「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

彦狭島王について考える。その2 (二人の彦狭島王。)

2013-02-27 | 古代史

二人の『彦狭嶋命』をどの様に解釈するかの問題は、わたくしの頭の中で混迷を極めています。時間ばかり過ぎていきます。

過去に『師木の瑞垣宮』の場所や『軽』の意味の解釈・『神武天皇の東征が若木入日子命の業績』の事であった、件。『尾張氏・海部氏・紀氏・等』の本貫地探し、『高天原』・『秋津島宮』探し等、難題を紐解いてきましたが、今回は古代史の『核心部分の謎』に遭遇している様であります。

 

福岡県春日市に居られた第9代とされる開花天皇は、皇后(正妻)竹野姫(尾張氏)を田主丸(和邇氏)にて、彦湯産隅命(崇道天皇と呼ばれたと考えられる)を生み、後に正妻になったと日本書紀に書かれています物部氏(穂積氏)の伊香色謎命(いかがしこめ)を大善寺の玉垂宮に住まわせ崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖)を儲けています。

亦、和邇氏の姥津媛(ははつひめ)を娶り、彦坐王(ひこいますのみこ)を儲けています。姥津媛の在所は不明でありますが、『彦坐王』は秋永(息長)の地名がある大任町から香春町に出身を考えられ、この近くにて人生の前半を過ごしていると想われます。

『彦坐王』は1、袁祁都比賣命(おけつひめみこと)(彦姥津命の妹)と結婚して山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかおう)(神功皇后の曽祖父・但馬国造の祖)を、三柱。

2、沙本之大闇見戸売(さもとのおほくらみとめ)(春日建国勝戸売の女)に狭穂彦王(後に、嘉穂郡稲築町にて垂仁天皇を殺そうと乱をおこす。)・狭穂姫命等、四柱。

3、息長水依比売(天之御影神の女)との間に丹波道主王(たにはのみちのうし)を儲けています。五柱。

4、山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ)(苅幡戸弁かりはたとべ)の間に大俣王・小俣王の二柱。といった全部で11王・3姫の14柱であります。

 

その前の第8代とされる孝元天皇は

軽(かる)(香春町)の堺原宮(さかいはらのみや)にて居住、

1、穂積臣の祖である内色許男命(うつしこを)の妹である内色許賣命(うつしこめ)を娶って大毘古命(おおびこのみこと)・少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころ)・若倭根子日子大毘毘命(開花天皇)の三柱を儲けています。

(大毘古命は子である建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と四道将軍として本州に赴き日本統一に活躍をします。)

2、内色許男命の娘である伊香色謎命(いかがしこめ)を娶って、彦太忍信命(ひこふつおしのまことみこと)を生んだ事になっています。{この彦太忍信命は、宇豆比古の妹の山下影日賣(やましたかげひめ)を娶って武内宿禰(たけのうちのすくね)を生んでいる事になっています。わたくしの想像では『宇豆比古』は豊前~宇佐に存在を感じられます。安心院の佐田神社では武内宿禰を祀っています。}

3、三人目の妃は河内の青玉繋(あおたまかけ)の娘の埴安媛(はにやすひめ)で、(崇神天皇の時代に叛乱を起こした)武埴安彦命(たけはにやすのみこと)を生んだ事になっています。『河内』は全国何処にも見受けられますが、わたくしの解釈では、『河内』は久留米の『高良内』の事になり、青玉繋(あおたまかけ)とは、高良山に産する青緑色した石(通称、おんじゃくいし)で、(道路の上にチョークとして子供の頃使っていました。)の事を指し、石工の娘であったろうと考えられます。久留米市には『安武』(やすたけ)の地があり、『武埴安』が『安武』に転訛したのかも知れません。

 

そして第7代孝霊天皇です。

このお方は、黒田庵戸宮に居られ、陵墓は片岡馬坂上とされ、わたくしの考えでは、福岡県京都郡勝山黒田で、(此処は、第12代景行天皇時代、景行12年の熊襲叛乱平定の『行宮』を置いた場所であり、近くには『宮の杜』の地名もあります。)孝霊天皇陵墓とされています『片岡馬坂上』とは近くにある『馬ヶ岳216m』の流れと考えています。

記紀においては、1、皇后として、磯城県主大目の女の細媛命(くわしひめみこと)を娶り、大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるみこと)=第8代孝元天皇を生んでいます。1柱。

2、春日之千千速真若比売(春日千乳早山香媛)(かすがのちちはやまわかひめ)を娶り、千千速比売命(古事記のみ)1柱。

3、倭国香媛(絙某姉はえいろね・和知都美命の女。)を娶り、倭迹迹日百襲媛(やまとととびももそひめ)・日子刺肩別命(古事記のみ)・彦五十狭芹彦命(ひこいささせりひこのみこと)(別命、吉備津彦命。)・倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめみこと)4柱。

