「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

ゆふいんに在った高天原から見えてくるもの。(記紀から消された東倭王朝。)

2012-09-25 | 古代史

古事記においては、

高木神天照大神葦原中国が平定された報告を受け、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命天降りを命じますが、何故か自身の天降りを断り、自分の息子(次男)邇邇藝命を糸島に、高天原天照大神の委任(三種の神器)を受けた倭王として派遣します。

考察されますのは、

葦原中国出雲だけではなく九州でもが行われていた、と謂う事でしょう。

次男の邇邇藝命で在らねば為らなかった理由は、考え方の一つには、出雲の戦の方が早く終結していて、長男の天火明命は既に出雲(近畿)へ王として天降って往ってしまっていたものと考えられます。

最後まで戦が残っていたのが吉野ヶ里だったのかも知れません。

次に、古事記から読み解かれますのは、

天火明命の事を全く触れていない事です。古事記においては、大国主命の国譲りの苦労話葦原中国の平定を含めると多くの条項を割いていますが、葦原中国出雲以東の地である事を「ぼかし」、特定できないようにしています。

最初に天忍穂耳命大国主命の処(出雲)に行こうとして、阻まれていますので、天忍穂耳命若しくは天火明命出雲への天降り条項が有らねば不自然ですが、記入がありません。

わたくしの推考では、高木神は二人の孫を、東倭領域に天火明命を、西倭領域に邇邇藝命として託そうと考えていたものと思われます。であれば兄弟仲良くやっていける。と考えたのではないでしょうか。

 

一方日本書紀では、

大国主命の居る葦原中国(出雲)の平定の後、邇邇藝命葦原中国(出雲)に天降る事になるのですが、何故か其処は出雲では無くて、糸島半島前原であり、葦原中国出雲から前原への「すり替え」が平然と行われています。

邇邇藝命串日(くしひ)=(神霊の降りる場所)の二つの頂(由布岳と鶴見岳の事と考えられます。)から天浮橋(多分吊橋)を通って、浮島のある平らな土地に立ち、その不毛の地を丘伝いに国を求めて通り、吾田の長屋の笠狭碕(かささのみさき)に辿り着いた。とされ、

この後、邇邇藝命が木花之開耶姫に火明命を産ませた事に為っていて、系図上の混乱を起こさせており、これも古事記同様に故意に火明命を隠そうとしています

 

 

記紀では、東倭(天火明命の治めた倭=近畿)の歴史が消されている様です。

近畿(天火明命)王朝の歴史が消され、其の上に、九州に居た神武を含む欠史八代と崇神・垂仁天皇を載せて来ております。

東倭が何時頃まで続いたかは、今後検討されねばなりませんが、記紀が述べています神武天皇までではありません。神武東征は無かったのです。

多分、(日本書紀による)崇神天皇四道将軍吉備津日子命(第7代孝霊天皇の子)を西道(山陽道)大毘古命(第8代孝元天皇の第1子で開花天皇の同母兄)を高志道(北陸)に、その子、建沼河別命(たけぬなかはわけみこと)を東方十二道(東海)に遣わし、日子座王丹波道主命の父で第9代開花天皇の子)を旦波国に遣わし、「建波邇安王(たけはにやすおう)の反逆」の項があり、「が有った事を扱っています。

多分孝霊天皇と吉備津日子命軍出雲を平定し、鉄を確保後、近畿大和に最初に攻め込んだものと考えられます。第2陣には大毘古命とその子建沼河別命が、第3陣が日子座王とその子丹波道主命が九州から遣って来た物と考えられます。

この長期に亘る四道将軍の派遣東倭(ニギハヤヒ)王朝滅亡と捉えられます。

 

天火明命(ニギハヤヒ)から建波邇安王(たけはにやすおう)迄の間の王が消されていると考えられます。

建波邇安王は第8代孝元天皇と河内青玉の娘である、波邇夜須毘賣との間の皇子と謂われて、崇神紀では崇神天皇が「異母の兄の邪心」と謂ったとされて系図上の混乱が起こっていますが、之は孝霊・孝元・開花天皇と続く東倭との戦を意味しており移住の問題と関係しているものと想像されます。開花天皇の時代に兄である大毘古命に東倭王である建波邇安王討伐を命じていたものと考えられます。

