久しぶりの「脳」をテーマにした本であり、また、久しぶりの竹内薫氏の著作です。それらしい興味を惹くタイトルでもあります。
そのタイトルにある「スルー」ですが、著者はその定義を以下のように規定します。
(p98より引用) スルーの定義:入ってくる情報に対して、自分の反応を表明しないこと
つまり「スルー」というのは「情報に対する態度」なので、その態度は情報の重要性や必要性によっていくつかの段階(レベル)が生じます。
自分にとって極めて重要な情報に対してはスルーせず「即レス」しますが、中には“即時の判断は保留”して後で応答する「一時的スルー」というレベルのものもあります。さらに“一応気になるので憶えておこう”といった「消極的スルー」や“聞き流す・気にしない・無視する”といった「積極的スルー」もあります。この“今はいらない”という積極的スルーが最も「スルー」の概念に近いですね。そして“受け取ること自体、拒否”される「ブロック」。こうなると“もうこれから先もいらない”となります。
こういった「スルー」ですが、実はそもそも「脳が意識して処理している情報」は、インプットされた様々な情報量に比してものすごく僅かでしかないのだそうです。
(p136より引用) 入力される感覚の情報量は、毎秒千数百万ビットであり、意識が処理している情報量は、なんと、毎秒たった数十ビットなのである。・・・意識は、99.9999%の感覚をスルーしているのだ。
人間の場合、入力される感覚情報の多くは「視覚」によるものです。確かに、眼に入って網膜上で像として認識されてもほとんどのものは無意味な背景のように「知覚」していないですね。そう考えると、このパーセンテージも少しは現実感が出てきます。
さらに、サブリミナル効果(意識と潜在意識の境界領域より下に刺激を与えることで表れるとされている効果)やアインシュテルング効果(何かの問題に取り組んでいるときに、脳がなじみ深い考え方に固執してしまいより優れた答えが見えなくなってしまう傾向)のように入力情報に対して「意識することなく」何がしかの反応や処理をしているという現実もあります。
(p137より引用) 無意識が「意識によって、意識しきれないほどの情報量」を全て担当していると考えれば、それも不思議でないような気もする。
無意識状況においても「脳」は働いている、これはこれですごいことではありますね。
さて、本書を読み通して特に興味深く感じたのが「情報量」の捉え方でした。
普通「情報の量」といって頭に浮かぶのは、「情報」をネットワークの中を流すにあたってデジタル化(符号化)した際のボリュームです。つまり、テキスト<音声<画像<動画といった順に高いビットレートが必要となり「情報量」が大きくなるというイメージです。しかしながら、本書で提示されている「情報の大きさ」は「貴重なものほど(情報量が)大きい」「発現確率が低いものほど(情報量が)大きい」という考え方でした。
(p67より引用) 「情報が生まれること」と「何かが起きること」が同じだとしたら、「生まれた情報の大きさ」は「何かが起きる確率の大きさ」と表わせないだろうか?・・・確率の大きさではなく、貴重さ(滅多に起きないこと/確率が低いこと)を情報の大きさに対応させるのが、上手い方法ということになる。
この考え方に拠っているのが「シャノンの情報量の定義」です。
・「何か」の起きる確率をP(0<P≦1)とするとき、情報量を
-log P
で表わす
というものですが、この「-log P」という式は「エントロピーの式」と一致しており、情報量とエントロピーは同じ概念(情報量はネゲントロピー(負のエントロピーである)として考えることができるのだと著者の解説は続きます。
(p89より引用) 「どこにでもある、一様に存在する」というのは(位置に関して)情報量が少ない。逆に「どこかにある、偏って存在する」というのは情報量が多いのだ。ただし、この情報量には「どこに」「どのような」という意味内容は関係ない。関係あるのは「どのくらい確率的に偏っている状態なのか」だけ、ということになる。
このあたりの考え方は、私自身、あまり実感として腹に落ちきれていないのですが、理解しづらいだけにかえって興味が湧いて面白いですね。
99.996%はスルー 進化と脳の情報学 (ブルーバックス) | |
竹内 薫,丸山 篤史 | |
講談社 |
本当に、脳や意識って不思議ですよね。