二拝四拍手一礼』の参拝作法であります。此の『二拝四拍手一礼』の作法は他の神社では伝承をしておらず、『出雲大社』が『大物主命=大己貴命』、『宇佐神宮』が『多祁理比賣命』、『弥彦神社』が『迦毛大御神=味鋤高彦根神』を表している。と考える事が出来ます。

 

『大物主命』・『多祁理比賣命』(天道日女命)・『味鋤高彦根神』・『少彦名命』等、大勢の衆は由布院より天降りをして、杵築の大屋毘古命に頼って四国伊予へ逃げていますが、

愛媛県松山市の『櫛玉比賣神社』には『天道日女命』と伴に『御炊屋姫命』が配祀され、『櫛玉比賣神社』と向かい合って在ります、『國津比古命神社』には『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊』が祀られ、『宇摩志摩治命』が配祀されています。

此れは、『大物主命=大己貴命』とその妻『多祁理比賣命』と、其の子である『味鋤高彦根神(迦毛大御神)』と解釈でき、『大物主命』『國津比古命』『多祁理比賣命』『櫛玉比賣命』同一人物と考える事が出来ます。

 

「大物主命」は「葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを)」・「八千矛神(やちほこ)」・「杵築大神(きづきのおおかみ)」・「大穴牟遅神(おおなむぢ)」・「大穴持命(おおあなもち)」・「大己貴命(おほなむち)」・「大汝命(おほなむち)」・「国作大己貴命(くにつくりおほなむち)」・「大名持神(おおなもち)」等、多くの名前で称されています。そして、『國津比古命』も加わりますと、其の名前の通り『おおなもち』であり、

『多祁理比賣命』も同様に、『田湍津比賣命』・『高津姫』・『市杵嶋比賣命』・『瀛津嶋姫』・『天道日女命』・『櫛玉比賣命』が考えられます。

 

しかし、何故これだけ多くの名前が附けられたのでしょうか。

ひとつは、民衆の本来の『大王』への思慕と、同情、現在の(クーデター)王権への反発が考えられます。もうひとつは、7世紀の現政権(高御産巣日神と和邇氏の末裔)は、自分たちが、『古来からの王族』をクーデターで倭(北部九州)から追い出し、其の上、逃げ延びた出雲までも奪った事を、体裁を繕う為に、捏造を数多くして、大物主命や多祁理比賣命の影を倭の歴史から消し、須佐之男命から高御産巣日神と和邇氏へ王権が自然に繋がった様にしたかった。ものと考えられます。

 

 

 

 

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