建波邇安王の父は孝元天皇では無く、近畿の王と考えられます。そして建波邇安王は近畿王朝の天皇に成っていた。と考えられ、大毘古命との長年の戦いが窺い知れます。

その証として、西倭東倭を纏めた崇神天皇御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼んでいます。

 

《追補》2024年2月29日

ホツマツタエの記述を解読しますと、

高躬結び神一行が倭に遣って来たと考えられるAD205年頃には、熊本玉名の白族の人々は既に朝鮮半島に新羅(白)出張所を創っており、福井県~島根出雲・熊本玉名・博多~松浦方面と、交易を行っていて、半島からの渡来人は大勢居たものと考えられます。

 

九黎族の(BC473年頃遣って来たと、考えられる)白氏と南粤王族(BC110年頃遣って来たと、考えられる)の末裔が、混ざって九州を治めて居たものと考えられます。

九州に於いての、

白氏は、鹿児島~熊本~肥前・筑後~福岡方面の西部九州に進出していた。

南粤王族は、鹿児島~宮崎~豊後・ゆふいん高天原~鷹羽(田川)北九州方面の東部九州に進出していた。

 

即ち、

韓半島経由で来たと考えられる『高躬一行』は、先ずは『白氏』(水天宮)=狗呉、次に『阿蘇』を支配していた、『健磐龍命』(鹿島神)に挨拶します。

久留米市に居たものと考えられます白氏の『※白王』と会見し、高躬の長男の『耶蘇杵』の嫁に『白山姫』を娶ります。筑後大石(うきは市高見)から船で『水天宮』(天御中主命=白山姫)近くの、久留米市大石町の『大石神社』に『巨岩』を結納として、運んでいると考えられます。

白氏(水天宮)=狗呉はAD200年頃には、九州~出雲~福井・富山・新潟迄進出していたものと考えられます。

 

※白王の末裔が、現在は福岡県飯塚市の神社宮司に『白土』(土の字の右上に点が附いています)様が居られます。明治になり、『白王』の名前を『白土』に変えさせられた。との事です。元の『白王』に戻っていただきたいと思います。歴史が解らなく為ります。

 

『耶蘇杵』(大幡主命)は、南粤王族の『曾於郡の太耳の娘』をも娶って、『大己貴命』を儲けます。此の『大己貴命』が、須佐之男命の乱の時に、『大物主』に任じられ乱を収めようとします。

 

白氏・南粤氏を統括していたと考えられます『阿蘇氏』(鹿児島県川内市甑島に着いた。と、考えられます『鹿島大神』)の『健磐龍命』と面会し、娘の『阿蘇津姫』(豊玉姫=息長大姫大目命=天鈿女命=龍神姫=弁天様)を、高躬の(下の)息子(日高彦彦穂穂出見尊)の嫁にします事で、豊後~筑後・筑前・肥前・北九州の北部九州を割譲を受けます。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高天原の高木神の思いと執念。

2012-09-24 | 古代史

物事を考える場合、スタート間違えば論理の展開が在らぬ方に向かい、とんでもない結論が導かれる事になります。わたくしは、その轍を踏まぬよう倭の歴史を記紀にて辿ってみる事にしました。

 

朝鮮半島を経由して九州に遣って来た天孫族は本隊を大分県別府湾鶴見岳西方のゆふいん~塚原高原に置き、大分市に尾張氏・津守氏・葛木氏、東方の佐賀関方面に海部氏、大伴氏・佐伯氏を、北部にあたる日出町~杵築市に笠木氏・藤原氏・大神氏・紀氏・賀茂氏・大内氏を配し、九州~四国を治めて居たものと考えられます。

 

