先日、あるフォーラムでノンフィクション作家の山根一眞氏の講演を聞きました。
その中で氏は、Googleで提供されている「複数の新聞を横断的に検索し記事を収集してくるサイト」に関して、「これは、マルチメディアではあるがジャーナリズムではなくなる」とコメントされていました。
山根氏の主張はこういうことです。
そもそも新聞というものは、記者(新聞社)がある視点をもって取材し編集して世の中にひとつの意図のあるメッセージを訴えるものである。しかしながら、Googleのサービスのように複数の新聞をあるキーワードで検索・収集し、同様の記事を機械的に配置して1viewで見せるとなると、そのページは主義主張の異なる記事の単なる雑多な寄せ集めになってしまう。そして、そこには一定のメッセージなどなくなってしまう。これではジャーナリズムの否定につながる というものです。(本来のジャーナリズムは、主張と反論のインタラクティブな関係により健全化が図られるべきということだと思います)
さて、こうなってくると、今まで以上に読み手の「情報ハンドリング能力」「情報目利き力」「情報咀嚼能力」が問われるようになります。すなわち、1viewで並べられたいくつもの記事(情報)を見て、その中から価値のあるものを選別し、(事実として開陳されている事項のバラツキはもちろん)それぞれの記事の編集意図とメッセージを注意深く「相似と相違」を意識しながら頭に入れてゆくというプロセスが必須になるということです。
これがキチンとできないと「和洋中バイキング」のように、満腹にはなりますが、一体何を食べたのが皆目分からなくなってしまいます。
その中で氏は、Googleで提供されている「複数の新聞を横断的に検索し記事を収集してくるサイト」に関して、「これは、マルチメディアではあるがジャーナリズムではなくなる」とコメントされていました。
山根氏の主張はこういうことです。
そもそも新聞というものは、記者(新聞社)がある視点をもって取材し編集して世の中にひとつの意図のあるメッセージを訴えるものである。しかしながら、Googleのサービスのように複数の新聞をあるキーワードで検索・収集し、同様の記事を機械的に配置して1viewで見せるとなると、そのページは主義主張の異なる記事の単なる雑多な寄せ集めになってしまう。そして、そこには一定のメッセージなどなくなってしまう。これではジャーナリズムの否定につながる というものです。(本来のジャーナリズムは、主張と反論のインタラクティブな関係により健全化が図られるべきということだと思います)
さて、こうなってくると、今まで以上に読み手の「情報ハンドリング能力」「情報目利き力」「情報咀嚼能力」が問われるようになります。すなわち、1viewで並べられたいくつもの記事(情報)を見て、その中から価値のあるものを選別し、(事実として開陳されている事項のバラツキはもちろん)それぞれの記事の編集意図とメッセージを注意深く「相似と相違」を意識しながら頭に入れてゆくというプロセスが必須になるということです。
これがキチンとできないと「和洋中バイキング」のように、満腹にはなりますが、一体何を食べたのが皆目分からなくなってしまいます。
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