(p51より引用)学校へ行くことの意味というのは、子どもの納得の論理として議論する話なのか、大人の社会が合意として話すことなのかで違うということです。
ちょっと理屈っぽい言い方になりますが、この場合、少々気になる点があります。「子どもの『納得』の論理」という部分です。
これには、2通りの意味が考えられます。
ひとつは、「学校に行くことの意味」を「子ども」の立場でも(「大人」の立場とは別の)独立したissueとして考え、それを子どもにキチンと説明し納得を得るというケースです。
もうひとつは、「学校に行くことの意味」は、「大人」の立場からだけ議論(大人の社会のみで合意)し、子どもに対しては、ともかく子どもが分かるような別の理屈で納得させるというケースです。
後者の場合は、「目的と手段の階層構造(手段A →目的B=手段B→目的C・・・:手段Aは目的Bを実現するためにあるが、目的Bはさらに高次の目的Cの手段になる)」とも考えられます。が、「大人の考えが間違いないのだ」とか「どうせ子どもに説明しても分からないだろうから、適当な理由をつければいいのだ」といった考えによるものだとまずいと思います。(さらに、「理由なんかどうでもいい、ともかく行くんだ」といった理屈も何もない強要になってしまうと最悪です)
この類いのことは、「学校の意味づけ」に限らず、いろいろなケースに当てはまります。たとえば、「企業戦略の意味づけ」についての「経営層」と「社員」の場合とか、「戦争の意味づけ」についての「参謀本部」と「一兵卒」の場合などです。
「経営層や参謀本部」の意味づけは、それにより直接影響を受ける全ての人にとって、その意味自体が納得されるものでなくてはなりません。その意味を伝える「説明ぶり」が、伝える対象に何とかして分かってもらおうという「工夫」であればそれは(ある種)望ましいことです。
が、万一にも「真の意味」を隠す強弁であってはなりません。
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