天孫族は、太陽神天照大神として大日孁貴(おおひるめむち)が祀り、最高権威としても従っていたものと考えられます。杵築市(豊後紀氏)より出身の須佐之男が新羅王に成り、天孫族のルーツである朝鮮半島から中国大陸に興味を示し、(其の頃は朝鮮半島は人口も少なく)倭の領土を朝鮮半島まで広げて、新羅國をつくり、新羅人が葛城氏と混じって、数多く遣って来ていたものと考えられます。

須佐之男命は杵築の大内宮にて悪事(アマテルの二人の妃に手を付けて、天之穂日命と、宗像三女神を儲けます。)を行い、其れが元にてアマテル=瓊瓊杵尊がゆふいん高天原から、糸島へ移動して『八州巡り』(船での日本一周行脚)を敢行します。

杵築市に居た須佐之男命は豊後紀氏(葛城氏)と伴に島根県出雲市追放されます。須佐之男命は地元島根にて、旧来より居た『白氏』の一族を滅ぼし、後を継いだ大己貴主命の時代までは八重事代主神(この神が銅鐸を祀ると考えられる。)信仰にて山陰~北陸~近畿~中部までの領域を拡大し、勢力を伸ばしていたものと想像されます。

大己貴主命の息子の建御名方命(たけみなかたみこと)が実権を揮って拡大を図っていた時代に、ゆふいん高天原(高躬結び神)の命を受けた建御雷之男神=阿蘇氏(武力を使った神)と天鳥船神(祭祀を司る神)が遣って来て、出雲より以東の国譲りを迫り、結果対立が起こり、かなりの年月の戦乱があったものと考えられます。

 

一方、スサノオが追放された後の高天原(ゆふいん)では高木神が第2代目大日孁貴(おおひるめむち)瀬織津姫穂の子=向津姫を擁して、天照アマテル大神=瓊瓊杵尊を奉って実権を持って居たと想われます。

古事記には、

葦原中国は(天孫族でスサノオを信奉して高天原に反目する集団=出雲以東と九州倭の中の一部)我が御子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が治めるべき土地である

として、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命を将軍として葦原中国(出雲)に兵を送りましたが、平定には到らず、帰還し報告。

高躬結び神が第2代目天照アマテル大神(桜谷瀬織津姫穂の子)と伴に、「八百萬神(やおよろず)」と「思金神(おもしかね)」に相談して「天菩日神(あめのほひ)」を大己貴主命の説得役に決め、国譲りを迫りますが、大己貴主命に媚び屁つらい三年たっても報告に帰って来ませんでした。

帰ってこないので、高御産巣日神と天照大神(桜谷瀬織津姫穂の子)はその後如何すべきかと「思金神」に尋ねると、天若日子(あめわかひこ)を推挙し、天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)を授けて送り出しますが、大己貴主命の娘の下照比賣(したてるひめ)を娶り、その国(大己貴主命が造った葦原中国)を得ようと企んで、八年経っても報告に戻りませんでした。

高天原では、「思金神」の案で、「雉(きじ)の鳴女(なきめ)」を使者として高天原の命令通り仕事をするように遣わしますが、天若日子側近の天佐具賣(あめのさぐめ)が唆して、「天若日子」「天之麻迦古弓」「天之波波矢」にて「雉(きじ)の鳴女(なきめ)」を射殺します。

その「天之波波矢」高天原に居た高躬結び神の元に届き、その「天之波波矢」を見た高躬結び神は事の真相を悟り、出雲(葦原中国)で朝寝していた「天若日子」に還矢(かえしや)して殺します。

 

そう謂う事で、天照大神思金神(おもいかねじん)に「(大己貴主命の説得に)またどの神を遣わせれば善いか」と尋ね、「建御雷之男神(たけみかづちのおじん)」と「天鳥船神(あめのとりふねじん)」を遣わした。

と記述されています。

 

大己貴主命八重事代主神と息子の建御名方命が納得したら自分は国譲りをして構わないと述べます。八重事代主神とは天鳥船神が交渉し国譲りに納得します。

建御名方命建御雷之男神に力比べを挑みますが負けて長野県諏訪湖まで逃げて、追いつかれ命乞いをして、国譲りを承諾します。

こうして、大己貴主命は己の祭祀のみを乞い、建御雷之男神国を譲る事を承諾したとされています。が、山陰~近畿~長野県の諏訪湖まで追い詰めるのに何月~何年かかったのでしょうか。敵地での戦は簡単には往かなかったものと思われ、山陰・北陸・近畿・中部と相当の時間を要したと考えられます。