4、倭国香媛の妹の絙某弟(はえいろど)を娶り、彦狭島命と稚武彦命(吉備氏の祖)2柱。男5柱女3柱の八柱を生んだ。とされています。

この様に、此処では第8代孝元天皇の妃である伊香色謎命(穂積氏=物部氏)と第9代開花天皇の皇后になった伊香色謎命が出て来て居り、何と無くすっきりしません。

わたくしには、本州への本格移住が開始された第7代孝霊天皇(西暦250年頃)から第9代開花天皇までの間の人脈系図が何か不可思議なものを感じられ、何処かで記紀の(簡単ではない複合した)捏造が疑われます。何処と何処でしょうか?

 

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彦狭島王について考える。

2013-02-13 | 古代史

橿原宮が由布院に在って、神武天皇が由布院盆地に居られたことが判明し、わたくしが此れまで述べてきた考えが大筋では正しい解釈であると考えられ、喜ばしい筈ではありますが、何故か気分が晴れません。

と、謂いますのは、此れによって、宇佐公康さまの「古伝が語る古代史」に書かれています事が真実味を大きくした事になり、歴史の真実を一層複雑化する事になるからです。

記紀においては、神武天皇は橿原宮(由布院)にて亡くなった事になっていますが、宇佐公康さまの伝承では広島県厳島の『弥山』に葬られた事になっています。

 宇佐公康さまの伝承では、神武天皇(若木入日子命の事)は「やまと(勝山黒田)平定」の後、景行天皇に後を託し、宇佐津姫と結婚して宇佐都臣命(宇佐稚屋)御諸別命(みもろわけみこと)を生んだ事になっており、此の宇佐稚屋命(うさのわかやみこと)と伊予の越智宿禰女常世織姫(おちのすくねめとこよおりひめ)の間に生まれた宇佐押人(うさのおしひと)が後の本当の第15代応神天皇である。とされており、

第12代景行天皇から東国(関東~東北)15国の王に命じられた叔父である『御諸別命』が、九州で?『神功皇后』と『武内宿禰』、その子である『誉田別天皇』を破って、『宇佐押人』を近畿大和国高市郡白橿村の軽島豊明宮で『第15代応神天皇』として即位させた。とされています。(この応神天皇の即位は西暦390年頃と考えられています。)

記紀の『媛踏鞴五十鈴媛命』と『宇佐津姫』の関係、記紀にある『神八井命』・『神渟名川耳命』と『御諸別命』・『宇佐稚屋命』の関係、そして、口伝に残る神武天皇は広島県厳島の『弥山』で亡くなった。との問題等であります。

此れが本当であれば、『神八井命』・『神渟名川耳命』と『御諸別命』・『宇佐稚屋命』は同一人であらねばなりませんし、亦、神武天皇の墓は厳島の『弥山』に在る事になり、由布院から生前に移動をされたと想われます。

そして、第12代景行天皇は由布院を訪れており、速津日女命に天之御中主命を祀る事を命じておられ、速津日女命と神武天皇は同時期に存在を考えられ、宇佐津姫と速津日女命と媛踏鞴五十鈴媛命と神武天皇が重なり、どの様に解釈をするかを問われます。

わたくしの想像でありますが、第12代景行天皇は末弟である若木入日子(神武天皇)と宇佐津姫(=速津日女命=媛踏鞴五十鈴媛命)の結婚式の為に、此処由布院盆地に来たのではないだろうか。と想われます。

昔は院内~安心院~速見郡~由布院は一つの院であったと考えられ、通称名が場所により『宇佐津姫』だったり、『速津日女』と呼び名が違っていたものと想われます。そして固有名称が『媛踏鞴五十鈴媛命』であった、とも考えられます。

と、謂うことになりますと、『神渟名川耳命』と『宇佐稚屋命』が、『神八井耳命』と『御諸別命』が同一人物とも考えられます。

 

 『神八井耳命』は大分市高尾葛木に存在を考えられ、古事記によりますと、子孫は繁多に(19氏)分かれ、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥石城国造、常道仲国造、長狭国造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、島田臣等の祖である。とされ、官位も臣、連、君、国造、直と多岐に亘っています。

小子部連、雀部臣、島田臣は氏族伝承にて意富臣と同祖であるとされており、此れは古事記が書かれた時までにその一族から分かれたものと捉えねばならないと思われます。

しかし、日本書紀には『神八井耳命』は綏靖天皇4年に亡くなったとされており、此れは如何考えても腑に落ちず、「綏靖天皇4年に亡くなってはおらず」、もっと長く生きられたものと捉えられ、日本書紀の捏造とも考えられます。大分近辺にて子供を儲け、その子達が全国に散らばって往ったものと想われます。