スサノオを信奉する大己貴主命側に付いた九州の部族も多くあると考えられ、九州の倭の内でも戦が行われていたものと思われます。佐賀県にある二重環濠集落吉野ヶ里遺跡からは銅鐸殺害されたと考えられる多数の遺骨が出土していますので、大己貴主命側に付いて戦っていたのかも知れません。

後に、久留米市大善寺玉垂宮に居たと考えられる崇神天皇は「大己貴主命祟りかも」と恐れ、大分県杵築市にルーツを持つ大田田根子を久留米の高良内(河内)耳納(山)で見出し、甘木市の大己貴神社にて祀って厄払いをしています。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『猿田毘古神』の棲んで居た場所。

2012-09-11 | 古代史

9月8日土曜日の夕食時のテレビニュースで(隣町の)安心院町にて、『安心院ぶどう祭り』が明日(日曜日)まで行われる、と謂うのを見た妻が行きたいと呟きました。

実はわたくしも『猿田毘古神』の痕跡を求めて安心院への途中にある天間(あままを調査したく考えていましたので、一緒に行く事にしました。

 

平成24年9月9日(日曜日)塚原高原を通って天間へ、まず天間八幡神社周辺を散策しましたが、全く『猿田毘古神』の痕跡は見出せず地域の方に尋ねる事にしました。国道500号線の傍にて野菜をご夫婦にて販売されておられる地元の方にも、石碑・伝承等、『猿田毘古神』なるものを尋ねてみましたが、出て来ませんでしたが、塚原の戦川(たたかいがわ)では昔は『金』を採掘していたと伝わっている由。収穫がありましたが、わたくしの頭の中には此処が、『猿田毘古神』がニニギ命一行を待ちうけて居た場所に間違いないとの想いがあり、残念の思いで安心院町を目指しました。

途中、道路案内標識にて『佐田』の文字を見てドッキリしました。

『猿田』では無くて『佐田』かも知れないと。

以前は『佐田毘古神』であったのが『猿田毘古神』に、或いは其の逆も考えられます。たしか、記紀では『猿田毘古神』が迎えたとされて、天間まで迎えに来ていた事になります。

ぶどう祭り会場にて昼食をした後、安心院町佐田地区を訪れました。ここは佐田城跡があり、近くに在る佐田神社には、武内宿禰命・素盞嗚命・大山祇命を祀っていました。此の大山祇神(おおやまつみのかみ)は國神(くにつかみ)の事であり、近くには、佐田京石(さだきょういし)と呼ばれる弥生時代のドルメン(支石墓)ストーンサークル(環状列石)が米神山(475m)にあり、

天神族とは異なる神を祭祀する集団が此の佐田の地に暮していたものと想われ、『猿田毘古神』が重なりました。『佐田(猿田)毘古神』は此の地より、天間(天之八岐)までニニギ命一行を迎えに出たものと考えられます。

自宅に帰り、佐田城を調べますと、応永6年(1399年)宇都宮親景が佐田荘地頭職を継承して、此の地に入り佐田氏を称した。その後城を築いた。とされていましたので、佐田の名称は古くから在ったものと考えられます。

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『高天原』を考える。2 湯布院町塚原高原~由布院盆地と考える事が出来る。

2012-09-09 | 古代史

まず、記紀での記述にて参考になるのは、「天降り」と述べられた箇所が多く、高天原』は字を読むごとく天(海部)の高原に在ったと考えられます。海部は豊後(大分県)が本貫地であり、高天原』も別府湾からそう遠くない地域と考えられます。

朝鮮語に詳しい福島雅彦さまの説では、「たか・あまン・ばル」と読むべきで、『高天原』の朝鮮語での意味は『東の「聖なる山」に寄って集っている原。』となるそうで、高天原』の東に『聖なる山』が在る事になります。

 

古事記上巻、伊邪那岐命の項では、高天原』に成り出でた神々の状況を次のように述べています。(日本神話の御殿より)

天地が初めて分かれた時、高天(たかまのはら)に成(な)り出(い)でた神の名は、天之御中主(アメノミナカヌシ)神。次に高御産巣日(タカミムスヒ)神。次に神産巣日(カムムスヒ)神。
  この三柱(はしら)の神は皆、獨神(ひとりがみ)として成り出で、身を隠した。
 次に、国土が若く、浮いた脂のようで海月(くらげ)のように漂っている時、葦(あし)の芽のように萌(も)え出てきた物から成り出でた神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(ウマシアシカビヒコヂ)神。次に天之常立(アメノトコタチ)神。
  この二柱の神もまた、獨神(ひとりがみ)として成り出で、身を隠した。
 以上の五柱の神は別天神(ことあまつかみ)である。

 次に成り出でた神の名は、國之常立(クニノトコタチ)神。次に豊雲野(トヨクモノ)神。
  この二柱の神もまた、獨神(ひとりがみ)として成り出で、身を隠した。
 次に成り出でた神の名は、宇比地邇(ウヒヂニ)神。次に妹(いも)の須比智邇(スヒヂニ)神。
  次に角杙(ツノグヒ)神。次に妹の活杙(イクグヒ)神。<二柱>。
  次に意富斗能地(オホトノヂ)神。次に妹の大斗乃辨(オホトノベ)神。
  次に於母陀流(オモダル)神。次に妹の阿夜訶志古泥(アヤカシコネ)神。
  次に伊邪那岐(イザナキ)神。次に妹の伊邪那美(イザナミ)神
 以上の國之常立(クニノトコタチ)神より伊邪那美(イザナミ)神までを、併せて神世七代(かみよななよ)と称す。<以上の二柱の獨神(ひとりがみ)は、それぞれ一代と言う。次に対偶(たいぐう)する十神は、それぞれ二神を併せて一代と言う>。

そうして国を生み終えて、さらに神を生んだ。そして生んだ神の名は、大事忍男(オホコトオシヲ)神。
 次に石土毘古(イハツチビコ)神を生んだ。次に石巣比賣(イハスヒメ)神を生んだ。
 次に大戸日別(オホトヒワケ)神を生んだ。
 次に天之吹男(アメノフキヲ)神を生んだ。
 次に大屋毘古(オホヤビコ)神を生んだ。
 次に風木津別之忍男(カザモツワケノオシヲ)神を生んだ。
 次に海神(うみのかみ)を生んだ。名は大綿津見(オホワタツミ)神。
 次に水戸神(みなとのかみ)を生んだ。名は速秋津日子(ハヤアキツヒコ)神。次に妹の速秋津比賣(ハヤアキツヒメ)神。
 <大事忍男(オホコトオシヲ)神より秋津比賣(アキツヒメ)神まで併せて十神>。

 この速秋津日子(ハヤアキツヒコ)神と速秋津比賣(ハヤアキツヒメ)神の二神が、河と海を分担して生んだ神の名は、沫那藝(アワナギ)神。次に沫那美(アワナミ)神。
 次に頬那藝(ツラナギ)神。次に頬那美(ツラナミ)神。
 次に天之水分(アメノミクマリ)神。次に國之水分(クニノミクマリ)神。
 次に天之久比奢母智(アメノクヒザモチ)神。次に國之久比奢母智(クニノクヒザモチ)神。
 <沫那藝(アワナギ)神より國之久比奢母智(クニノクヒザモチ)神まで併せて八神>。

 次に風神(かぜのかみ)を生んだ。名は志那都比古(シナツヒコ)神。
 次に木神(きのかみ)を生んだ。名は久久能智(ククノチ)神。
 次に山神(やまのかみ)を生んだ。名は大山津見(オホヤマツミ)神。
 次に野神(ののかみ)を生んだ。名は鹿屋野比賣(カヤノヒメ)神。またの名を野椎(ノヅチ)神と言う。
 <志那都比古(シナツヒコ)神より野椎(ノヅチ)まで併せて四神>。