 

次に、『御諸別命』であります。このお方は、(私の説では)久留米市大善寺玉垂宮に居られた崇神天皇が、長男である豊木入日子命を「東国を治めよ」として、大分県中津の上毛町・下毛町に遣っています。

豊木入日子命の子が八綱田(八ツ並)と考えられ、この八綱田が垂仁天皇時に福岡県嘉穂郡稲築町で起きた『狭穂彦王(嘉穂彦)の乱』を鎮めます。

その子が『彦狭嶋命』とされており、日本武尊の没(景行43年)後、近畿纏向日代宮に居られた景行天皇から東山道15国の支配を命じられて、中津宇佐から本州に赴く途中の春日の穴咋邑(あなくひむら)にて病死(景行55年)をしています。(春日の穴咋邑の場所が不明であります。)

このお方が中津宇佐(由布院を含む)にて『宇佐都臣命(宇佐稚屋)』・『御諸別命』を生んでいると考えられます。(宇佐公康さまの伝承では弥山にて生まれた事になっています。この弥山は『母なる山』と呼ばれています『箭山ややま』別名『八面山』とも考えられます。)

亦、第7代孝霊天皇の皇子としても、伊予・越智氏の祖として『彦狭嶋命』は記入されており、この二人の『彦狭嶋命』をどの様に解釈するかも考えさせられます。

 

第12代景行天皇時に出てくる『彦狭嶋命』は、本当は『神武天皇』(若木入日子)の事であり、記紀は、八綱田の後に彦狭嶋命を持って来ての捏造と考えられます。

『狭嶋』は由布院を暗示する「真乍き(狭き)秋津嶋」の事をもじっているとも捉えられ、『彦』は神武の事を意味しているとも考えられます。

しかし、景行天皇の直ぐ下弟の『大中津日子命』が近くの中津市近郊(上毛郡~下毛郡)に居たとも考えられ、このお方も大いに可能性が考えられます。

と、謂いますのは、『大中津日子命』は『三毛入野命』と同一人物であると考えているからです。『中津市』の傍に『三毛門』の地名があり、同一地点の関係が認められ、日本書紀の神武紀では、『三毛入野命』は常世郷(とこよのくに)(海の彼方にある世界。)に渡った。と記入されています。(常世郷とは越智宿禰女常世織姫の郷とも勘ぐられます。)

此のこのどちらかであろう。と想われます。

 

この考えと宇佐公康さまの伝承を重ねますと、景行天皇時の『彦狭嶋命』は『景行天皇』の『弟』の事になり、多分『彦狭嶋命』が亡くなった穴咋邑の場所は広島県阿品邑厳島『弥山』と想われ、多分『神武天皇(若木入日子命)』であったろうと考えられます。

 

『彦狭嶋命』(神武天皇)が亡くなられた翌年(景行56年)、景行天皇の居られる近畿纏向日代宮に呼び出された甥の『御諸別王』は父に代わって東国(関東方面)を治める事になり、伊予国造と同祖の建借馬命・建借間命や意富氏(多氏)印波国造と謂った神八井耳命系御諸別命系の人達が大勢豊後(大分)・伊予(愛媛)から出向いております

当然、子供である荒田別や奈良別も一緒に関東に出向いたと考えられ、中津の上毛・下毛が上毛野君、下毛野君として関東にも出現しても不思議ではありません。景行天皇はその後(景行58年)近江の志賀高穴穂宮に3年間滞在され景行60年崩御されたと日本書紀に記されています。

 

しかし、宇佐公康氏伝承では『宇佐都臣命』の子である『宇佐押人』が本当の第15代応神天皇であるとされており、この『押人』の名は由布院に居られた第6代孝安天皇(『日本足彦国押人天皇』)と宇奈岐日女命の夫と考えられる『天足彦国押人命』、その二人の間の子である『押媛』は第6代孝安天皇(『日本足彦国押人天皇』)の皇后になっています。『押人』や『押媛』は孝安時代にも登場をしており、この関連も考慮に入れねばなりません。

また、日本書紀では孝霊天皇の妃(側室)紐某弟(はへいろど)が生んだ『彦狭嶋命』の弟に『稚武彦命(わかたけひこのみこと)』が居て、吉備臣等の始祖である。とされており、同じく姉の『紐某姉はへいろね』(倭国香媛)は倭迹迹日百襲姫命・彦五十狭芹彦命(別名を吉備津彦命)・倭迹迹稚屋姫(やまとととわかやひめ)を生んだとされ、宇佐氏伝承の『稚屋』『押人』との関連が気になります。

次回はこの辺を考えて見たいと思います。

 

 

 

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