 この大山津見(オホヤマツミ)神と野椎(ノヅチ)神の二神が、山と野を分担して生んだ神の名は、天之狭土(アメノサヅチ)神。次に國之狭土(クニノサヅチ)神。
 次に天之狭霧(アメノサギリ)神。次に國之狭霧(クニノサギリ)神。
 次に天之闇戸(アメノクラト)神。次に國之闇戸(クニノクラト)神。
 次に大戸或子(オホトマトヒコ)神。次に大戸或女(オホトマトヒメ)神。
 <天之狭土(アメノサヅチ)神より大戸或女(オホトマトヒメ)神まで併せて八神である>。

 次に生んだ神の名は、鳥之石楠船(トリノイハクスフネ)神。またの名を天鳥船(アメノトリフネ)神と言う。
 次に大宜都比賣(オホゲツヒメ)神を生んだ。
 次に火之夜藝速男(ヒノヤギハヤヲ)神を生んだ。またの名を火之毘古(ヒノカガビコ)神と言う。またの名を火之迦具土(ヒノカグツチ)神と言う。

 この子を生んだことによって、陰部を焼かれて病(やまい)に臥(ふ)せってしまった。
 この時の嘔吐(おうと)から生まれた神の名は、金山毘古(カナヤマビコ)神。次に金山毘賣(カナヤマビメ)神。
 次に、糞(くそ)から成り出でた神の名は、波邇夜須毘古(ハニヤスビコ)神。次に波邇夜須毘賣(ハニヤスビメ)神。
 次に、尿(にょう)から成り出でた神の名は、彌都波能賣(ミツハノメ)神。次に和久産巣日(ワクムスヒ)神。この神の子は豊宇氣毘賣(トヨウケビメ)神と言う。
 そして伊邪那美(イザナミ)神は、火神(ひのかみ)を生んだことによって遂に亡くなられた。
 <天鳥船(アメノトリフネ)神より豊宇氣毘賣(トヨウケビメ)神まで併せて八柱(やはしら)である>。

 すべて伊邪那岐(イザナキ)・伊邪那美(イザナミ)神三十五神(みそぢまりいつはしら)である。
 <これらは伊邪那美(イザナミ)神がまだ亡くなる前に生んだ。ただし意能碁呂嶋(おのごろしま)は生んだのではない。蛭子(ヒルコ)と淡嶋(あはしま)も子の数には入らない>。(日本神話の御殿より)

 

 

この様に、実に多くの神々が『高天原』に降り立ち、天照大神や須佐之男命より以前から居られた事になっています。そして最初に『天之御中主神』が降り立ったことが判ります。注目されるのは独身の神が数多い事です。これは何を意味するのでしょうか。

亦、身を隠したとの表現の意味は人生の途中で亡くなると謂う意味に解釈すれば良いのでしょうか。

亦、須佐之男命の悪態によって天照大神が天石屋戸に隠れになるのですが、「天の香具山の近くから雄鹿の肩の骨や、よく繁った榊を根ごと掘り出し云々・・・」と天石屋戸から天照大神を引き出す努力をする記述を読みますと、『高天原』の近くに『天の香具山』が在った事が解ります。

 と謂う事であれば、先程出てきた『聖なる山』『天の香具山』を指す事に考えられます。

わたくしの考えでの『天の香具山』は以前にも述べています様に別府『鶴見岳』であります。(古田武彦さまも同説です。)

此れが正しければ、鶴見岳の西方に『高天原』が在る事になります。

鶴見岳一帯(伽藍岳~内山~鶴見岳~由布岳)を囲むのは、別府市と湯布院町しか在りません。そして、鶴見岳の西方にあって高原のイメージを有するのは湯布院町です。

 このわたくしが住んでいる由布院に『高天原』があったのでしょうか。考察してみる事にしました。

 

 

元々、由布・安心内は『院』が付いており、近くに天皇若しくはそれに匹敵する方が居られた場所のであります。最初は由布~安心内は一つの『院』で在ったものが後に分割されたものと考えられます。

 

由布盆地には、宇奈岐日女命を祀ったと考えられる六所宮の他に、天之御中主神須佐之男軻遇突智命を祀った古社『天祖神社』が金鱗湖の畔に在ります。

第12代景行天皇が由布院に立ち寄り、出迎えた速津媛(はやつひめ)に勅して、皇祖霊神を祀った事に始まった。とされています。

わたくしは、道路事情の悪かった古代に何故天皇が山中の由布院へ来られたのか、そして、天之御中主神・須佐之男・軻遇突智命を祀った理由を考えました。

亦、由布院盆地(標高450m位)から安心院に向かう道の途中に湯布院町塚原高原(標高700m位)が在ります。此処には(何故か不思議?)高千穂峯と対をなす『霧島神社』が在り(以前は鶴見岳か由布岳を高千穂の峰と呼んでいたのかもしれません?)、第13代成務天皇がお見えに成り伊邪那岐命と伊邪那美命を祀ったとされており、1900年以上の歴史があると謂い伝えられています。わたくしの知識では久留米大善寺の玉垂宮と並ぶ最も古い神社であります。

そして、この地には夥しい数の『塚』(墳墓)があり、其処から『塚原』と命名されたと謂われています。地元には鬼塚伝説があり、一夜のうちに100箇所の『塚』を創る予定で鬼が働くのですが、朝になって数をかぞえたら99箇所であった由。地元の人も鶴見山~内山の裾を引く流れの傾斜地に何故この様な墳墓と思しき塚が在るのか判らないそうです。

すぐ近くで『高天原』の名前の地鶏焼き屋さんがあり、驚きました。経営されておられるのは地元塚原に代々住まわれて居ます方で、命名した先代の方は亡くなっておられ、詳しい経緯を御子息の方に訊ねました処、以前に調査においでになられた古代史研究家の方が塚原地区を『高天原』で間違い無かろうと述べられたので命名された由。地元の方も興味を持ち、塚の数を数えたら60数ヶの墳墓を確認されたそうです。この研究家が何方かは判りませんが此処が『高天原』と感じられるものが残っている地である事は間違いの無い事と想われました。(現在は休業中。)天間に住んで居られる方にも塚原の事を伺うと高天原の店の近くを(由布岳と鶴見岳の間)戦川(たたかいがわ)が流れており、昔は『金』を採取していたと伝えられている由。

 

わたくしには、どうも由布院盆地を含む塚原高原『高天原』である。と感じられます。

そう謂うことであれば、由布院盆地に宇奈岐日女命天照大神『大日孁貴(おおひるめむち)』が居られても不思議では有りません。後の景行天皇の御代に由布院に居た速津姫(はやつひめ)も大日孁貴であったのかも知れませんし、第6代孝安天皇が居られた『室』秋津島の宮は四方を山に囲まれています由布院盆地の事にも思えてきます。由布院盆地にも墳墓と思しき塚があり、どうも古代には此処ゆふいんは神々の居られた痕跡を感じ取る事が出来ます。

 

しかし、草原しかない痩せた塚原の土地に数多くの神々(独身が多い)が居られたのでしょうか?

わたくしは、鶴見岳の流れに在る伽藍岳の噴煙に関係があるように感じ取れます。此処にて金・銅や鉄の鉱物の採取・精錬をしていたものと考えられます。独身の神が多いのも鉱山での仕事と関係があったと考えられます。当然、事故が起きないように、また鉱物の収穫を祈る、霊力をもった大日孁貴』が必要とされます。後には、より資源の豊富な田川の香春岳鉱山(に移動して?ひょっとしたら並行して)行ったものと想われ、香春町にも天照大神』の痕跡と謂うか、匂い和歌(万葉集 巻3 417~419)に残っています。

 

河内王を豊前の国の鏡山に葬る時に手持女王(たもちのめおう)が作る歌3首

 

 

 

大君の   和魂あへや  豊国の   鏡の山を   と定むる           巻3-417

 

豊国の   鏡の山の   岩戸立て  りにけらし  待てど来まさず          巻3-418

 

岩戸破る   手力もかも   手弱き   にしあれば   すべの知らなく           巻3-419

 

 

 

振り返って文献との照合をしますと、古事記上巻、天照大神の孫になるニニギ命の誕生の項にて、次のような記述があります。

 このようなわけで、言上の通りに日子番能邇邇藝命に、「この豊葦原中國はおまえが治める国であると委任する。なので命令の通りに天降りなさい」と命令した。そこで日子番能邇邇藝(ヒコホノニニギ)命が天降(あまくだ)ろうとすると、天之八衢(あめのやちまた)にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中國(あしはらのなかつくに)を照らす神がいた。
 そこで天照(アマテラス)大御神と高木(タカギ)神は天宇受賣(アメノウズメ)神に、「おまえはか弱い女であるけれど、向き合った神に面勝(おもかつ)神である。なので、適任(てきにん)のおまえが行って尋ねなさい。――我が御子(みこ)が天降ろうとする道に、このようにいるのは誰か――と」と命じた。そこで尋ねると、「僕(あ)は國神(くにつかみ)で、名は猿田毘古(サルタビコ)神です。出迎えた理由は、天神(あまつかみ)の御子(みこ)が天降りされると聞いたので、先導として仕えようと参上して待っていました」と答えた。(日本神話の御殿より)

 

天之八衢(あめのやちまた)』にて猿田毘古神が邇邇藝命と天宇受賣神を待っていたと記述されていますが、この『天之八衢(あめのやちまた)』とは天と地の間にある分かれ道の分岐、領域の境界の事を指すそうですが、塚原高原から安心院へ向かって数キロ行った(アフリカンサファリの先)降りに差し掛かった処に『天間(あまま)』の集落があり、此処が『天之八衢(あめのやちまた)』の事であろうと考えられ、記述と合致すると思われます。

 

邇邇藝命は此処から安心院を通って福岡県の糸島の笠沙之御前に向かったものと想われ、糸島の平原遺跡曽根遺跡群1号古墳から出土した『八咫鏡』らしき鏡は、塚原高原(高天原)に居られた天照大神を天之石屋戸から出す為に創った『八咫鏡』と想われ、後に邇邇藝命が天孫降臨の時、八尺勾瓊(やさかのまがたま)草那藝劔(くさなぎのつるぎ)と伴に授けられた3種の神器と考えられ、曽根遺跡群1号古墳からはこの3つ共に出土していますので、曽根遺跡に葬られておられるお方は邇邇藝命の末裔と読み解かれ、原田大六さまの「玉依毘賣命」説が大いに浮上する事になり、神武天皇は糸島にて誕生されたと考えられます。

以前(平成23年12月7日)のブログにて「天照大神」も大いに可能性があると考えたわたくしの考えは、大分県由布市湯布院町に『天照大神』の存在を考えられ、間違いであると想われ、訂正を致します。

 

 

 

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『高天原』を考える。1

2012-09-06 | 古代史

この間まで歴史の「レ」の字も知らなかったわたくしが、斯うして秋永氏のルーツを求めて古代の歴史を考える事となり、此処、大分(豊国)が天(海部)の国であった事が判明し、スサノオやアマテラス等の神々の存在が考えられる事になり、高天原も近くに在らねばなりません。

高天原』と謂う言葉は記紀では数多く登場しますが、場所は特定するに到って居らず、「宇宙(天上界)の事であろう。」とも考えられています。

わたくしは、記紀を読んでみて、現実的にはあり得ない事も数多く述べてあり、亦、捏造も数多く考えられ、真実との取捨選択を迫られることに為りますが『高天原』の場所は地上にて特定出来るのではないだろうか。と考え、推考する事に致しました。

(以前のブログにて、杵築市にスサノオ命が居られたと考えられた事で、近くには大神の地名もあり、必ず近くに天照大神も居られた筈と想いこみ高天原の言葉を使いましたが、広義では高天原の一部でしょうが、厳密には高天原とは謂えないと考えられ、皆様が納得される高天原の場所を考えて見る事にしました。)

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする